俺の友人の3.11
これは、俺の友人の話だ。
最初に言っておくが、世の中には、遊び半分で行っちゃいけない場所があるって事を、よーく覚えておいてくれ。
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一年前。
俺は東北に旅行した。
一緒に行く友人は、「もっと楽しそうな所へ行こうぜ!」「TDRとか!」と希望を出したが、俺はどうしても東北の、「ある場所」へ行きたかった。
それは、
M県S市。
数年前の東日本大震災で、甚大な被害を被った土地だ。
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2011年。3月11日。午後2時46分。
マグニチュード9.0。震度6強~7の日本観測史上最大規模の大地震。
当時、ニュースを観続けた俺は、その非現実的な惨劇の映像に心底慄いた。
最初に観たニュースでは『犠牲者は数人』だった。
震源地から遠く離れた内陸の土地に住む俺は、「大変だなぁ」と呑気な感覚だった。
次に映されたのは、信じられない程の巨大な津波が家屋を根刮ぎ攫い、グチャグチャになった街の映像だった。
そして、『海岸で200~300人の遺体を発見』
更に、『W区A浜に1000体の遺体が打ち上げられる』
続く、石油コンビナート群の大炎上。
そして、H県原子力発電所の事故…。
死者15000人。行方不明者2500人。
その悲劇を忘れられる日本人は、皆無だろう。
あれから数年が経ったが、今だ震災の傷は癒えないと聞く。
震災当時、学生だった俺には、何も出来ることはなく、無力に、唯々、非現実的な、そしてそれが全て真実である凄惨な映像を見ていることしかできなかった。
しかし、その映像は俺の心に深く焼き付いていた…。
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それから数年が経過し、俺も職に就き、社会人となった。
就いた職は、福祉職だった。
俺は、困っている誰かに役に立てる仕事をしたかった。
その職業を選択したのは、少なからず震災の映像の影響があったように思う。
そして、学生の頃から少しは成長し、金銭的にも多少の余裕のできた俺は、一度、かの震災の犠牲になった土地を、直接自分の眼で見てみたいと思い立ち、友人と共に旅行をする計画を立てたのだ…。
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この旅行が俺にとって、決して物見遊山でも、犠牲者を軽んじるつもりでもない事を、覚えておいて欲しい。
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M県には、新幹線で行く予定だった。
本州内陸に住む俺と友人は、最寄りの駅から一旦、大宮駅まで行き、そこから新幹線はやぶさ25号に乗り換えて、二時間半。
俺と友人は、M県S市S駅に到着した。
S市の駅の周囲は、俺の地元に比べても圧倒的に栄えており、駅ビルが立ち並び、ショッピングモールも充実していた。
「腹減った」と喚く友人と共に早速、駅隣の食事処で早めの昼食を食べる。
頼んだメニューは、S市名産の牛タンである。
俺の地元にも牛タンを食わす店はあるが、その味や食感には圧倒的な差異を感じる。というか、比べものにならない。
空腹を満たした俺たちは、旅行鞄を駅のコインロッカーに預けると、小さなミニバッグだけの身軽な格好になった俺たちは、街のアーケード街を散策する。
海の近い土地だけあって、海産物を売る露店が目立つ。土産はここで買おう。
どの店の店員も明るく、店舗も充実しており、Apple Storeすらもある。田舎住まいの俺には羨ましい限りだ。
友人も「都会だなぁ」と感激している。牛タンが大変満足だったようだ。
暫しの市内の散策の後。
俺は、この土地に来た自分の目的を果たす為の行動を始める。
向かう場所は、震災の当時、何度となく映像に流れた、W区A浜。
平野部では世界最大級とされる高さ10mもの巨大津波の犠牲になり、壊滅的な被害を受けた地区である。
土地勘の無い俺は、まずその場所に向かう方法を探した。
スマフォのマップアプリを起動し、検索を始める。
GoogleMAPによれば…、街から歩いて…、二時間かぁ。うん、公共機関を使おう。
電車は…無し。タクシーは…高い。
さて、どうしたものか。
俺は、駅のガイドにW区A浜に行く手段を聞いた。
最初は怪訝な顔をされたが、俺のような旅行者は他にもいるのだろうか、気さくに説明をしてくれた。
どうやら、路線バスで行くのが良いようだ。
聞くところによると、この路線は間も無く廃線になるらしい。
俺と友人は、早速路線バスに乗り込み、目的地に向かう。
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街の賑わいに比べて、バスの中は閑散としていた。
乗っているのは、主婦や学生と思わしき地元の人ばかりが数人だけ。
その人数も、A浜駅に近くにつれ、徐々に減って行く。
廃線になるのも頷ける。
そのままバスに揺られて40分。
ついに乗客は俺たちだけだった。
そして、乗客の数に比例するかのように、街から遠のくにつれて、バスの窓に映る光景も変貌していった。
先程までの駅に周囲の栄え方がまるで嘘のように、
店が消え、
住宅が消え、
道歩く人が消え、
そして目的のA浜駅に着く頃には、
何も無くなっていた。
バスから降りた俺たちは、周囲を見渡す。
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あるには、バス停の標識と、乾いた灰色の道路と、見渡す限りに無造作に茂った雑草。
まさに、荒れ果てた大地。その言葉がしっくりくる場所だった。
かつては海水浴場だったという海岸までは距離があるらしく、海は見えない。
俺と友人を降ろした後、バスは街に戻っていった。当然、乗り込む乗客は、1人もいない。
俺は標識の時刻表を確認する。次にバスが来るのは、一時間後だった。
その一時間。俺たちはこの荒れ果てた場所に放り出された。
空は薄暗く、雨が降るのかもしれない。
俺と友人は、取り敢えず、海に向かって歩き出す。
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ひび割れたアスファルトではあるが、一応、道路はある。迷うことはなかった。
道路の脇には伸び放題の雑草の群れに紛れて、灰色のコンクリートが見えた。
何だろうか?
それは、家屋の、基礎の部分のコンクリートだった。
津波に攫われた家屋の残骸であり、かつての町の痕跡だ。
よく見れば、雑草に埋まるように、幾つもの家屋の残骸が見える。
今俺たちは見渡す限りに、破壊された家屋の群れに囲まれているのだ。
町一つが丸ごと海に攫われた結果だった。
それは、町一つが丸ごと、家屋ごと…その中に住まう多くの人間の命が奪われた事と同じである。
この場所で、一体いくつの命が消えていったのだろうか。
息が詰まりそうな気分だった。
墓石や墓跡などとは比べものにならない、現実的な犠牲の傷跡が、そこにあった。
再び歩き出す俺たち。
俺は肩に掛けた鞄の紐を強く
立て看板が見えた。
『A浜の再生を心から願う』と記されたその看板は、赤錆に塗れ、字も消えかかっている。
他にも幾つもの看板があった。
『被災者の怒り』『市行政は何をしている!』『迅速な復興を!』『お前達の建物を壊してやる』
生者の嘆きが、生々しく、刻まれている。
近くの小さな地蔵様には、誰が置いたか、ペットボトルに花が生けてあった。
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俺たちは歩を進める。
見覚えのある建物があった。
ニュースで何度も見た記憶がある。
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震災時の緊急避難先となった、A浜小学校だ。
今は廃校となり、遺構に指定されたと聞く。
震災の犠牲の象徴として。
目に映る全てが、悲しみの証だった。
他人の俺ですらそう感じるのだ。
仮に親族だったら、親しい者だったら、その気持ちはどれ程のものになるのだろうか。
早く、海が見たかった。この気分から早く解放されたかった。
息が、息が、詰まりそうだ。
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慰霊碑に到着した。
慰霊碑には、犠牲となった多くの人の名前が記されていた。
そこには、幼い子供の名前もあった。
年端もいかないこの幼子は、何を思って、海に飲まれたのか。
俺は、慰霊碑を前にして、犠牲者の冥福を祈りながら合掌する。
そして、その慰霊碑が、俺の旅の終点だった。
これ以上は、進めなかった。
本来なら、この場所から海が見渡せるのだろう。
だが、海は見えなかった。
海は、見渡す限りの壁に阻まれていた。
工事車両も何台か見える。
防波堤を建築しているのだろうが、それが壁の如く海の存在を遮っている。
あのコンクリートの白く高い壁は、再度の脅威から人を守るためにあるのか?
又は、不幸の根源を二度と見るものかと、視界から妨げる為のものか、
震災の爪痕は生々しく、この磯の香りは鉄か血か。
だが、その傷跡とは裏腹に、街の人は明るく前向きに溌剌と生きていた。
この場所で俺にできる事は、もう何もない。
俺の旅は、ここで終わりだ。
帰ろう。
そして、そこで、俺にできる事をしよう。誰かの役に立つ事をしよう。
その自分の思いを確認できただけで、この旅は、価値があったと思う。
さぁ、帰ろう。
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バス亭に向かって、もと来た道を歩く俺たち。
その時。
(チリ…ン…)
鈴のような音が聞こえた。
何だろうか?
俺は音のした方向に歩み出す。
雑草が、風に揺れている。
その揺れる草葉の陰の、家屋の残骸に隠れるように、「それ」は、あった。
ボロボロの、小さな髪飾りだった。
ピンク色のリボンと可愛らしい鈴が付いた、女の子が身に付けるような髪飾りだった。
俺は、その髪飾りを拾い上げる。
「なんだそれ? 汚ねぇな。髪飾りか? 記念品に持って帰ったらどうだ?」
そう友人が提案するが、俺は、
「おいおい、罰当たりだよ。そのままにしておこう。」
と言って、髪飾りを元あった場所に戻す。
「…そっか。勿体無いなぁ。」
…何が勿体無いんだか…。
「他にもなんかねぇかな?」
そう言って、友人は髪飾りのあった場所で何やらゴソゴソとし始める。
「なぁ。早く行こうぜ。ちょうどバスも来る頃だしさ。」
先を行く俺は、友人に声をかけた。
「わかったよ。すぐ行く。」
バス停に戻った俺と友人の二人は、相変わらず誰一人乗っていないバスに乗り込み、S市内に戻る。
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バスに揺られる最中。
俺は、奇妙な疲れを感じていた。
肩や首が、妙に重い。
肩こりとはまた違う感覚だった。
荷物は鞄だけで、大した重さも無い筈だ。
慣れない土地での散策に疲れているのだろうか。
隣に座る友人も、寝息を立てている。
きっと、ただの疲労だろう。
ホテルで寝れば、きっと治るはずだ。
友人の寝息につられるように俺も睡魔に包まれる。
その時。なんとなく視線を感じて、俺は何気なく背後を振り向いた。
そこには、
一人の乗客がいた。
女の子だ。
赤い、ワンピースの。
はて? いつの間に乗車したのだろうか?
俺たち以外には乗客はおらず、途中で停車した様子もなかった様に思ったが…。
…気のせいだろう。
今夜はホテルのレストランで、海の幸尽くしの予定だ。S市は酒も美味いと聞く。
楽しみだ。
そう思いながら、俺は鞄を抱えたままの姿勢で、眠りにつく。
(チリ…ン…)
鈴の音が、聞こえた様な、気がした…。
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翌日。
俺たちは、地元に戻った。
…。
もう一度、言っておく。
この旅行は、俺にとって、決して物見遊山気分でも、犠牲者を軽んじるつもりでもなかったって事を。
死者を冒涜する気など、全く、皆無だった事を。
俺なりに、真剣な理由だった。
しかし残念ながら、きっかけはこの旅行だった事は、間違いないのだ…。
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「ただいま~。」
と言っても、一人暮らしの俺宅からの返事はない。
家に帰った俺は、一息ついた後、荷物の整理を始める。
えっと…、
会社への土産だろ、
歯ブラシとかの旅行道具だろ、
携帯の充電器だろ、
iPod…、pocketWi-Fiだろ、
…。
おや?
鞄のポケットに、見覚えの無いものが入っていた。
なんだろうか?
俺は「それ」に触れてみる。
(チリ…ン…)
小さな、小さな、鈴の音が聞こえた。
聞き覚えのある音だった。
ま、さか…。
俺は「それ」に、見覚えがあった。
そう、それは、
あの、震災の場所で見た、
あの、髪飾りだ。
ピンク色のリボン。小さな鈴。
間違いようがなかった。
あの場所で見た時に比べて、更にボロボロになっているように見えるが、確かにあの髪飾りだった。
なんで?
あの時、確かに俺は、戻したはずだ。
持って帰って来るはずがない!
なんで?
なんで?
なんで?
その時。
背筋が、ぞわりとした。
一瞬、体が震えた。
(チリ…ン…)
俺は、何気なく、顔を上げた。
視線を感じた、気がした。
俺以外の誰かが部屋の中にいる感覚がした。
吐息が聞こえる訳ではない。
他人の熱を感じる訳ではない。
だが、視線を、感じた俺は、反射的に、しかしゆっくりと、顔を上げ、正面を見た。
信じられない光景がそこにあった。
部屋の壁の、家具と家具の間に、「それ」はいた。
(チリ…ン…)
その光景は、異常そのものだった。
多分、身長は1mぐらいだろうか、
それは、小さな、赤い服を着た、女の子だった。
だが、その長い髪は水気を吸ったように重く垂れ下がっており、暖簾のように目元を隠している。
見に纏う真っ赤なワンピースも水に漬けたかのようにずぶ濡れであり、酷く汚れている。
袖から覗く腕は真っ白であり、一目で生きた人間ではない事がわかる。
(チリ…ン…)
潮の香りのような、鉄の匂いのような、
生臭い匂いがした。
濡れた少女が、小さな口を開いた。
何かを喋ろうとしていた。
「 」
「 」
「 」
ゴボリ
だが、その小さな穴から聞こえる音は声ではなく、古い排水溝の穴から放たれるような、不快な水の音だった。
当の俺はというと、
なんで?
なんで?
なんで?
最初は、疑問視が頭を支配し動けなかった。
次に俺を支配した感情は、恐怖である。
恐怖で体が動かなかった。
長い間、いや、きっと数秒だったのだろうが、俺にとっては長い時間、俺は少女を凝視していた。
息を吸えない。
唾を飲み込めない。
喉がヒリヒリと乾く。
目の奥が熱い。
早く、早く、一回だけでいいから、瞬きをしろ。
俺は全神経を使って、目を瞑ろうと努力する。
なんとか、なんとか長い時間をかけて、俺は両目を瞑った。
あらん限りの力を使って、俺は眼を閉じ続け、そして、ゆっくりと、その目を開けた時…、
少女は消えていた。
心臓がバクバクする。
呼吸がままならない。
百メートルを全力疾走した後に感じる疲労よりも辛い疲れが全身を支配する。
なんだ、あれは?
なんだったんだ、あれは?
落ちつけ。冷静になれ。
…あの女の子は、誰だ?
生きた人間の雰囲気は、まるでしなかった。
では、あれは、…幽霊?
なぜ、幽霊が、俺のもとに?
…。
まさか…、
俺は、目線を下に向けて、鞄の中にある髪飾りを凝視する。
数多くの犠牲者が眠る被災地にあった、髪飾り。
女物の、いや、女の子が身に付けるような物。
もし、これが、震災や津波の犠牲になった人物の物だとしたら…。
そして俺は、その髪飾りを持ち帰ってきてしまったのだ。
まさか、まさか、
俺は、
被災地で犠牲になった女の子の、幽霊を、
「連れて帰って」きて、しまったのか?
そんな、馬鹿な…。
呆然とする俺の視線の先の、あの少女がいた場所は、潮臭い液体で湿っていた。
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旅行から戻って、1ヶ月が過ぎた。
その間。俺は怪異に悩まされ続けていた。
例の少女の例は、鈴の音とともに、あれから幾度も俺の目の前に現れた。
(チ…リン…)
会社の帰り道、車の中で後部座席に冷たい気配を感じた。振り返ると、びしょ濡れの女の子が座っていた。
危うく事故を起こす所だった。
(チ…リン…)
会社の夜勤中。巡視をしていると、居室の片隅で動く影があった。膝を抱えた少女が蹲っていた
俺の悲鳴に驚いた他の夜勤者の笑ものになってしまった。
(チ…リン…)
駅の電車を待っている時、向かいのホームに少女はいた。サラリーマンと学生の間の隙間のポツンと佇んでいた。近くの人間は全く少女に気付いていない。
少女は、いつの間にやら現れて、いつの間にやら消えていく。
少女の幽霊が、俺に何か直接危害を加えるわけではない。
ただ、簾のような前髪の間から覗くギョロリとした目で、俺を凝視し続ける。
そして、最初に現れた時と同じく、その小さな口を開いて、ゆっくりと、何かを囁く。
しかし声は聞こえない。ゴボゴボと液体の詰まった音をさせるだけだった。
何度となく現れる少女の幽霊を見て、俺はついに、したくもない確信に至る。
俺は、あの少女の幽霊に、取り憑かれているのだ、と。
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少女の霊が見え始めたと同じ頃から、
俺は毎晩、酷い悪夢を見るようになった。
それは、深く暗い海の底で独り溺れ死ぬ夢だった。
海水が鼻と口を覆い尽くし、息ができない。
肺の奥深くに水が入り込み、胸が焼けるように熱い。
空気を、吸いたい。
息を、したい。
誰か、助けて。
その感覚が、夢を見ている限り、ずっと続くのだ。
そして夢から覚めた時。決まって俺の全身は、生温い汗でびっしょりに濡れている。
最近は悪夢を見るのが嫌で、眠るのが怖い。
眠りたくない。
これは、何かの呪いなのか…。
.
少女の霊と、続く悪夢の影響で、俺は日に日に衰弱していった。
身体的にも精神的にも追い詰められ、仕事も休みがちになっていった。
なんで、俺が、こんな目に合わねばならないんだ!
疲れ果て、回らない思考のまま、俺は考えを巡らす。
そうだ、全部、あの少女の幽霊が悪いんだ!
あの、悪霊のせいだ!
俺の精神は、日増しに荒んでいった。
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ある夜。
俺は家の中で、ぼんやりとしながら座椅子に身を預けていた。
何をするでもない。ただただ、疲れていた。
その時である。
(チ…リン…)
あの音が、聞こえた。
つまり、少女の霊が…あの悪霊が、現れたのだ。
その音を耳にした時、俺の心中に浮かんだ感情は、恐怖ではなかった。
強烈な、怒りだった。
俺は鈴の音がした方へ向かう。
そこは浴室だった。
浴室の浴槽の中には、数週間前に入れた湯が掃除もせずに溜まったままになっている。
垢の浮くカビ臭い腐った水の匂いが鼻を突く。
悪霊は、浴槽の横に立ち竦んだまま、ブツブツと何かを囁いている。
しかし、相変わらずその喉からは、ゴボゴボとした音しか聞こえない。
…お前のせいだ。
俺は怒りに駆られたまま、悪霊の小さな首を掴んだ。
冷静になれば、幽霊を掴むなんて発想は無かっただろう。
しかし、怒りに任せて混乱していた俺は、悪霊の首根っこを押さえた。
正直、掴めるとは思っていなかった。
もしかしたらそれはただの幻覚だったのかもしれない。
しかしその時の俺は、そんな些細な事はどうでもよかった。
無我夢中だった俺は、そのまま悪霊の体を汚水の入った浴槽に叩き込んだ。
そして、その小さな首を締め上げながら、汚水の中に悪霊を押し込み続ける。
あろうことか、俺は悪霊を溺れさせようとしていたのだ。
まるで、俺が見た悪夢を再現させるかのように。
悪霊は抵抗なく汚水に浸かり続けた。
しかし、その瞳は水中から俺を見続け、その口からはゴボゴボと音が聞こえる。
早く! 消えろ!
俺はありったけの力を込めて、汚水に悪霊を沈め続けた。
そして、数分後。いや、数秒の後か。
悪霊は、その姿をフッ消した。
浴室に残されたのは、汚水に塗れた俺一人。
悪霊は、俺の手で消え去ったのだ。
ざまあみろ。
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その晩。
俺は、夢を見た。
いつも見る悪夢ではなかった。
その夢の中で、わたしは家にいた。
俺は、わたしになっていた。
パパもママも家にいたけど、いそがしそうだった。
パパがおしごとからはやく帰ってきてくれたのは嬉しいけど、
ちょっときょうのパパはこわい。
「おかえりなさい」って言えなかった。
さっき、おうちがたくさんぐらぐらしてたけど、そのせいかな?
あ、もうすぐおやつの時間だ。
ママのつくったおやつ、とってもおいしんだよ。
でもちゃんといただきます言わないと、ママおこるんだ。
ん?
なんか、音がきこえる。
めざまし時計みたいな音だ。
ちょっとこわいな。
あ、パパ、ママ、どうしたの、あわてて
そのとき、変な音がきこえたの。
なんだろう。
おふろの栓をぬいたあとの、さいごにお湯が吸いこまれるときみたいな音をもっともっとおおきくしてごうごうとしたみたいな、
その時、
壁が砕けた。
同時に、俺が戻ってきた。少女の感じるリアルな感覚に俺は共感していた。
それは、あっという間の出来事だった。
気が付いた時には全てが手遅れだった。
気付いた時には、私の体は、俺の体は、壁に叩きつけられていた。
全身の骨が砕けた、内臓が破裂した。
そのまま私は、俺は、波に攫われた。
瓦礫が俺の全身を打ち砕く。
うねる水が俺の身体をネジ切る。
重たく黒い海が、俺の体を押し潰す。
そして、俺は、海の底に、引き摺り込まれた。
パパの姿も、ママの声も、聞こえない。
…。
もう一度、パパとママに会いたい。
パパにお帰りなさいって言いたい。
ママにいただきますって言いたい。
パパ…
ママ…
…。
…。
…。
夢から目が覚めた時。
寝床に横になったまま、俺は一つ、深く息を吸った。
そして、今見た夢の内容を、もう一度脳裏にに思い描く。
同時に、浴槽の汚水に沈めた、悪霊を、小さな女の子の姿を、心に思い出す。
その二つが合わさった時。
「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
俺は叫んだ。
俺は、
俺は、なんてことをしてしまったんだ!
あの少女の幽霊は、何度も俺の目の前に現れた。
だが、少女が俺に何をする訳ではなかった。
ただ、寂しそうな瞳で俺を見ているだけだった。
当然だ。あの少女は、怪談で語られるような怨霊なんかじゃない。
少女が囁き続けていた言葉は、
「おかえりなさい」そして、「いただきます」。
それは、震災で家を喪い、家族を喪い、自分の命すらも喪い、暗く深い海の底で一人孤独に沈む少女が家族を思って囁く、日常の言葉だった。
あの少女は、不幸にも震災に巻き込まれ、その幼い命を奪われた、ただの可哀想な少女なのだ。
そして、俺は、その少女の眠りを、ただのくだらない自分の好奇心で余計な干渉をしてしまい、あまつさえ、彼女の遺品を持ち帰ってきてしまったのだ。
俺は呪われて当然だったんだ。
そう、
本当に俺が慄かなけれならないのは、自分の浅はかな行為で、あの場所で静かに眠っていたはずの死者を冒涜してしまった、己の罪になのだ。
ああ、神様、どうか、許して下さい。
俺は決して、震災の犠牲者を冒涜したのではないんです。
どうか、この少女を、もう一度、安らかに眠らせてあげて下さい。
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俺はいったいどうすればいのか。
ことの始まりは明らかだ。
俺が、あの場所へ行ったこと。
そして、あの髪飾りを持ち帰ってしまったことだ。
あの髪飾りはきっと、あの少女のものなのだろう。
困り果てた俺は、一緒に旅行に行った友人に相談をしてみることにした。
俺は旅行後に起きている事態をなるべく詳しく友人に話して聞かせた。
友人は、「そりゃ、困ったな」と感想を洩らす。
「どうすればいいと思う?」
俺は藁にもすがる思いで友人に聞く。
「うーん、そりゃ、その、髪飾りだっけか。それを元の場所に戻す事じゃないか?」
…確かに。事の発端は例の髪飾りを持ち帰ってきてしまったことなのだ。
ならば、それを元の場所に戻せば、少女は再びあの場所に帰れるかもしれない。
俺は、友人の提案の通り、もう一度、M県S市W区A浜に行く事を決めた。
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再び俺は、新幹線を乗り継ぎ、S市に向かう。
会社には有給を貰った。理由は言えなかった。
ここ最近は休みがちだったので、帰ってきたら解雇されるかもしれない。
しかし、行かねばならない。
俺の罪滅ぼしの為に。
そして、俺の罪悪感の払拭の為に。
.
再びM県S市の土地に到着した。
しかし、今度は観光ではない。目的を果たしに来ただけだ。
S市は酷い嵐だった。
横殴りの雨が体を叩き、傘は役に立たないどころか吹き飛ばされた。
俺は、再び一時間に一回の路線バスに乗り込み、S区A浜へ向かう。
バスの中は以前来た時よりも更に閑散としていた。
乗客は俺一人。
雨音に掻き消されそうなエンジン音と駅名を告げる放送以外は、何一つ聞こえない。
いや。
(チ…リン…)
あの音がした。
俺は後ろを振り向く。
後部座席に、あの少女はいた。
少女は一人寂しそうにポツンと、濡れた体のままで席に腰掛けている。
もう少しだ。
もう少しの辛抱だよ。
俺は、自分と、そして、少女に語りかける。
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A浜駅に到着した。
相変わらず、降りる客は俺一人。
バスは無人のまま、街に帰っていく。
嵐は止まない。
俺は駅のコンビニで買ったレインコートに身を包み、目的の場所に向かう。
だが、容易には辿り着けなかった。
嵐はその激しさを増し、視界も遮られ、土地勘もなく、広陵とした景色の中には目印になるようなものもなく、俺は目的の家屋跡を探し、何度も往復することになった。
そしてやっと、俺は、目的の場所…髪飾りを拾った家屋跡に辿り着いた。
全身ずぶ濡れ。疲労は限界に来ていた。
だが、やっと、辿り着いたのだ。
これでやっと、俺は解放される。
俺は髪飾りを、元あった家屋の瓦礫の中、草の陰に戻し、合掌する。
終わった。そう思った。
しかしその時。
俺の視界に、信じられないものが飛び込んできた。
…それは、一つの落書きだった。
家屋の瓦礫に、その落書きは、刻まれていた。
『俺、参上ww』
拙い字で、その言葉はコンクリートに刻まれていた。
不幸にも震災に巻き込まれ、町ごと津波に飲まれ、多くの命を喪った、その場所の災禍の証明である家屋の跡の瓦礫の壁に、
その文章は、刻まれていた。
一体なんだこれは…
誰が、こんな罰当たりな言葉を、ここに刻んだんだ?
以前来た時には、こんな落書きはなかった。
少なくとも、俺が見ていた時には、無かった。
一体、いつ、誰が、この落書きを刻んだんだ?
俺は、ふと、足元の髪飾りに目を向ける。
最初に見た時に比べて、髪飾りは傷だらけだった。
まるで削り取られたみたいな傷だった。
…その傷は例えるなら、無理矢理にコンクリートに当ててガリガリと削ったようだった。
その時である。
俺は、気付いた。気が付いてしまった。
嵐の暗闇の中、草葉の陰に、数え切れないほどの人影が見える事に。
なんだ、あれは?
その瞬間。
俺の耳元に生温い風がゆっくりと吹いた。
そして、
声が、聞こえた、耳の
すぐ、横で。
「お ま え か」
「お ま え か」
「お ま え か」
「おまえかおまえかおまえかおまえかおまえかおまえかおまえかおまえかおまえかおまえかおままっままっまぁまえかかっかかっかおまえええかかかぁかおまえかこおまえかっかかかかかかかっかかぁ」
嵐の音とともに叫び声にも似た幾多の数え切れない数の声が、鳴り響いた。
しかし俺の悲鳴は、嵐に掻き消された。
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帰りのバスの中。
俺は後ろを振り向けなかった。
解っていた。
乗客は俺独りだ。
だが、俺は知っている。気付いている。
俺の後方の席には、全身をずぶ濡れにした数えきれないほどの人数の人間が、狭いバスに中で手足を絡ませながら犇めき合うように乗っている事に。
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これが、俺の友人が体験した話だ。
結局、体調は戻らず、会社もクビになったそうだ。
あいつ、もう一度S市に行くらしい。
そういえば、あいつ、言ってたっけな。
「今度は帰って来れないかもな」って。
まぁ、頑張れって感じだ。
…。
ああ、そうそう。これはあいつには内緒なんだけどさ、
俺、あの髪飾り、こっそり拾って、あいつの鞄に入れといたんだ。
落書きしたのも俺。髪飾り使って。ガリガリって。
記念に、な。
いや〜、あいつには、ちょっと悪いことしちゃったかなw
.
了
作者スノウホワイト
はじめまして。
写真は全て、私が撮影しました。