俺はふわふらした足取りで外に出て、一息かけられれば飛んでいきそうな意識を何とか保つよう努力した。頭が重い。視界がくらくらする。吐き気がする。
それもこれも寝不足が原因である。
無意識のうちにうう、とうめき声が出た。手すりにもたれかかり、胃からこみあげてくる酸っぱい液をなんとか押しとどめる。
このままだと壊れてしまう。頭がどうにかなってしまいそうだ。
原因は女の顔だった。
そう言うと恋人の顔がそんなにひどいのかと訊かれるが、そうではない。では、心霊的なことかと言われるとそれも違う。
なんとも表現しにくい悩みである。
女の顔がことあるごとに思い出されるのだ。
しかし、その顔に見覚えはない。そして奇妙なことに顔以外の要素はまったく思い浮かばない。顔だけが俺の頭にある。
黒い長髪で、肌は不気味なほどに白い。真顔なのか怒ってるのか判別のつきにくい顔をしている。少しふっくらした顔で、肌が異常に白いことを除けばそこらへんに居そうな顔である。
記憶を半日かけて巡らせたりもしたし、小中高の卒業写真を引っ張り出して隅々まで見たりもした。しかし、その顔に該当する者はいなかった。街中ですれ違った女の顔が潜在的に俺の意識に刷り込まれたのだろうか。はたまた俺が作り出したものなのだろうか。いずれにせよ、この見知らぬ女の顔に悩まされているという事実は変わらない。
何かに没頭していると一時的ではあるが、忘れることができる。しかし、暇なときやだらだらと動画や映画を見ているときにふと思い出される。そうなると物事に集中しようと思っても頭の中の女が邪魔をしてくる。特に寝る前などは地獄である。
女は喋らない。というか、微動だにしない。ただ俺のことをじっと見つめてくるのみである。精神科に行って相談してみたが、まったく理解されず、適当な漢方薬が出されるだけで終わった。
どうしたらいいのだろう。人に言ったところで、何も分かってはくれない。気にするな、と友人は言うが、そんなことができれば俺はこんなに悩んだりはしていない。
日光が体に染み、気分が悪くなった。俺は一先ず、家の中に入ることにした。
このままでは死んでしまう。俺はとうとうトイレで吐いた。どうしようもない不快感が体の中を駆け巡る。
頭がくらくらする。寝たい。とりあえず、横になりたい。
布団に倒れこみ、柔らかい枕に頭を沈める。少しだけ気分が楽になったが、言葉通り少しだけである。そもそも根本の悩みが解決していない。
ポケットの中の携帯を取り出し、『女の顔 思い浮かぶ 知らない』と検索してみる。だがやはり俺の悩みと一致するものはなかった。もう何度も調べたらから、分かっていたことではあるが。
「誰なんだよこいつ。死ねよ」
そう呟いた。しかし、女の顔は消えなかった。鮮明に思い浮かぶ。
死にたい――人生で初めてそう思った。どう抗ったって、この女の顔は浮かんでくる。思い浮かんでしまうのだから対処法などあるわけがない。思い出したくない思い出が頭から離れないのと似ている。
だが。
思い出なら今が楽しければ関係ないと割り切れるかもしれない。何よりも出所がはっきりしている。しかし、この顔は違う。ふっと唐突に湧き上がってきた。いつからなのか――思い出せなかった。たしか先月の中旬辺りだったと思う。気付けば居た。
こんな女の顔をまったく意識せず生活を送り、夜はすんなりと寝れていた過去の自分が心底羨ましかった。あの頃に戻りたい心から切に願った。
「あ」
俺は思わず言葉を発した。頭の中の女の顔が変わり始めたのだ。顔が歪み、物凄い形相になった。
怒っている。何かを途轍もなく怨んでいる――そんな顔であった。
恐ろしい、怖い。そんな感情が俺の身体を支配した。
体から血の気が引き、全身に鳥肌が立った。
寒い。布団に入っているから体の表面は暖かい。でも、内側は冷水をぶっかけられたように寒かった。
「なんだよこいつ…」
気が狂いそうだ。女は俺を睨んでいる。凄い形相で。
動悸が早くなった。心臓がバクバクいっている。歯ががちがちと鳴って、冷や汗がたらりと頬を伝った。目が奥にぐうっと引っ張られるような感じがして、俺は布団の上に吐瀉した。
死のう――そう思った。俺は這いつくばって窓の方に向かった。
だけど。
死んだあとのことを考えた。死んだあと、この女はどうなるのだろう。
この女は――この女は永遠に俺の意識にこびりつくのではないか。いや、死んだら意識などないただの無である。でも、そんな無の中に唯一この女だけがいる。
そんな気がした。根拠も何もないが、そういう風になるという確信が俺の中に舞い込んだ。
そんなのは厭だ。考えただけでもおかしくなりそうだ。
どうしたらいい。俺は――どうしたら。
作者なりそこない