私は久しく地元の地を踏んだ。暑苦しい列車から転がるようにして出ると、新鮮な空気が口の中に充満した。本当の空気を久々に吸った気がする。
やはり、新幹線とかそういう知らない人と一緒に乗る乗り物は好きになれない。
私は歩きながら携帯を開いて、待ち合わせ場所を確認した。駅から出て、少し歩いたところにある本屋の前で母と落ち合う約束をしているのだ。
時間的に母が待っているはずだから、私は少し駆け足になって、待ち合わせ場所に急いだ。
「ここよね――」
見慣れた本屋――でも母の姿はなかった。もう一度携帯を開いて、時間と待ち合わせ場所を確認してみる。
時間に大きく遅れてはいないし、場所もここの本屋で間違いないはずだ。
試しに家に電話をかけてみる。
何時まで経っても無機質なコール音は終わらなかった。
「あれ、おかしいな」
一応、LINEもしてみる。
私は携帯をポケットに仕舞って、もう一度辺りを見渡した。
行き交う人々に、高く聳え立ったビル。街も大分変わってしまった。所々に面影が残っている程度である。
やはり、母の姿はない。
私は仕方なく、自分で家に向かうよと母にLINEをして、本屋の前から離れた。
先程のビル街から離れて、住宅街に入り込む。ここはあまり変わっていないように思う。見慣れた風景を辿って、自分の家の前に来た。
変わっていない。
懐かしさが溢れて、自然と笑みが零れた。
家の横のガレージには車が二台止めてあった。父と母のだ。
なんだか違和感を感じて、表札を確認してみた。
『田所』――私の苗字だ。間違いない、ここは私の家だ。
自分の家なのだから、インターフォンを押す必要なんてないだろう。
私は恐る恐る把手に手をかけて、扉を押した。
変わらない家の廊下が姿を現した。
「ただいまー」
ドタドタ――かまびすしい足音が階段から聞こえた。きっと弟だろう。弟の玲は――確かもう中学二年生か。
だけど階段を下りてきたのは弟ではなかった。知らない子供が不思議そうな顔をして階段から私を見つめている。
残りの数段を普通に下りながら、知らない子供は私の顔をしげしげと見つめた。
「あ、す、すみません」
家を間違えたのだと思って、私はつい謝ってしまった。でも、よくよく見れば、その男の子も中学三年生ぐらいの背格好をしている。もしかしたら、弟の友達なのかもしれない。
その男の子はふっと笑うと、階段のすぐ近くにある台所の中に入っていった。
「ちょっ」
なんと不躾な子なのだろうか。人の家の台所に勝手に入るなんて。
「お母さん、お姉ちゃん帰ってきたよ」
台所の中からそんな声が聞こえた。
は?
台所の扉が開いて、顔だけがにゅっと飛び出した。
四十代くらいの女の人の顔。
知らない人だ。
その人は私の姿を認めると、今度は全身を出して、
「あら、おかえり」
と言った。
「え、いや、あの――」
訳が分からない。誰、この人。
「何変てこな顔してるのよ、お父さんリビングで待ってるわよ」
「あ、あの、すみません。間違えました」
私は廊下に背を向けて、把手に手をかけた。
「何言ってるの、美幸」
私の名だ。思わず振り返って、知らない女の顔を見る。
優しそうな笑みを浮かべ、私を見ている。
それでも、知らない。
「早く入りなさい。中は温かいわよ」
そのあまりの自然さに自分が間違っているのではないか、という不安感に襲われた。優しい声に促されて、私は靴を脱ぎ、玄関に上がった。
いや、違う。私は間違っていない。
知らない人だ。
風景は私の家そのものなのに、そこに住んでいる人が丸きっり違う。
私は無意識に足を進め、リビングの扉を開いていた。後ろには知らない女の人が居て、にこやかな笑みを私に向けている。それがかえって不気味だった。
扉を開けると、やはり私が住んでいた頃のリビングがそのままの形で残っている。だけども、食卓に座っているのは知らない中年のオヤジだった。
「おお、美幸――帰ってきたのか」
中年のオヤジは素っ気なく言った。
「お父さん、美幸が帰ってくるのを楽しみにしてたのよ」
知らない女の人が口に手を当てて、ふふふと笑った。
「姉ちゃん。姉ちゃん、ゲームしようぜ」
いつの間に来たのか、先程の男の子がテレビの前に座ってwiiリモコンを二つ握っていた。
全て知らない顔だった。
「おい、玲。お姉ちゃんは疲れてんだ。あとにしなさい」
中年のオヤジが男の子を咎める。
玲? それは私の弟の名だ。
私はもう一度、男の子の顔を見た。
男の子がそんな私の視線を不思議に思ったのか、どうしたんだよと首を傾げた。
丸坊主の頭に無邪気な顔――頭が丸坊主なのは納得できるにしても、顔がまったく違う。
玲はもうちょっと丸っこくて、憎たらしい顔をしている。
これは玲じゃない。少なくとも、私が知っている玲ではない。
「何でずっと突っ立てるんだ」
中年のオヤジが怪訝そうな顔をして、私を見た。
「この子なんだか様子がおかしいのよ」
知らない女の人が心配そうな顔をした。
「お前、大学でなんかやらかしたんじゃないんだろうな。そういうことは俺の機嫌がいいうちに早く言えよ」
中年のオヤジはがははと下品に笑うと、私の無反応を見て、おい本当に大丈夫かと今度は心配そうな声になって言った。
私は奇妙な光景に唖然とした。言葉が出ない。というよりは、なんて言ったらいいか分からなかった。知らない三つの視線が私に集まる。
家族の顔を忘れるわけがない。
「だ、誰」
自然と口から零れていた。
その瞬間、知らない女の顔から、中年のオヤジの顔から、男の子の顔から――人間味というか感情みたいなものがすうと抜けていった。
無機質な三つの無表情が軽蔑するかのような目で私を睨んだ。異端者を見るような目で私を見てから、三人は互いの顔を見合わせた。
それから同時に頷いた。
突如、ガタンという音がした。
台所の方だ。
誰も動かない。私は三人の視線を振り切るかのように、台所へ向かった。
切なる願いを胸のうちで何度も唱えた。
台所の棚から血だらけの手がはみ出していた。見覚えのある手だ。
その手は携帯を握っている。
私は急いで携帯を取り出した。急ぎすぎて、携帯が手から落ちそうになる。
嘘、嘘、うそ、嘘。
母にLINEを送った。
爽快な着信音がして、目の前の携帯がブブと振動した。その拍子に手から携帯が滑り落ちる。
私は絶句した。
「ミユキ」
知らない人の声だ。
きっと後ろに居る。
知らない人が。
こいつらが私の家族を――。
「美幸、どうしたの。早くリビングに来なさい。お父さんが話があるって。なんだかすごく怒ってたわよ」
作者なりそこない