木菟は朝食のパンをかじりながら、テレビのニュースをぼうっと眺めていた。
『…なお、近年増加傾向にある日本の自殺者数は一向に減少する気配を見せず…。』
アナウンサーの無機質な声が、そんな絶望的なニュースを伝えている。
「朝から陰気なニュースですね。」
自分の分の朝食を運んできた経凛々が、床に腰を下ろしつつ言った。
「どうして自分から命を絶つような真似をするんでしょう?」
木菟はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべた。
「死人に口無し、です。そんなことは死んだ当人にしか分かりません。」
「…ですよね。」
その日の朝食の茶は、少々経凛々の口には苦かった。
ー
「今月はこれでもう6件目か…。」
捜査一課の刑事、深山辰二郎は机の上に敷き詰められた資料を見ながら首を捻っていた。
「まだそんな事件気にしてるんですか、リュウさん?」
背後からかけられた声に振り返ると、相棒の九条慶一が立っていた。
「それならただの自殺でしょ。僕らに関係ある事件じゃありませんよ。」
「何言ってやがる!」
机の上に置いてあったコーヒーカップを手にとり、深山は怒鳴った。
「これはどう考えてもただの自殺じゃねぇ。ガイシャの身の回りに、わざわざ死ぬような理由が見当たらねぇじゃねぇか。」
「でも、そんな自殺いくらでもありますよ?他人には分からない事が原因とか…。」
溜め息をついた九条を、深山は睨み付けた。
「刑事の勘にケチつけようってのか?」
「べ、別にそんなつもりじゃ…。」
縮こまった九条。深山はコーヒーを飲み干し、言った。
「ま、元々俺には自分から死ぬような真似する奴の頭ン中なんぞ分からねぇがな…。」
全く、不味いコーヒーだぜ。
そう呟いて席を立った上司の背中を困ったように見送り、九条は彼の机の上を片付け始めた。
ー
晴明は律子の買い物に付き合って、最近できたばかりのショッピングモールを訪れていた。
「ねーハルマキ。こっちのガウチョとこっちのスキニー、どっちが似合うー?」
「うん?どっちでもいいんじゃね、好きなの買えば?」
むぅ、と律子は頬を膨らませた。
「どっちが似合うかって聞いてるんじゃん。ちゃんと答えてよー。」
「女の服なんて分かんねーよ。自分で納得いくやつ買った方がいいぜ。」
晴明なりに気を使っているつもりなのだが、何せ言い方がきつい。彼には生憎、マイルドな言葉の語彙がないのだ。
「もぅ、ハルマキの意地悪!生春巻にでも退化しちゃえ!」
「は!?意味分からん!待てよ‼」
ぷいとそっぽを向いて歩き始めた律子を、晴明は慌てて追いかけた。
賑わう店内を、小柄な律子の姿を見失わないように駆け抜けるのは至難の技だ。
それでも、磨かれた運動神経で何とか人にぶつからないよう走っていた。
そのうち、人波に紛れて何か黒いもやのようなものが見えるようになった。
「ん?」
人混みに酔ったのだろうか?
そんなことを考えかけた、その時。
突如としてその黒いもやが、猛スピードで彼の胸に飛び込んできた。
流石の晴明にも、それは避けきれなかった。
胸の一文字が重苦しい痛みを発し、何ともいえない嫌な感じが彼の身体中を駆け巡る。
「…何だったんだ、今の?」
気分があまり優れない。彼は一度深呼吸をして、スマートフォンを取り出した。
『悪い、先帰る。』
その一文だけを律子に送り、彼はふらつく足取りで帰路に就いた。
ー
家に帰るなりベッドに倒れこんだ晴明は、飼い猫のキジンが心配そうに見つめる中何やら考え事をしていた。
横を向いた晴明の目に、ハンガーに掛かったワイシャツとネクタイが見えた。
「ネクタイか…。」
晴明はおもむろに立ち上がり、ネクタイを手に取った。
先端を輪になるように結び、もう一方を部屋の照明にしっかりと結びつける。
ぶら下がったネクタイの輪をぼうっと見つめていると、その輪の向こうに何か素晴らしい世界が広がっているような気がしてきた。
もっとその世界に近づきたい。
晴明がそっとネクタイの輪に首を通した瞬間、腕に激しい痛みを感じた。
「っー‼」
もんどりうって転げ落ちた彼の顔の上に、ほどけたネクタイがはらりと落ちてきた。
痛みを感じた腕を見てみると、猫が尋常でない様子で食らいついている。
それを見た時やっと、今自分がしようとしていたことに気付いた。
「キジン、お前…。」
猫は晴明が正気に戻っている事を確認するように見てから、噛みついていた腕の傷痕をいたわるように舐めた。
そして部屋の隅に向かって唸りながら、何かを追い出すように走っていった。
「晴明ー、どうしたの?」
騒ぎを聞きつけた晴明の母親が、先端が輪になったネクタイと倒れた晴明を見てパニックに陥ったのは言うまでもない。
ー
「…それがよ、よく覚えてねぇんだ。」
客足の途絶えた喫茶・六花のカウンターで、晴明は頭を掻きながら言った。
「目が覚めたらなんか母さん泣いてるし、父さん怒ってるしで訳わかんねーよ。」
「あら、そうなの?」
カウンター奥でグラスを磨いていた美子が首を傾げる。
「でも、あなたが自殺未遂したって聞いた時には驚いたわ。だって、あなたおおよそ自殺なんてするような性格していないもの。」
「だろ?」
勢い込んで、晴明は言った。
「全く、よりによってこの俺が自殺なんかしようとしてただなんて。ちゃんちゃらおかしーぜ。」
ふん、と軽く笑って、彼が出されたアイスティーを一気に煽ったその時。
六花の玄関戸がガラリと開き、荒っぽい足音と共にひどく興奮した様子の深山が現れた。
彼は店に入ってくるなり晴明の襟首を掴むと、そのまま椅子から引き摺り下ろした。
「…てめぇ、リッコに何しやがった?」
荒々しい態度とは裏腹の、不自然に落ち着いた口調だったが、その声の端に怒りが滲み出ているのがよく分かった。
「な、何の話だよジジイ!?」
戸惑いを隠せない様子で、晴明は深山のごつい腕を引き剥がそうとした。しかし、信じられない程に力の込められたその腕が、簡単には解けるようには思えない。
「…ほぉ、とぼけるつもりか?」
深山の口角が上がった。怒りのあまり、顔がひきつっているらしい。
「隠すと為にならんぞ、オラァ‼」
低く、ドスの効いた声で怒鳴る深山。店内が震えるようだった。
「離せよジジイ、苦しいっつーの…!」
「いいや離さん!貴様が白状するまでな!」
噛みつくように言った深山の横顔に、突如白い結晶が散った。
「ここは私のお店ですわ、乱暴は止して!」
堪忍袋の緒が切れた美子が、作りかけのかき氷をぶっかけたのだった。
「頭を冷やして、事情を説明するのが先じゃなくて?」
顔から水滴を滴らせながら、深山はゆっくりと彼女を振り返った。
「…悪い、つい感情的になった。」
晴明をテーブル席のソファに放り、彼は自らを落ち着かせるように深呼吸した。
「…。」
カウンター奥で牛乳を沸かしながら、美子はいくらか口調を緩めた。
「話、お聞きしますから。座ったらどうですの?」
深山は彼女の顔をちょっと見た。
「やけに優しいじゃねぇか。」
「だって、ただ事じゃないでしょ。獣みたいな勢いでしたわ。」
「勘のいい女だ、全くよぉ…。」
「長く喫茶店やってれば、ある程度人を見る力はつきますわ。」
これを飲むといいわ、落ち着くはずよ。
出されたホットミルクの表面に、深山の溜め息が波紋を作った。
「溜め息なんてらしくねぇじゃん?」
ソファから起き上がった晴明が、深山の隣に座る。
「律子に何かあったなら、その…。」
躊躇うように視線を迷わせてから、彼は深山の顔を見上げた。
「俺も、気になるし。」
「ふん…。」
深山はそんな彼から視線を逸らし、再びホットミルクに目を落とした。
「…昨日の晩のことなんだが」
ー
その晩、やっとのことで仕事を終わらせた深山は、帰りの電車に揺られながらうとうとしていた。
この時間帯の車内はガラガラに空いている。足を大きく開いただらしない姿で舟を漕いでいても、見る者はいない。
車体が大きく揺れた。
「うん…。」
目を覚まして、胸筋で張った胸ポケットから携帯電話を取り出した。不在着信を知らせる光がちらちらと目に入ったからだ。
画面に表示された名は「智津子」。彼の妻の名だ。
「何だ、智津子の奴…。」
不在着信は11件。全て妻からであった。
彼は辺りを見回し、こっそり携帯を耳に当てた。
『あなた‼』
ワンコールもしないで、待ち受けていたかのように妻の声が耳に飛び込んできた。
「何だ、今電車だから下りるまで待って…。」
『そんな悠長なこと言ってる場合じゃないのよ、大変なの!』
いつもは気丈で冷静なはずの妻が取り乱しているのを感じて、深山は少し不安になった。
「…どうした」
『律子が…。』
一瞬途切れた声は、次の瞬間には涙を含んでいた。
『律子が自殺を!』
「なっ…!?」
ー
「…自分の部屋で、首をくくっていたらしい」
呆然としている晴明と美子の前で、深山は自らの髪をくしゃっと掴んだ。
「昼に晴明、お前と出掛けたって聞いたからよ。妙に沈んで帰ってきたって、ワイフが。」
「そんな…。」
美子は戸惑ったように口を軽く押さえ、晴明に目を遣った。
「晴明君も、確か自殺を…。」
「何?」
深山が顔を上げる。
「お前が…。お前が自殺?」
「ああ」
晴明は唇を噛んで、吐き捨てるように言った。
「ま、今となっちゃあそのまま逝っちまえば良かったと思うけどな。」
その時、晴明の脳内に火花が散った。
1コンマ遅れて、視界を美子の驚いた顔と六花店内の風景がぐるりと回る。
床板に叩きつけられたのを、痛いと感じる余裕もないほど彼の頭の中を驚きが支配していた。
「そんな事、冗談でも言うもんじゃねえ‼」
深山に殴られたのだと分かるのに、少々時間がかかった。
「分かったか、この青二才がっ‼」
口の中にじんわりと鉄の味が広がるのを、晴明は感じていた。
「刑事さん、お気持ちは分かりますけれど…。いくら何でもやりすぎではございませんの?」
「いや、女将。」
上体を起こし、晴明は心配そうにこちらを見つめる美子を制した。
「今のは俺が悪いわ。今のジジイの気持ち、考えてなかった。」
「物分かりいいじゃねぇか、クソガキ。」
深山のついた悪態にも、晴明は反論しなかった。
「…しかし、だ」
カウンターに肘をつき、深山は首を捻った。
「リッコにお前、自殺しそうにない奴がまとまってこうなるとな…。何かある気がしてならねぇ。」
「どういうことですの?」
カウンターから身を乗り出した美子に、深山は言った。
「今月に入ってから、不可解な自殺が相次いでいる。ホトケさんはみんな首をくくった状態で見つかった。」
「それなら、ただの自殺じゃなくて?」
「いや…。彼らの身のまわりで自殺の原因になるような事が何一つ見つからないんだ。」
でも、と美子が食い下がる。
「他人に分からないだけで、本人には悩んでいる事があったのかもしれないわ。」
「相棒にも同じような事を言われたよ。」
深山は苦笑した。
「確かに、これは俺が気になっているだけのことだ。いわゆる勘ってやつさ。しかし、ただの勘じゃねえ。刑事の勘だ。」
さて、と彼は立ち上がった。
「俺はそろそろ行く。」
「行くって…どこへ?」
心配そうに尋ねた美子を振り返り、深山は言った。
「仕事…だな。」
店を去るその背を、美子は初めて呼び止めてやりたくなった。
ー
木菟の家のチャイムが、遅い来客を知らせる。
「こんな時間に…。」
木菟が首を捻りながら玄関戸を開けると、その先には少しやつれた深山が立っていた。
「よぉ。しばらくぶりだな。」
そう言って弱々しく笑った彼に、木菟は尋ねた。
「少し痩せました?深山刑事もともと筋肉質ですから、この歳で筋肉を落としてしまうと中年太りの原因になりますよ。」
深山は鼻を鳴らした。
「あんたもな、先生。細っこいからって油断してると、それこそミミズクみてぇな真ん丸い体型になっちまうぜ?」
それを聞いて、木菟はへらっと笑った。
「美子さんにもよく言われるんですよ、それ。」
寄る年波には勝てませんよ、と笑う木菟を、深山は呆れたように見ていた。
「…まあいい、とりあえず上がらせてもらうぞ。」
「ええ、今お茶をお淹れしますから。」
「悪りぃな。」
居間では経凛々が来客用座布団を敷いている最中だった。いつもと違って、甚平風の服に細い帯を締めた部屋着だ。
「どうぞ、座ってください。」
「ありがとさん。」
胡座をかいた彼の前に、湯呑みが置かれる。
「さて、ご用件をお聞きしますよ。」
いつの間にか戻った木菟が、深山の向かいに座った。
「あなたが私を訪ねてきたということは、また何か奇妙な事件でも起きたのでしょう?」
「流石だな。」
深山は微かに笑うと、これに至る経緯を全て話した。
事件の詳細を聞いた木菟と経凛々は、顔色をいつもの何倍も白くして顔を見合わせた。
「どうかね先生、何か心当たりはないかい?何でもない人間を自殺させるような、胸糞ワリー化け物によぉ。」
深山は胸ポケットから煙草を取り出し、一本口に咥えた。そして、鯱の彫刻が施されたオイルライターをその先に近付けた。しかし連日の雨で湿気っているのか、中々煙草に火がつかない。
「…ああ、くそっ!」
とんだシケモクに当たっちまった、と舌打ちをして、彼は畳に倒れ込んだ。
「なあ、先生。頼むよ…。」
そんな彼を黙って見つめていた木菟は、やがてゆっくりと口を開いた。
「…くびれ鬼というものをご存知でしょうか」
「くびれ鬼…?」
木菟は頷いた。
「中国では縊鬼(いき)と呼ばれる妖怪の一種です。これに取りつかれたものは、自分の意思に関わらず首をくくりたくなるそうです。中国の伝承では、冥界の人口を一定に保つ為、転生して新しい命を得るために自分の後任の死者を無理矢理つくろうとするものが縊鬼であるとされています。日本では昔話程度の伝承しかありませんがね。」
「それじゃ、リッコとあのクソガキはそいつのせいで?」
「特定はできません」
深山の問いに、木菟はかぶりを振った。
「しかし、私の心当たりといったらこれくらいです。」
お力になれなくてすみません。
木菟は深々と頭を下げた。
「いや、気にするな。その情報がありゃ十分だ、あとは自分で調べるさ。」
彼は出された茶を一気に煽り、その場を立ち去った。
玄関戸の閉まる音で我に返った経凛々が、慌てて立ち上がる。
「経凛々さん、待ちなさい」
鋭い声に呼び止められ、経凛々は歯痒そうに木菟を振り返った。
「先生…!だって、」
「これは深山刑事の問題です。あなたがわざわざ首を突っ込むことではありません。」
「でも…。」
「分からないのですか!?」
珍しく声を荒げた木菟に気圧され、経凛々は押し黙った。
「もしもこの件がくびれ鬼の仕業であれば、あなたの身にも危険が及ぶのですよ。あの晴明さんでさえ殺されかけたのです、精神面で彼より脆弱なあなたが目をつけられれば確実に命を失います。」
経凛々は暫く唇を噛んで木菟を見つめていた。
そして、ぷいとそっぽを向いた。
「見損ないました、先生。いくら他人とはいえ、深山さんは私たちにすごく良くしてくれたでしょう?だから今度は私が…。」
「傲るのも大概にしなさい」
重く静かな声は、普段の木菟からはとても想像のつかないような代物だった。
「彼があなたと仲のいいことは私も承知です。あなたが彼に憧れる気持ちも、分からなくはありません。しかし、あなたに彼と同じことをする力がありますか?」
「…。」
立ち尽くす経凛々に、木菟は背を向けた。
「己の分を知りなさい」
それだけ言い残し、自室へと姿を消した彼。
そんな彼を見て、経凛々は短い溜め息をついた。
「…先生なんか嫌いです」
そしてくるりと踵を返し、家を飛び出した。
ー
深山辰二郎は、暗い夜道を一人歩いていた。
街灯のない田舎なので、咥えた煙草の赤い火だけが闇の中に際立って見える。
「くびれ鬼、か。」
娘に危害を加える者は、例え妖怪だろうと許さん。この手でお縄にしてやる。
…しかし、と深山は溜め息をついた。
相手は神出鬼没。どこをどう探せばよいのか、とんと見当がつかない。
その時、背後から軽い駆け足の足音が聞こえた。
暗闇に目を凝らして見ると、肩を上下させながらこちらに向かって走ってくる小柄な青年の姿が見えた。経凛々だ。
「何だ、ついてきたのか?」
少し呆れ気味に尋ねた深山に対し、彼は強く頷いた。
「私、いつも深山さんに頼ってばかりだから…。たまには力になりたくて。」
「そうか…。」
深山は困ったように頭を掻いた。
彼にとって経凛々は弟分のようなもの。できれば危険な目に遭わせたくなかった。
「私はほら、認めたくはないけど一応妖怪ですし。その姿をとれば、少しは戦えます。」
「言の葉…。ありがとな。」
深山は経凛々に歩み寄り、その頭を撫でた。
「申し出は嬉しいが…。受けることはできない。」
「え…。」
戸惑う経凛々に、深山は諭すように言った。
「言の葉。俺がお前を呼ぶとき必ず名前呼びする理由、分かるか?」
経凛々は首を振った。
「それはな、お前に名前があるからさ。」
人間を『人間』と呼ぶ奴はいない。名前があれば、必ず名前で呼ぶものだ。それが深山の持論である。
首を傾げる経凛々。深山は苦笑した。
「分からねぇか。まぁいい。とにかく、俺はお前が人として生きることを邪魔したくねぇんだ。」
「…。」
経凛々は暫く黙っていたが、やがてふっと笑った。
「…嘘だ」
「何?」
いきなり雰囲気の変わった経凛々に、深山は身構えた。
「嘘だ、そんな事言って誤魔化して!本当は僕に力がないって、足手まといになるって思ってるくせに!」
「おい、いきなりどうした?大丈夫か?」
「うるさいっ、ほっといてくれ!」
ヒステリックに怒鳴り、彼は心配そうな深山を突き飛ばした。
しかし、体格差は明らか。逆によろけてしまい、丁度頭の位置に出ていた木にぶつかった。
「言の葉、お前本当に…。」
「うるさいって言ってるだろ!」
差し伸べられた深山の手を振り払い、経凛々は彼を睨んだ。
「先生も深山さんも、みんな大嫌いだっ!いっそのこと死んでやる!」
「はあ!?」
アクロバット理論に唖然としている深山のネクタイを奪い取り、経凛々は駆け出した。
「おい、早まるな、待て!」
「僕なんか死んだほうがましなんだ!首くくって死んでやるー!」
その言葉を聞いて、深山ははっとした。
「もしかして、これが…。」
言の葉は確かになよなよした奴だが、「死ぬ」なんて簡単には言わない。まして自殺なんか絶対にしない奴だ。
深山は舌打ちをして、辺りを見渡した。
もしこれが本当にくびれ鬼とかいう奴の仕業なら、そいつはこの辺りにいるって訳か?
「言の葉、落ち着け!自殺だなんてお前の意思じゃねぇだろ?」
しかし、経凛々は聞く耳をもたない。
小さい背を思いきり伸ばして、木の枝にネクタイを引っ掛けようとしていた。
「僕なんか、僕なんかー!」
(…仕方ねぇな)
騒ぎになっても面倒だ。
「手荒な真似はしたくねぇんだが…。許せよ言の葉!」
深山は騒いでいる経凛々に駆け寄り、その鳩尾に思い切り拳をめり込ませた。
鈍い音と共に、彼はその場にくずおれた。どうやら気を失ったらしい。
その時、彼の背から何か黒い塊が抜け出るのが深山には見えた。
塊は暫く辺りを彷徨ったかと思うと、ゆっくりと地面に落ちてはぜた。
瞬間、辺りをなんとも言えない嫌な匂いが包み込む。
しかし、深山にはなんとなく覚えのある匂いだった。
(…そうだ)
首吊り死体の見つかった部屋を捜査しているときに感じる、残り香のようなもの。それをもっとずっときつく、新鮮にした匂いだ。
落ちてはぜた黒い塊は、地面から生える木のように上に向かって伸びていき、やがて四つん這いの人間のような形に枝分かれした。
「へっ…。いよいよお出ましってワケか?」
深山の声に反応するかのように、塊はマッチ棒のような形状に伸びた頭をぬっと上げた。
丸くなった先には、恨めしそうな人間の顔がついていた。
一つや二つではない。頭の先端を覆い尽くすかのように、無数についている。
「おいおい、冗談じゃないぜ…。」
縊死体のバケモノ。そんな言葉がぴったりの、おぞましい姿だった。
「貴様がくびれ鬼か?」
黒い塊は何も言わなかった。
代わりに、身体を鞭のようにしならせながら深山に突っ込んできた。
(今度は俺に憑こうってのか?)
すんでのところで塊の体当たりをかわした深山は、考えた。考えて、そして決意した。
(…賭けるか、俺の精神力に。)
彼は道の端に倒れていた経凛々の体を抱き抱え、化け物の前に仁王立ちした。
「おい、貴様。ギャンブルは好きか?」
化け物は動きを止めて、首を傾げるように彼の顔を除き込んだ。
生暖かい呼気が顔にかかるのも気にせず、深山はにやりと笑った。
「俺は大好きでね。実は最近、スリルのある駆け引きに飢えていたんだ。どうだい、俺と賭け事をしないか?お前が俺に取り憑いて、30分以内に見事自殺させることができたならお前の勝ちだ。言の葉のこともくれてやる。」
敢えて経凛々の命も賭けたのは、自分の気持ちを高めるためだった。自分の命だけでは軽い。他人の…。まして自分を慕う弟分の命だけは、奪われたくないからだ。
「しかし、だ。もしお前に俺が殺せなかったら、その時は直ちに消えてもらうぜ。分かったな?」
その時、腕の中の経凛々がもぞりと動いた。
「んっ、起きたか言の葉。」
いえ、と経凛々は俯いた。
「起きてました、こうして抱き抱えられた時から。」
「そうか…。」
深山は苦笑した。
「悪い。お前の命、勝手に賭けちまった。」
首を振って、経凛々は深山の顔を見上げた。
「大丈夫です。私、深山さんのこと信じてますから。」
「嬉しい事言ってくれるねぇー…。」
にやけた彼の眉を、何かがかすった。化け物の、長く伸びた頭部だ。
「おっと、待たせちまったな。悪い悪い。」
深山は真正面から化け物を見据え、不敵に笑った。
「…いくぜ」
言うが早いか、深山は経凛々の腕を掴んで化け物とは反対方向に走り出した。
「俺を殺せたら、とは言ったが、そもそも取り憑かせてやるたぁ言ってねーからなぁ‼」
遥か後方で身をくねらす化け物をちらと振り返り、深山は豪快に笑った。
「ちょ、深山さん!?」
「何だ、また抱っこか?」
「いや、そうじゃなくて!」
「じゃあ黙って走れ!死にたくねぇだろ?」
経凛々は黙って後ろを振り向いた。
そして、驚愕した。
「みっ、深山さん、あれ!」
「あぁん?」
再び振り返った深山が目にしたものは、眼前すれすれに迫る化け物の無数の顔だった。
「何っ、あいつあんなに素早く!」
予想外の素早さに、深山が舌打ちをする。
化け物はそのままの勢いで、深山の胸へと消えた。
「っあぁ~…、クソッタレ共がぁぁ…‼」
経凛々を突き放し、深山は地面に膝をついた。
「大丈夫ですか、深山さん!」
「くっ、なんてこった。ものすごい自殺願望が湧いて…!…来ないな。」
「どうしよう、深山さんが…え?」
拍子抜けしたように首を傾げた経凛々の目の前で、深山の背から小さな黒い塊が転げ出てきた。
それは先程よりずっと小さくなった縊死体の化け物で、混乱した様子でちょろちょろ動き回っている。
「これ…、さっきの首吊りオバケですよ、ちょっと小さいけど!」
「何ー?」
深山は小さくなった化け物を見下ろし、にやりと笑った。
「へぇー、こいつは随分と可愛くなったもんだなぁ?」
逃げ回る化け物を足先で道の端に追い詰め、彼はずいと顔を近づけた。
「貴様の負けだ、さっさと消えろ‼」
深山の怒声に恐れをなしたのか、化け物は水泡がはじけるようにして消えた。
「はっはっは、ざまぁみやがれってんだ!」
「すごいや深山さん、でも一体どうして…。」
そこで、経凛々ははっとした。
(もしかしたら、そもそも深山さんの頭の中には自殺なんていう概念が存在しないのかもしれない。刑事である自分が、自分を殺すという『犯罪』を犯すというのは論外なのかもしれない。)
経凛々は改めて、深山を憧れの眼差しで見上げるのだった。
ー
事件から数日後。
律子の自殺から塞ぎ込んでいた晴明は、自室の窓から外を眺めていた。
ふと、一人の男の姿が目に留まった。花束を抱えた深山だ。
晴明は家を飛び出し、彼の肩を掴まえた。
「おい、ジジィ。」
深山は驚いたように振り返り、晴明の姿を認めると首を傾げた。
「お前、暫く見ねぇと思ったら…。随分やつれてんじゃねぇか。どうした?」
「ほっとけよ。それより、そんな柄でもねーモン持ってどこ行くんだよ?」
「ああ、これか…。」
深山は照れたように笑った。
「リッコんとこに行くのさ、上が休みくれたからな。一度くらい行ってやれってさ。」
「律子のとこって…。」
少し考え、晴明は言った。
「俺も行く…、いや、連れてってよ。」
着替えてくるから待ってて。
返事も聞かないうちに、彼は家へ駆け戻った。
暫くして戻ってきた晴明は、ワイシャツに黒ズボンというシンプルな服装になっていた。
「ああいうとこ行く時の服装ってよく分かんねーからな…。これでいい?」
「あ?別に構わんとは思うが…。行ったことねぇのか?」
「あるけど、あれはひいばあちゃんの時だったから。俺もチビだったから、よく覚えてねー。」
「ふぅん。」
二人は連れ立って歩き始めた。
周囲の風景は、住宅街から少し賑やかな町へと移る。晴明は首を傾げた。
「こんな方にあったっけ?」
「何言ってる、でけぇのが一つあんじゃねぇか。」
「俺が知らないだけかなぁ…。」
そこから更に10分程歩いて、深山は足を止めた。
「よし、着いた。」
「え?」
晴明の目の前にあったのは、大きな灰色の建物だった。
「ジジィ、これ…。」
「ん?お前、本当に知らなかったのか?この病院。」
「病院!?そ、それじゃ律子って…。」
深山は頷いた。
「ああ。ここの6階に入院してるぞ。」
「に、入院ー!?安置されてるんじゃなくて?」
絶句した晴明を、深山は睨んだ。
「安置って何だ、人の娘を死んだみてぇに言いやがって…。」
「ジジィ…、てめぇー‼」
晴明は深山の襟首を掴んだ。
「テメェがハッキリしたこと言わねーから、ムダに落ち込んじまったじゃねーかっ!多分女将とか経凛々も沈んでるぞっ!」
それを聞いた深山は、苦笑して首を振った。
「それはねぇだろ、だってこないだ二人とも見舞いに来たぜ?」
「な…。それじゃ、知らなかったの俺だけかよ…!」
舌打ちをし、晴明は深山の持っていた花束を奪って病院へ飛び込んだ。
ー
深山が病室に着いたとき、律子と晴明はいなかった。
窓から外を覗くと、中庭のベンチで談笑する二人の姿が見えた。
「すれ違ったか…。」
彼はベッドに座り、テレビをつけた。
『…今回の特集は、増える中高生の自殺。心的なストレスによるこれらの悲劇は…。』
早口で喋るキャスターの声を聞きながら、ふと思う。
くびれ鬼さんよ。
そう焦らずとも、少し待ちゃあ順番は来そうだぜ?
皮肉っぽく笑って、彼はテレビのチャンネルを回した。
作者コノハズク
随分と間が開いてしまいましたが、木菟シリーズです。木菟シリーズと言っておきながら、木菟さんがあまり出てきません。
近年増えている学生の自殺ですが…。聞くたび何ともやるせない気持ちになります。