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中編7
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足洗酒RE:Bow more

 薄暗い店内に、漣(さざなみ)のようなピアノのメロディが押し寄せる。

寄せては返す心地よいサウンドに身を任せていると、酒など呑まなくても酔った気になれるのは、俺だけだろうか。

気怠いジャズに合わせるようにして、バーテンダーが振るシェーカーが小刻みな音を立てる。

つられて爪先と肩でリズムを刻んでしまう。まるでセッションを聴いているようだ。

聴き耳を立てていると、カウンターのバーテンダーがこちらにチラリと目を向けた。

白いシャツに黒のベスト。鋭角な襟に似て切れ長の鋭い目つき。

金髪のショートカットが良く似合っている。

端麗な顔立ちの美男子、と言いたい所だが彼ではなく、彼女だ。

ツンとした表情もそそられるが、手でもだそうものなら、手元にあるアイスピックで一突き……。

「何か?」

俺の邪念に気が付いたのか、彼女は蔑むような目で俺を威嚇してきた。

「あ、いや、はは」

乾いた笑みでこたえて、俺は指先に挟んだ煙草を口に運ぶ。

軽く吹き出した煙が、白い霧の様に天井へ立ち昇り消えてゆく。

しばらくそれを眺めていると、

「来ましたよ……」

カウンターからそう聞こえた瞬間、俺の首筋にピリッとした静電気のようなものが走った。

振り向くとそこには、きらびやかな青いドレスを身に纏った女性が一人、立っていた。

ゴールドのネックレスにシルバーのイヤリング、鮮やかな青と美しいボディライン。

化粧は濃いめだが決して嫌味ではなく、夜の蝶を思わせるその風貌は、彼女が決してその辺のコールガールではないと、一目見て分かる。

ドレスの裾をヒラヒラとさせながら、彼女は迷う事なく空いていた俺の隣の席に、ゆるりと腰を掛けた。

灰皿の上で煙草を、トントンと軽く叩き

「今晩は」

と挨拶すると、女性はくすり、と微笑み会釈を返してきた。

そしてついと、店内を見回し目を細めたかと思うと、やんわりとした笑みを零す。

どうやらこの店が気に入ってくれたようだ。

彼女がリラックスできたのを見計らい、俺は口を開いた。

「それで、俺に何か、話したい事があるんじゃないか……?」

そう語りかけると、彼女は一瞬伏目がちになりながらも、こちらに振り向き、ぽつりぽつり、と話し始めた。

スピーカーから流れる静かなストリングスが、彼女の話をなぞるようにして流れていく。

耳を傾けながら不意に窓に目をやると、か細い銀の糸を張ったような雨が、窓ガラスを伝っていた。

話しながら目に涙を浮かべ、それが頬を伝い流れ落ちていく、今の彼女の様に……。

一通り聞き終えると、俺は彼女に何か飲みたいものは?と尋ねた。

彼女が口にした銘柄をカウンター越しに告げると、バーテンダーは手に持ったグラスをそっと置いて、棚にあったBow moreと書かれたスコッチを手に取った。

慣れた手付きで氷を砕き、それをバカラのグラスに入れる。

カラン、と、軽やかな音の後に、追いかけるようにしてトクトクトクと、芳醇な香りを漂わせながらスコッチが注がれていく。

「Bow mora25年物、アイラの女王です、どうぞ……」

渡されたグラスを手に取った瞬間だった。

体が宙に浮かぶような感覚、ジェットコースターで一気に下りを加速する無重力状態。

自分の体とは思えない奇妙な感覚が、俺を襲った。

もう何度体験したとはいえ、コレには未だに慣れない。

グラスを掴んだ手が、勝手に動き出す。

漂うフルーティーな香りを鼻で楽しみ、つい、と口に運ぶ。

瞬間、口の中に広がる濃厚でビターな甘み。

25年という歳月の中、熟成された味わいが俺の体を支配してゆく。

グラスから口を離し、

「ほぅ」

と、ため息にも似た声が漏れた。

俺の声ではない。正しくは、俺が出した声ではない、だが……。

余韻に浸る中、再び俺の体をあの奇妙な感覚が襲い始める。

足が地に着かない様な、このまま空に舞い上がりそうな気分だ。

「そうかい、俺も良い酒が呑めたよ……またな」

今宵もまた、魂を彼方へ渡す……寂しくも儚い一時だ。

顔を上げ、天井で回り続けるシーリングファンに目をやる。

しばらくそれ眺めたあと、今度は自分の意志でグラスをテーブルに置いた。

「ええ……はい、終わりました。どうぞ中へ……」

声の方を向くと、バーテンダーが何処かへ電話している最中だった。

俺に気づき、電話を切りながら黙って頷く。

俺も無言で頷き返すと、それが合図かのように、店の扉が開いた。

「いやぁ、本当だったんですね~まさかこの世にこんな事ができるお人がいるなんて」

そう言って店に入ってきたのは、身なりの良い三十代位の男。

「吉野様……お約束の物を……」

バーテンダーに吉野と呼ばれた男は懐に手を入れながら、辺りをキョロキョロと見回した。

「ほ、本当にもう彼女はいないんですよね?」

何かに怯えるようにして吉野は言うと、俺に懇願するような目を向けてきた。

彼女とは、あの青のドレスの女性の事だろう。

彼女はもう居ない。俺の隣にも、そしてこの世にもだ……。

俺には昔から特異な力がある。

死者……そう呼べる者からの声を拾うことができた。

そして、それが何を望み欲しているのかを、俺には聞き届ける事ができる。

「ああ……だがな吉野さん」

「えっ?」

不意をつく俺の言葉に、吉野は面食らったような顔で返事を返す。

「彼女から話は全て聞いたよ。アンタの店で、お得意さんに売りをやらされてたって事もな」

「な、なぜそれを!?」

たじろぐ吉野を俺は睨みつけた。

この界隈ではちょっとした噂があった。

吉野貴博、彼が経営する高級ナイトクラブでは、お得意の客に店の女の子を使って、半強制的に売春まがいの事をやらせている、と。

先程の青いドレスの女性は、家庭の事情でお金に窮しており、仕方なく支持に従ったらしい。

しかし一度だけかと思いきや、吉野はそんな彼女の弱みにつけ込み、何度も客をとらせ続けた。

日増しに彼女は精神を病んでいき、ある晩、大好きだったスコッチを煽り、睡眠薬の過剰摂取によって、亡くなった。

警察は事故、自殺の両方で捜査したが、吉野の偽装工作により、事件は事故として処理されたそうだ。

「彼女、泣いてたよ……」

「ふふ、ふざけないでくれ!わ、私は何もしらんぞ!あれは事故だ!ほ、ほら、やや、約束の金だ!!」

怒鳴るように言いながら、吉野は懐から札束の入った封筒を取り出し俺に見せた。

夜な夜な寝室に、ドレスを着た女の幽霊が現れる。そう言って吉野が依頼してきたのが二日前の事だった。

時間と場所を指定し、今日ここに吉野を呼び出す手筈を整えてくれたのが、今黙ってこの状況を静観しているバーテンダーの彼女だ。

「足りないよ、それじゃ……!」

言ってから、俺は吉野の持っていた封筒を手で払ってみせた。

バサッと、音を立て床に札束が散らばった。

「な、何をするんだ!話が違うじゃないか!?」

「俺はな吉野さん、死者の願いを聞き届けてやれる、なんならもう一度ここに呼び戻してやろうか?どうやら反省が足りないようだって、彼女に話をしてやってもいい」

「い、いやそそ、それは……!ちょ、ちょっと待ってくれ!小切手で、小切手で良いかね!?」

もちろん呼び戻したりなんて俺にはできない。

嘘も方弁、こいつにはいい薬になったようだ。

吉野は余程さっきのが効いたのか、その後はすんなりとこちらの要求を飲み、逃げるように店を出ていった。

「狸親父め……」

吐き捨てるように言うと、俺は床に散らばった札束を拾おうと椅子から身をのりだした、すると、

「おととと、」

バランスを崩した俺は体制を崩してしまった。しかし、

「全く……摑まってください」

「あ、ありがとう、霧子ちゃん」

隣で俺の体を支えてくれていたバーテンダーの霧子ちゃんに、俺は軽く頭を下げた。

「大して呑めない癖に、スコッチなんか呑むからですよ……」

「はは……だよねぇ、まあ彼女が飲みたいって言うからさ」

「そうですか、私には気配くらいしか分かりませんでしたよ。その女性がどんな姿で、どんな声をしていたのかも、ね」

「良い女だったよ……スコッチが似合う、良い女さ……」

「何だか妬けますね……」

「えっ?」

「何でもありません」

「霧子ちゃん?うわっ!」

突然霧子ちゃんに手を離され、俺はその場に尻餅を着いた。

「いてててっ」

「はい、どうぞ……」

そう言って霧子ちゃんは拾い集めたお金を手に取り、その内の半分を俺に手渡してきた。

「いや、いいよ、店のツケにでも払っておいて」

言ってから立ち上がると、俺は煙草を取り出し、ジッポで火を灯す。

「ツケ……足りませんけどね……」

「あ……はは……」

手を後手に頭をかきながら、俺は苦笑いを零した。

「小切手は、どうされますか?」

「ああ……頼めるかな、霧子ちゃん?」

「はあ……人が良いのも大概にしないと、いつか痛い目にあいますよ……?」

刺すような霧子ちゃんの視線、でもその瞳には、どこか優しさも混じっているようにも見えた。

「お金に罪はないからね、彼女の家族がそれで救われるなら、きっと意味のあるものになるだろうさ……さてと」

「まーさん?」

霧子ちゃんの呼び止める声に、俺は扉の前で振り返った。

「また、お待ちしております……いってらっしゃいませ」

男装の麗人に頭を下げられ、俺は少しはにかみながら頷き、店を出た。

空を見上げると、あれだけ降っていた雨は止んでいた。

月が雲の切れ間に見えてもなお、雨の匂いを残したまま、街は夜の顔を覗かせている。

未練ってやつは、自分じゃどうにもならないもんだ。

だから一晩、体を貸して一緒に呑んでやる……。

そうすりゃ大抵どうでもよくなっちまうらしい。

見返り?

俺は肴にそいつの人生が聞ければ、それで十分さ……。

街の灯が闇の中を、まるで海の底を照らすかのようにして灯っている。

煙草から煙る紫煙を漂わせ、俺の体もまた。暗闇の中に溶け込んで行った……。

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