これは、まだ僕が独り身だった頃のお話です。
当時付き合っていた彼女の住まいに近付こうと、実家を出て独り暮らしをしていた僕に、母親から突然連絡が入りました。
「お父さんの仕事の関係で、福岡に転勤することになったの。で、悪いんだけど、実家に帰ってきてくれないかな?」
彼女との関係が一番大事に感じられていた時期だったのもあり、僕はその申し出を拒否しました。
しかし、実家では雄ネコを一匹飼っており、転勤先にはネコを連れていくことが出来ず、大変困ったと母親から泣き付かれてしまったのです。
そのネコは、数年前に拾われてきたネコでした。
丁度その数ヵ月前に約20年飼ってきたネコが老衰で亡くなり、母親は「もう生き物は飼いたくない」と漏らしていた上に、そのネコが家に連れてこられた段階で近所の動物病院で「もしかするとネコエイズに感染しているのかも知れない。長生きは出来ないと思う」と医師から言われてしまったのもあって、母親はそのネコを飼うことに後ろ向きでした。
しかし、僕が抱くとそのネコはまるで初めて温もりを感じたかのように僕を見つめながら胸に顔を埋めて来たのを見て情が宿り、嫌がる母親に「もし長生き出来ないとしても、最後に人の温もりを与えてあげたい」と伝え、家族で泣きながら飼うことを決めた経緯があったのです。
まぁ、医師がヤブだったのか、幸か不幸かみるみる元気になって、この頃にはそんなエピソードがあったことなど忘れかけていたのですが。
うちに来ることが確定すると、母は僕に名付けを任せてくれました。
おでこの模様が『A』と見えたので『エース』と名付け、呼んでみると嬉しそうに返事をしてくれたと覚えています。
面白いものでこのネコは僕にとても懐いていました。
ネコを飼ったことのある人は知っていると思いますが、ネコと言うものは大体毎日餌をくれる人物に一番懐きます。多分それが生き延びる術だと知っているのでしょう。
しかし、まるで自分を引き留めてくれたのが僕であることを認識しているかのように、僕が家にいるときは僕のところにだけくっついて歩き、毎日餌を与えている母親は不満をもらしていました。
また、この頃実家を空けていたにも関わらず、実家に帰ると当たり前のように僕の側から離れなかったので、僕のなかでもエースは実の弟のように可愛く思っていました。
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しかしながら、恋人と弟なら恋人を大事にしたくなるのは年頃の青年のサダメです。
何度も実家に行っては今後についての話し合いが持たれ、なんとかエースの面倒を見ないで済む方法を選べないかと画策する僕を見る事になったエースの心情を察してあげることは、当時の僕には出来なかったのです。
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この問題は衝撃的なラストを迎えました。
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まるで僕に迷惑をかけたくないと思ったかのように、エースは実家のマンションのルーフバルコニーから飛び降りてしまったのです。
知らせを受けて駆けつけた時にはバスタオルに寝かされもう虫の息となっていたにもかかわらず、僕を見ると小さくニャーとないて、静かに息を引き取りました。
まるで「ごめんね、迷惑かけちゃって」と言われたようで、自分の浅はかさを呪い泣き叫んだのを覚えています。
温もりを与えてあげるとか言っておいて、余りに冷たい仕打ちをしてしまった事で、エースを追い詰めてしまったのかも知れない。そう思うと僕はなんらかの罰を受けなければいけないような気分になってしまい、実家に戻る決心をしました。
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まぁ、案の定彼女とは疎遠になってしまって別れてしまったのですが。
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そうこうして、広い実家で独り暮らしを始めてみると、やはり一人では広すぎて、なんとなくもて余してしまい、丁度仕事も忙しくなっていたのも手伝って、殆ど毎日ただ寝に帰るだけの日々を過ごしていました。
さらに暫くすると、いつもにも増してハードな時期を迎えていた僕は、定期的に金縛りに会うようになってしまいました。
「頭が冴えていて身体が寝ている状態」と割り切っていたし、足首を動かしたりするうちに金縛りが解けることもわかっていたので怖さを感じることもなく、ただ頻度が高く煩わしさを感じていました。
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ところがその日の金縛りはいつもと雰囲気が違いました。
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僕は実家で寝るときは元々の自分の部屋に寝ていたのですが、玄関から入ってすぐ右手に父の部屋があり、直進すると正面が浴室やトイレの入り口となっていて左に曲がった居間までの廊下沿い左手に僕の部屋と昔姉が使っていた部屋が並んでいました。
浴室やトイレの入り口前には居間の方向に向けて姿見の鏡があったのですが、廊下に足を向けるようにベッドで寝ていた僕には当然その鏡は目に入らないにもかかわらず、その日の金縛りがおきる直前にふと脳裏にその鏡の姿がよぎりました。
まるでその鏡の奥に何かがいるような予感がするとともに、激しい気配をその方向から感じた僕は、身を起こし鏡を確認しに行こうと決意しました。
が、その瞬間、
『シャラーン!』
と、鏡の方から錫杖を鳴らすような音が聞こえたかと思うや全身が剛直し、呼吸すらままならない勢いで金縛りがおきたのです。
鏡の方向からはいままでに感じたことの無いほどの禍々しい気配がどんどんと強くなり、耳のなかには錫杖をついているかのような『シャラーン!シャラーン!』という音がリアルに聞こえていました。
しかもその音は気配と共に鏡を潜り抜け、廊下のカーペットに草履を履いた足が摺り足でにじり寄ってくるような音も聞こえ始めました。
いよいよ本物が出たかと全身から脂汗が吹き出るのを感じながらも、こんなとき念仏を唱えたら消えたという話を聞いたことがあるが、相手が坊主っぽい状況でうろ覚えの念仏が効くのだろうか等と的はずれなことを考えていたのを覚えています。
そうこうするうちにいよいよ気配と音は僕の部屋の目の前まで近づきました。
部屋のドアは開けっぱなしでしたので、目をあけたら見えてしまうのではないかって位置に、確かに人ならざる何かがこちらを向いて立っているのを感じながら、声になら無い声でとっさに「エース!助けて!」と叫びました。
その瞬間、居間の方から
『ニャー!』
と威嚇する声が聞こえたのです。
間違いなくエースの声でした。
錫杖の音は消え、その人ならざるものが立ち尽くしている気配と、逆に居間からよく知っている小さな生き物が近付いて来ている気配が感じられましたが、居間からの気配が部屋の前に辿り着く頃にはその嫌な気配は消え去っていました。
さらに身体の剛直は消え、ようやく力を抜くことが出来てホッとしたのですが、エースの気配は消えず、生前彼が毎日していたように僕のベッドの端からチョコンとベッドに飛び乗り、トスントスンと僕の頭もとを回って壁際の足元まで来ると僕の左足にもたれるようにフワッと横になりました。
実は完全に金縛りは解けており、目を開けてエースと対面したい気持ちが強かったのですが、確かに足元に感じる温もりを消してしまうのが勿体なくて、そのまま目を閉じてエースの温もりを感じながらいつの間にか眠りについていました。
目が覚めると当然ですがいつもの朝でした。
寝に落ちる直前まで左足に感じていたエースの温もりはすでにありませんでしたが、スッと起き上がり足元を見ると、布団のその部分だけ丁度エースの大きさくらいに凹んでおり、その凹みを撫でながら涙したのを覚えています。
その日から現在まで、もう20年以上も経っているのですが、一度も金縛りにあったことがありません。
エースが守り続けてくれているのかなと思いつつ、結局当時の彼女と寄りを戻して結婚したいま、もうすぐ中学生になる長男の色々な仕草がエースに似ていて実は生まれ代わりなのかと疑っています。
作者ねずみマ〜ン
初投稿です。
小説でもなんでもない、体験談です(苦笑)
読み物になってないかもしれませんが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。