急に降り出した天気雨から逃れるように、私はとにかく軒先へと飛び込んだ。
路地裏へ入り込んだのが間違いだった。古い武家屋敷が建ち並ぶこの町は、裏路地があちこちで入り組んでいて思った方向へ進むことが中々できない。こんなことなら近道など無理にしようとせずに、大通りを歩いていくべきだった。
若い頃ならいざ知らず、還暦を翌年に迎えた今の齢となっては自らの体力に過信すると痛い目に合う。
「しかし困ったな。暫く止みそうにもない」
不意に背後のガラス戸が開き、カーディガンを羽織った若い女性と目が合った。女優のように美しい顔立ちに思わず見惚れた。慌てて戸口を見ると、張り紙に夜行堂と店名らしきものが記されている。どうやらここは店の軒先だったようだ。
「雨宿ですか?」
「申し訳ない。急に降ってきたものでね。申し訳ないが、しばらく雨宿りさせてもらっていてもいいだろうか」
「構わないですよ。それよりも中へどうぞ。そこでは濡れますよ。うちは庇が浅いから」
「貴女は? こちらの?」
「しがない骨董店の店主をしています」
「お若いのに骨董ですか。それは良いですね」
興味本位で店を覗いてみることにした。どうせ雨が上がるまでまだもう少しかかるだろう。適当に手頃なものでも買って帰れば雨宿りの代金になる。
店内は想像していたよりも薄暗く、乱雑としていた。棚のあちこちに様々な骨董品が並び、価値があるのかないのか、それさえも判別がつかない。そもそもこれらには値札のような物がなく、高価なのかどうかも分からなかった。
「随分と本格的なのだね。私には骨董趣味がないものだから、どうにもどれが良いものかわからない」
「あなたと縁があるものが幾つかあるようですよ? ほら、足元に落ちているそれとか」
言われて視線を落とすと、小さな白磁の香炉が足元に転がってた。
「申し訳ない。袖がぶつかったのかもしれない。傷がついていたら弁償します」
「お気になさらず。どうですか。割れていますか?」
香炉の側面、確か「こしき」と呼ばれる部分には獅子が描かれている。そういえば蓋のつまみ部分にも玉を前脚で踏む獅子の飾りがある。随分と高価そうな代物に見える。
「いえ、傷はありません」
「それでしたら、きっとお客様に拾って欲しくて飛び出したのでしょう」
巧いこと言う、と思わず笑ってしまった。
「いえ。とてもこんな高価なものは買えません」
「いえ。お値段は結構です」
「え?」
女主人は笑って、小さな煙管を咥えた。紫煙を細く天井に向かって吐くと、なんともいえない甘い匂いがした。
「うちの店は人が物を選ぶのではないのです。物が自身に相応しい主人を選ぶ。そういう店なのです」
「いや、しかし」
「それにその香炉は曰く付きなのです。随分と昔からこの店にある。今まで探しても出てこなかった癖に、急に転がり出てくるものだから驚きました。きっと貴方と縁があるのでしょう」
「曰く付きというと、持ち主が呪われるとか?」
「いいえ。本来、この香炉は皇族を守る為に明王朝の末期に作られました。その為に獅子があつらえてあります」
「なるほど。魔除けですな」
「しかし、最初の持ち主は他ならぬ父王に殺され、この香炉もまた心ない者の手に渡りました。そうして主人を選ばぬまま、この店へ辿り着いたのです。そう。私がここへ来るよりも早くに」
最後の言葉の意味は分からなかったが、彼女の話はなんとも心地よかった。例え嘘でも自分がそんな物に選ばれたというのは悪い気はしない。
「私には物の価値は判り兼ねるが、気に入った。この香炉を頂こう。ただし、お代は払わせてもらいますよ。この香炉に価値がないように思うのは私自身が嫌なのです」
実際、私はこの香炉のことをいたく気にいった。香を炊いたことさえないが、これを機に妻と始めればいい。思わぬところで雅な趣味ができたものだ。
「貴方のような人は珍しい。大抵は気味が悪いと言います」
「自分でも不思議ですよ。骨董の趣味があったのかもしれない」
私は一万円を二枚、店主へ手渡した。一万円では安価に過ぎるような気がしたのだ。妻には黙っておかねばならない秘密が増えた。隠し通せた秘密など数える程もないが。
香炉を布で包み、木箱に入れてから風呂敷で包んで貰った。
なんだか年甲斐もなく心が踊る。
「また分からないことがあれば顔を出させて貰いますよ」
「縁があれば、いずれ」
店を出ると、さっきまでの雨が嘘のように上がっていた。からりとした秋晴れで心地が良い。
携帯電話を見ると、いつの間にか妻から何度か電話の着信が届いていた。マナーモードに設定した覚えはないのだが、店の中では圏外になっていたのだろうか。
「おや。もうこんな時間か」
私は慌てて表通りを目指して小走りに駆けた。
いつの間にか三時間ほど時間が経っていたらしい。奇妙なこともあるものだ。
○
転職で県外へ出て行った三男の元へ尋ねるのは、これが初めてのことだった。妻はどうしても外せない用事があり、屋敷町へは来れなかったが残念なことだ。私などよりも、妻の方がよほど心配に違いない。
長男は既に結婚して子供を設け、次男も来年には式をあげるという。そんな兄達に比べ、三男は昔から勉学に励み、就職するとすっかり仕事人間になってしまった。休日出勤も多いようだし、親としては心配が尽きない。
元々、頻繁に連絡を寄越すような子ではなかったが、ここ半年まったく連絡を寄越さなかった。メールを何度か送ってみたが、待てど暮らせど返答がない。何かあったのかと思い、電話をかけてみても一向に電話に出ない。ようやく電話に出たかと思えば、まるで別人のように元気がなく、何を聞いても曖昧にしか答えない。
これは様子を見に行くべきだ、と思い、単身こうして息子の暮らす町へとやってきた。
息子の暮らすアパートは特にこれといった特徴のない小さなアパートで、単身者向け用といった感じだ。学生時代に暮らしていた所とそう大差がないように見える。
二階の一番角部屋が息子の住まいらしい。
チャイムを鳴らす。しかし、返事がない。もう一度鳴らす。やはり返事はなかった。
出かけているのだろうか。そう思いながらドアノブを捻ると、なんの抵抗もなくドアが開いた。
「物騒だな。鍵をかけていないのか」
中へ目をやると、ワンルームの部屋の奥に胡座をかいて座る息子の丸い背中が見えた。そして、その前に赤い着物を着た女が立っている。思わず声をあげた瞬間、女の姿が尾を引くように物陰へと消えた。解けた着物の帯が床を擦ったのだと気づいて背筋が凍りついた。
「敦也」
息子がこちらを振り返る。その変わり果てた様子に我が目を疑った。痩せ細り、頰はこけ、眼窩が落ち窪んでいる。見るからに衰弱した様子で身体はふらつき、眼の焦点が定まっていない。
慌てて靴を脱いで部屋へ上がると、部屋の中は服やゴミ袋で散らかり放題といった有様だ。薄暗く、電気をつけようとしても灯がつかない。陽光を取り入れようとカーテンを開けると、ベニヤ板で窓全体が封じられていた。そんな部屋の一角を占領するように、大きな桐箪笥が重く鎮座していた。
一人暮らしの男の部屋にはいかにも不釣り合いな桐箪笥は相当に古いものらしく、金具の装飾一つ一つが重苦しい。
「なんだ、父さんか。どうしたの、急に」
「お前、いったいどうしたんだ。こんなに痩せて。ちゃんと食事を摂っていないだろう」
はは、と力なく笑い、箪笥の方へ視線を戻す。
「最近なにかと眠くてさ」
「電気がつかないのは照明の故障か?」
「ん? ああ、電気が止まったのかな」
電気が止まるなど余程のことだ。だというのに、これと言って慌てる様子もない。
「お前、仕事はどうしたんだ。休んでいるのか」
「仕事なら辞めたよ」
「辞めた? どうして」
「別に。そういう気にならないだけだよ」
私は絶句した。息子が勤めていたのは長年憧れていた玩具メーカーだった。学生の頃からそこへ入社する為に受験をし、希望の大学へ進学したのだ。私は息子の苦労をよく知っている。我慢強く、きちんと自分の目標へ進み続けることのできる人間だ。考えもなく放り出すような人間ではない。
この様子はあまりにも奇妙だ。
「敦也。仕事を辞めたなら一度うちへ帰ろう。母さんも喜ぶ」
「ダメだよ。帰るなら父さんだけで帰ってくれ。俺は帰れないよ」
「どうしてだ。仕事なら辞めたんだろう」
虚ろな目で箪笥を眺める顔が、歪に歪むのを私は見た。
「俺はここを離れられないんだ。だってほら、困るだろう。見てくれよ、この箪笥」
「どうしたんだ、こんなもの」
「拾ったんだよ。だって勿体ないじゃないか。こんなに魅力的なのに」
嫌な予感がした。私の妻、つまり敦也の母には俗にいう霊感というものがあるのだが、彼女は昔から安易に物を拾うなと家族に言い聞かせていた。物には想いや念が宿る、と。私にはよく分からないが、妻にはそれが分かるのだろう。そしておそらくは、この箪笥はよくないものに違いない。
「帰ってくれよ。邪魔しないでくれ。俺なら大丈夫だから」
「敦也。とにかく父さんの言うことを」
聞きなさい、そう言おうとして言葉に詰まる。
箪笥の背後、おそらくは数センチしかないであろう壁との隙間から青い白い指が見えた。五本の指が一つずつ、掻き毟るように現れる姿に思わず絶句した。ずるり、と蛇のように這い出ているのは着物の帯だろう。白地に斑らに赤黒い沁みが見える。ああ、これはきっと血なのだ。乱れた長い髪をした女の頭がこちらを覗き込む。
私は恐怖に耐えかねて背中を向けた。そうして息子の手を引いたが、びくともしない。まるで木だ。深く根を下ろした樹木のように息子は身じろぎひとつしなかった。
「父さん。ごめんよ」
私は恐怖に耐えかねて、ほとんど転がるようにして部屋を出た。恐ろしさに歯の根が噛み合わず、カチカチと音を立てる。さっき夜行堂で買った香炉の箱を抱きしめると、不思議と心が落ち着いた。
なんとかアパートの下まで辿りつくと、妻へ電話をかけた。とても一人で抱えこめそうにないし、妻ならば何か打開策を考えてくれるかもしれないと思ったからだ。
『はい。宗像ですが』
「もしもし。すまん。私だ。大変なことになった。ああもう、信じられない。なんなんだ、あれは。どうしたらいいっていうんだ」
『どうなさったんですか。そんなに声を荒げて』
電話の向こうの妻はいつものように落ち着いた様子で、私にとにかく落ち着くように言った。
「バケモノだ。いや、幽霊なのか。よく分からんが、そういう類のやつだ。あんなものがいるだなんて」
『そうですか。敦也の様子はどうでしたか?』
「酷く衰弱していたよ。なんとか部屋から連れ出そうとしたんだが」
『あなた、今日起こった出来事を教えてください。身の回りで起きたこと、誰と出会い、なにを話したか』
妻の言いたいことがよく分からなかったが、私は今朝から敦也のアパートで起きたことまでの顛末をなるべく細かく説明した。妻が引っかかったのは夜行堂という、香炉を購入した骨董店での話だった。私はなるべく店の様子や女店主のことを仔細に話した。
『あなた、まずは落ち着いて。私のいう通りにして下さい。敦也を連れて帰る為です』
「ああ、勿論だ」
妻はこれから私がすべき事をひとつずつ丁寧に教えてくれた。正直なところ私にはよく分からない行動ばかりだったが、妻が言うのだから間違いない。私は自分がすべきことを繰り返し、頭の中で反芻した。
「よし。覚えたぞ」
『くれぐれも気をつけてくださいね』
「ああ。敦也だけはなんとしても取り返さんとな。美智子さん」
はい、と妻が返事するのを聞いてから、携帯を上着に放り込み、香炉の入った木箱を開ける。中から現れた香炉を胸に抱いて、私は再び息子の部屋へと引き返した。恐怖で震える膝を手で叩いて叱咤する。私は元来、こういう恐ろしいものはダメなのだ。
今度はノックもせず、ゆっくりとドアを開く。先程にも増して禍々しい、まるで闇を溶いて塗りたくったような空気だ。
小さな台所を抜け、居間で背中を向けて座り込む息子の姿を捉える。
私は意を決し、息子と箪笥の間に飛び出した。その瞬間、箪笥の背後から何かが這い出てくる気配がしたが、躊躇わずに腕に抱いていた香炉を置き、獅子の施された蓋を外した。そうして、息子の手を取り、半ば引きずるようにして台所の方へ逃げる。さっきはびくともしなかった息子が床を滑るように動いた。
「助けてくれ!」
叫びながら居間と台所を繋ぐ戸を勢いよく閉める。その瞬間、曇りガラスの向こうで何か大きな物が身を起こした。大きい。巨大な四肢を持つ何かだ。炎のように揺らめく鬣を持つ姿は、獅子そのものだ。
その瞬間、獅子が吼えた。一瞬、目の前が真っ白になった。まるで雷が落ちたような轟音と衝撃、そうして破壊音が全身を叩いた。部屋の向こうで爆弾が爆発したかと思った。
恐る恐る目を開けると、曇りガラスの向こうがやたら明るい。
歪んだ戸を引こうとすると、支えを失ったように向こう側へ倒れた。戸のガラスが木っ端微塵に砕け、思わず絶句した。
どのような力が暴れ狂ったのか、アパートの壁と天井が吹き飛んで外から丸見えになっていた。雷が落ちたのか、あちこちに小さな火が燻っていて、雨に濡れてじゅうじゅうと音を立てている。箪笥の姿を探すと、下の道路に落ちて木っ端微塵に砕け散っていた。そして、箪笥の内臓のように零れ落ちた赤いもの。それは着物の帯だった。それがまるで引火したかのように轟々と燃えている。
アパートの住人や近所の人が集まってくる中、私は目の前に鎮座する蓋の閉まった香炉を持ち上げ、へなへなと座り込んだ。妻は言った。あの骨董店で買った香炉は魔を祓う、と。
「父さん! 大丈夫?」
「ん? あ、ああ。平気だ。お前こそ大丈夫か?」
「何が何やら。父さん、いつ来たんだ? ていうか、なんだこれ。雷でも落ちたの?」
息子は憑物が落ちたように血色の良い顔でそんなことを言った。
私は香炉の獅子に頭を下げ、あの骨董店の主人に心から感謝した。
遠くでサイレンの音が響いていた。
○
息子を連れて帰宅すると、妻は特にあれこれと追求するでもなく、いつものように食事を作って待っていてくれた。あの香炉についても妻が色々と知っていそうだったのだが、聞こうとする度にはぐらかされてしまった。
「そんなこともありますよ。無事でしたらそれでいいのです」
「そんなものかな。不思議なものを見たものだ」
「大切になさって下さいね。あれはあなたのものなんですから」
あれから、あの不思議な香炉は和室の棚に飾り、毎朝とりあえず水と米を備えている。なんというかこうして祀っていた方が良い気がするのだが、これで合っているのかよく分からない。
しかし、それから暫くして、香炉の蓋に鎮座していた獅子が消えてしまった。埃を払っていた際に落としてしまったのか、家の中をあちこち探し回ったが、どうしても見つけることが出来なかった。完全に紛失してしまったらしい。
「ああ、なんてことだ。注意深く見ておくんだった」
「気が向いたら向こうから出てきますよ」
妻はそう言って相手にしてくれなかったが、私は酷く落胆した。
そんな私を慰めるように、最近うちによく一匹の野良猫がやってくるようになった。
まだ年若い赤毛の猫で、どういう訳か私によく懐いてくれる。胡座をかいて縁側で日向ぼっこをしていると、どこからともかくやってきて膝の上で寝転び、ゴロゴロと喉を鳴らして愛くるしい。
「おうおう。可愛いやつだな。どうだい、うちの子になるかね? 年寄りの家で退屈だろうけれど。私たちも寂しくなくていい」
ニャア、と啼くので思わず顔が緩んでしまう。
「名前は何がいいだろう。美智子さん、ちょっと縁側においで。また猫が遊びにきたよ」
それにしても、どことなく猫というより、獅子の子供のように見えるのは、きっと私の気のせいだろう。
恥ずかしい話だが、私は猫の種類に疎いのだ。
作者退会会員
10月の新作です。
出張の電車の中でぼんやり外を眺めながら書きました。
宜しくお願いします。