悲しみ、憎しみ、恨み、怒り……沢山の負の感情が私を支配する。
同じ痛みを、苦しみを、誰かに与える事で、解放されるのだろうか?
沢山の慈しみ、優しさ、温かさを受ける事で、心の穴は埋まるのだろうか?
報われない、救われない想いは、一体どうすれば良いのだろう……。
私達は四人家族だった。優しく穏やかな夫・公一。自閉症で重度知的障がいの息子・佑介。中学校二年生の娘・加奈。そんな、愛する三人の家族を持つ、専業主婦の私・和美。
将来への不安も無いわけではないが、それなりに幸せに暮らしていた。
あの日も、いつものように穏やかに過ぎるはずだった。
私達の住む街は、大規模な地震に襲われた。
大きな地震の後、火災が発生し、秋の乾いた風は瞬く間に大火となり、街全体を焼き尽くした。
私達一家は、地区外の避難所生活を余儀なくされた。
夫は交通網の寸断により、帰宅難民となっていた。
「……あら? 西村さん、西村さんじゃないですか!」
声のする方へ振り向くと、ご近所で親しくしていた沢井守さん英子さんご夫妻がいた。
「ひどい火事でしたね〜、佑介くん、大丈夫でした?」
「うん。佑介は学校だったから、火を直接見てないの。加奈も無事で、それだけが唯一の救いだわ」
「ほんと、それならまだマシですね。あんなの、私達でも怖くて怖くて。ライターの火でさえ手が震えるくらいです」
英子さんは殊勝に振舞っているけれど、瞳は潤んでいた。
「それにしても、家財道具なども全て燃えてしまって……これからどうすればいいのか、英子と途方に暮れています」
「やめてよ、守。それは西村さんも、みんな同じでしょ」
「ああ……すみません、ネガティブな事を……」
「気にしないでください。みんな同じ状況だからこそ、支え合える事もあるわ」
加奈は私の後ろで恥ずかしそうに頷いている。佑介は静かに話を聞いていた。
沢井さん達もいる。私達はこの避難所で孤立していない。
先の見えない生活でも、この時は、少なからず安心感を憶えた。
避難所生活を始めてから、三日目の昼過ぎの事。
「和美さん、配給があるみたいです! 私と加奈ちゃんで並びますね」
「ありがとう、英子さん。こんな時なのに、気を使ってもらって……」
「こんな時だからこそ、ですよ。それに、まだ始まったばかりです。弱気になんてなっていられませんよ!」
そう言って笑う英子さんは、とても心強かった。
英子さんと加奈は配給を貰うため、列の最後尾に並んだ。他の人も次から次へと並んでいき、列は一つの生き物のようになって成長していった。
こんなに人が動くのは久しぶりだった。人混みや大きな声、泣き声が苦手な佑介にとって、この人々の動きは堪えるもので、キョロキョロしだし、落ち着きを失くしつつあった。
「ヒヒヒヒッ、イヒヒヒヒヒヒ」
佑介はどうしようもない気持ちを、笑う事で発散する場合があった。視覚を遮断すれば、佑介の混乱を防ぐ事が出来る。私は急いで、非常用になんとか持ち出せた新聞紙と割り箸、ガムテープ等でパーテーションを作る。
「僕も手伝いますよ」
守さんが手伝ってくれた。
後にこのパーテーションが悲劇の引き金になるなど、想像もしなかった。
周りの人は、私達に、変わったものを見るような目を向けていた。
当初、直ぐに仮設住宅等へ移れるだろうと安易に考えていたが、状況は遥かに厳しく、二週間が過ぎてもなお、避難所には五、六十名がいた。
日に日に、焦りや不安からのストレスは大きくなり、その頃には他者の気遣いも薄れ、体調を崩す者、暴言を吐く者が出始めた。
そんな折、あの沢井守さんが倒れ、病院へ移る事になり、行くあてのない英子さんだけが避難所に残る事になった。
守さん、倒れるようには見えなかったのに……。夫の公一が来てくれたものの、私達の不安はより一層大きくなった。
三週間が過ぎた。誰もがピリピリと張り詰める中、佑介の向精神薬も底を尽いた。より一層の不安の中、とうとうそれは起こった。
夕日が赤く、ギラギラと私達を照らす時間。沈黙の檻の中で、僅かな食事を噛み締めていた。
すると突然、檻は破られた。その声は避難所全体を揺らし、私達の身体を貫いた。赤ちゃんが懸命に、母親に自分の異常を伝えていたのだ。
健康な大人でさえ耐え難いのだ。赤ちゃんにはなおさらだろう。佑介は驚いていたが、なんとか堪えてくれた。それなのに……。
「静かにさせろ! 飯も食えねえだろ!」
酷い怒声が飛んだその瞬間、張り詰めていた糸が切れるように、自分の頭を叩き、暴れる佑介。
「あ〜〜〜、うわあ〜〜〜〜!!」
「大丈夫! 大丈夫だから……」
私の声など全く届かず、突き飛ばし奇声を上げる。周囲からの怒声でさらに興奮し、どんどん手が付けられなくなる。
力任せに暴れる佑介を抱きかかえるように夫が外へ連れ出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私は謝ることしか出来なかった。
「戻って来たらこんな事になってたなんて……加奈ちゃんは私に任せて、佑介くんとお父さんの所へ早く行ってあげてください」
「ごめんなさい。英子さん、ありがとう」
泣きながら周囲に謝る加奈を、守さんのお見舞いから帰ってきたばかりの英子さんが気丈に支えてくれた。そのお陰で、私は佑介と夫の元へ急ぐ事が出来た。
「テントでよければお貸し致しましょうか?」
ボランティアさんのご厚意で、何とか落ち着いた佑介と夫。
私は気力を振り絞り、取り残してしまった加奈の所へと戻った。
加奈は泣き腫らした目で眠っていた。
「加奈ちゃん、ずっと謝り続けてたんですよ。周りの人も、あまりに痛々しくて見ていられなくなったのか、こっちを援護してくれて……そしたらあの男! 捨てゼリフ吐いて出て行ったんですよ! 自分が怒鳴るのが悪いのに」
「ありがとう、英子さん。でも、私達がみんなを不快にさせて迷惑をかけたのは本当だから……」
「和美さん……う〜ん、何か良い方法はないのかな? ……あ、そうだ、明日も守の病院に行くから、ちょっと相談してみますね!」
「本当にありがとう。あなたが怒ってくれるから私がこうしていられるの。ちょっと息子の様子を見てくるわね」
英子さんは時々いなくなるものの、私達の味方でいてくれる。それに安心しきっていた。まだ悲劇は終わらないのに。
ガタガタガタ……バンッ! ガタンッ!!
「やめて!」「やめなさい!」
激しい物音と叫び声で目を覚ますと、信じられない光景が目に飛び込んできた。
加奈に馬乗りになり、荒い息をしている男と、そいつに必死の形相で掴みかかる英子さん。そして、男の下敷きになっている加奈は、乱れた服を押さえながら泣きじゃくっている……。
「あ、あんた! うちの娘に何してるのよ!!」
私も英子さんに加勢して、男をなんとか退けた。
「チッ、こんな所に囲いなんてしやがって……ヤってくれってもんだろう! このキチガイ一家が!!」
男は私達を怒鳴りつけると、そこら中に響き渡る声で喚き始めた。
「みなさ〜ん、このお方達は誘っておいて人を貶めるんですよ〜!」
「ちょっと、何言うのよ! あんたそれでも人間なの!?」
「うわあ〜〜ん!!」
「ほらほら、赤ちゃん泣かせたら、障害者様のお怒りにふれますよ〜!」
「いい加減にしてよ!」
叫ぶ私を、男は濁った目で睨んだ。
「うるせえんだよ、ババア……! 何でもかんでも優遇しろだとか! 理解しろだとか!! 今は非常事態なんだよ! てめえらだけが良ければいいのか? 俺達はガマンしてトーゼンか!?」
何よそれ……そんな言い方は……。
言い返そうとした時——。
「そ、そうよね〜、うちの子が泣くのも、あそこの息子さんが大騒ぎするせいだし……」
「前から思ってたのよ。何で同じ被災者なのに、私達ばかりが我慢しなきゃいけないの?」
「トイレが汚いとか、ニオイがダメとか、急に話し掛けるな、触るな……って、ただのワガママじゃん」
ヒソヒソと囁かれ始めた声は、次第に大きくなっていき、避難所の中は、私達を非難する言葉で満たされた。
「……もうイヤ……イヤだよお……」
「加奈ちゃん! 待って!!」
飛び出して行った加奈を、英子さんが追った。
「加奈!!」
私も追いかけないと……!
「……逃げるつもりだよ、あの人」
呪いのような声に、私はその場から動けなくなった。
恐る恐る振り返り、周りを見渡す。
私を、私達一家を、見えない銃口が囲んでいた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
謝る事しか出来ない。
「……なんの騒ぎだい、みなさん! 少し落ち着いたらどうかね?」
地獄に一本の糸が降りてきたようだった。避難所のまとめ役となっている田中さんが、みんなを諌めてくださったのだった。
「あんたも落ち着きなさい。ハイ、みなさん、こんな真夜中に騒ぐもんじゃあない。一旦、休みましょう。明日また、みんなで話し合いましょうや」
翌朝、私達一家の今後の扱いについての話し合いが行われた。私と夫、それから、たとえ意見が交わせなくても当事者が参加すべきだという強い主張により、佑介も出席することになった。
「私達もこんな事言いたくないけど、専門の施設とか行けば良いんじゃないの?」
開口一番に無茶苦茶な事を言われた。施設だって簡単に入れるものではないのに。
佑介は落ち着きなく身体を前後に揺すっている。
「動物園でよくねー?」
「こらっ! 言って良い事と悪い事があるでしょ!」
「でもほんと、その通りだよね〜。どこでもいいから、早くどっか行ってくれないかな〜」
「まあまあ、落ち着いて。そういう施設の情報は、今のところ、入ってこなくてねえ」
「申し訳ありません。もうしばらくの間、ご理解をお願いいたします……!」
「はあ? 出たよー、ゴリカイ!」
私達夫婦は必死に頭を下げるしかなかった。佑介は自分の手を噛み、辛い状況に必死で耐えているようだった。
「西村さん……」
突然、背後から声がした。
驚いて振り返ると、そこには、亡霊のように立ち尽くす人物がいた。それが、あの明るくはつらつとした英子さんと同一人物だと気がつくのに、かなりの時間が掛かった。
英子さんは大粒の涙を流しながら謝り始めた。
「西村さん……ごめんなさい……加奈ちゃんが……」
「英子さん!? 加奈がどうかしたの? 何かあったの!?」
「加奈ちゃんは……私が見つけた時には、もう……」
後に続く言葉は、聞く事が出来なかった。聞きたくなかった……。
「嘘よ、嘘よ!! いやああああ!!」
「落ち着け、和美! とにかく、俺達が確認しに行こう!」
「わああああ! わああああああああああああ!!」
「佑介! 大丈夫だ! ……!!」
ダーンッ!!
「……ぅぅ」
「西村さん!? 大丈夫か!?」
「危ないぞ! みんな逃げろ!」
「誰か救急車呼んで!」
「あの人、パイプ椅子投げたわよ! 誰か取り押さえて!」
「そっち抑えろ! 絶対離すなよ!」
「うわあああああああああああああああああああああ」
「……」
「……急に静かになったな」
「気絶か?」
「……いや、息をしていない! おい、救急車はまだか!」
「私達……殺人犯って事にはならないわよね……?」
佑介?
佑介が、動かない……。
佑介の死因は、極度のストレスによる心不全。加奈は、高い所から落ちたらしいが、自殺か事故かは分からなかった。
あの時、佑介を押さえつけた人達は、他に危害が及ぶのを未然に防いだとして、なんのお咎めもなし。それどころか、警察からは礼をするように言われた。
あれから一ヶ月。英子さんは加奈の死に負い目があるのか、沢井さん夫妻とは疎遠になってしまった。
夫と二人きりの家族。しかし、夫は、私達家族を立ち直らせようとあちらこちらを駆け回り、やっと生活の目処が立った矢先に、過労で倒れて入院する事になった。
久しぶりに夫の病室に来た。最近は忙しくてなかなか顔を出せなかったのだ。
「和美……まさかここに来る直前まで探していたのか?」
公一が苦々しい表情で問いかけてきた。
「当然でしょ? 佑介は強い子だもの。あんな事で死ぬ訳ないわ。加奈もよ。あの遺体は、良く似た別人かもしれないし……」
私はこのところずっと、もしかするとあの子達がどこかで生きているかもしれないと思い、街中を探し回っていたのだ。
「なあ、和美……もうあの子達はいないんだ。たとえお前が受け入れられなくても、もういないんだよ。分かるだろ?」
「分かってる……多分、分かってるのよ……でも、ならどうして、佑介は死んだの……? どうして他の人は笑って生きてるの? 加奈を辱しめたあの男はのうのうとしているのに、どうして!? 佑介に障害があったから? 私が産んだから!? どうして……」
「和美……俺だって本当は悔しいんだ。でも、今更どうしようもないだろう。じゃあお前は、裁判でもすれば良かったと思っているのか?」
「あなたは男だから分からないのよ! 私はあの子達を産んだの!! 十ヶ月もこの中で育てて産んだの!! 理屈じゃないのよ! 頭では分かってる、誰も責められない事故だって……不運が重なってしまったと……でもね、心が探すのよ……佑介を、加奈を……出来るなら、私も、一緒に……」
「和美……」
病院から出ると、太陽は半分程沈み、赤くギラギラした光を放っていた。
「あ……」
こっそり夫に渡すはずだったライターとタバコが、バッグの中に入れたままになっていた。
夫の病室に戻る気にはなれず、そのまま家路につく。
病院から家までの帰り道、そこに、忘れられない顔があった。
佑介が暴れる原因を作り、加奈を襲った、あの男だ。
男の隣には二十代くらいの女性がいる。二人とも幸せそうに笑い、あんな災害なんて無かったかのようだった。
あの男は生きて、笑っている。
そう思うと無性に腹が立った。
男が女性と別れるのを見届けた後、男の後を追い、ついに家の前まで来た。
チャイムを鳴らす。
ピンポーン……。
「はいはい、どちら様でしょうか……」
玄関を開けた男は、私の顔を見た途端、真っ青になっていく。
「お、お前は……何をしに来たんだ!?」
私は家の中に踏み込む。男はうろたえ、後ずさりをした。
「どうして加奈を襲ったの? どうして佑介を殺したの? 私達が一体、あなたに何をしたっていうの? 教えなさい……言いなさいよ!」
「あっ、あれは事故だろ! それに、あの時はみんなどうかしてたんだよ! 今更何だってんだ、ケーサツ呼ぶぞ」
「どうかしてたって、何?」
私は、一歩、一歩と踏み込んでいく。すると男は、弾かれたように家の奥へと走っていった。
後を追う。
男の向かった先は台所。包丁を手に握り締め、あの濁った目でこちらを睨んできた。
「いっ、イかれてるのか、ババア!? こっち来んなよ、帰れ!」
「イかれてる? イかれなきゃ生きていけなかったわよ!!」
「うわああああああ!!」
私は男の掴んでいる包丁を奪い取ると、男の身体に突き刺した。
何度も。何度も。何度も。
気がつくと、目の前には血の海が出来ていて、その中心には、佑介と加奈を殺した男が、ピクリとも動かず転がっていた。
ガスの元栓を開け、ライターを取り出す。
と、テーブルの上に、男と先程の女性が笑っている写真が目に入った。
「ごめんなさい。あなたの大切な人を奪ってしまって」
ライターを見つめる。
「公一さん、ごめんなさい」
深呼吸した後、火をつけた。
炎は一瞬で広がり、全てを飲み込む。
ごめんね、お母さんを許してね。本当に走馬灯の様に見えるのね。 佑介と加奈が笑ってる……良かった、笑ってるのね。 ねぇ佑ちゃん、加奈ちゃん……。
作者はる(古)
最初で最後の投稿です。
決して幽霊の出る様な話では御座いませんが、お読みいただければ幸いと存じます。
昨今の震災により、障がいのある子を持つ親として、様々な報道やSNS等で語られる真実とは違う事を知って欲しくて、書く事を思い立ちました。
壁を作るのは障がいでは無く、人である事。
バリアフリー、ノーマライゼーションを考える一つのきっかけとなって欲しいと願って止みません。
ごめんなさい、誤解を招く書き方でした。
今作は全くの創作でございます。 私は被災経験はございません、最初に表記せず誤解を招いた事を深くお詫び申し上げます。