玖埜霧御影は極度の人見知りであることは、何であろう彼女の弟である玖埜霧欧介ーーーつまりこの俺が1番よく知っている。
いや、人見知りとかいうレベルではない。あそこまでいくと、人見知りというより人間不信と言ったほうがしっくり収まるのかもしれない。
人間不信。人間をーーー信じず。
不審なほどに不信なのだ。他者に対しての警戒レベルが異常なほど高い。道端で出会った人、すれ違う人の全てが敵であると豪語しているし、護身用にとスタンガンを持ち歩いているくらいだ。スタンガンなんて……一介の女子高生の持つ物ではない。普通に考えれば。
そんな病的とさえ言える姉さんの人間不信なのだけれどーーーどんな物事にも理由が存在するように、姉さんが人間不信に陥ったのもまた理由があるのだ。
あまりおおっぴらに暴露してしまうと、姉さんに画鋲を飲まされる恐れがあるので、ざっくりとした、ざっくばらんとした、大雑把な説明しか出来ないけれど……姉さんが人間不信に陥った理由の1つとして挙げられるのは、姉さんが養子だということだ。
玖埜霧御影は、正確には玖埜霧夫妻ーーーつまり俺の両親の養子だ。本当の娘ではない。当然、玖埜霧夫妻とも、俺とも血縁関係はないのである。
姉さんがどうった経緯をなぞって玖埜霧夫妻の養子となったのかは、俺もよく知らない。そこには大人の事情というか、関係者だけしか知り得ない理由があってのことだろうけれど。
俺がもし姉さんの立場だったとしたらーーー自分という人間を、養子という至極尤もらしい理由を以てポンと放り出されたらーーー少なからず人間不信になっていただろうし。
そんな姉さんだけれど。しかし、不思議なことに両親、そして俺のことは異常なくらい信頼してくれている。極端なほどにほどに信じ切っている。特に俺にたいしては、ブラコンの域を遥かに超え、恋愛対象として見ているくらいだ。
背中を流せと強制的に裸にひんむかれ、バスルームに連行されたこと数知れず。いきなり俺の部屋に入ってきたかと思えば、マッサージをしろと命じられ、馬乗りになって体を揉まされたこと数知れず。今挙げた2つだって、まだ生易しいほうだ。この他にも、両親が聞いたら卒倒しそうなエピソードが幾つもある。
そんな破天荒なくらい凄まじい性格の姉さんだけれど。これがまた、両親の前ではかなりおしとやかで真面目な態度を取るものだから、俺としては複雑というか何とも言えない気持ちでいっぱいだ。
猫を被っているとか、無理していい子を演じているわけではない。姉さんはそんな無意味なことはしない人だ。なら何故そうなの~かと言えば、前述した通り、両親のことを信頼しているからなのだろう。
信頼し、そして尊敬している。
そこには少なからず、養子として自分を受け入れてくれた恩義もあるかもしれない。だが、姉さんはそんなことはないとキッパリと否定する。恩義は勿論感じているけれど、そういった理由で両親のことを尊敬しているわけではないのだと。
では、何故か?
姉さんは言う。
「それはね、」
「あの人達が玖埜霧欧介を創ったからだよ」
◎◎◎
事の始まりは土曜日の夕方だった。姉さんの携帯電話に母親から着信があり、残業で遅くなるから夕食は2人で取るようにと言われたのだそうだ。
うちの両親は揃いも揃って、根っからの仕事人間である。残業国家日本に生まれるべくして生まれてきた人間だと言えるくらい、とにかく仕事一筋であるのだ。
土日関係なく出社してるし、人一倍残業もしてるし。給料欲しさというより、純粋に仕事をしたいからしているという雰囲気すらある。お互い仕事仕事でマトモに顔を合わせないはずなのに、夫婦仲はいいのだから不思議なものだ。
まあ、仕事に熱心なことはいいのだが。そうなってくると、夕食は姉さんが作るということになる。無論、外食という手もあるのだけれど、節約家である姉さんは外食を善しとはしない。俺は料理はおろか米さえ炊けないくらいだから、必然的に姉さんが夕食を作るわけだけれど。
……大きな声では言えないが、姉さんの作る料理は世にも奇妙な味がする。食べられないとか不味いというわけではないのだが、変にしょっぱくて変に甘いというか……うん。まあ、奇妙な味。
作って貰う身として、贅沢を言える筋合いではないが……それでも好んで食べたいと思える味ではない。
そんな俺の本音とは裏腹に、姉さんは鼻歌など歌いながら、エプロンを身に纏い、いそいそとキッチンに向かっている。俺は皿を出したりコップや箸を並べたりと、簡単な手伝いをしていた。
姉さんは一時期、髪をバッサリ切ったのだけれど。最近、少し伸びてきて肩に付くか付かないかくらいの長さの髪をシュシュで1つにまとめ、可愛らしいピンクのエプロンを締め、ご機嫌な様子だ。料理を作ること自体は好きらしい。
「今日は簡単にカレーにするか。野菜も肉もあるし……嗚呼、そうだ。付け合わせにサラダも作るかな」
ふんふんふん♪鼻歌まじりに冷蔵庫からニンジンやジャガイモ、タマネギを取り出す姉さん。トントントン、と軽快なリズムで野菜を切っていく。
「欧介ー、カレーの辛さはどうする?」
「甘口でお願いします」
「お子ちゃまだねぇ」
ふんふんふん♪姉さんは冷蔵庫から長芋を取り出すと、やはりトントントンと軽快に切っていくーーーって何で長芋?
「何で長芋切ってるの?」
「ん?サラダに入れようかなーって。ほら、長芋って精力つくじゃん」
「せ、いりょくぅ?」
「精力は大事だよ。私達の夜は長いから」
「私達って……誰と誰のこと言ってるの?」
「聞きたい?」
姉さんがさっと振り向いた。包丁を片手に舌めずりしながら。
ゾゾっと背筋に寒いものが走り、それ以上のことは何も言えなかった。俺は何にも聞かなかったフリをして、素知らぬ顔をしつつ、冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを出す。
こわやこわや。
やがてカレー作りも佳境に入ったところで事件は起きた。何とカレールーが切れていたのだ。
姉さんは小さく舌打ちした。
「カレールーがないとカレーにならないじゃんよ。仕方ない、買ってくるか」
「これから?雨降ってるよ」
昼過ぎからポツポツと小雨が降っていたのだが、先ほどから大降りになってきた。雨の日の外出ほど面倒なものはない。だが、カレールーがないことにはカレーが作れない。
姉さんはパーカーを羽織りながら、「行くよ」と言って俺を見た。お留守番をしているという選択権はないようだ。俺は肩を竦め、姉さんに続いてキッチンを出た。
◎◎◎
外はかなりの大雨だったが、帰路につく人達で賑わっていた。俺と姉さんは何故か相合い傘をしながら歩いている。別に傘が1本しかなかったわけではない。俺も姉さんも、それぞれ自分の傘を持っているんだけれど、姉さんがあえて相合い傘をしようと言い出したのだ。
ただでさえ狭い傘の中。姉さんは俺の腕にきゅうっ、と絡みついてニコニコしている。たまに上目遣いで見上げてきたりして、それはそれで可愛いのだけれど、実質は姉さんのほうが身長は高いので、かなり無理な体勢を取っていることが窺える。
それより何より、姉弟で相合い傘をするか?傘が1本しかないというのであれば話は別だけども……。腕とか組んじゃってるし。
「あは♪何かこうしてるとデートしてるみたいだね♪」
「そ、そう?」
「私達、ハタから見ればカップルに見えてるんじゃないかな」
「どうかなぁ……」
確かに顔立ちは似ていないから、姉弟には見えてないかもしれないけれど。しいて言えば、姉さんのほうが背が高いし見た目にも大人っぽいから、年上の彼女とデートしている中学生くらいには見られているのかな。
デートじゃないんだけどね。あくまでお買い物だ。
きゅううっ。腕に絡みつく姉さんの腕の力が更に強くなる。姉さんは俺の左腕を完璧なまでに拘束していた。俺は右手に傘をさしているので、両方の腕の自由を奪われたと言っても過言ではない。
「ね、姉さん……。ちょっとくっつき過ぎるよ。あんまりくっつかれちゃうと歩きにくくて」
「家だとパパやったママの目もあるし、おおっぴらにイチャイチャ出来ないでしょ。チュッチュッチュッチュッ出来ないでしょ。それが今なら正々堂々と出来るんだよ。今やらないでいつやると言うの」
「いや、俺はシャイだから……」
そういう問題でもないけど。姉と弟とがイチャイチャチュッチュッチュッチュッしていること自体が大きな間違いである。しかも、大衆の面前で。
「ん?」
ふと見れば、遥か視線の先。傘をさして足早にアルくらい人混みに紛れ、頭1つ抜きん出た人影が目に飛び込んできた。
かなり長身の人物だということはすぐ分かった。頭1つ抜きん出ていると言ったが、だんだんと距離が近付いてくるにつれ、頭2つか3つ分は抜きん出ていると言ったほうが正しいかもしれない。
正確な身長は分からないし、あくまで目測だけれど……2メートル弱はありそうだと思えるほどに背が高い。それだけでも充分に目立つというのに、その人物は更に上から下まで赤ずくめの格好をしていた。
つばの広い、真っ赤な帽子。あまり見掛けない真っ赤なロングコート。足元は長いコートの裾に隠れて見えないが、ヨタヨタと頼りない歩き方はまるでご老人。
髪の毛が長いので、恐らくは女の人なのだろうけれど……いでたちが不気味な人だ。しかし、あんなに目立つ外見をしているのにも関わらず、行き交う人々は露ほども気にしてはいないようだ。
ジロジロ見るのは失礼かもしれないが、つい凝視してしまう。それくらいにインパクトのある人だった。女の人で2メートルの身長があるのも珍しいし、まさか女装した男じゃないだろうな。
と。姉さんが肘うちしてきた。あんまりジロジロ見るなと注意されたのかと思ったが、固い声音でぼそりと言われた。
「……息止めて」
「え?息?何で?」
「いいから。私がいいって言うまで息するな」
言われた通りに息を止める。何だろう、変な臭いでもしたのかな。特には気にならなかったけど……。
ゆらゆらした緩慢な動きで、赤ずくめの女が前方から近付いてきた。近付いてくるにつれ、その女の際立つような異様さが目に飛び込んできた。
深く被っている帽子の隙間からうっすらと肌と唇が覗いているのだが……肌の色がその、女性に対してこういう言い方は不躾なのだが、干からびた土地のような土気色をしている。唇もまた同じ感じで、ところどころ皮が捲れて痛々しい。
気持ち悪い……というより、異常であり異質。
女との距離が最大限に近くなるーーーつまり、すれ違う距離にまできた時だ。
「あっ…、」
女のーーー女の目。眼球。
すれ違う瞬間まで気付かなかったのだが、女には眼球がなかった。本来であれば眼球があるであろうその場所には、ぽっかりとした穴が空いている。更に特筆すべきなのは、ぽっかりと空いた虚のような穴の中に、クシャクシャに丸められた紙切れのような物が詰め込まれていることだ。
こいつーーー人間じゃない。
怪異だ。
怪しくてーーー異質なモノ。
「っ、」
そう認識した時だ。無意識のうちに、うっかり呼吸をしてしまったらしい。まずいと思った時にはもう手遅れ。
『ぼ』
女がそう呟いて、顔をこちらに向けた。すると、姉さんが俺の手首を掴み、強引に引っ張って駆け出した。俺は咄嗟の対応が出来ず、持っていた傘を落としてしまったが、姉さんはそんなことに気を取られている場合ではないと言うように、踵を返して走り出す。
「ごっ、ごめんなさい。息しちゃった……」
とりあえず謝ると、姉さんは渋い顔をして俺を見た。
「あいつはね、鼻が利くんだよ。目が見えない分、鼻がいいんだ。人間の肌の匂い、汗の匂い、吐息なんかをすぐさま嗅ぎ付ける。あいつに出会った場合、息を止めて走り去るくらいしか対処法がないんだ」
「あいつ、目がなかったね」
「元はあったんだろうよ。あいつの眼球に紙切れみたいなのが詰め込まれつただろう。あれは恐らく魔封じの護符だろうね。名高い高層が或いは巫女さんか……はては腕の立つ祓い屋か。なかなかに強力なシロモノだよ」
だけど、と。姉さんは走りながらチラリと後方を見る。赤ずくめの女は、反復横跳びのような不可思議な動きをしながら、確実に俺達のあとを追ってきていた。周囲の人には見えていないらしく、騒ぎ立てる人はいない。
「あいつの視力は封じても、身動きが出来ないくらいにガチガチに封じることは出来なかったみたいだね。まあ、あいつも一端の神様だから、封じるのも楽じゃあないんだけどさ」
「あ、あいつ……神様なの!?」
日本には八百万の神様がいるという話を聞いたことがある。大昔には自然界全てに神様が宿っていると考えられ、人々は崇め奉ったのだとか。
果ては鍋や食器類などの生活用品にも神様が宿っていると考えられていたそうだ。長いこと使われていた生活用品には、やがて魂が吹き込められ、九十九神となる。九十九神は神様よりかは妖怪に近いと定義づける学者もいるらしいが……それはさておき。
赤ずくめの女が神様……?世が世なら、神様の在り方も様々だということか。姉さんにあいつがどんな謂われを持つ神様なのか詳しく聞きたいところだったけれど、今はそんな余裕も時間もなさそうだった。
パシャパシャと水溜まりを飛び散らせ、俺達は右往左往と走り回った。雨足は止むことなく、また弱まることもなく、容赦なく俺達の体を叩きつけてくる。
服やシャツがべっちょりと背中に張り付いて気持ちが悪い。走り回ったせいか、スニーカーの中にも水が染み込んできている。このままじゃ、明日は間違いなく風邪を引いて寝込むことになるだろう。
「こっち」
姉さんはグイグイと俺を引っ張り、この田舎町にまるで相応しくない、えらく立派なビルの中へと駆け込んだ。
屋根がある場所に入ることが出来て、少しホッとしたけれど……巨塔を思わせる高層ビルに勝手に入ってしまったことへの心苦しさを感じることになった。警備員にでも見つかったらどうするつもりなのか。「雨宿りが出来る軒先を探していたんです」なんて言うわけにもいかないし。
良くてつまみ出されるか、悪ければ通報されるか。単純に考えて、そのどちらかだろう。
「欧介。こっちにおいで」
前髪からポタポタと雫を滴らせながら、姉さんが俺を呼んだ。そして同じくずぶ濡れになったパーカーのポケットから小さな小瓶を取り出す。中には透明の液体が入っていた。
姉さんは小瓶の蓋を開けると、迷わずその中身を口に含んだ。空になった小瓶を放り捨てると、俺の後頭部を右手でしっかり押さえ、一息に口の中の液体を吹きかけてきた。
「わっ、わっ、わっ、冷たい!」
「清めのお神酒だよ。我慢しろ」
雨に濡れたかと思えば、今度はお神酒かよ。日本酒の匂いに顔をしかめながらも、俺は姉さんのパーカーの裾をキュッと掴んだ。
「ねえ、早くここ出ようよ。誰か来る前に」
「大丈夫だって。びくびくするな。このビルの持ち主とは知り合いなんだ」
「え」
顔広っ。てか初耳ですけど。
「そいつ、イカれた研究員なんだけどね。某大学の大学院生でさ。怪異に纏わる研究に没頭しきってる紫色の脳細胞を持つ短絡的な駄目男。そいつの自宅兼研究室がこのビルなんだよ。一棟丸ごと買い取ったらしいから、少しくらい騒いだところで文句は言われないよ」
イカれた研究員。紫色の脳細胞。短絡的な駄目男……。何だか聞いているだけでげんなりするようなキーワードだが。それが本当なら、我が姉ながら将来がつくづく不安である。
極度の人見知りの上、極度の人間不信でありながら、どうして怪しい人間とは付き合いがあるのだろう。類は友を呼ぶとは言うが、やはり姉さんも相当な変わり者だ。
だが、姉さんが言う「イカれた研究員」が一棟丸ごと買い取ったとされるこのビルだが、セキュリティーに関しては万全を期しているようだった。指紋認証機を始め、声紋認証機やら危険物発見装置やら何やら、かなり厳重なチェックを受けなくては中に入れないようだ。
姉さんは「イカれた研究員」から、いつでもビル内に侵入していい(?)とお墨付きを貰っているそうで、次から次へと厳重なセキュリティーをかいくぐっていく。
因みに、今日は「イカれた研究員」は不在なのだそうだ。学会に行っているとかで、留守にしているという。
本人の留守中に、他人が家に上がり込んでいるということに対し、誰しもが嫌悪感を抱くものだと思っていたけれど……流石は「イカれた研究員」。器が広いというか、懐が大きいというか。その癖、セキュリティーは厳重なのだから、わけが分からないが。
やがて俺達はただっ広い応接室のような場所に来ていた。殺風景な部屋で、黒檀のテーブルとソファーくらいしか家具はない。テーブルの上にはメモ用紙とペン立てが置かれてあるだけだ。
姉さんは濡れた髪を鬱陶しそうにかきあげた。
「このビルには、怪異を寄せ付けない電磁波が流れてるんだってさ」
「……今はそんなシステムがあるの?」
「まさか。イカれた研究員ーーーそいつ、最上川っていうんだけど。最上川が研究しているのは、“怪異を自分の縄張りに寄せ付けない“がテーマなんだってさ。ビルの至る所に怪異に悪影響を及ぼす電磁波が流れる仕組みが施されてるんだって」
「その電磁波ってやつは怪異にしか効かないの?人間に影響はないのかな」
科学の知識は悲しいほどに乏しいので、電磁波云々と言われてもピンとこない。だが、電磁波という言葉のイメージは、少なくとも体に良さそうだとは思えない。
姉さんもそれについては同意見らしく、肩を竦めた。
「さてね。私も正直、最上川の研究内容についてはサッパリ分かり兼ねないし、理解もしていない。いるようでいないような怪異を相手に、果たして人間の科学が通用するのかね」
と。
『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』
聞き覚えのある声。一瞬、呼吸が無作為に止まる。
姉さんがやれやれとばかりに腕を組み、俺の背後を見つめながら呟いた。
「おい、最上川。お前の研究、全く実りあるものじゃねーぞ」
ズダァァン!
背中から床に叩きつけられ、背骨を強く打った。激しい痛みにもんどりうって転げ回りたかったけれどーーーそれは叶わなかった。
『ぼ』『ぼ』『ぼ』
「やっ、……、何するんだよ!」
赤ずくめの女が仰向けに倒れ込んだ俺を組み敷くように、馬乗りになった。眼球の代わりに詰め込まれた護符の端が、ダラリと垂れ下がっている。
黄ばんだ肌はひび割れ、間近で見るとミイラのようである。幸いにも腐敗臭は臭ってこなかったが……それにしても凄いインパクトだ。
じっと見つめられること数秒。赤ずくめの女は何を思ったか、急に俺の手首を掴むと、あろうことか自分のコートの中に突っ込んだ。しかも胸の辺りに。
「いっ、…ひっ、」
14年間生きてきて、生まれて初めての体験だった。感触がどうだとかそんなことを考えられるほど俺も莫迦じゃない。ていうか全然嬉しくない。
「や、止めろってば!」
手を引っ張り出そうとするのだが、赤ずくめの女の握力は凄まじく、びくともしない。こいつがどういうつもりで自分の胸を(しかも直に。これだけ触らされていると、嫌でも感触が伝わってくる)触らせているのか分からないが、分からないからこそ恐怖は倍増し、それが滝のような汗になって全身の毛穴から吹き出した。
『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』
ようやく赤ずくめの女は俺の手を離した。それと同時に手を引っ込める。雨に濡れて全身冷えたというのに、嫌な汗をかいて更に冷えた。
赤ずくめの女は、馬乗りになったままずるずると下へと移動した。そして俺の履いているジーパンに手を掛ける。
「何すんだ莫迦ぁ!止めろ止めろ止めろ!変態!エッチ!男相手にだってセクハラは成り立つんだぞ!」
色んな意味で、恐怖のあまりパニックを起こした俺は半泣き状態。必死にジーパンの腰の部分をしっかと押さえ、泣きながら喚くという、みっともない行動に出た。
だが、赤ずくめの女には泣き落としが通用しなかったようだ。表情がないから、どんな心理状態にあるのか皆目見当もつかないのだけれど。容赦なく俺の手を払いのけ、ジーパンを下にと引きずり落としーーー
「かしこみかしこみもうす。道標を失った哀れな神よ。及ばずながら我が力を貸そう」
姉さんが俺達のすぐ傍に立っていた。赤ずくめの女は声に反応したのか、姉さんのほうを見る。姉さんは片手に油性のマジックペンを持っていた。恐らくはこの応接室のペン立てに入っていた物だ。
姉さんは続ける。
「その子は私の弟。猛し御身であるあなたに抗議の意を申し上げることになるが、弟に手出しは赦さない。速やかに還りなさい」
そしてゆっくりとその場にしゃがみ込み、赤ずくめの女に顔を近付ける。キスでもしそうなくらい、その距離は近かった。
「私の体を巡る血の匂いーーーどうだ、穢れているだろう。私は卑しくも呪われた家系の末裔である。あなたも神のはしくれならば、その御身に穢れは禁物なはず。あなたがもしもこの忠告を無視するのであれば、私は今この場で自分の頸動脈を切り、あなたに穢れた血を浴びせる。あなたが朽ちゆくまでずっとーーー命が尽きようとも、穢れた血をあなたに浴びせ続ける」
……姉さんの口調は穏やかなそれだったが、顔付きが怖かった。眉間の間に深い皺を刻ませ、目は毒蛇のようにギラギラと光らせ。怒っているという感じではなく、脅しをかけているーーー雰囲気的にはそんな感じだ。
ただ。普通の人間相手に凄むのならともかく、相手は神様だ。神様に人間の脅しが通用するとは、天地が逆様になるくらい有り得ない。
ーーーだが。それは杞憂だった。
赤ずくめの女がゆっくりと俺から身を離したのだ。俺は慌てて、ずり落ちかけたジーパンを引き上げ、四つん這いになって赤ずくめの女から距離を取る。姉さんの背後に隠れるようにして顔を覗かせると、2人は見つめ合っていた。
「あ……、」
赤ずくめの女が姉さんの言葉をどう受け止めたのかは分からない。そもそも言葉ーーー日本語が通じたかどうかも怪しいのだ。
それに赤ずくめの女には眼球がない。「目は口ほどにものをいう」なんて先人も説いているように、感情がストレートに表れるのは、実は口ではなく目だ。口先は笑っていても、目を見たら笑っていなかった、なんてよく聞く話だし。
眼球そのものがない赤ずくめの女の今の心境なんて、俺には到底理解不可能に思えたんだけれど……。でも、勝手な見解から言わせて貰えば、赤ずくめの女は「嫌」な顔をした。
顔を歪めた、というか。例えばトイレの個室に入った時、念入りに掃除がされていなくて汚かったとか。ファミレスでオムライスを頼んだら、長い髪の毛が入っていたとか。その気持ちを思い浮かべて貰えれば、分かりやすいかもしれない。
赤ずくめの女は、俺が見た限りではそういった時の表情を浮かべ、姉さんを見つめていたのだ。つまるところ「嫌悪感」を滲ませていた。
『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』『ぼ』
赤ずくめの女は、背骨が折れてしまうのではないかと思うほど、背中を反らして立ち上がった。天井に頭をゴツゴツとぶつけながら、応接室から出て行った。あとには俺と姉さんの2人だけ。
「大丈夫か」
立ち膝をついて、姉さんが俺を見る。涙目の俺の頭をよしよしと撫でながら「もう平気だよ」と言ってくれた。
「人間に近い外見をしているやつは、中身もまた人間に近いんだ。こちらが言わんとすることも、大まかには理解出来るだろうし。逆に動物の外見をしてるやつは厄介なんだ。言葉が通じないからねーーーそうなれば暴力しかない。血で血を洗う暴力に頼るしかなくなる」
「あ、あの女……何だったの」
「アクサラ様だよ」
アクサラ様というのは、東北地方F県に伝わる都市伝説だ。といっても古くから語り継がれていたわけではなく、最近になって、頻繁に目撃情報が上がってきたという比較的新しい都市伝説である。
目撃情報に一貫しているのが、その奇抜な風体だ。つばの広い、真っ赤な帽子に真っ赤なコート。眼球がない。他には口が耳まで避けていただとか、左腕が醜く傷付いていただとか、そんな証言もあるらしい。
その風体は、誰しもに見えるわけではない。性別的に言えば、女性より男性のほうが見る可能性が高いのだという。何故なら、アクサラ様は無類の「男好き」だから。自分が気に入った男の前に頻繁に現れるようになり、24時間体制、ずっとつきまとうのだそうだ。家の中にいようと、仕事中だろうと、外出中であろうとお構いなし。行く先々に現れ、ずっと見つめてくるというのだから……ストーカーのような存在である。
アクサラ様に遭遇しないようにする術はない。というのも、アクサラ様自体が非常に気紛れで、場所や時間帯を選ばずに、自分の都合だけでヒョッコリ現れてしまうからだ。遭遇してしまい、悔しくも見えてしまった場合の応急処置としては、「目を合わさない」「指をささない」「息を止めて速やかに立ち去る」くらいしかない。それらを破ると、最悪の場合、どこかへ連れ去られてしまうのだとか。
補足となるが、アクサラ様というのは、こちらは古くから伝わる民間伝承「八尺様」だという説もある。八尺様というのは、2メートルもある巨体に「ぼぼぼぼぼぼ」という奇妙な笑い方をする、白い服を着た女である。八尺様もまた無類の男好きであり、気に入った男がいれば数日のうちに殺してしまうのだとか。
昔は八尺様を村から出さないように、各地に地蔵を置いて通り道を塞いでいた。だが、何者かがどういった目的かは定かではないが、地蔵の1つを壊してしまった。その地蔵が塞いでいたのが、F県に通じる道だったという。
そのため、アクサラ様は東北地方F県より迷い込んできた八尺様ではないかとも言われている。それを裏付ける証拠に、地蔵が壊された時期とアクサラ様の目撃される時期がほぼ一緒らしい。
果たしてアクサラ様とは八尺様であるのか……。確かに色々と共通点が多いのだが、未だに解明はされていない。
「つまりー、欧ちゃんはー、」
姉さんは悪戯っぽい笑顔を浮かべ、俺の鼻を指先でツンとつつく。
「アクサラ様に好かれちゃったってこと♪」
「……………」
嬉しくない。ゴクリと固唾を飲み、今更ながらにジーパンの腰部分を握らずにはいられなかった。アクサラ様は一体、ジーパンを引きずり下ろして何がしたかったのか……考えるだけでも下半身が疼く。勿論、違う意味で。
危なかった……。引いたはずの冷や汗がまた吹き出してきた。
姉さんは俺の手を引っ張って立たせると、窺うように応接室の扉を見た。そしてもう大丈夫だと思ったのか、「帰ろっか」と言って歩き出した。
「ありがとう……。また姉さんに助けて貰っちゃったね」
廊下を進みながらお礼を言うと、姉さんはぴたりと立ち止まり、真っ直ぐ俺を見た。
「私ね、今日初めて、自分の生まれに感謝したよ」
「……?」
「卑しくも呪われた家系の末裔であることに、ずっと劣等感を感じて生きてきた。でもね、欧ちゃんを守るためなら、血液なんか幾ら穢れたって構わない。私は私であることを誇れるよ」
だから、と。姉さんは少しだけ泣きそうな顔をして俺を見た。
「私のことーーーずっと呼んでね」
姉さんって呼んでね。
◎◎◎
その後の話をちょっとだけさせて貰いたい。
ビルを出た俺達は、アクサラ様にも八尺様にも追い掛けられることなく、無事に近所のスーパーでカレールーを買って帰った。ずぶ濡れの俺達は、スーパーの買い物客から不審な目で見られていたけれど……姉さんは堂々と悪びれなくして振る舞っていたため、俺もそこまで心苦しくはなかった。1人より2人ーーー1人っ子より姉弟。むしろ心強かった。
それから姉さんお手製の奇妙な味がするカレーを食べ、一緒にお風呂に入って背中を流しっこし、それぞれに就寝。ごくごく当たり前の日常に戻れたというわけだ。
あれ以来、俺はアクサラ様や八尺様に遭遇していない。金輪際、出会いたくない相手ではあるが、どうなるかは分からない。こちらが会いたくなくても、向こうにその気があれば、再びアポなしで来てしまう場合も有り得るのだ。その時はその時でと腹を括り、無視を決め込むしかないのだろうけど……
俺には姉さんがいる。ずば抜けて逞しく、神様ですら追い払ってしまうという豪腕な姉さんが。それにいつだって甘えてしまうこの身で言うのも気恥ずかしいが、敢えて恥を忍んで言わせて貰う。
同性の諸君。くれぐれもアクサラ様や八尺様には気をつけてほしい。
触らぬ神に祟りなし。先人もまた、そう忠告しているだろう?
作者まめのすけ。-3