30年ほど前に他界した母方の祖父がまだ生きていた頃に聞いた話だから、ずいぶん古い話だ。当時
は私はまだ大学生だった。夏休みを利用して里に帰り、ついでに母の実家に遊びに行ったときのことで
ある。そこは久住連山南東に位置しており、九州の夏でもエアコンなどを使う必要のない高原地帯であ
る。旧小国街道が笹川というところで川と交わる、その橋に隣接して母の実家は建っている。川は久住
の山々から流れ落ちる清流である。家からこの川に行くにはかなり急な場所を下って10メートルほど
降りていかなければならなかったが、近辺の人達は、この川を利用して果物や野菜を冷やしたりしてい
たものだ。大家族のこの家でも、この日は一抱えもあるスイカを数個、清流の流れが緩くなった場所に
網に入れて放り込んでいた。大型冷蔵庫にも入りきれないスイカも、川の流れによって丸ごと冷やせ
る。
川から引き上げてきたこのスイカを切り分けてもらい、祖母たちと一緒に食べていたときのこと。夕食
後のデザートの時間と言ったところだったが、団らんの時を台無しにするように、タイヤを鳴らし方向転
換した車が急ブレーキを掛けながら家の横に停まった。居間にいた8名ほどの家族親戚全員が何事だ
ろうと顔を上げると、道に面した正面玄関の引き戸が騒々しく開け放たれて、祖父と従兄弟が家の中に
飛び込んできたのだ。
祖父は用事のために竹田の町まで、従兄弟が運転する車で出かけていたのである。
「どうしたんね」
いつどんなときも慌てることを知らない祖母が、2人が血相を変えているのにもかかわらず、いつもの
ようにのんびりした口調で訪ねた。
「スイカならまだたくさんあるのに」
その言葉を聞いて全員が肩すかしを食ったような顔をしたが、祖母に突っ込みを入れることなどは祖
父以外はできないので黙っていた。しかし、祖父はその一言で逆に何とか落ち着きを取り戻したのだろ
う。やっと言葉を発する事ができた。
「水・水をくれ」
従兄弟が自分にもくれというように祖父の横で激しく首を縦に振っている。この家では、蛇口をひねる
と、ポンプでくみ上げた井戸の冷水が出てくるようにしている。祖母から渡されたコップの井戸水を、2
人は息も継がずに飲み干して、そのままそこにへたり込むように座った。以下は祖父の運転手をしてい
た従兄弟から主に聞いた話である。
彼は竹田で用事を済ませた祖父を乗せて、日が暮れてしまった旧小国街道を家へと急いだ。その当
時はまだ未舗装の部分も多い道である。未舗装の砂利道にかかるたびに車の速度を緩めて、また舗
装道路にかかるとスピードを上げるという運転を繰り返しながら、家路の半分の行程まで来たところで
西宮神社の前の未舗装道路にさしかかった。従兄弟は再度速度を緩めて神社の鳥居前を通り過ごし
た。そしてしばらく走り舗装道路が見えてくる手前で、白い影を見かけてアクセルを踏む力を思わず緩
めた。よく見ると若い女性のようである。ゆったりとした白いワンピースを着ていて、道端でこちらに手を
振っているようだ。当時は、車の性能も悪いものが多く、特に未舗装道路ではよくエンジントラブルを起
こした。この女性もそんな不幸に見舞われた1人だろうと、従兄弟は思ったのだという。美人ならうれし
いなと、当時まだ独身だった彼は最初に思ったが、どうもその女の様子がおかしい。確かにこちらに手
を振っているのだが、なぜか視線はこちらではなく道の向かい側に据えている。彼女は道の右側に立っ
ていて、横断歩道を渡る人のようにまっすぐ道の反対側を見ているため、車の運転手から見れば彼女
の左半身しか見えないことになる。
「敏明、停めるな」
昔気質だが温厚な祖父が、そのときは厳しい口調で従兄弟の名を呼び命令した。
「ええ、でも、じいちゃん」
反論しかけた従兄弟は、すぐに口を閉ざしたという。その女に近づくにしたがって、その姿の異様さに
気がついたからだ。白のワンピースのスカート部分にある模様だと思ったものは、どうやら血がはねて
いるものらしい。ヘッドライトに照らされてその部分が赤黒く光っている。左足は完全だが、どう見ても右
足の膝から下の部分が見えない。おまけに見える方の左足は裸足である。そして、相変わらず左半身
だけをこちらに見せて、手を振っている。それも右手を振るのではなく、こちらに手の甲を見せながら、
左手を緩く円を描くように振っている。従兄弟の敏明は、不気味さのあまり鳥肌が立ったという。車を女
とできるだけ離れた道の左側に寄せるようにしながら、その横を通り過ぎようとした。
まさに車が女の立つ場所にさしかかった瞬間、何の予備動作もなく女が車の前に出てきた。確かに数
メートルは離れたところにいたはずの女が、次の瞬間目の前に立っていたと彼は言う。敏明は叫びなが
ら床を踏み抜くような勢いでブレーキを踏んだ。しかし、未舗装の砂利の上をタイヤはロックしながらす
べり、女の居たところを通り過ぎてしまった。
「やっちまった、人をはねてしまった」
従兄弟は絶望的な思いで運転席から出ようとドアに手を掛けたその瞬間、はねたはずの女が車の横
に立っていて、運転席の窓から敏明をのぞき込むようにしていた。その女の顔を見て祖父と敏明は絶
叫したという。巨大な臼で挽いたかのように女の右半身はずたずたにつぶされており、顔も右側が半分
ほとんどなくなるくらいにつぶれていたのである。
女の顔を見た瞬間、敏明は床を踏み抜く勢いで今度はアクセルを踏み込んだ。当時の車の主流だっ
た後輪駆動を持つそのクーペは、テールを左右に振りながら盛大に砂塵を挙げて発車した。そして、そ
れから後はどうやって帰り着いたか2人とも覚えてない。
祖父の弟、私の大叔父は比叡山延暦寺で僧侶となっている。有徳の高僧として知られていると聞い
ている。ずいぶん忙しいはずなのだが、祖父の電話を受けた次の日に竹田までやってきた。この大叔
父は祖父とともに、白い女の幽霊が出た場所に出かけ供養をした。そのときは大叔父だけに、その女
の姿が見えたらしい。大叔父はどういう伝だったのか、その女の素性もつかんでいた。西宮神社前で起
きた数年前の交通事故で、川砂利を運搬する大型トラックにはねられて命を落とした22才の女性がい
た。その人は体の右側をトラックに踏みつぶされてしまって即死だったらしい。トラックの運転手は、ず
いぶんと酒に酔っていたらしく、気がつかなかったと主張していた。今は交通刑務所にいると言うことだ
が、被害者は浮かばれなかったのであろう。数ヶ月後に結婚を控えていて、何とか家に帰りたいと車を
停めていたのではないかという。
「哀れな魂じゃのう」
大叔父は涙とともに語った。
「わしは彼女に事実を教えて、ともに泣いただけじゃ」この世に迷って出てくる魂の供養などはわしに
はできんと、宗教界ではその名を知らぬものはない有徳の高僧は吐き捨てるように語った。
作者ジンテン