これは、わたしが初めて一人暮らしをした時の話です。
大学に進学して、近くのボロアパートに引っ越しました。
一年目の冬、冷え込む夜のことです。隣からコツコツと、壁を叩く音がしてきました。ドアがぶつかってでもいるのだろう、とその時は気にも留めませんでした。音はすぐにやみましたし。
でも、次の日も同じくらいの時間にコツコツという音がしました。その次の日も。さすがに3日も続くと気になるものです。
4日目にちゃんと聞いてみると、音はある程度規則性を持って鳴っているようです。『4・1・3・3・2・4・4・4』。これを何度も繰り返し、いきなり沈黙するのです。暗号でしょうか。でも、音の長短がないからモールスではないようですし……。
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ただ、それよりももっと気になっていることがありました。
そう、隣の部屋は空き部屋のはずなのです。
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入居するときに大家さんから聞きましたから、間違いはないはずなんです。なのに、隣から音がする。しかも、たまに人の気配がするようにも思います。
わたしはずっとオカルトが好きでしたから、すぐに幽霊の仕業ではないかと思い至りました。
次の日、図書館に行きました。古い新聞を見るためです。アーカイブされている記事の中から、わたしの住んでいるアパートの名前で検索をかけます。
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結論から言いますと、あの部屋で、人が死んでいました。
数年前、隣の部屋に住んでいた女性が殺されていたのです。女性は同棲していた男から暴力を受けていました。そしてとうとう男に殺された。男は殺人の容疑で逮捕されていました。
あれは、暴力に耐えかねた女性が、必死にお隣さんに助けを求めた音だったのではないでしょうか。
彼女は死んでもなお、男の暴力から逃れられていないのでしょうか。それは、あまりに悲しすぎる。
わたしは図書館から帰ってすぐ、隣の部屋に向かって線香を焚きました。手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えました。本当はお坊さんでも呼んで本人の部屋で供養した方がいいんでしょうけど、貧乏学生でしたから、このくらいが限度でした。
数日は音が聞こえ続けましたが、そのたびにお経を唱えていると、音はしなくなりました。ああ、成仏できたんだな。そう思いました。
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数日後、家に帰ると、アパートの前にパトカーが停まっていました。
わたしの隣のあの部屋から、男の子の死体が見つかったとのことでした。
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数年前に捕まったあの男、つい最近刑務所を出て、隣の部屋に勝手に上がりこんでいたそうです。同棲していたころから鍵を変えていなかったので、あっさり忍び込めたと。
そして、子どもを誘拐してきて、暴力を振るって憂さ晴らししていた。昼に忍び込んできて暴力を振るい、夜は縛ったまま、部屋に転がしておいた。もちろん、口もちゃんと塞いで。
そう供述したそうです。
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つまり、わたしが聞いていた音は、子どものSOSだったんです。
女の幽霊なんかじゃなかったんです。
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よくよく考えてみれば、SOSを送りたいならモールス信号が一番楽チンじゃないですか。ツツツ、ツーツーツー、ツツツ、なんて、大人なら誰でも知ってるし、わかりやすい。
それができなかったのは子どもで、モールス信号を知らなかったから。
慌ててあの、音の暗号を読み解きました。簡単なことでした、五十音なんです。
『4・1・3・3・2・4・4・4』は、『4行目の1列目、3行目の3列目』って具合に読んでいくんです。た行の1列目、『た』。さ行の3列目、『す』。で、全部で『たすけて』。子どもの精一杯の暗号だったんですよ。
わたしが幽霊の仕業だなんて勘違いしないで、さっさと通報していれば、男の子は死なずにすんだんです。
それどころか、死にかけている男の子に向かって、壁越しにお経を唱えていたんです。
なんてひどいことをしてしまったんでしょう。
いまだに後悔してもしきれません。ずっと悔やんだまま、一生背負っていく後悔です。
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ところで、それ以来、どこに引っ越しても隣の部屋との境から、音がする気がするんです。
『8・3・9・3・3・1・5・1・1・2』って音が。
『ゆるさない』って、音が。
作者火星