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荒涼とした生ぬるい夜風が廃墟と化したビルの中を駆け巡る。
一体どれぐらいの刻が経過したのか、「それ」にはすでに時間の感覚はなかった。
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灼熱の炎にさらされ、強烈な封呪の儀法を施されたそれは、もはや意識と呼べるものもなくなり、虚空に消し炭のように消えゆくばかりだった。
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そこに偶然、廃墟に迷い込んだ蟋蟀(コオロギ)がのそのそと近づいてきた。
命あるものであるならば持ち合わせすはずの直観、本能的危機意識を持たなかったその飛蝗は、愚鈍にもその足を炭化した「それ」に乗せてしまったのである。
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瞬間、「それ」は消し炭の体を爆発するように広げ、その飛蝗の体を覆いつくした。
そしてその後、廃墟はまた何事もなかったかのように静寂を取り戻した。
違っていたのは、蟋蟀がその姿を消していたことと・・・
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(オ・・・オ・・・オオ……)
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「それ」が、微かに失われた本能を取り戻したことであった。
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「それ」はやがて自分の意思で蠢くようになった。
(ハギタイ・・・ハギタイ・・・ハギタイ・・・・・・)
廃墟に迷い込んだ哀れな昆虫類、環形動物は皆その餌食となった。
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かつての消し炭は、自らを支えうるほどの骨格を取り戻していた。
(ハギタイ、アア、アレダ。アレヲハギタイ……)
夜の闇が辺りを覆う頃、「それ」は辺りを這い回り、次の獲物を探した。
廃墟近くを飛び回る鳥類、雨露から逃れるためにやってきた猫。それらをも自らの糧とする頃、「それ」の本能ははっきりとある一つの衝動に向かいつつあった。
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「ニンゲン、ニンゲン!!
ニンゲンヲハギタイ!」
月が闇を照らす夜、「それ」は人知れず、「ミサライ様」として覚醒を遂げた。
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そして、その日はやってきた。
訪れる者もないはずの廃墟のビルの入り口が、何年かぶりに開いたのだ。
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バキ、バキ、ギイと、錆びついた蝶番はその役目を放棄したかのように不快気な音を立ててドアを回転させる。
やがて、
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コツーン、コツーン。
規則的に響く足音が、それが自然現象や小動物ではなく、意思を持った者であることを確信させた。
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(おおおおおおおお!!)
「ミサライ様」は歓喜に震えながら、獲物に向かう土蜘蛛のように廃墟の中をごそごそと這いだした。
その先には、2本足で歩く漆黒のシルエットが闇に浮かんでいる。
(ニンゲン、ニンゲン、人間、人間!!)
壁から天井へと伝い歩き、シルエットの頭上に忍び寄った。
(剥ギタイ、人間ヲ、剥ギタイ!!)
そして人間の脳髄を齧りとるべく飛びかかったとき、しかしその先に今見た人間の姿はなく、埃の積もったリノリウムの床があるばかりだった。
(アレ?)
床に着地した「ミサライ様」が辺りを見回すと、シルエットはどこにもない。ただ、床に何か黒っぽいものが落ちているのだけが目に入った。
よくみると、何か、鳥の羽のようだ。何度か剥ぎ取ったことのある、カラスが持つ、黒い艶やかな・・・。
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「カラスはさ」
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ふいに背後から声が聞こえ、ミサライ様はその場で硬直した。
なんだ?これは?人間の声か?なんだ?この違和感は?
「森の掃除屋って言われているんだ。どうしてかわかるかい?」
ミサライ様はバッと背後を振り返った。しかしそこにも何もいない。
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「屍肉を啄み、あるべきものをあるべき場所に戻すからさ。あんたはもう、どれだけ人間を剥ぎ取っても戻れない。あんたの居場所はここじゃない」
ふいにミサライ様の前に、一人の男が姿を現した。
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漆黒の髪に陶器のような肌。何かの彫刻が動き出したようでいて、あどけない少年の面影も残している。
その姿は待ちに待った人間に違いないが、この上なく不快な予感をミサライ様に浮かべさせた。
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shake
「ウ、ウガアアアアアアア!!」
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ミサライ様は怒り狂って男に飛びかかろうとした。しかしその体は何かに縛り付けられたかのように、その場を動くことが出来なかった。
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烏の羽が自分の影に突き刺さっている。
そしてよく見ると、自分を囲むように床に羽が突き立っていた。
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「チェックメイト」
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男が判決を下す裁判官のように冷徹な声を上げた。
「今のあんたは黒すぎる・・・。さよならだ」
瞬間、烏の羽が黒い花火のように光り、辺りを闇よりも濃い黒色に染めあげた。
そして闇夜が再び訪れた時、辺りにはミサライ様の姿は無かった。
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男は地面に落ちた、焼け焦げたカラスの羽をそっと拾い上げた。
「覚醒したばかりでよかったよ。あんたがもしも力を取り戻していたら・・・」
男はぶるっとその身を震わせると、音のない風のように廃墟を後にした。
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後には沈黙と、夜だけが残った。
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と、先ほどミサライ様がいた場所の埃から、黒い煤のようなものが現れた。
煤は、風の向くまま散らばっていたが、やがて消しゴムの消しかすを練り合わせるように、小さな塊へとその姿を変じた。
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(・・・ハギタイ)
【了】
作者修行者
ともすけ様、遅ればせながら7月アワードおめでとうございます。
よもつひらさか様、ほんとすいません