その幽という居酒屋のことを怪談居酒屋と聞いた時、僕はおどろおどろしい内装に、いかにもな感じの怪談師が夜な夜な怪談を語るような店をイメージした。
しかし、実際に店を訪れてみれば、綺麗でさっぱりした明るい内装に、年のころは30前後と思しき美人女将がいる何とも健全そうな店だった。
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強いて言うなら店の片隅でちまちまと酒を飲む坊主と思しき客が袈裟を着込んでいるのが少し異様だったが。
あの坊主が怪談でも話すのだろうか? 寒い冬の日だったので僕は熱燗なんかをちびちび舐めながら様子を伺った。
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僕は売れない小説家である。もうほとんどアマチュア同然である僕は刺激的なネタを求めていた。とにかく何とか今の状況を僕はひっくり返したかった。
大ヒットベストセラーなんかなくてもいい、ただ小説で食えればそれでよかった。
だから幽の話を聞いた時、僕の嗅覚に強い反応があった。そこには何かある! と思ったのである。
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店内には坊主とうつむきがちな物思いにふける若い女性と女将そして僕。決して繁盛してるとは言い難い雰囲気だった。
都心から車で数時間の山がちなN県の地方都市である夜見乃市の外れにある立地では、まあこんなもんかという客入りではあった。
それにしても、待てども待てども何も始まらない。ついに耐え切れなくなって僕は女将に聞いた。
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「あの、すいません。ここは怪談居酒屋だと聞いて伺ったのですが、何か出し物とかしてるんじゃないようですが」
「あら、うちが怪談居酒屋ですか?」
そう言うと女将はクスクスと笑った。
「別にうちは怪談とか幽霊とかの出し物をしているんじゃないんですよ」
「と、いう事は僕が聞いた話はでたらめでしたか?」
「いえ、まあうちにその手の悩みを持たれる方が相談に来ることはありますよ」
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ふむ、と僕はうなった。
「相談とは具体的にはどんなもので?」
「まあ主に説明のつかないものの悩みですね」
「それはやはり怪異とかの……」
女将は小さく頷くと、店の隅の坊主を一瞥し。
「あちらの夢幻和尚がお経をあげてくださいますよ」
夢幻というその坊主は僕たちの会話にちらりとだけ反応し視線をよこしたが、またすぐ酒を飲み始めた。
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「お客様も何かお悩みをお抱えで?」
「いえ、僕は実は小説を書いてまして、その、何かネタはないかと」
妙に恐縮した気分になり、しどろもどろに僕は返事をした。
「申し訳ないですね。そういった悩みもプライベートな話題になるでしょ? だからそうそう気軽にお話とはいかないんですよ」
「ああ……それはそうですね」
「今、そういうの厳しいでしょ。うちは商売でそういう話を聞いているわけではないですけど、夢幻和尚が法要を上げるときは、いくばくかお布施を頂戴しているので」
「はあ……わかります」
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「それでも何もないのは、せっかく訪ねてくださったのに申し訳ないですわね……」
女将さんはちょっとだけ困ったような表情を浮かべてから、店の隅の坊主に目を向けた。
「夢幻和尚、何かお話できますか?」
すると坊主は愛想のない顔の眉間にさらにしわを寄せ、
「拙僧は説法は苦手でして」
と、不愛想に答えるだけだった。
坊主なんて半分くらい話をするのが仕事だろうにと心の中で思ったが、僕は坊主に愛想笑いを投げかけるに留めた。
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「あの……少しよろしいでしょうか?」
僕らの話をじっと黙って聞いていた若い女性がおずおずと手を上げた。
「ええ、なんでしょう?」
「その……相談に乗って欲しいんです」
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女将はにっこりと笑うと、
「私たちで助けになるなら、どうぞお話ください」
「ありがとうございます……実は」
その若い女性はゆっくりと話し始めた。
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☆
あの、私神崎と申します。普段は東京でOLをしています。
ここへ伺ったのは、その奇妙な出来事の悩みを聞いてくれると知人に教えてもらって。
ええ、そうなんです。祟られたとかそういうのとは違うんですが。
あの……準を追ってお話しますね。
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あれは冷たい雨の日でした。ええ秋ごろです。雪になるんじゃないかってくらい冷たくて、そしてどんより曇って暗い日でした。
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定時に仕事を終えた私は、帰路に着いていました。私の自宅は職場から電車で20分くらいの郊外にありまして、電車に乗ったあとそこからまた20分くらいは歩かないといけないんですが。
朝に天気予報をチェックするのを忘れ、雨具がなかったんです。
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スマホで天気予報を見ると本降りなのは一時間程度でその後は曇りになるという話だったので、私は駅のカフェで雨宿りをすることにしたんです。
適当に安いドリンクを頼んで、ぼおっと人ごみを見ていました。
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用意の良い人はちゃんと傘を持っているんですね。私もビニール傘を買おうかとも思ったんですが、自宅にはいくつか使ってない傘があって、ゴミが増えるのも嫌だったんで、そのまま雨上がりを待つことにしたんです
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十分か十五分か人ごみを見ていると、ふとコインロッカーの前に女の子がいるのが見えたんです。あれ? あんなところに子供いたっけ? と思うくらい唐突に表れたように感じてどこか存在が薄いんですね。
でも、最初からその女の子を見たときにある種の既視感を感じていました。妙に気になるんです。
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迷子かな? と思ってしばらく様子を見ていました。
でも、その女の子に声をかける人はいませんでした。親と思しき人も現れません。
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この時時計を見たんです。予報の一時間までまだ時間がありました。私はその女の子に声をかけてみようと思ったんです。
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カフェの清算を済ませ、まばらな人ごみをかき分けてその女の子に近づくとますます既視感は強くなりました。どこで見たんだっけ? 記憶を探ってもそれはおぼろで。
でもどこかで見たという感じはやっぱりありました。
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グレーを基調にした品の良いワンピースを着ていて、髪はおかっぱ、すすり泣くように泣いていたのですが、顔は可愛らしかったと思います。
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「どうしたの? 大丈夫?」と声をかけてみました。女の子は私を見上げました。その時ぞくっとしたんです。私が感じる既視感が何かを訴えているようでした。
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女の子は私の顔を一瞥するだけで、また泣き始めてしまいました。
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「迷子になっちゃったのかな?」と言っても何も答えませんでした。ただしくしくとすすり泣くんです。迷子になったというよりも何か悲しいことがあったかのようでした。
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どうしよう、交番に届けようかしらと思って。
「お母さんはどうしたの?」
と、訊くと女の子はピタリと泣き止んだんです。
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泣き止んだ女の子が私の顔を見つめました。目が合った時心臓がドキリと跳ね上がりました。そう……その娘は。
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「お母さんは……お前だっ!」
そうです。似すぎていたんです。私の子供の頃に。
そうして、女の子の顔が私を睨んだ後、ふと緩んで悲しそうなでも半分笑ったような不思議な表情をしました。
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あまりのショックに眩暈を感じました。そしてふと見るとそこにはもう女の子は居ませんでした。
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☆
「その話はまさにコインロッカーベイビーの都市伝説のようですが」
僕がそう言うと神崎さんはこくりと頷きました。
「拙僧も聞かせてもらいました。神崎さんはそのコインロッカーに子供を遺棄したことは?」
いつの間にか店の隅にいた夢幻和尚が僕たちのすぐそばまで来て言った。袈裟に染み付いた香の独特の香りがした。
「そんな残酷なことはできません」
神崎さんは強くかぶりを振った。
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「でも……あるんですね。心当たりが?」
「うっ……ううぅ」
すると神崎さんは泣き出した。
女将さんが神崎さんのところへ来て背中を撫ぜる。
しばらく泣いていた彼女が面てを上げた。
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「若い時に子供を堕胎しています」
学生時代に望まぬ妊娠をして、神崎さんは産むつもりだったが、相手方の両親から酷く反対され、やむなく中絶をしたのだそうだ。
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「やっぱりあの娘なんでしょうか?」
「恐らくは」
「恨まれて当然ですものね」
「拙僧は必ずしも恨みから現れたとは思いません」
夢幻和尚がそういうと神崎さんが目を大きく見開いた。
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「拙僧が思うに神崎さんの堕胎した娘さんが、コインロッカーベイビーの怪異となり姿を現したのは間違えないとは思います」
「やはり恨んでたんじゃ」
「その前にその都市伝説についてまとめてみようじゃないですか。作家殿、できますか?」
「え、ええ」
急に話題を振られて僕は少し焦ったが、一応怪談を語るものとして最低限の知識はあったので、僕はその都市伝説について軽く語った。
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コインロッカーベイビーはまさに伝説的な都市伝説だ。
1971年にコインロッカーに乳幼児の遺体が遺棄されていたことに端を発し、その後数年間にわたって年数件くらいの同じような乳幼児の遺棄事件が発生。
ピーク時には都市部のターミナルだけで年40件ほどの遺体遺棄があり社会問題となりました。
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この実話をもとにした怪談が流行り、いくつもの文芸や映像、音楽等の作品に影響を与えました。
一番有名なのは1980年の村上龍の小説『コインロッカーベイビーズ』でコインロッカーに捨てられた二人の子供の数奇な運命を描く小説です。
件の怪談については、遺棄された乳幼児が生みの親に復讐するというプロットの類話がいくつもあり、子供を見つけるのは大体母親です。
大本は古くからある乳幼児を遺棄すると生まれ変わった子供や、子供の霊が目の前に現れる復讐譚が原型になっていると推測されます。
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「子供は自身の存在を見せつけるのを復讐とし、祟るとか呪われるとかいう類の話ではないですね」
僕の言葉に夢幻和尚は軽く頷いた後、
「拙僧、思うに目的は自身の存在を見せつけることで、必ずしも復讐が目的とは言い切れんのじゃないかと」
「そう……でしょうか? たしかにあの娘を堕胎したのは秋の雨の日で、たぶん日付も一致すると思います。メッセージ……なんでしょうか?」
「恐らくは……大方、人恋しくて出たんでしょうな、たぶん存在が希薄になりかかっていて、怪異の形を借りてでしか出てこれなかったんでしょう」
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「私……どうすれば」
「きちんと供養なさっては?」
「いません、あの……お願いしても?」
「拙僧でよければ、水子の戒名をあげて弔いましょう」
そして夢幻和尚と神崎さんはしばらく話をした後、連れ立って店を出た。
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「ふ~む、いつもこんなことをなさっているんですか?」
「まあ、度々です。夢幻和尚は生臭ですが、法力というか験力だけは確かな人ですから」
「いや、珍しい体験ができました」
「よかったですね。ここは不思議な出来事が交わる交差点の様な場所なんです」
僕はもう冷めたお酒をぐびりと飲んだ。なるほどここは怪談居酒屋だと思った。
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「そういえばこのお店の名前って」
「私の名前からです。夜道之幽子と申します」
こうして僕はこの奇妙な居酒屋の常連となる。その後も奇怪な話を何度も聞かされることになるが、それはまた別の機会に語ろう。
作者弾