これは10年ほど前、バンドのギター兼ボーカルを担当している女が、1週間後に開催されるイベントの自主練としてバイト終わりにカラオケへ向かおうとした時の話。
女がバイト帰りに行きつけのカラオケへ向かう途中、いつも通る不気味な建物がある。そこはもともと社員寮として使われていたところだったらしいが、今ではその会社が倒産したのか、誰もそこには住んでいなかった。
いつも通り気味が悪いと思いながら小走りでそこを通り過ぎようとした時、例の寮のベランダの5階に人影が見えた。時刻は夜9時を過ぎていて、辺りには申し訳程度の街灯が2つ建っているだけ。ぼんやりとした暗さの中、女は目を凝らしてそのベランダを観察してみた。
やはり人がいる。それもスーツを着ている若い男。
こんな時間に廃れた社員寮にいる不気味な男なんて碌なモノじゃない。女はそう思い恐怖で強張った脚をなんとか動かしその場所から離れようとした。
その時、後ろでグチっという音がした。女は驚いて後ろを振り向くと、さっきまで五階にいたはずの男がこっちを見て座っていた。座っていたというよりは、起き上がろうとして膝を曲げていたという方が正しい。男との距離は15メートルほどだったが、その距離からでも分かる。男の関節は本来曲がるべき方の逆向きに曲がり、男の首は異様な程横に傾いていた。
女は本能的に脚を止めてその男と目を合わせてしまった。恐怖で体を動かすことができなかった。
男は暫く膝を曲げたまま這いずり回っていたが、遂に起き上がり、女の方へ歩き出した。その目は見開かれ女の方を真っ直ぐに見据えていた。
女はようやく強張った脚を前に出し走り出した。息ができないほどの恐怖の中、とにかく人の多い場所へ逃げようと走り続けた。
必死に走り女はようやく人通りの多い場所に出た。後ろを振り返ってももう例の男はいなかった。女は未だに震えながらも一安心し、目的のカラオケまで歩いて行った。
カラオケの個室に入り一息ついていると店員が中に入ってきた。店員は女の前に水の入ったコップを2つ置いた。女がその店員に1人しかいないことを伝えると、店員は首を傾げた。
「いえ、そんな不思議そうな顔をされても私は1人でここに来ましたよ」
女が怪訝な顔で店員を見た。店員は一度首を振った。
「いえ、不思議とかじゃなくて、御一緒に入店されましたよね?確かこんな感じの男性と」
店員は再び首を傾げた。
作者なゆ