4つ年上の姉さんから、こんな話を聞いたことがある。
「部屋っていうのはね、一種の結界でもある。襖、障子、衝立ーーーこれらもまた厳密に言えば結界だ」
外側と内側との仕切り。境い目。そういえば、日本古来から伝わる怪談話と言えば、襖や障子、衝立といったものが度々登場する。閉めたはずの障子が、ふと見たら数センチ開いていたり。障子に開いた穴から誰かが覗いていたり。衝立の後ろから人影が見えたりーーー現代でも充分通ずる恐怖だ。
「こんな話があるよ」
結界の話でもビビりな俺は充分に肝が冷えたが。姉さんは更に追い討ちを掛けるように話始めた。無機質な電灯の光が、妙に白々しく感じるリビングにて。
以下は姉さんが話した内容だ。
ある若い女が新しいマンションに引っ越しをした。築数年しか経っていないという新しいマンションだ。女性の1人暮らしということもあって、管理の厳重な、それでいて清潔で綺麗な内装も気に入り、すぐにそこに入ることとなった。
ところが。引っ越しをしてから数日後、奇妙な現象が立て続けに起こった。夜になり寝ていると、誰かがベットの回りをぐるぐる回っていたり、風呂場の排水溝に尋常ではない数の長い髪の毛が絡まって詰まっていたり。洗濯物を取り込んだら、ズタズタに切り裂かれていたり(女が住んでいるのは12階)。
気味が悪かったが、引っ越しをしたばかりで新たに引っ越す資金はない。しばらくは我慢していたが、1ヶ月を過ぎると、それも限界を迎えた。堪らず職場の同僚に相談すると、翌日、同僚がお札をたくさん持ってきて女に手渡した。
「知り合いのお寺から貰ってきたの。これを部屋に貼ってみて」
女は言われた通り、部屋中にお札を貼って回った。壁、床、天井、ドア、窓ーーーベタベタと、ところ構わず貼りまくり、お洒落な空間は一転して異様な空気が漂っていた。でも、これでようやく解放されたと女は安心した。
だが、それは間違いだった。お札を貼った日の夜、壁から床から天井からドアから窓から、ドンドンと大きな音がひっきりなしに聞こえてきた。音は一晩中続き、結局一睡も出来ないまま朝を迎えた。外から霊が侵入しようとしてるのではと思うと、いてもたってもいられなかった。
翌朝。彼女は再び同僚に相談した。顔が広い同僚は、知り合いの霊媒師がいるため、女の住む部屋を直接見て貰えるよう聞いてくれるという。
数日後、霊媒師が女のマンションに訪れた。部屋中、お札まみれなのを見た霊媒師は、女にこう言った。
「この部屋は霊道に通じています。毎日大勢の霊達が行き来しているのです。あなたがお札を部屋中に貼ったことでーーー霊が外に出られず、この部屋に閉じ込められてしまっています」
ドンドンという物音は、マンションの外から霊が侵入しようとしてるのではかった。お札の効能により、部屋に閉じ込められた霊達がどうにか外に出ようとしていたために発生した音だったのだーーー。
だからね、と姉さんは言う。ぐるりとリビングを見渡しながら。
「部屋は決して、安全な場所ではないってこと」
あなたが今いる部屋は。
見慣れたいつも通りの部屋は。
毎日過ごしているその部屋は。
本当に安全だと言い切れるだろうか。
◎◎◎
「欧ちゃんて、温泉とか好きー?」
クラスメイトの日野祥子ーーー本名の祥子と、本人がチョコレート類に目がないことから、クラスの連中からショコラと呼ばれている彼女がそんな風に話し掛けてきたのは、10月のこと。
掃除当番だった俺が廊下を箒で掃いていたところに、ショコラは箒に跨がって現れた。
「何してんだ?」
「魔女だぞー。怖いぞー。お菓子をくれなきゃパンツを脱がしちゃうぞー」
「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ、だろ」
「パンツを脱がすことってイタズラじゃんかー」
「犯罪だ!」
思わずズボンの縁をぎゅっと押さえながら、俺はジトリとショコラを見た。ショコラは猫のような細い目を更に細め、人懐っこく笑う。
「欧ちゃんてさーあ、温泉って好きぃ?」
「温泉?ん、まあ普通……」
「欧ちゃんてさーあ、怪談話も好きだよねーえ?」
「怪談話?いや、それは苦手……」
ショコラはにんまり笑うと。箒に跨がったスタイルのまま、すすすす、と俺に近付き言った。
「そんな欧ちゃんに、ぴったりの温泉があるよん」
◎◎◎
10月のある週末。俺と姉さんは某県某所にある温泉に来ていた。今夜宿泊するのは、今の時期、彩り鮮やかな紅葉が評判の、立派な旅館だ。歴史も古く、創立は明治時代だという。値段もお高く、一泊○万円もする。正直、一介の女子高生や男子中学生か泊まるような場所ではない。
「お客様、失礼ですが、保護者の方は……?」
フロント嬢も流石に怪しい、というか訝しく思ったのだろう。営業スマイルを浮かべながら、再三に渡り尋問を受けたが、両親は都合がつかず、来られなかったのだと、辛抱強く説明した。まあ、これは嘘ではない。世界が滅びるまでは仕事を続けるであろうあの人達は、誘おうが誘うまいが来るはずもない。
俺と姉さんは、戸籍上は姉と弟だが、血縁関係にはない。 顔立ちも全然似ていない。そのためか、若い2人が駆け落ちしてきたのかとも思われたのかもしれない。部屋に案内してくれた従業員は、チラチラと俺達を横目で見ていた。
「ふうん……。ここが曰く付きの旅館?」
部屋に通された姉さんは、荷物を置きながらつまらなさそうに呟く。俺も荷物を置きながら、ぐるりと部屋を見渡した。
ショコラによると、ここの旅館は元々、ここら一帯を治めていた地主の屋敷だったらしい。そこの屋敷に住む1人息子が精神を病み、凄絶な最後を遂げたーーーらしい。凄絶な最後と言っても、詳細は伝わることなく、地主の力によって関係者は固く口止めされたらしいが。
息子の死から数年後。地主の家はみるみる傾き、家族や使用人が次々に病死し、やがて屋敷は人手に渡り、旅館に改築されたそうだ。だが、そんな肩書きがあるものの、まあまあ繁盛しているらしい。
「そんなに怖い感じはしないけど。部屋も綺麗だし。料理も美味しいらしいよ」
「そう思う?」
姉さんは既に座布団に腰を下ろし、湯飲みのお茶を啜っていた。俺は姉さんの向かいに座ると、備え付けのお菓子をぽりぽり摘まむ。
「…何か感じる?」
恐る恐るそう尋ねると。姉さんはにっこり笑って立ち上がった。
「とりあえず、温泉に入ろう!」
◎◎◎
旅館の最大の目玉は、実は赤や黄色に染まる紅葉でも、旬の食材が豊富に使われた料理でもなく、美肌や肩凝りに効く温泉でもない。いや、温泉といえば温泉なのだが……。混浴温泉だった。
混浴ーーーつまり、男女が揃って同じ温泉に入れるというわけだ。通りで姉さんがウキウキしていたわけである。
恥ずかしがって心底嫌がる俺を片手で担ぎ上げ(昔話に登場する村娘を拐う鬼か)、脱衣場では無理矢理服を剥ぎ取られ、蹴飛ばされて温泉に落とされた。それから先はーーー口が裂けても言うまい。
18禁な展開を一通り終えた後、俺は一瞬の隙をついて姉さんから逃げ出した。
「おのれ、ショコラめ!給食のカレーは、具なしで盛り付けてやる!」
湯冷めした体に浴衣を通し、脱衣場を出て廊下を走る。何人かの客が驚いたような顔でこちらを見ていたが、そんなこと気にしている余裕もない。
ボソボソ、ボソッ……ヒソヒソ…ボソボソ……ボソッ……
「……ん?」
どこからか声が聞こえる。ボソボソとした小さな声のはずなのに、やけにはっきりと聞こえた。
ヒソヒソ……ボソボソ……ヒソッ…ヒソヒソ……ボソボソ……ボソッ……ヒソッ……
近くだ。耳を澄まし、声のするほうへと歩く。廊下を右に折れると、やけに薄暗い廊下が奥へと続いているのが見える。
ボソボソ……ヒソヒソ……ボソボソ……ヒソヒソ……
「従業員の部屋でもあるのかな」
薄暗い廊下は、やけに軋む。それにひんやりとした空気がやけに重苦しかった。
ヒソヒソ……ボソボソ……ヒソッ……ボソボソ……ボソッ……
「ここだ」
この部屋の中から聞こえてくる。障子戸に手を掛け、スーッと開けた。中は暗い。部屋の中央にチラチラて小さな灯りが見える。蝋燭だ。蝋燭に火がついており、それがゆらゆら揺れている。
「うっ、何だこの臭い……!」
生臭い。血の臭い。吐き気が込み上げてきて、口と鼻を片手で塞ぐ。部屋の中には誰かがいるようだ。目を凝らすと、髪の長い上半身裸の人物が項垂れ、こちらに背を向けて座っている。
その人物は、背中に傷を負っていた。しかもかなりの重症だ。背中の肉がこそげており、白く浮かび上がって見えるのは背骨だ。人物が座り込んでいる場所は、一面血の海だった。
「………」
その人物が無言で振り向く。髪の毛が長いので、てっきり女性だと思ったが違う。頬がげっそりと痩け、眼ばかりギョロリと飛び出した男だった。そい
つは痩せ細った両腕で、白い袋を抱えていた。
「っ、」
俺が見ている前で、そいつはぼとりと袋を落とした。その勢いで、袋の中身がぶちまけられる。粘膜のようなぬるぬるした液にまみれた内臓、血走った眼球、血にまみれた脳ーーーそれらがごろりと出てきた。
「……ごめんなあー、」
男はボタボタ涙を流しながら、それらを両手で掬い上げた。男の両手は、粘膜やら粘液でべとべとしている。指の間から脳がボトボト垂れていく。
「ごめんなあー、おとうとぉ……」
「ごめんなあー、助けてやれんかったぁ」
「ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、ごめんなあー、」
「ぎっ、……ぎゃあああああああ!!!」
そこでようやく俺は悲鳴を上げることが出来た。足に力が入らず、床を這いつくばりながら外に出る。
廊下に出た所で、俺は失神した。
◎◎◎
「うっ、重い……」
背中に感じるズシリとした重みで目が覚めた。それと同時に、グリグリと頭を小突かれる。
「勝手に逃げ出したかと思えば、廊下で失神してやがる上、重たいとは何だ。羽根のように軽いだろうが私は」
「ね、ねえひゃん…!」
石臼でも乗っかっているのかと思ったが、違った。浴衣に身を包み、湯上がりのため、髪の毛を濡らせた姉さんだった。
「こんな所で何してる。ここの廊下は立ち入り禁止の札があっただろうに、読まなかったの?」
「た、立ち入り禁止?そんな札、あったっけ?」
「まあ、見てたとしても好奇心には勝てんわな」
姉さんはそう言うと、立ち上がった。俺と違って姉さんは温泉でよく温まったらしく、頬が桜色だった。
「あ、あ、あの。この部屋で今……」
「嗚呼、ここ?」
姉さんはちらりと部屋を見ると、未だにうつ伏せのまま、起き上がる気力もない俺の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。
「かつてこの旅館が地主の屋敷だった頃、地主の1人息子が生きながら幽閉されたらしいよ」
「その息子はね、生まれつき背中に小さなこぶが出来ていたんだよ。子どもの時はそんなに気にしてはいなかったらしいがね」
「それがだんだん大きくなっていったんだ。それと同時に高熱と、激しい痛みが続き、息子は転げ回って苦しんだらしい」
「早く医者に見せれば良かったんだろうが、息子はそれを嫌がってね。色々な薬を試したり、祈祷もしたらしいが、まるで効果なし」
「高熱、激しい痛みに加えて、酷く醜いこぶを気に病んで、ついには精神的に病んでね。父親の持ち物である日本刀を持ち出して、こぶを切り落としたんだよ」
「こぶの中からは、どろどろに溶けた人間の臓器が出てきた。これは非常に稀なケースなんだけどね。どうやらその息子は、双子だったんだ」
「母親の胎内で双子として育つはずが、1人がもう1人を吸収したらしい。だが、吸収されたもう1人は、全てを吸収されたわけじゃなかった」
「臓器やら脳やらは、吸収したほうの1人の中で着々と育っていたんだね。よっぽど生きたかったんだろうね。人間は生や死に、異様なまでに執着することがあるから」
「吸収された1人は、吸収したほうの1人の養分を吸いながら大きくなった。それがこぶの正体だ」
「自分の背中にあったこぶをこそげて落とした息子を見て、父親である地主は心底怯えたんだろうね。怪異に取り憑かれたと思ったのかもしれない。或いは自分自身の面子のためか、」
「息子を、生きながら部屋に幽閉した」
「それがここ、ってわけ」
姉さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、右手の親指を立てて部屋を示す。旅館の従業員でも、トップクラスの人や関係者のみしか知らないような情報を、さらりと言ってのける。
「い、生きながら、って……」
「食べ物も水も与えられず、糞尿を垂れ流し、暗い部屋に閉じ込められた人間が、一体何日で発狂するか……まあ、元々精神的に病んではいただろうけど」
ーーー僅かに残った人間性を失うまでは、そんなに時間は掛からないだろうね。
「………」
体が芯から冷えていくようだった。俺はのろのろと立ち上がり、部屋を見る。逃げてきた時に閉めた覚えはないのに、障子はぴったりと閉められている。
「じゃあ……、俺が見たあの男の人は……」
「夢でも見たんじゃないの。さ、私達も部屋に戻ろう。逃げ出した罰として、マッサージして貰うからね」
「夢じゃないよ。確かに見たんだ。この部屋の中に入ったら、中にガリガリの男がいてーーー」
「部屋に入った?馬鹿言いなさんな」
姉さんはニヤリとして、顎で部屋を指す。
「じゃあ、もう1度入ってごらんよ」
姉さんに促され、渋々俺は障子戸に手を掛ける。だが、開かない。さっきはあんなにあっさり開いたにも関わらず、固くて動かない。
「何で……?」
それでも力ずくで障子戸を抉じ開ける。数分掛かってようやく開いた。
「あ?」
部屋は漆喰で塗り固められ、中にはどうやっても入れないようになっていた。
作者まめのすけ。-3