今は無き夜行列車。JR時刻表を見れば定期夜行特急は東海道筋の「サンライズ瀬戸.出雲」のみなったしまった。筆者が子供の頃はブルートレインを始め夜行急行、古びた客車を使った鈍行夜行など津々浦々日本全国を駆け抜けていった。当然、丑三つ時を疾走する夜行列車にも怪談話が数多くある。怪談に遭遇する運転士や機関士、車掌、車内を巡回する鉄道公安官といった人達だ。もちろん乗客もだ。
国鉄時代にお化けに遭遇したウテシの話
それは昭和48年の山陽本線で起きた話、ご存知山陽本線は山陽新幹線博多開業前で特急急行など昼夜を問わずひっきりなしに走り、「特急街道」と揶揄されていた時代だ。上り新大阪行きの寝台特急「明星7号」に乗務する運転士斎藤一夫が下関運転所で点呼を受けた。
「上り特急明星7号に乗務する斎藤です。時計整合よし‼ 体調不良なし‼」
点呼係が
「これからの乗務ご苦労さん。ええと埴生~厚狭間で保線作業の為、徐行35キロ区間がありますので十分注意して下さい。それでは事故の無いように気をつけて乗務して下さい以上‼」
斎藤運転士は徳山までの乗務だ。西鹿児島から終点の新大阪までは10人の運転士が交代交代でマスコンを握る。運転士の七つ道具の入った鞄と運転時刻表、懐中時計、ブレーキハンドルを運転所事務室を出て下関駅8番ホームに向かう。その前に事務室休憩所でタバコを一服すると同僚の小川が
「小野田駅気をつけて下さい。出るよそこ」
「何が……」
小川がからかうように
「お化けですよお化け……小野田駅に女子中学生のお化けが出るんですよ」
「俺は信じないね。第一この現代の世の中にお化けなんかいるもんか」
「何人の夜行乗務のウテシが出くわして、翌日寝込んだ奴がいっぱいいるし、まあ気をつけたほういいよ」
斎藤運転士はその話を信じず、下関駅に向かった。
下関駅ホームは深夜1時半を回っていた。ホームには当然客はおらず、この特急列車は乗降を扱わない運転停車で前の運転士のバトンを引き継ぐ。1時40分に三灯のヘッドライトを灯し関門トンネルを抜け本州に上陸した明星7号が8番ホームに入線した。この列車は583系の交直流特急電車で世界初の座席兼寝台列車なのだ。昼間は座席特急として夜は寝台特急として昼夜稼働するのだ。朝着いたら寝台を片づけ北陸線の雷鳥として昼の仕事をするのだ。盆や正月の繁盛期は5両を座席指定席で対応し輸送力をアップする事が出来るのも特徴だ。電車なので関門名物の機関車付け替えの必要もなく。運転士の交代だけですぐ出発する。
九州を乗務してきた南福岡電車区のウテシと交代し、懐中時計を所定の場所に付け、時刻表を差し、ブレーキハンドルを取り付けるとブレーキテストを行う。計器類に異常がなければATSを解除して出発信号が青になれば定時の1時45分に下関を出発した。
ブルートレインと言われる客車列車と違って出発の時のショックがなくスムーズに発進する。機関車の下手くそ機関士の場合はショックが激しく車掌に文句を言う乗客もいるくらいだ。5分ほどで闇夜を照らす大きな水銀灯が貨物列車を照している。幡生操車場を通過し山陰線の分岐点幡生駅に差し掛かると
「場内50 幡生通過1時50分」
斎藤運転士が元気よく指差すると辺は闇夜の中ヘッドライトが線路照らす。運転席は斎藤運転士一人だけで緊張した空気が張り詰めていた。
一時間後の2時55分頃特急明星号は100キロのスピードで小野田駅に差し掛かるとたん人影が列車に向かって飛び込んできた
「ああ危ない!!」
斎藤は急ブレーキを掛けて小野田を500メートル過ぎて止まった。車掌の車内電話から
「ウテシさん、どうしましたか?」
「どうやら人みたいものが飛び込んで来ましたので、車外を点検しますので異常あれば警察や運転本部連絡オナシャス」
斎藤運転士はクハネ581の乗務員ドアから線路を降り懐中電灯を照してながら辺を調べたが異常は見当たらなかったので列車に戻って車掌に
「カレチさん‼ どうやら異常なかったですね。そのまま運転続行します‼」
「お疲れ様でした‼」
斎藤運転士が運転席に腰掛けると運転席の床が生温く魚の腐った臭いが立ち込めた。感じた斎藤運転士はおそるおそる下を見ると
「うわああああっ‼」
何と三つ編をした血まみれ紺色のセーラー服で下半身が轢きちがれ内臓が垂れ下がった女子中学生が運転士を怨めしい目で睨んでいた。斎藤運転士に向かって這うように近づき
「あたし 轢いたのあんたなの……」
車内電話の叫び声で車掌が運転席に入るとその中学生はいなくなり
「運転士さん、今の何ですか?」
斎藤運転士は気を取り戻し
「いや、何でもない……」
車掌に言ったところで信じてはもらえかった。
午前3時半には徳山で運転停車し次の広島運転所のウテシに無事交代した。徳山で休憩して乗務の事がよぎり眠れなかった。眠りについたら金縛りになり、例の小野田の女子中学生が睡眠中の斎藤運転士にまとわりつき、腸を引き摺る音が不気味に聞こえた。思わず
「南無阿彌陀仏 南無阿彌陀仏」
と唱えたら中学生は消え、夜が明けていた。憔悴しきった斎藤運転士は徳山から帰りの急行列車で下関に戻り点呼を受けた。憔悴しきった斎藤運転士を見た霊感の強い同僚が斎藤と一緒に下関市内の寺に行き除霊御祓をしてもらった。お寺の住職によると
「この仏さんね、自殺だわ。この女の子は可哀相に小さい頃に母を亡くして継母に相当いじめられていたわ、当日何か知らんが継母に相当な仕打をされ発作的に小野田駅から列車に身を投げてしまった……」
斎藤運転士は数ヵ月後に国鉄を退職した。
作者大坂忠晴