これは私が小学校低学年のときの話です。
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時代は昭和。私たち家族は父の仕事の関係から東京郊外にあるコンクリートと運河で囲われた工業地区に住んでいました。
ここはもともと明治以降における東京臨海部の埋立によってでき、東京オリンピック招致を見据えた資材置き場の候補地となった場所で、予定区域から外れた60年以降、空き地は人工水路の恩恵を受けるように町工場が林立してひしめくドブと機械油の臭いのする町になりました。
そのため郊外にしては緑がなく、生活をするのにも商業施設が全くない土地で、かろうじて住宅地と言える一角も買い手のつかない空き室ばかりのマンションと簡素な集合住宅が数棟、そんな環境下にあった町で我が家は父の勤め先が所有する倉庫の2階に居を構えていました。
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そんなこんなで、一目は倉庫なので知らない人がまず訪ねてくることはなく、しかも裏手にあるちょっと急な鉄の階段を2階分ほど登らなければいけないため、昼間のうちは2階の住居の鍵などは掛かっていませんでした。
これも、まだまだ携帯電話のない時代で、顔見知りなどは勝手にあがり込んでは待つ人も居たためで、玄関を入ってすぐの真向いの部屋はだれでも自由に出入りしていました。
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ある日のこと、学校から帰り玄関を開けるとすぐに母の声がします。
「ちょっとそこまで行くから留守番してて。」
私が返事をする前に母はエプロンを着けたままサンダルを引っかけ足早に出かけていきました。
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それからしばらくしてのことです。
「ごめんください。」
玄関に1人の男性が立っていました。短髪白髪の初老男性、痩せ型で普段見る他の大人よりも少し背が高かったと思います。
「お母さん、いるよね?」
そう言うと家に上がろうとしました。見るからに近所から来ましたっというような上下グレーのスウェットを着ていましたが、しかし全く見覚えのない人です。
「お母さんはいません。」
私は即答しました。この男性がなぜか嫌で帰って欲しくてたまらないのです。
「おかしいな。約束しているんだよ。」
そう言いながら男性は奥の部屋を覗き見るような仕草をしました。
この時です。この人はうちを知らない人だと幼心に確信をしました。なによりも我が家を知っている人であれば真向いの部屋が客室であると知っているからです。
「さっき出ました。すぐには帰りません。」
何としても帰ってもらおうと私は頑なに男性を拒否し続けました。また、このあともなにか言ったような記憶はあるのですが男性は帰りません。
そんなことがしばらく続き、男性は「少しでいいから待たせてほしい」とお願いをしてきたのです。
それを聞いた私は、本当に母がいないことが分かればすぐに帰ってくれると考えました。
「どうぞ」と迎え入れましたが男性は正面の客室には目もくれず反対側のリビングへ入ろうとしたのです。私は慌てて客間へ入るように促しました。
やはりこの人はおかしい、この時なぜか母と会わせてはいけないような気がしてきたのです。私は改めて考えました、どうしたら早く帰ってもらえるのかを。
身を隠しながら注意深く男性を観察しましたが、当の本人は畳に座り込むと置物のように微動だにせず一点をぼんやりと見つめているのです。
5分経ち、10分経ち、テレビすら点いていない家の中は静寂に包まれていました。男性は首すら動かしません。
このとき人生で初めてお茶を淹れて出したのを覚えています。お茶を飲み、母が帰ってくる雰囲気もなく、とにかくそうやって納得してもらえれば帰るだろうと思ったのです。
それからどのぐらい経ったでしょうか。少し怖いですが何かあったら困るとずっと玄関に居ました。
「また今度。」
男性が不意に横を通り過ぎると玄関を出て行きました。一瞬のことに私は拍子抜けすると同時に全身の力が抜けていくのが分かりました。
そしてその直後のことです。母が帰ってきたのです。
「近所の人?約束なんてしていないんだけど。」
私は先ほどまで居た男性の話を母にし、とにかく覚えている特長を1つずつ並べていったのです。痩せてて。こんな服着て。こんな髪型で。頭は白かった。背が高かった。
どんなに説明をしても母はピンとこないようでした。やはり誰とも約束などしていないと。
そして私は思い出しました。玄関で横を通り過ぎた男性の最後の顔を。
「目が真っ赤だった。」
作者退会会員
はじめまして、初投稿です。
拙い文章ですが、よろしくおねがいします。
この話しの元になった出来事は、
私が小学校の3年生ごろ(9歳ぐらい?)の体験談がベースになっています。
改変してある箇所もありますが大筋ではこの通りのことが起きました。
怖い話ではありませんが実話に基づいたストーリーを楽しんで頂けたらと思います。
また直後の母との会話の中で、母は10~15分ほど家を空けただけだと言い、私は最初の応対から40分以上も男性を監視し続けたという、お互いに経過している時間に認識のズレが生まれていました。
後日談ではありませんが、この後もこの白髪の男性を見ていません。