「誰かがやらなくてはならない」
そんな言葉を聞いたことは、誰にでもあるだろう。ボランティア活動であったり、社会運動の一環であったり、はたまた何らかの献身的行為だったり。行動を起こす前の常套句とされるくらい、よく耳にする言葉だ。
一見、妥当的な言葉だと思うかもしれない。聞こえがいい言葉であるし、決意表明を表した力強い言葉だと言われれば、それは確かにそうなのだけれど。
しかし。俺の姉さんに言わせてみれば、「ただのご都合主義。他人に全てを丸投げしただけ」なのだそうだ。
「誰かがやらなくてはならない。その“誰か“って誰のことだ?“誰か“の中に、“自分“は含まれているのか?違うね。この場合の“誰か“っていうのは、自分以外の“誰か“ってことなんだよ」
自分以外の誰か。つまりは他人だ。
「私には関係ないから。私には無理だから。私はやらないなら。私はやりたくないから。だから私以外の誰かさん、どうか頑張ってーーー暗にそう言ってるだけ。誰かがやらなくてはならないのなら、自分がまず最初にやるべきなんじゃないかと思うけどね」
「誰かがやらなくてはならない」
あなたはいつ、どんな時にこの言葉を使う?
そして、あなたが言う「誰かがやらなくてはならない」という言葉にある“誰か“とは、いったい誰のことを指し示しているのだろう。
◎◎◎
その日は確か13日の金曜日だったと思う。13日の金曜日といえば、イエス・キリストが処刑された日だとか殺人鬼ジェイソンがやってくる日だとか、一般的に不吉とされている日付なのだけれど。
しかし、一介の中学生であるこの俺ーーー玖埜霧欧介にとってみれば、13日の金曜日というのは祝日でも祭日でも休日でもなく、単なる平日以外の何物でもないという感想くらいしかない。しいて言うなら、土日の連休前の平日。
部活といえば帰宅部に所属している俺は、寄り道などせずに真っ直ぐ家へと帰る。別に早めに家き帰る理由もないのだが、それと同じくらい寄り道する理由もないのだった。だが、帰宅して玄関の扉を開けるのとほぼ同時に、制服姿のままの姉さんがヒョッコリ顔を出した。姉さんは地元の高校に通う華の女子高生なのだが、俺と同じく帰宅部である。つくづく集団行動に向かない姉弟といえる。
姉さんは「おかえり。じゃ、行くよ」と、何の説明もないままに俺の手を掴んで歩く。それは家の中ではなく、たった今くぐってきたばかりの門扉をくぐり、どこに行くのか知らないが歩き始めた。
おかえりと言われたのにも関わらず、家に入れないというこの状況。鳩が豆鉄砲を連打されたような顔をしている俺に、姉さんはあまり親切とは言えない提案を打ち明けてきた。
「昨日、新しく古書店がオープンしたんだって。稀覯本が見つかるかもしれないから付き合って」
「あー、姉さん好きだもんねぇ……」
華の女子高生である姉さんーーー玖埜霧御影の趣味は、怪異に纏わる小説や画集を収集することである。休みの日もブラブラと遠出しては、書店に入り、1時間でも2時間でも立ち読みして過ごすことが出来る大御所である。
最近では古書店巡りも好きになったようだ。どこからの伝手なのかは知らないが、どこそこに古本屋があるとか開店したと聞くと、思い立ったように出掛けては、ごっそりと本を買い漁ってくる。
お陰で姉さんの部屋は本だらけだ。活字離れを嘆く世の中ではあるものの、姉さんに至っては活字埋もれだ。本棚に並べきれない物はフローリングやクローゼットの中にまで進出してきている。
少し前までは、普通に大型書店で買ったような新品の本が殆どだったけれど。最近では古書店で買ったであろう、表紙が黄ばんでいたり、長いこと何人もの人によって読まれてきましたと豪語しているような古めかしい表紙の本も増えてきた。
姉さん曰わく「大型書店では手に入らないような貴重な本が、古書店で見つかったという例が幾つもある」とのこと。中には既に絶版に追い込まれていて、注文すら出来ない状態であっても、古書店でその本が見つかったりしたこともあるらしい。
「新品の本より、何人もの人々によって読み継がれ、頁を捲られ続けた本こそ、趣を感じるし尊くも思える。その人がその本とどういった経緯で巡り会い、どんな思い入れがあったのかも分かるようで興味深いよ」
姉さんは感慨深くそう言うけれど。しかし、姉さんと違って読書などまるでしない俺からしてみれば、本屋に行ってもつまらないだけである。そりゃあ、時たまに学校で読書感想文の宿題が出されたりした時は嫌々ながらも読むけどさ。少なくとも自分から進んで読書をすることはない。
それに……別に潔癖症を気取るわけじゃないけれど、俺としては古書店で取り扱われている古本がどうにもーーー読む読まない以前に触ることに対しての抵抗があるのだ。
汚いってわけじゃあないんだろうが、やはり古本となると、誰かが1度購入して、読み飽きたのか小遣い稼ぎにか知らないけれど、売られた物だ。当然、新品のようにビニールで包装されてはいないし、古書店に足を運んだ常連の客がとっかえひっかえ手に取って頁を捲ったかもしれない本なのだ。
そう考えると、何人もの人の手が触った物にはあまり触りたくないと考えてしまう。コンビニで
オニギリを買う時、なるべく人の手が届き辛い奥のほうから選ぶのと心境的には一緒である。
だからこそ、今回のお出掛けも気乗りしないのだけれど……泣く子が更に泣き喚く姉さんからの誘いをお断りするだけの気力もないので、仕方なしに同行する俺だった。
姉さんが行きたがっている古書店までのルートとは、バスか電車を使って移動するという手段があり、俺達は電車に乗って向かうことにした。姉さんが2人分の切符を買っている間、俺はぼんやりと突っ立っていたのだけれど……「あの」と話し掛けられたことにドキリとした。
見れば、動きやすそうなグレーのパンツスーツに踵の低い黒いパンプス。肩には仕事用だと思われるA4サイズの書類も楽々おさまりそうな大きめの鞄。肩まで揃えた黒髪の女性がしっとりと微笑んでいた。左目の下に泣き黒子があり、それがいやに魅力的で印象的だった。
無論、知り合いではない。出で立ちからして、OLさんかな。
彼女はスーツのポケットから何かを取り出し、黙って俺に差し出した。反射的に視線を送ると、それは切符だった。
「あげます」
「え……。この切符を、ですか?」
「はい。使って下さい」
意味が分からない。確かに俺はこれから電車に乗るし、切符は必要なのだけれど。俺の切符は姉さんが買ってきてくれるし、そもそも見ず知らずの人から切符を貰う謂われも理由も見当たらない。
「いえ、結構です」
やんわりとお断りをしたのだが、彼女は引き下がらなかった。しっとりと微笑んではいるが、どこか冷めたような薄い笑い方だった。
「あげます。私には必要ないので」
断固として繰り返す。必要ないというのはどういう意味だろうーーーもしかしたら自分も電車を利用するつもりで切符を買ったはいいものの、行き先を間違えて買ってしまったとか?しかし、もしそうだとすれば、駅員に事情を話してお金の払い戻しを頼んだらいいのに。
そう話そうとした矢先、彼女は俺の右手を掴み、半ば強引に切符を握らせた。そして無言で会釈をし、足早に立ち去っていった。何なんだ。
「切符なんかいらないのに」
手のひらに載せられた切符を見る。そこでおやと気付いた。
切符には自分が乗った際の駅名と、行き先である駅名とが表示されている。彼女から渡された切符にも確かにそれらは表記されていたのだけれどーーー問題は行き先である駅名だ。
「ひつか」
平仮名でそう表記されていた。ひつか。確かにそうある。しかし、ひつかなんて聞かない名前だ。よくこの路線は利用するけれど、ひつかなんて名前に聞き覚えはない。
もしかして新しく出来た駅の名前なのだろうか。よく利用するとはいえ、毎日ではない。今日のようなお出掛けの時に利用するくらいなので、知らない間に新しく出来た駅があっても、まあ不思議ではない。
「欧ちゃん、そろそろ電車来るよ。行くよ」
姉さんが俺の肩をポンと叩く。俺は彼女から受け取らされた切符をジーパンのポケットにねじ込み、姉さんと共に改札を出た。
◎◎◎
電車の中での過ごし方といえば色々あるだろう。降りる駅に着くまで居眠りをして過ごす人もいれば、スマホで音楽を聴いたりゲームをして暇を潰す方法もある。
俺は前者のほうであり、もっぱら降りる駅に着くまで寝て過ごすのがよくあるパターン。姉さんはそこは流石に読書家であるので、暇さえあれば本を読む人なので、持参した本を開いていた。
さあて、では寝るかーーーそう思い、目を閉じる。大体、20分もあれば着くそうなので、それまで軽く寝ていようと目論んだが、その目論見は脆くも崩れ去った。
「はむはむはむはむ」
左隣に座っていた姉さんが、いきなり俺の耳朶をはんだからだ。間違えた、噛んだからだ。これには流石に飛び上がった。
「なななな何するの!お腹空いたの?」
「違うよ。欧ちゃんが寝そうになったから起こしただけ」
それならも少しソフトに起こして貰いたい。
「居眠りなんてしないで、これ見てよ。これ、最近やっと手に入れたんだ。どこの本屋に行っても絶版で取り寄せ不可能だったし、ネットで探してもなかなか見つからなかったんだけど……ようやく探し当てたんだ」
子どものようにはしゃぎながら、姉さんは分厚い本を俺に見せてきた。題名は「夜目遠目傘のうち」。作者名は「足立ヶ原公康」とあった。題名も知らなければ作者名も聞いたことがない。更に言えば興味もない……。
姉さんはうっとりとした表情を浮かべ、まるで好きな人からの贈り物であるかのように、大事そうに本をギュッと抱き締めた。有頂天気味だ。
「足立ヶ原公康はデビューしたのも遅かったし、遅咲きの才能を開花したわけでもないし、読者層は狭いし、文体や全体的なイメージも独創的で独特で毒々しいし、一部の熱狂的なファン以外からは、あまり支持されていない売れない小説家なんだよ」
うっとりとした表情とは裏腹に、姉さんの評価は手厳しいものがあった。一部の熱狂的なファンの中に姉さんも入ってはいるのだろうから、そこはそれもう少しオブラートに包んだ物言いをしてもいいはずなのに。
姉さんは陶酔しきった様子で続ける。
「何せ売れなかったからね。小説も漫画もそうだけれど、売れる作家は脚色を浴びて各方面から絶賛され、ドラマ化だ映画化だ、やれアニメ化だなんて言われるけど。逆に売れない作家なんて惨めだよな。連載を打ち切られ、本屋にも本は置かせて貰えなくなり、やがて出版会からひっそりといなくなるんだもん。いなくなったからって別に誰からも心配されないだろうしね。同情は少しはされるかもしれないけど」
「ふーん、足立ヶ原公康ね……。どんな小説を書いてるの?」
「書いている、とは言えないな。書いていた、と言ったほうが正しい」
シュールな話だなあ……。作家になりたいと願っている人はそれこそ星の数ほどいるだろうし、星の数ほどいたところで、夢を叶えられる人はほんの一握りなのだろうけど。
それで成功する人もまた、一握りなのだろう。
「例え作家になれたとしても、ヒットを出し続けなくちゃいけないからね。一発屋だなんて以ての外。デビュー作がめちゃくちゃ面白くても、それに続く作品がないと食っていけないだろうし」
「足立ヶ原公康は、デビュー作とかはどうだったの?売れない作家とか言ってたけど……結局、これまでに何冊出したの」
「これがデビュー作であり、最後の作品でもあるんだよ」
身も蓋もないことを言って、姉さんは「夜目遠目傘のうち」を目で示した。デビュー作が最後の作品となるとは……ある意味、物凄い快挙かもしれない。
その後、姉さんは読書に勤しみ始めたので、折れはようやく目を閉じ寝る体勢に入った。電車の揺れも手伝い、心地よい揺れにまどろみながら、うつらうつらしていると。
「……おい」
脇腹を肘鉄され、また飛び起きた。姉さんが怒った表情を浮かべ、俺を睨んでいる。
「な、何?どうかした?」
「どうかしたかじゃないよ。お前、また何か変なことしでかしただろ」
変なこと……はて。思い当たることが見つからないのだが。それはそうと、電車が止まっていることに気が付いた。先ほどから全く振動を感じないのだ。慌てて見渡すと、どうやら駅に停車中のようだ。
「ここどこ?まだ着いてないんだよね?」
「……着いたんだよ」
姉さんが苦々しく呟く。そうだとしたらーーーそれこそ変だ。確か20分は電車に乗ると教えられていたけれど、乗ってからまだ5分くらいしか経っていない気がする。いやでも、俺はうたた寝をしていたから、時間の経過があやふやになっているだけかもしれないが。
それに、着いたのだとしたら何の問題もない。電車を降りれば済むだけなのだが、姉さんはすぐに降りようとはしなかった。電車も何故か停車したまま、動く気配がまるでない。
まるで。俺達が降りることを待っているかのようにーーー。
よくよく見渡せば、俺達以外に乗客の姿は見受けられない。もしかしたら他の車両にはいるのかもしれないが、不気味なほどシンと静まり返っている。
電車に乗り込んだ時は、混んでこそいなかったけれど、ちらほらと乗客の姿はあったのに。全員が全員、俺がうたた寝をしている間に降りただけなのだろうか。
そんなことを考えていると、姉さんが舌打ちをしながら立ち上がった。「行くよ」とだけ言い、開いている扉から降りる。俺もまた、わけが分からぬまま、姉さんに続いて電車を降りた。
「ふあ……」
降りた駅の異様さにまず気付いた。真っ白なのだ。ホームの至る所、ベンチやゴミ箱までが白い。真っ白け。白、白、白。あまりに白くて、目がチカチカする。
「参ったな……。噂には聞いてたけど、ガチで迷い込むとは思わなかった」
忌々しそうに吐き捨て、姉さんは口を尖らせた。そしていきなり俺が着ている服のあちこちをまさぐり始めた。まるでボディーチェック。触る必要がない箇所まで触られた気がしたけれど、殺気立ってる姉さんに文句を言えるほど、俺は自分の命を粗末にはしない。
「……あった」
姉さんは俺のジーパンのポケットにねじ込まれていた切符を取り出した。それは電車に乗る前、OL風の女性から手渡された物だ。
「それ、貰っちゃったんだよ……。いらないって言ったんだけど、無理やり握らされて……」
言い訳がましくごにょごにょと言ってはみたが、やはり姉さんは不機嫌そうだ。雷が落ちそうなその予感に、俺は「ごめんなさい」と小さい声で謝った。
カランコロン。カランコロン。カランコロン。カランコロン。
聞き慣れない音が近付いてきた。はっとして顔を上げると、どこからか5~6歳くらいか?赤い着物に身を包んだ、おかっぱ頭の女の子が下駄をカラコロ鳴らしながらこちらに向かって歩いてきた。
卵形の小さな顔は透き通るほど色白で、薄い眉の下にはクリクリとした黒目がちの大きな瞳。これまた小さな鼻と小さな唇。可愛らしい女の子なのだが、どこかしら生意気そうな、斜に構えた顔立ちをしている。
迷子か?近くに保護者らしき人影は見当たらない。というより、その女の子以外には人っ子一人いない。ホームはがらんとしており、電車が入ってくる様子もなかった。
「あんちゃん。姉ちゃん。どしたん?今日はもうここに来る人間はいないと思ってた。どして今頃来たんよ」
女の子は不思議そうな顔をしてそう聞いてきた。姉さんはずいっとその女の子の前に立つと、やたらと偉そうに、平然と悠然と、腰に手など当てて言った。
「迷った」
キッパリそう言った。言い切った。女の子はぽかんとしている。
俺は内心、ヒヤヒヤのし通しだった。女の子が泣くんじゃないかと思ったからだ。姉さんは女の癖に子どもが大嫌いなのであるーーーまあ、女の人が誰しも子どもを好きであるとは限らない。幾ら母性本能があるとはいえ、苦手だという人もいるだろう。
だが、例え子どもが苦手だという人でもーーーこれは男女限らず、分別のある人間ならそうするだろうが、子ども相手にやたらと威張ったり、子どもが萎縮するような態度は取らないだろう。無視するというか相手にしないことが精々であり、わざわざ子どもを怖がらせるような真似はしないはずだ。
だが、姉さんはそうなのである。子どもを嫌うあまり、子どもを怖がらせるのだ。子どもの他愛のない悪戯にも容赦しないし、笑って許すこともない。大人気ないのである。
これまで泣かしてきた子どもは数知れず。そのエピソードは語るに多過ぎて、ここでは割愛させて頂くけれど……とにかく姉さんは子ども相手に容赦ない人なのだ。
おかっぱ頭の女の子も、姉さんの毅然とした態度に怖がって泣いてしまうんじゃないかとドキドキしたが、女の子は泣きはしなかった。怖がっている風にも見えない。そりゃあ驚いてはいるようだが。
だが、女の子は「ふうん」と頷き、探るような目つきで俺達を眺める。その間も姉さんは無駄に凄んでいるようだったので、これは任せておけないと判断した俺は、「やあ、お嬢ちゃん」とにこやかに笑いながら2人の間に割って入った。
「僕達、本当は別の駅に行くはずだったんだけど、間違えて降りちゃったんだよ。お嬢ちゃんはどうしたの?パパやママは一緒じゃないのかな?」
「あんちゃん。うち、見掛けはこんなんだども、あんちゃんが思ってるよりもずーっとずーっと婆ちゃんなんよ」
女の子は紅葉を思わせる小さな右手をスッと前に差し出すと、人差し指と中指の2本を立てる。つまりピースをした。それはただのポーズかと思ったが、
「200歳なんよ、うち」
姉さんがペシンと俺の頭を叩いた。
「いい加減気付け。この子は人間じゃないし、この駅もまた、人間界にあるそれじゃない」
「人間じゃない……?」
「うん。うち、人間じゃないんよ。姉ちゃんの言う通りーーーここはあんちゃん達がいる世界の駅じゃない。ひつか駅っちゅう地獄よ」
女の子はニッと笑い、カラコロと下駄を鳴らしながら、俺を見上げた。そして自分自身を指差す。
「うちね、ここの所属長なんよ。地獄には色んな行き先があって、それぞれその地獄を仕切る所属長がいる。で、うちはこのひつか駅の所属長を務めてる。ここはね、主に電車で自殺した人間が堕ちる地獄よ」
「や、ちょっ、ちょっと待って。俺にも分かるように、もっと分かりやすく説明してよ」
急にここは地獄だの、ひつか駅だの、電車で自殺した人間が堕ちるだのと言われても、理解が追いつかない。こんがらがるだけだ。だが、女の子はブンブンと大きく首を振った。200歳だと自負する割には、子どもっぽい仕草だ。
「見る限り頭の悪そうなあんちゃんに付き合って説明してたら、うちの仕事に支障が出かねんもん。うちは1度しか言わん。それで理解出来ないなら諦めるしかないな。うちはそこまで親切でも暇でもないんよ」
「……すいません」
なるほど、流石は御身200歳。会って話をしているだけで、瞬時に俺が頭が悪いと見抜いたらしい。貫禄があるというか、これが年寄りの功ってやつか?
「自殺は最も罪の重いーーー言わば最上級の罪状だ。親殺しよりも、他人殺しよりも、他のどんな罪よみも断然重い。自殺した人間には同情や憐れみの余地はないんだ。問答無用で地獄に堕とされ、永遠に苦痛と絶望を味わうことになる。……ひつか駅。本で読んだことはあったけれど、まさか本当に存在するなんてね」
姉さんは肩を竦めた。
「ひつか駅ってのは、地獄の一種だよ。数ある地獄の中のほんの1つ。電車によって自殺を図った人間が行き着く地獄だ」
「見てみ」
女の子は懐から何かを取り出し、俺に差し出した。
「これ、何か知っとる?」
「……ストロー、だよね?」
そう。女の子が懐から取り出したのは、間違いなくストローだ。ジュースを飲む時に使うアレ。ストローくらいなら知っているが、何故に女の子がこのタイミングで出した意図が掴めないのだが……。
「ストローがどうかしたの」
「これでちゅーって吸うんよ。脳味噌を」
「ぶっ」
吹いてしまった。可愛い顔して何つー猟奇的なことを言うのだ。ちゅーって。それもまた可愛い擬音だけども。
「言った通り、ここーーーひつか駅は地獄。地獄っちゅうんは人間に快楽の一切を与えん。代わりに痛みと苦しみを、それもとびっきりスパイスの効いたお仕置きを用意してるんよ。ストローで脳味噌を吸うのもお仕置きの1つ。鼻の穴にストロー通して、粘膜破って脳味噌を吸う。脳漿もな……勿論、麻酔なんてせんから痛いなんて言葉じゃ済まない。し、死ぬことも出来ん。元々死んどるからね。だけど、痛みと苦しみは未来永劫、いつまでも続く」
女の子は手を伸ばし、俺の尻を撫でた。そしてニヤリと意地の悪い笑い方をする。
「ストロー突っ込むんは、何も鼻の穴だけじゃあないんよ。時たまここにも突っ込んで、腸のーーー」
「やだやだやだやだやだやだ!!!それ以上言わなくていいよ!!聞きたくない聞きたくない!!」
「あんちゃん、知っとった?脳味噌ってな、お豆腐くらいの柔らかさなんよ。味は……えーと、何て例えたら分かりやすいかな。あんちゃん達の世界で近い味を持つ食べ物はーーー」
「止めてって言ってるじゃんかぁ!」
しばらくお豆腐が食べられなくなりそうだ。
「続いてはこれ。何か分かる?ストローに続くうちの愛用品なんよ」
「うん、爪切りだね……。見れば分かるよ。でもどういう使い方をするのかは、言わなくていいからね」
俺はげんなりしながら答えた。爪切りが出てきたのが懐ではなく、女の子の口の中からだったということに、ツッコミを入れることも忘れて。
胃の中にでも入れておいたんだろうか……。いや、人間ではなく怪異であろう女の子に、胃とか腸とか、人間のような器官があるとは考えにくいけれど。
「他にもな、スプーンだったりフォークだったり、分度器やコンパスなんて時もあったかな。いずれも人間界にある身近な物を使って、お仕置きするのがうちの流儀。人間は使い慣れた道具でお仕置きするのが1番なんよ」
使用用途は間違ってるんけどね、と。女の子は笑った。何ていうかーーー人間とはかけ離れた、独特の笑い方だ。
「あんちゃん。姉ちゃん。なしてこのひつか駅に来たんかは分からんけど、早く戻ったほうがいい。うちはまだ分別が利くほうだから、あんちゃん達が間違って迷い込んだっちゅうことは理解してる。見逃すことも出来る。でも、」
女の子はチラリと線路側を見た。
「うちの仲間が見逃してくれるとは限らんよ」
やたらと軽快な、遊園地でよく耳にするような子ども向けのメロディーが聞こえてきた。喇叭や太鼓も加わり、今にも行進したくなるような音楽だが、この場所にはあまりにも不似合いだ。
つられるように線路側を見る。すると、遊園地でよく見掛けるような、それもまた子ども向けの電車を模した乗り物ーーーが普通に線路を走っていた。1番先頭に乗っているのは……猿。着ぐるみではない、正真正銘の猿だ。ちゃっかりと車掌の衣装に身を包み、二足歩行しているところが、微笑ましくもあり不気味でもある。
猿以外にも兎や犬、猫、馬……まるでブレーメンの音楽隊が実写化したのでは、と疑うほどの絵面だが、よくよく見れば、動物達は手に何かを持っている。
「缶切りだ……」
缶詰めを開ける時に使うアレ。そして動物達は、手に持つ缶切りを正しく使うつもりは毛の先ほどないのだろう。それくらいは疎い俺でも察しがついた。
「御免だね。下等動物なんぞのリンチに遭って殺されるようじゃあ、玖埜霧御影の名が廃る」
姉さんはずっと持っていた切符をビリリと破った。「ひつか」と表記されているその切符を、まるで親の敵であるかのように、憎々しげに、破り捨てる。ヒラリと足元に落ちた紙片に対しては、グシャリとローファーの底で踏み潰した。
「ふん。まあ、ええよ。今回ばかりは見逃がしてあげる。姉ちゃんは結構、厄介な人間みたいだし。うちの手に負えないかもしれんしね。……そうそう、頭の悪そうなあんちゃん。あんちゃんはようく聞いとき」
女の子は可愛らしい笑顔で、可愛らしくない台詞をお土産にくれた。
「今度、あんちゃんがここに来たらーーーそん時はうちがあんちゃんの脳味噌、吸ってあげるね」
◎◎◎
「ーーー、」
目が覚めた。そこは電車内であり、規則性のある「ガタンゴトン」という可動音が辺りに響く。混んでいるとは言えない車内には、ほつりほつりと人の姿があった。
「起きたんだね。よく寝てたよ。私の肩を枕代わりにしてね」
ぱらりと頁を捲る音がした。見れば、左隣に座る姉さんが膝に置かれた本から視線を外さずに声を掛けてきたのだと知る。
「次で降りるよ。ちょうど良く起きてくれて良かった」
「嗚呼……、うん」
まだ寝ぼけ塩梅な俺は目を擦る。さっきまで嫌な夢でも見ていたんだろうか……。夢の内容までは夢うつつで、よく覚えていないんだが。でも、夢見が悪い。
やがてアナウンスが流れ、もうすぐで次の駅に着くことを告げられる。姉さんは読み掛けの本をパタリと閉じ、「いいこと教えてやろうか」と呟いた。
「足立ヶ原公康っていうのはペンネームで、実は女なんだよ。ネットで写真を見たことがあるんだけど、左目の下の泣き黒子が印象的だったな」
◎◎◎
とある月曜日のこと。俺は珍しく、図書券に行くため、駅へと向かっていた。運の悪いことに、学校から宿題として、読書感想文を提出するように言われたからだ。そうでなければ、この俺が自主的に図書館に行くはずがない。
そもそも、読書なんて滅多にしないし。
隣町に割と大きな図書館があるので、そこに向かうことにした。学校帰りでそのまま家に寄らずに向かうので、学生服のままである。
駅に着き、隣町までの切符を買っていた時だ。「ちょっといいですか」と背後から声を掛けられ、振り向く。
そこには30代後半と思しきダンディーな男性がにこやかに立っていた。グレーのジャケットを品良く着こなした、なかなか渋いおじさんだ。彼は鞄を持っておらず、身1つのようだ。
「君にお願いしたいことがあるんだが」
男性はにこにこと愛想良く言った。俺もまたにこにこと、端から見れば気持ち悪いくらい親しげに笑うと、一言。
「すみません、急いでいるので」
そのまま踵を返し、その場を後にする。幸いにも男性は俺を呼び止めようとはしなかった。それをいい機会にと、俺は早足から小走りにスピードアップする。
もしかしたら、彼はただ道案内を頼みたかっただけかもしれない。電車の乗り換えについて聞きたかっただけかもしれない。はたまた他の用事があって、たまたま目に入った俺に声を掛けただけかもーーーしれない。
困っている人がいたら、誰かが助けてあげなくてはいけない。誰かがーーーやらなくてはならない。それは当然と言われれば当然のことであり、善し悪し以前に道徳に基づく理念であることには間違いない。
「誰かがやらなくてはならない」。誰とも知れない誰かはそう言う。だが、逆を返せば、誰がやってもいいということだ。
あの男性がどういった内容の事柄を俺に頼もうとしていたのかは分からない。また、彼からのお願い事を引き受けたとしても、それはそれで無害なものであったかもしれない。
例えそうだとしても……前回の1件を未だに引き摺っている俺としては、しばらくは駅で誰かに話し掛けられても、関わりたくないと思うのが本音中の本音だ。
誰かがやらなくてはならない。あの男性からの頼み事を引き受けることは俺であってもいいし、俺以外の誰かが引き受けてもーーーいいんじゃないだろうか。それがどんな内容の頼まれ事であったにしても。
怪異の騒動に巻き込まれるのはーーー俺でなくてもいいだろう?
作者まめのすけ。-3