熱い風が前髪を揺らす。
カーテンの隙間から射し込む陽射しがジリジリと肌を焼いていく。
今日ほど窓際の席になったことを恨んだことはない。 こんなにも辛い時間は初めてだ。
教室の中に間断なく続くチョークの音。 黒板の文字をノートに懸命に書き写すシャープペンシルの乾いた響き。 その一つ一つが僕の切迫した腹具合に拍車をかける。
時刻は午前10時5分、まだ2時間目が始まったばかりだ。
次の休憩まで30分以上もある。 やはりさっきの休憩時間にトイレに行っておくべきだった。 だが今更悔やんでも後の祭りだ。
参ったな。 心の中でそう呟き、流れる汗を制服の袖で拭った。 身体は暑いと訴えているのに上着を脱ぐ気分にはならない。 ここで下手に脱いで腹を冷やし、悪化させたくないのだ。
思えば今日は朝から最悪のコンディションだったような気がする。 学校に着いた時から下腹に妙な違和感があり、どこかおかしかった。
そしてその違和感は1時間目の終わり際刺すような鋭い痛みに変わった。 多分これは下痢だろう。 それも酷い下痢だ。 時折キュルルと下腹が鳴っている。
何か変な物でも食っただろうか? 思い出す限り別段気になるような物はなかったと思う。
今朝は母が用意してくれるいつもの朝食だった。 マーガリンをぬった食パン二枚とハムエッグと牛乳。
牛乳やマーガリンも賞味期限が切れていたわけではないと思う。 その手のことには母はうるさい方なのでまず無いはずだ。
もしや昨晩食べたカレーが悪かったのだろうか? しかしそれも考えづらい。 あれも普段母が作ってくれるカレーと何も変わりのない美味しいカレーだった。
しかし他に思い当たる節は何もない。 間食だってしていないし、水分もいつもとかわらない我が家に常備しているミネラルウォーターだ。
ではこの腹の痛みは一体なんだというのだろうか?
ヤバイ… そんなことを考えているうちに下腹がキリキリ締め付けられる。 ここはおとなしく手を上げて、腹痛を訴えトイレに行かせてもらおうか……。
教壇では社会科教師の山本が背中をこちらに向け、声を掛けるなと言わんばかりに一心不乱にチョークを走らせている。
少々声を掛けづらいがここはやむを得ない。 それに山本ならきっと大丈夫だろう。 穏やかで物分かりの良い生徒からも人気のある教師だ。 腹痛を訴えればすんなりトイレには行かせてもらえるはずだ。
しかし、手を挙げづらい。 羞恥心というものが僕を押さえ込んでしまう。
何故かは知らないが学校での大便はやはり抵抗がある。 昔からきっと… そう、僕が生まれる前、昭和の時代から学校での大便はタブー視されている。 この脈々と受け継がれる学校でウ◯コをしちゃ恥ですよ感が更に僕の下腹を苦しめ困らせているのだ。
それに学校のトイレで大便をしているところをクラスメイトに見られるとしよう。 きっとウ◯コ野郎と揶揄われるし、しばらくウ◯コ臭いとまで言われるはずだ。 それを想像しただけでゾッとする。
よしんば見られなくてもここで腹痛を訴え、トイレに行かせてもらえばクラスメイトに揶揄われる可能性もある。 それがなによりも嫌だ。
ついでにウ◯コをしづらい理由がもう一つある。 それはあくまで噂なのだが、この学校の便所にはトイレの腹子(はらこ)さんがでるらしいのだ。
この噂は数年前から連綿と続く怨念のようにこの学校では語られている。
腹子さんは学校の怪談で有名なトイレの花子さんと名前が似ている。 だがその謂れは全く違うものらしい。 トイレにでるのは一緒だが、腹子さんの場合はウ◯コがしたくてトイレに駆け込む人の前にしか現れないのだ。
細かい理由まではよくわかってはいない。 諸説あるが、昔この学校の女生徒が下痢で苦しみトイレに駆け込んだが、間に合わなくてもぐしてしまい、それを理由に虐められ、それに耐えらなくなった女生徒はトイレで自殺してしまったというのが有力らしいのだ。 因みに腹子というネーミングは腹を下してしまったことからきているらしい。
そしてその怨念が未だに晴らされず、大便で駆け込む人の前に現れ、様々な手段でウ◯コを漏らさせようとするらしい。 ある意味普通の幽霊より何倍も恐ろしい怨霊なのだ。
そんなの只の噂だと信じたいのだが、現に遭遇したという人を僕は知っている。 隣のクラスの斎藤(さいとう)君だ。 彼とは小学校時代6年間同じクラスで仲も良かった。 だからそんなくだらない嘘をつくような人間ではないことは僕が一番知っている。
ある日彼はウ◯コをもぐした状態で大便器の前で失神してるのが発見された。 しばらくはショックで学校を休んだみたいだが、今では見事に復帰しクラスメイトからはクサイトウ君とか霧隠才蔵をもじってクソまみれ斎藤と呼ばれ揶揄われてはいるが、元気に頑張っているようだ。
そんな斎藤君に失神した時のことを聞いたことがあった。
最初は覚えていないとはぐらかされたが、
「桐島(きりしま)なら信用してくれるかもな」
そう言ってポツリポツリと語ってくれた。
それは中学2年の1学期、夏休みも間近に迫る暑い日の出来事だったという。
「確か5時間目だったよ。 給食にあたったかどうかはしらないが急に腹が痛くなって、先生に言って授業を抜けだしたんだ」
彼の話ではその後トイレに駆け込み、一番手前の大便器のある個室のドアに手をかけて思いっきり開いたという。 すると突然湧いて出たように凄まじい形相の少女が眼前に現れ、
「お前も漏らしてしまえ」とドスのきいた低い声音で叫んだという。 一瞬何があったか解らず立ち尽くしていると、次の瞬間下腹に激痛が走り、その場に崩折れたというのだ。
少女は斎藤君の髪の毛を掴み、無理矢理立たせると連続で下腹にボディーブローを打ち込んだそうだ。 その後の記憶はないらしい。 あまりの激痛に意識を失ってしまったというのだ。
僕はその話を聞いた時は慄然とした。 普通そんな現実離れした出来事を信用すること自体おかしいと思うかもしれないが、彼の人柄とその鬼気迫る物言いで完全にトイレの腹子さんは現実のものとして僕の頭の中に刷り込まれていった。
もしも腹子さんに遭遇してしまった時、どう対処すれば良いのか皆目見当もつかない。
ヤバイ… 物思いに耽っている内に更に僕の下腹は悲鳴を上げている。 このままではもって数十分が限界だろう。 さてどうしたものか……。
「桐島君大丈夫? 顔色が悪いよ」
声のした方をふと見ると、隣席の田辺彩香(たなべあやか)が心配そうな表情で僕の顔を覗きこんでいた。 白いブラウスの胸元には赤いボウタイが風でフワフワ揺れている。
「大丈夫。 なんでもないよ」
僕はありったけの笑顔を作り、言葉を返したがその声は若干震えていた。
大丈夫な訳がない。 あと数十分で僕のダムは決壊し、激流となって下半身を伝い椅子にまでその凄まじい悪臭の腸内菌をぶち撒けるのだ。 そうなってしまっては僕の学生生活は終わりを迎えるだろう。
想像するだけでもゾッとする。 今後卒業を迎えるまで僕はウ◯コ野郎とか桐島、クソ漏らしたってよとか、良くてもウ◯コ王子とかモラッシーというお腹のゆるキャラとして君臨しなくてはならなくなる。 そんな全くもって不本意な呼び方をされるのはどうにかして避けねばならない。
しかし、どうしたものか……。 僕に残された時間はあと僅かだ。
その時ふとあることが頭を過ぎった。
(そうだ。 こんな時のために確か鞄のポケットに水無しで飲める下痢止めを入れておいたんだ)
備えあれば憂いなしとはこのことだなと自分を褒め、なるべく下腹を刺激しないように緩慢な動きで机に掛けてある鞄に左手を伸ばした。
これで救われるかもしれない。 そう思うと若干目頭が熱くなる。 ありがとう下痢止め。 ありがとうラ◯オン株式会社。 これほど製薬会社に感謝したことは他にないだろう。
鞄のポケットをまさぐると小さな箱が手にあたった。
(多分これだ)
それを手に取り眼前に持ってくると、水無し一錠で効く下痢止めとしっかりと書かれている。
間違い無い、これで僕は救われるはずだ。 一気に目の前が開けていく感覚だ。 下痢止めの箱が神々しく輝いているようにさえ見える。
僕は興奮を抑え素早く箱を開けると一錠手に取り、そのまま口に放り込んだ。 ドロリとした妙な味が口内に溢れるが気にせず高速で舌を動かし溶けていった薬を嚥下する。
気持ち悪いがこれなら直ぐに効きそうな気がする。 多分数分もしたら楽になるはずだろう。 そう自分に暗示をかけるように強く言い聞かせた。
(………)
しかし、何かがおかしい… なんだかさっきよりも辛くなってきたような気がする。 噴き出る汗が一向に止まらない。 尻に力を入れている所為か内太ももがどんどん震えてくる。
いかん… 下腹が金切り声を上げ始めたぞ。 どうしたというのだ? 下痢を止めてくれるのではないのか? さっきよりも大腸菌が激しい流れとなって防波堤を崩そうとしているぞ。 今日を愛するライ◯ンではないのか? このままでは僕は今日という日を恨んでしまうぞ。
クソ、ダメだ。 ウ◯コだけにクソだとくだらないことを考えてる暇もない。 もう持ちそうにない。 大腸菌の奔流はもう目の前、いやもう穴の前だ。
「桐島君本当に大丈夫? さっき飲んでたの下痢止めでしょ?」
再び彩香が僕の顔を気遣わしげな表情で覗き込んでいる。 どうやら僕が薬を飲んでいたのを見ていたらしい。
「実は腹がさっきから痛くて。 ちょっとヤバイかも」
観念したように打ち明けると、彩香は身体を更にこちらに向け「先生に言ってトイレに行ってくれば?」と言ってそっと僕の右肩に手を置いた。
その瞬間、本当に一瞬だが、腹の痛みが消えた。 いや正確には肩に手を置かれた嬉しさで痛みを忘れただけだ。 この瞬間が続いてくれたらどんなに幸せだっただろうと思う。
僕は彩香が好きだ。 中学に入ってこの3年間ずっと好きだった。 それが昨日の席替えでようやく隣の席をゲットしたのだ。 だから僕はここでクソを漏らす訳にはいかない。 これから楽しい中学生活が始まるというのにたった2日でピリオドを打つなんてあんまりだ。
なんとしてもクソモラッシーの汚名を被る訳にはいかないのだ。
もしかしたら… その時ある意味恐ろしい考えが僕の頭をもたげた。
(彩香の隣になって緊張のあまり腹を下したのか?)
もしそうなら由々しき問題かもしれん。 次の席替えまで毎日下痢の恐怖に怯えないといけないことになる。 嬉しさのあまり腹を下すなんて… お腹がピーピーになるなんて… これが前時代的な言葉で言うなら、うれぴーというやつなのだろうか? しかし全く洒落になっていない。 神よ、いやラ◯オンよ早く僕の下痢を止めてくれ。
「もしかして、トイレの腹子さんがいるから我慢してるの?」
僕は一瞬心を見透かされたようでドキリとしたが、その的を得た質問に無言のまま頷いた。
確かに僕は腹子さんが怖い。 見たことがないから余計に怖い。
その姿は伝聞でしか知らないのだが、怨霊というだけあってきっと想像を絶するおぞましい姿をしているのだろう。 もしも正視に耐えない姿だったならどうしようか? 多分それを見た瞬間に漏らしてしまうかもしれない。 それほどまでに僕の中で腹子さんの恐怖は膨らんでいた。
「桐島君聞いてる?」
肩に置かれた手が僕をぐいっと右に向かせると彼女は机の上に小さな赤い袋のような物を置いた
「これは、何?」
僕は疑問に思い、首を傾げた。 すると彼女は屈託の無い笑顔で「御守りだよ」と言って再びその赤い袋を手に取ると僕の制服のポケットに入れてくれた。
「あげるよ。 私のはまた神社行って買えばいいから気にしないで…… 女子は皆腹子さんに遭遇しないために御守り持ってるんだよ」
知らなかった。 女子が皆腹子さん対策をしているなんて、ということは男女問わず腹子さんは襲いかかるってことなのだろうか?
しかし、女子がクソをもぐした話など聞いたこともない。 それとも入学して直ぐに女子は腹子さん対策を万全にしているのか?
「あと、これも貸してあげる。 これは私のお婆ちゃんが作ってくれた御守り。 これは後で返してね」
そう言うと今度は青い小さな袋を机の上に置いた。
「さあ、これで心配ないからトイレに行っておいでよ」
そう彼女が快活に言うと僕の背中をポンと叩いた。
「ありがとう。 大事に使わしてもらうよ」
嬉しさの所為なのか腹痛の所為なのか、僕の声はすこぶる震えていた。
(クソ、こんな時に声が震えるなんて格好悪い)
僕は震えを誤魔化すように彩香に笑顔を向けると机の上に置かれた青い袋をさっきとは逆のポケットにしまい込んだ。
今ならまだこの苦しい状況から脱却できるかもしれない。 そう思い腹痛を訴える為に手を上げようとすると、彩香が口パクで『がんばって』と伝えてきた。
なんて可愛いんだ。 その時彩香が女神に見えた。 流石僕が惚れた人だと改めて感嘆する。 この辛い状況を無事解決できたなら、彩香のことを心の中でウ◯コの女神と呼ぼう。 いやそれだと汚い。 クソ女神だろうか? それもなんか違う。 女神ウ◯コ? あやグソ? あ〜ダメだ。 もうまともな思考ではいられないくらいお腹が逼迫(ひっぱく)している。
「先生。 お腹が痛いのでトイレに行ってもいいですか?」
静寂を切り裂くように僕の声が教室に響き渡った。 もう考える余裕もなかった。 夢中で手を挙げていたんだと思う。
すると次の瞬間一斉に皆の手が止まり、視線が僕に向けられた。 予想はしていたがこの瞬間が一番緊張する。
山本も何事だと言わんばかりにピタッと手を止めると、振り向きざま「なんだ、桐島か。 大丈夫なのか? 早く行ってこい」と言って心配そうな顔で答えてくれた。
良かった。 取り敢えずは命拾いした。 そう胸を撫で下ろすとゆっくりと席を立ち、後ろの出入り口へと腹を抱えながら歩いた。
「桐島大丈夫か?」
「腹子さんには気をつけろよ」
クラスメイトが口々に心配してくれている。
何とか小さな声で「大丈夫だよ」と生返事をすると、なるたけ腹を刺激しないように且つ素早い動きで教室から出た。
さあ、ここからが本当の意味での勝負だ。
僕のクラスは3―A。 幸運なことにトイレには一番近いクラスだ。左に続く廊下を10メートル程進んで角を右に折れるともうトイレは目と鼻の先にある。 腹子さんにさえ遭遇しなければなんとか間に合いそうだ。
震える身体でゆっくりと深呼吸すると、急激に下腹がキューと締め付けてきた。
本当にまずい。 訳のわからない深呼吸なんてしている場合ではない。 本当に急がねば。
僕は意を決して廊下を歩き始めた。
空気が妙にヒンヤリとしている。 腹が下っている所為なのか実際の温度が低いのか判断つかないが、 数メートル歩いただけなのに全身に鳥肌が立ってきた。 更に急激な眠気にも襲われた。
これも寒さの所為なのだろうか? それとも腹子さんの呪いが始まったのだろうか? 判然としないがもし呪いだとするのなら、ここで寝る訳にはいかない。 寝グソなどしてしまったら末代までの笑い者だ。 気合いを入れなければ。
僕は決然と一歩一歩意識を集中してリノリウムの廊下を進んだ。
しかし、何故腹が痛いだけでこんなにも苦しまなければならないのだろうか? もう少し学校側もウ◯コのしやすい環境を整えてくれれば、こんな思いをしなくて済むのにとつくづく思う……。
例えばウ◯コは恥ずかしいものではないと学校集会で校長あたりが生徒を説き伏せてしまえばいいのだ。 それなのにいつも意味のわからない話を延々とするものだから、あっちでもこっちでも貧血でぶっ倒れる生徒が続出するのだ。 少しは興味のある話でもしてくれれば違うというのに……。 全く校長など今の僕にはクソの役にも立たない。
上手いこと言ったなと自画自賛しているうちに廊下の角までたどり着いた。 そっと覗き込むようにトイレまで続く廊下を窺う。 どうやら腹子さんはいないらしい。
僕は尻の穴に力を入れるとありったけの力を両足に注ぎ駆け出した。 その時視界の端、トイレと反対側の壁側に顔色の悪い女生徒らしき者を見てしまったが、もうそんな者に構ってる余裕はなかった。
ぞんざいにトイレの扉を開け放つと、転がるように個室の前まで行きドアに手を掛け力任せに押し開いた。
途端一気にトイレの中が異様な寒さに包まれた。
クソ… この寒さは腹に悪い。 一気に体温を奪われる感じだ。 そう思ってるといつのまにか目の前には苦しそうな表情の女の子が佇んでいた。
一瞬間違えて女子便所に入ってしまったかと混乱するが、よく見ると室内には小便器が並んでいる。 どうやらここは男子便所で間違いないようだ。
それに彼女の様子もどこかおかしい。 顔は青白く、うちの制服こそ着ているようだが、弊衣蓬髪(へいいほうはつ)でまるで生きてる感じがしない。 それに形容し難い異様な臭いを放っている。
(これが腹子さんなのか?)
その小柄で華奢な身体つきは少々僕の想像とは違ったが、こちらを見つめる姿はどこか悪意があり憎悪に満ち溢れ、如何にも怨霊といった様相を呈している。
「ヒッ」
ある程度は覚悟していたが、やはり本物を前にしては恐怖で身が竦む。
次の瞬間、腹子さんがニヤリと不敵な笑みを浮かべると彼女の右手が視界から消えた。
何かくる… 咄嗟にそう思った。 もしかしてこれが斎藤君が言っていたボディブローか? 反射的に身体を捩り、身を翻すとすんでのところでその一撃をかわした。
今のはやばかった。 彼から教えてもらわなかったら、あの強烈なボディーブローをまともに食らっていたことだろう。 危なく大腸菌の海に沈むところだった。
ボディーブローを避けられた腹子さんは、頭にきたのか「キエェェー‼︎」と奇声を発し鬼の形相で僕に詰め寄ってきた。
怖い。 まずい。 そして臭い。 ダメだ、身体が動かない。 恐怖で身体が固まっている。 しかし何とかこの窮地を脱しなければ……。 僕は自分を無理矢理鼓舞すると、これでもくらえと言わんばかりにポケットの中の物を腹子さんの前に掲げた。
途端、腹子さんはピタリと動きを止め、こちらを恨めしそうな顔で見つめている。
やった、効果覿面だ。
そう思ったのも束の間。 腹子さんは男のような太い声で「おまえ、なめてるのか?」と言って、再び腹を目掛けてパンチを放ってきた。
(なんで?)
僕は心の中でそう叫び、何とか後ろの飛び退いて攻撃をかわすと自分の手に握られた物を確認した。
そこには赤い袋に金色の糸で『安産』と煌びやかに刺繍が施されている。
(彩香さんこれは何の御守りですか?)
心の叫びが頭の中をこだまする。
これは中学3年生が持つ御守りなのですか? それとも出産の予定があるのですか?
いや、待て冷静に考えろ。 これは安心して僕が立派で元気なウ◯コを産めるようにと彩香が察してくれた御守りなのかもしれない。
それならば合点がいく。 ありがとう、彩香。 でもこんなにお腹を痛めて産んだとしてもきっと満足な姿では産まれてはこないよ。 それに肝心の腹子さんには全く効果はなかったみたいだ。
この御守りはこれからの快適なトイレタイムの為に僕が大事にするよ。 君の想いは無駄にはしない。
涙が出てきそうになりながら、腹子さんと距離を取ると、御守りをポケットにしまい、逆のポケットに入ってた御守りを頭上に掲げた。
再び腹子さんの動きが止まる。
今度は間違いないだろう。 彩香のお婆ちゃんが孫を想って作った代物だ。 効果がない訳がない。
しかし、それ以上腹子さんに変化は何もなかった。 それどころかポカンと口を開け、僕の手に持っている御守りを凝視している。
「さっきからなんなんだ、おまえは?」
面倒臭そうな顔で睨み付ける腹子さんに嫌な予感を覚えた僕は恐る恐る自分の手にしている物を見つめた。
そこには青の袋に赤い糸で交通事故と刺繍されている。
「……」
これには流石の僕も固まった。 よく意味が解らない……。
何故、交通事故なのだろう? なんの御守りなのだろうか? 何度も心の中で反芻(はんすう)しながら、一生懸命意味を理解しようと頭を巡らす。
交通安全ならまだわかるような気がする。 しかし交通事故なら、逆に事故に合う確率を上げてしまうのでは? 素朴な疑問だった。
それともこれは孫を葬り去りたいお婆ちゃんの呪いなのか? それともただの天然なお婆ちゃんが、交通安全のつもりで作ってしまった代物なのか……。
いくら考えても僕には皆目見当もつかなかった。
それよりもこの効果のなさそうな御守りを腹子さん避けだと信じて渡してくれた彩香もちょっと天然が入っているのだろうか?
しかし、それはそれで可愛いかもしれない……。
思わずグフっと気持ち悪い鼻息を吐き出し、破顔してしまった僕の顔を訝しげに腹子さんが睨んでいる。
彩香が天然キャラというだけで心が何故か弾むが、今はそんなことを考えてる場合ではない。 なんとかこの状況を打開しなければ。
妄想を打ち消し我に返ると、腹子さんに視線を戻した。 どうやら完全に怒らしてしまったようだ。 鼻息を荒くして今にも飛びかかってきそうな雰囲気を醸し出している。
無理もない。 こんなふざけた御守りアタックをされた方は怒り心頭だろう。
腹子さんが右足をジリッと動かした途端、僕は脱兎の如くトイレから逃げ出した。
これ以上腹子さんと対峙しても勝てる気がしない。 腹の具合はマックスヤバイがここは一度トイレから離れて作戦を練り直そう。
扉を叩くように開け放つと這う這うの体で何とか廊下に逃げ延びた。
一度息を整えてからダメ元でもう一度ゆっくりトイレの扉を開けてみるが、腹子さんは目の前に仁王立ちし、鋭い眼光で僕を射竦めている。
(やっぱりムリぽ……)
そう心の中で呟くと無言でゆっくりと扉を閉め、トイレから後退るように離れた。
さてどうしたものか。 少し離れて暫くトイレの様子を窺ったがどうやら追いかけては来ないようだ。
しかし、これでは何の解決にもなってはいない。 このままではタイムオーバーになってしまう。
いっそのこと諦めて廊下に排便してしまおうか? 一瞬良い考えだと思ったが尻を拭く紙がないことに気付き諦めた。 こんなことなら御守りじゃなくティッシュを貰うべきだったな。
ハァ…、と小さな溜息を吐き今更自分の行動を悔やんだ。 しかし、落ち込んでる場合ではない。 早く何か別の方法を考えなくては……。
しかし、尻の穴に全ての力を注いでる所為か一向に良い案が浮かばない。
クソ、ここまでなのか? 何回目かの激しい腹痛に耐えながらポケットの中の御守りを握りしめていると、突然ある考えが頭をもたげた。
(そうだ。 トイレは一ヶ所だけではない)
3階のトイレがダメならば2階や1階があるではないか。 そう楽観的に考え、やおら歩き始めた。 階段はトイレのすぐ隣にある為、腹への刺激を最大限に抑えれば階下のトイレにはなんとか間に合いそうだ。
だが2階にも腹子さんがいたらどうしようか? その時こそ一巻の終わりでは……。 しかし他に手はない。 一か八かそれに掛けるしかないだろう。
ヨロヨロとした足取りながらも階段までなんとか無事に辿り着いた僕は(ここまでは大丈夫だ、何も問題はない)とそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと階下へと降り始めた。
まだ授業中の所為か階段や廊下には人の気配はない。 時折聞こえる教室からの笑い声にビクつきながら、気合いで歩を進めた。
できればいつものように一気に飛び降りて踊り場、そして2階へと行きたいが、今それをやると着地した瞬間に僕の人生は終わりを迎える。 今は細心の注意を払って一歩一歩確実に足を動かさねければならない。
鈍重な動きで踊り場を通過すると、そのまま2階の廊下へと降りていく。 その時ふと嫌な予感がした。
確か斎藤君がクサイトウ君になってしまったトイレは2階のトイレだったような気がする、ということは腹子さんは2階で僕を待っているかもしれない……。
となれば、少々厳しいが2階のトイレは避けるべきだろう。 しかし僕の腹は1階まで持つだろうか?
いいや、持って見せる。 なんとか1階まで降りて思いっきり排便してやるんだ。
そう心に決めると、2階を通過し一歩また一歩と階段を降り始めた。
額からは玉の汗が滴り落ちている。 腹が痛すぎてもう尻の穴の感覚がなくなり始めてきていた。
クソ、あとちょっとだ。
自分を叱咤しながらなんとか踊り場に到着。 ここまでは順調のようだ。 腹子さんの気配はどこにもない。
汗を拭いながら震える足で最後の12段を降り始めた。
こんなに階段が長く感じたことはないだろう。 まるで1000段以上ある長い階段を汗だくになりながら降りてる気分だ。
最後の一段をゆっくりとした足取りで降りきり、ようやく1階のトイレの前に辿り着いた。
こわごわと扉を開けてみる。
良かった。 どうやら腹子さんはいないようだ。 僕は心の中で小さなガッツポーズをし、トイレの中に駆け込んだ。
続けて慎重に個室のドアを開ける。 緊張で手が震えて上手く指が動かないが、なんとか顔が入るくらい開けると奥に大便器が鎮座しているのが見えた。
よし、いいぞ。 どうやら腹子さんは1階にはでないようだ。
僕は歓喜の声を上げ個室の中に滑り込むと内側から施錠した。 ベルトに手をかけ大便器の蓋を開ける。
その途端、恐ろしいものが僕の目の前に飛び込んできた。
それは流しきれていない大きな、大きな一本グソであったのである。
僕は無言でトイレのレバーを大にして流そうとした。 しかしこれは神の悪戯かそれとも腹子さんの呪いなのか水が一向に流れていかない。 何度もレバーを動かしてみるがうんともすんともいわない。
クソ、ここでウ◯コをする訳にはいかない。 何故かここで僕の頭は冷静になった。
このままこの便器でウ◯コをして、誰かに僕の下痢を見られるのはこの上なく恥ずかしい……。 仕方ない隣の個室に移動しよう。 苦渋の選択だった。
半ば下ろしたズボンを抑え、個室から出ようとするが何故か今度は鍵が外れない。
「オイ、クソ、冗談だろ?」
独白しながらなんとか解錠しようと悪戦苦闘するが一向に開く気配がない。
これはヤバイ。 このままではこの大きな、大きな一本グソと同じ空間を、そして同じ運命を共にしなくてはいけなくなる。 そんなのは絶対に嫌だ。 こんな恐ろしい人生があってたまるか。
半泣きになりながら何度も扉を内側から叩いていると、突然トイレの中に少女の笑い声が響き始めた。
「やっぱりそうか」
僕は悔しくて両方の拳を思い切り扉に叩きつけた。
僕の行動は全て彼女に筒抜けなのだ。 きっとこの大きな、大きな一本グソも僕を陥れるための腹子さんの計画だったのだ。
「クソ、僕に何の恨みがあるってんだ? こんなの理不尽じゃないか」
嗚咽混じりに言葉を吐き出すと、
「そんなの知るか」と恨みがましい声が僕の直ぐ背後から響いた。
いる。 腹子さんが直ぐ後ろにいる。 この狭い個室に腹子さんと大きな、大きな一本グソと一緒にいる。 それが判った途端、頭から冷水を浴びせられたような気分になった。 もうダメだ。 万事休すだ。
そう諦めかけた時、突然便所のドアが勢いよく開かれ、何者かがトイレの中に入ってきた。 そして間髪入れずに隣の個室に勢いよく飛び込む、耳を聾する程の音がトイレに中に響いた。
どうやら、他にも腹を下した者がいるらしい。 そう思った瞬間、何故か僕の入っている個室の鍵が開いた。
(ラッキー)
なんだか知らないが助かったらしい。 よろよろと覚束無い足取りで個室から転がり出た。
ゆっくりと振り向き、腹子さんを見ると彼女はジッと隣の個室を睨んでいる。
成る程、どうやら駆け込んできた闖入者に気が向いているようだ。 これはチャンスかもしれない。 そう思い最後の力を振り絞り、一番奥の個室へと飛び込んだ。
もう腹子さんがいてもどうでもいい。 なりふり構ってはいられない。 もう奴はこんにちはと言って僕の穴から顔を出し始めている。
しかし、個室に入った途端あまりの光景に僕の身体は硬直してしまった。
(ヤバイ、和式の便器だ)
迂闊だった… この学校はどこの階も一番奥の個室は和式便器なのだ。
クソ‼︎ どうすればいいのだ? 僕は和式のトイレを使ったことがないのだ。 どうやってすれば安全に且つスムーズに排泄ができるのだ?
(こうなりゃヤケクソだ。 普通にできなくても便器の中にクソをぶち撒ければいいのだ。 正しいやり方など知るか)
僕は取り敢えずズボンに手を掛け力任せに下ろした。 途端目の前に凄い剣幕の腹子さんが現れると「無視するんじゃねぇ。 おとなしく漏らしやがれ」と唸り、今度は下から強烈な左ボディーが繰り出された。
「グフ」
僕はズボンを下ろしてる途中だったので、うまく避けきれず、右脇腹にモロにくらってしまった。
あまりの痛さに思わず脇腹を抱え中腰になる。
マジでヤバイ。 少し出てしまったかもしれない。 でもまだパンツを濡らす程度だと思う。 だからまだいけるぞ。 どっかにパンツを投げて教室に戻れば僕はノーパンでもバレないはずだ。
そうだよ。 今日という日をノーパンで楽しめばいいんだよ。 諦めたらそこで終わりだ。
「ウオォォー‼︎」
僕は叫び声を上げ、僅かに残っている意識と力でパンツを下ろそうとした。
「させるか」
凄い剣幕で放たれる斜め下からのパンチは意表を突き、ボディーではなく顔面へと向けられた。
「ヘブゥゥ‼︎」
マジで痛い。 顔が弾け飛びそうだ。 ボディーだと思い咄嗟にパンツから手を放し腹を護ったが、顔は無防備だった。 しかしなんて恐ろしいパンチの持ち主なんだ。 今のは往年のボクサー、ドノバン・ラドックの得意技スマッシュではないのか? こんな少女が使うとは……。 将来有望かもしれない。 いや、もう死んでるから将来はないのか? ダメだ、今はそんなことはどうでもいい。 兎に角次あんなパンチをもらったら一溜まりもない。
ええい、もうやけだ。 どうにでもなれ。 クソを漏らしても僕は最後まで戦ったんだ。 それだけは誇りに思える。
僕は夢中で和式便器に跨がり次に繰り出されたパンチをパンツを下ろしながらしゃがんで避け下腹に全ての力を注いだ。
(やっと、終わりを迎えれるよ。 さよなら僕のウ◯コ)
「テメェ、何笑いながら泣いてんだ? おとなしく漏らしやがれ」
次々繰り出されるパンチを全身で受けながら、苦しかった思い出が尻の穴から吐き出される。
まだ諦めていないのか、腹子さんは「死ね。 漏らせ。 死ね」とうわ言のように呟き、恐ろしいまでのパンチのラッシュを僕に浴びせる。
もう避ける力もなかった。 でも、もういい… 無事目的は達成された。 ここで死んでも僕はクソ漏らしの汚名は被らないはずだ。 だから安心してあの世に行けるよ。
(さよなら父さん母さん。 先立つ不幸をお許しください。 棺桶には正露丸を入れてください。 ス◯ッパは僕には効きませんでした)
フッと意識を失い掛けたその時、突然右奥側の壁が崩れ、何か巨大な塊が突っ込んできた。
「ギャ‼︎」
その塊に吹き飛ばされた腹子さんは「クソ… 今日は邪魔ばかり入る。 お前、次は覚えてろよ」と捨て台詞を吐き、悔しそうに消えていった。
何があったか一瞬解らなかったが、どうやら外壁を突き破り、車が突っ込んできたようだ。
巨大な車体が僕の鼻先ギリギリで止まり、運転席から一人のおっさんがオロオロと困惑気味に降りてくる。
「君大丈夫かい? すまないね。 アクセルとブレーキを踏み間違えてしまったようで……」
よく見ると、それはうちの学校の校長だった。
トイレの壁を隔てて向こうは教員達の駐車場になっている。 どうやら運転ミスで壁を突き破りトイレに突っ込んできたらしい。
そんなことよりも僕は腹子さんの怨念から救われたことに一安心していた。
幽霊って車に轢かれるんだなと素朴な疑問を覚えつつ「僕なら大丈夫ですよ」と校長に言ってパンツが汚れていないか確認した。
どうやら僕のパンツは無傷のようだ。 完全勝利だなとほくそ笑みながらトイレットペーパーで尻を拭き、ズボンを上げながら立ち上がると、個室からフラフラになりながら脱出した。
隣りの個室からは何があったのかまだ理解していない、幼い顔をした男子学生が戸惑いながら顔を出している。
僕は彼の前を悠然と歩きながら勝利の喜びを噛み締めていた。
辛いことの連続だったが、何はともあれ僕は助かったのだ。 これはもしかしたら交通事故の御守りが守ってくれたのかもしれない。
きっとあれのお陰で事故を招いてくれたのだ。 今なら彩香とお婆ちゃんに心から感謝ができる。 ありがとう。 2人のお陰で僕はこの長い戦いに勝利することができたよ。
清々しい顔で手を洗いながら、ひしゃげた愛車のハマーを憮然(ぶぜん)と見つめる校長に小さく頭を下げ、僕はゆっくりとトイレを後にした。
その後生徒達からの要望があって、トイレの壁を直すついでに腹子さんの供養塔も脇の方に建てられた。そのお陰なのか今では腹子さんの噂はほとんど聞かなくなったようだ。 これで腹が下った時、安心して爽やかに大便ができそうだ。
しかし、残念なことも一つ発生してしまった。 それは僕の霊感だ。 何故だか知らないが今回の件を皮切りに数々の怪異に遭遇するようになってしまった。
話せば長くなりそうなので、その件はまた別の機会にゆっくり話そうと思う……。
終わり
作者ザネオラ