僕の家は、片親だった。
昼間は不在の母に代わって、曾祖母と祖母、祖父が面倒を見てくれた。
よくある家庭の形だった。僕もそれが普通だと思っていたし、幸せだった。
7歳のとき、僕は初めて祖母に父のことを訊ねた。
祖母はちょっと顔をしかめてから、僕に囁いた。
「あんたはまだ分からなくていいんだよ」
その時の祖母の顔が少し怖くて、僕は家を飛び出した。
いつも虫取りをする土手に行って、僕は地面に腰を下ろした。
暮れなずむ街の景色を、どれだけ眺めていただろう。
いつの間にか、隣に女の子が座っていた。
僕より歳上の、綺麗な女の子だった。
「お姉ちゃん、誰?」
「あたしが誰でも、ボウヤには関係ないでしょ。」
「どうしてここにいるの?」
「ボウヤがあたしを呼んだの、覚えてないの?」
高飛車な物言いだったけれど、不思議と安心したのを記憶している。
「退屈なんだ」
僕がそう言うと、彼女は面白い話を沢山してくれた。
恋のおまじないの話や、狐を飼う男の話。奇妙な話ばかりだったのに、すっかり夢中になって聞いていた。気がつけばすっかり日が暮れている。
「そろそろ帰りなさいね」
彼女は僕の頭を撫でて言った。
「家族が心配するわ。あたしはこれからいつもここにいるから、恋しくなったらいらっしゃい。」
僕は礼を言って、家に帰った。
家に帰ってからは、何も言わずに長時間の外出をしていたことをこってりしぼられた。
しかし、僕は懲りなかった。
それからも隙をみては家を抜け出して、彼女のところに遊びに行った。
彼女は色々な事を教えてくれたけれど、不思議なことに名前だけは教えてくれなかった。
「…それじゃ、僕も教えない。」
意地悪のつもりでそう言うと、彼女は笑って言った。
「ボウヤの名前なんて、最初から知ってるわよ。今更教えてもらうようなものじゃないわ。」
証拠はなかったけど、彼女は嘘をついていない。何故かそう確信していた。
10歳の夏休み、僕は夏風邪をひいて床の間に横になっていた。
当然外出は禁止されたけど、僕はどうしても彼女に会いたかった。だから布団を抜け出して、寝巻きのまま土手へ走った。
彼女はいつものようにそこにいたけど、フラフラの僕を見ると顔をしかめた。
「身体を壊したなら、しっかり寝ていないと駄目でしょう?」
きつめに言ってから、彼女はふっと表情を優しくして僕を抱き締めた。
「風邪が治ったら、また遊んであげるから。早く治して、またいらっしゃい。」
頬の火照りは熱のせいではなかった。
柔らかい身体に初めて触れて、これが初恋なのだと感じた。
それから数日、風邪もすっかり治り、早速彼女のところへ行った。
彼女はいつもと変わらずそこにいた。
「おかえり。心配したのよ。」
僕は久しぶりに面白い話を聞いて、退屈しない時間を過ごした。
退屈は嫌い。僕は、面白い事が好き。
「何やってるの?」
不意に声をかけられて、僕は我に返った。
見ると、祖母がこちらを向いて立っていた。
「もう5時過ぎだよ、そんなところに一人で座ってどうしたの?」
「一人?馬鹿な、僕は…。」
隣を見ると、そこにいたはずの彼女は居なかった。
「おかしい、確かにさっきまであの人が…。」
僕がそうこぼすと、祖母は困ったような顔をした。
「変なこと言ってないで、帰るよ。」
「はい…。」
つくつくぼうしの声が聞こえる。
ー
その晩、彼女が夢枕に立った。
「僕は君を好いているようです。」
夢の中であるためか、素直に自分の気持ちを吐露できた。
「僕のような子供が言うのも可笑しく聞こえるかもしれませんが…。『初恋』という概念が本当にあるならば、こんな風だと思います。」
それを聞いた彼女は、溜め息をついた。
「もう会いに来たら駄目よ」
悲しそうな顔をして、そう言った。
「あなたはもう、私といるには大人になりすぎてしまったのよ。もしあの場所に来ても、あたしはいない…。いえ、見えないわ。」
僕は、彼女に最後の我儘を言った。
「あとひとつ、話を聞かせてください。そうしたら、僕は君を諦めましょう。」
彼女は頷き、一編の物語を語った。
これまでで一番興味深い話だったと、僕は記憶している。
物語を語り終えた彼女は言った。
「これからあなたは沢山の『物語』に出会うわ。デジャ・ビュを感じる時もあるかもしれない。でも、退屈な人生を送らせないことはあたしが約束する。」
彼女の声が遠退く。
「人の世の巡り合わせを楽しむことよ。」
その輪郭は薄紫色にぼやけて、僕の目の前から、記憶からも消えていった。
ー
「…先生?先生ったら!」
私を、見知った顔が呆れたふうに見ている。
「今日は美子さんのお店に行くんでしょう?早く身支度済ませないと駄目じゃないですか。」
どうやらぼうっとしてしまっていたらしい。
私は目を擦り、可愛い同居人に向かって微笑んだ。
「すみません。すこし、昔を思い出していました。」
「昔?」
怪訝そうな顔をして首を傾げる彼の髪を、そっと撫でる。
「まあ、歩きながら話しましょう。長くなりますから。」
退屈は嫌い。
私は、奇妙な縁に恋をする。
作者コノハズク
木菟シリーズの番外編となります。
本編も、ネタが思いつき次第書いていきたいと思います。