「お疲れ様でした」
「お疲れ様。これ、よかったら持って帰って」
私は差し出された紙袋を受け取り、喫茶店を後にしました。
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この店で働き始めてから、もう3カ月ほど経つでしょうか。
大学への進学をきっかけに、念願の一人暮らしとあわせてアルバイトを始める。
周囲ではそれが当たり前であるかのように思われていました。
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私の通う学校は実家からも遠くない距離でしたが、早く自立したい思いと周囲の影響が相まって家を出ることにしたのです。
借りているアパートは賃料が安い分、部屋は狭く建物も古いのですが、今の私には十分であるように思います。
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アパートへ戻り、私は喫茶店のマスターから頂いた紙袋を開けると、中には色とりどりのティーバッグが入っていました。
マスターは私のことをとても気にかけてくださり、機会がある度にこうして紅茶やコーヒーを紙袋に入れて渡してくれるのです。
喫茶店からアパートに戻るまでの間、今日は何が入っているだろうと紙袋の中身を想像するのが一つの楽しみになりました。
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頂いた紅茶を飲んでくつろいでいると、残りのティーバッグに埋もれて一枚のメモ用紙があるのに気がつきました。
そこには、
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「今日のお昼頃、キミの友人を名乗る方が来店されて、会いたがっているようだったよ。
明日なら夕方から出勤予定だと伝えておいたけど、迷惑だったかな。
真面目そうなお人柄で、嘘をついているようにも見えなかったものだから。
何か不都合なことがあれば、僕から伝えるから遠慮なくいってね。」
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と書かれていました。
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確かに、私の勤めている喫茶店に友人が現れたとしても、全く不思議ではない。
大学で仲の良いメンバーは皆知っているし、何より私の地元が近いので、小学校や中学校の友人が訪ねてくる可能性も大いに考えられる。
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ただ、用事があるのであれば、まず携帯に連絡がくるだろう。
携帯の連絡先を知らないのは、中学以前の友人だけだ。
そうだとすれば、自ずと対象は限られてくる。
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そんなことを考えていたのですが、特に思い当たる節もなかったので気にも留めませんでした。
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翌日、私は大学の講義を終えてから、いつものようにアルバイト先の喫茶店へ向かいました。
比較的お客さんも少なかったので、メモ用紙に書かれていた内容についてマスターとお喋りをしていると、入口から来客を告げる鈴の音が聞こえてきます。
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私が「いらっしゃいませ」と言い終わると同時に「久しぶり」とにこやかな表情で返事をする女性が目に入りました。
その凛とした佇まいと特長のある端正な顔立ちから、彼女が旧友であるとすぐに分かりました。
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彼女とは小学校低学年の頃からお互いの家に泊まるほど仲が良かったのですが、彼女が名門の中高一貫校で寮生となって以来、連絡先も分からないまま疎遠になってしまったのです。
嬉しさと懐かしさの余りにはしゃいでいる私の姿を見てか、マスターは「今日はお客さんも少ないから2人でゆっくりしていきなよ」といって、店内の隅にあるテーブル席へ私達を案内してくれました。
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私はマスターにお礼を言って、しばらくは2人で思い出話に花を咲かせました。
彼女の話によると、一人暮らしを心配する両親の希望に沿い、現在は実家から大学へ通っているそうです。
私などは父親から「お前の図太い神経なら心配することはない」と言われたのに。
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また、最近になって彼女の母親から私に似ている人物が喫茶店で働いていると聞いて、ここへ訪れたのだと嬉しそうに語りました。
ここへきて、私は彼女が昔から誰に対しても温和で敵をつくらない人間であったことを、改めて実感するのでした。
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積もる話も一区切りついたかという頃、彼女の顔がわずかに曇りました。
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「なにか悩みでもあるの?」
「実は...相談したいことがあって」
「何でも言ってよ」
「ありがとう。あのさ...ちぃちゃんて覚えてる?」
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私は刹那の間に目まぐるしく昔の記憶を辿りました。
「ちぃちゃん」とはどんな子だったか。
そして、その姿は驚くほど鮮明に私の記憶からよみがえったのです。
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ちぃちゃんは小学校最後の1年間だけ同じクラスだった。
顔は青白く病的なほど痩せていて、表情は長い髪のせいでほとんど分からない。
そのうえ、親が新興宗教にはまっているという噂まで流れ、皆からは避けられていた。
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「思い出した!3人で遊んだことあったよね。その子がどうかしたの?」
「この前...家のポストにこれが入ってて」
そういって、彼女は一枚の手紙を鞄から取り出してみせました。
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「久しぶりだね。
この街に戻って来てたんだ。
また一緒に遊ぼうよ。
あなた以外は信用できない。
家の場所は変わってないよ。
- ちぃ」
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宛名こそ書いていませんでしたが、明らかに彼女に向けられた内容です。
ちぃちゃんは、当時から他人を避けているように思われていたので、この手紙に書かれている内容は意外でした。
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正直なところ、私は内心でちぃちゃんのことを気味悪く思っていたのです。
いや、当時一緒のクラスだった殆どの人が同じ印象を抱いていたと思います。
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私が忘れ物を取りに教室へ戻った時などは、独りで不気味な笑みを浮かべながら必死に何かを書き殴るちぃちゃんがいたので、結局それが怖くて引き返したこともあったくらいです。
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「どうして戻ったこと知ってるんだろうね。昔から変わった子だったけど。ちぃちゃんの家にも行ったことあるんだ?」
「うん...。同じクラスになってから何度かお邪魔したことはあるよ。一度うちに呼んだこともあったかな」
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きっと、ちぃちゃんも彼女が優しいのを知ってて近づいたのでしょう。
とは言え、何年も会っていないのに突然こんな手紙がくれば、誰だって気が引けてしまう。
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「私も一緒に行こうか?」
「ほんとう?でも、迷惑がかかるといけないから...」
「大丈夫だよ。人数は多い方がちぃちゃんも喜ぶんじゃないかな」
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2人で話しているうちに、ちぃちゃんがどんな大人になったのか興味が沸きました。
何より、私はハプニングにあったとしても、それなりに楽しめる性分なのです。
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ただ、ちぃちゃんに関することは余り詳しくないので、いくつかの質問を彼女になげかけました。
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「そういえば、昔ちぃちゃんの親が宗教の信者だって噂されてたけど、あれって本当なの?」
「どうだろう。でも昔ちぃちゃんの家に遊びに行った時、見たことのない置物とか絵画が飾ってあったから...」
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「宗教かもしれないね。あと、ちぃちゃんが他に仲の良い友達っているの?」
「たぶん...いないんじゃないかな。他の子と話してるのは見たことないし、それに...」
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彼女は言葉に詰まった。
話すべきことなのか躊躇したのでしょう。
それでも、少ししてから彼女は話を続けてくれました。
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「それにね、ちぃちゃんは皆のことを嫌っているようだったから」
「でも、それは皆も何となく気がついてたんじゃないかな」
「恐らく...そういう普通の嫌い方じゃないと思う」
「どういうこと?」
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「当時ちぃちゃんの部屋で遊んでたら、机の上に一冊のノートが置いてあって。表紙には『嫌いなニンゲン』って書かれてた。それで、ちぃちゃんが母親に呼ばれて私一人になった時、そのノートを見てみたの。
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勝手に見てはいけないと思ったけど、もしかしたら私の名前も...と思って。そしたら...クラスにいる子や知らない人の名前がびっしり書いてあったの。何十ページにもわたって。人によっては塗りつぶされてたり、切りつけてあったり」
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もしかして、あの日にちぃちゃんが教室で書いていたのは、そのノートだったのかもしれない。
まさか、私の名前も書かれていたのだろうか。
もちろん嫌われるようなことをした覚えはない。
運悪くノートに名前を書かれていたとしても、所詮は子供の気まぐれだ。
そう考えても、どうしてか無性に心配になってきてしまうのでした。
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「私の名前...あった?」
「私たちの名前は...なかったよ」
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私は安堵して、これまでの自分の行いに感謝した。
それにしても、ちぃちゃんが周りの人に対して、それ程までに憎悪をむける理由がわからない。
確かに、一部の人間はからかったりしていたかもしれないが、大勢の人間が関わっていたとは到底考えられない。
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「そんなに沢山の名前があるってことは、イジメとか受けてたのかな?」
「イジメは...なかったと思う。でも、本人はそういう風に受け取ってなかったみたい」
「やっぱり、そのことで何か言ってたんだ?」
「うん...。ちぃちゃんは、からかわれてるのを見てるだけで助けない人間は同罪だって」
「それって、近くにいた人もみんな含まれるってこと?」
「どうなんだろう。基準は分からないけど、少なくとも直接関わった人だけがノートに書かれる訳ではないのかな。先生の名前もあったから...」
「で、でもさ、結局ノートに書いて憂さ晴らししてるだけなんだよね?」
「これは噂なんだけど、ちぃちゃんをよくからかってた男子が酷い事故にあったそうなの...」
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私は彼女の言葉を遮るように反論しました。
「それは単に偶然が重なっただけだよ!現実的に考えても...さすがに」
「そうだと良いんだけど、まだノートの話には続きがあって...」
彼女は真剣な眼差しで話を続けた。
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「私がちぃちゃんの部屋でノートを手にした時、机の端に奇妙な置物があるのに気がついたの。でね、その置物の体にはいくつか名前が彫ってあったから...」
「それって...」
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「あくまでも私の想像なんだけど、その置物に名前を彫られた人が不幸に見舞われるんじゃないかと思うの。あのノートはメモみたいなもので、塗りつぶされたり切りつけられていた名前は、もう置物に彫ったから消したんじゃないかな。きちんと名前を確認した訳じゃないんだけど...そんな気がして」
「そ、そうだとすると、その置物が原因だってこと?」
「置物だけが原因かは分からないけど...。関連はしてるんじゃないかな...」
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彼女の話を聴いているうちに、段々とその内容が現実味を帯びてくるように思われました。
なぜなら、彼女は昔から論理的で頭の回転も早く、冗談を言うような人間ではありません。
だからこそ、私は彼女が自分を頼ってくれたことが一層嬉しかったのです。
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それにしても、一体ちぃちゃんはどれ程の人を憎んでいたのだろう。
中にはただの思い違いもあると思う。それでも少し異常だ。
私たちが真剣に話し合うのも、彼女の話や手紙が証明しているように、ちぃちゃんには何をしでかすか分からない恐怖があったからです。
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気がつけば、外はすっかり日が暮れて暗くなっています。
私達は改めてマスターにお礼を言い、喫茶店を後にしました。
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二人で帰り道を歩いていると、小学校時代の情景が思い出されます。
よく一緒に帰ったことを懐かしく思って彼女に目をやると、昔と変わらない穏やかな口調で「今日はありがとう」と微笑んでくれます。
私もわざわざ訪ねて来てくれた彼女に対して、何度も感謝の気持ちを伝えました。
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お互いに携帯の連絡先を交換し、ちぃちゃんの家にはいつ行こうかという話題になると、彼女は少し寂しげな表情で言いました。
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「もしちぃちゃんの家に行かなかったら、私の名前もノートに書かれちゃうのかな」
「大丈夫だよ。私なら書かれるだろうけど」
「そ、そんなことないよ。ただ...この件が済んだら、もうちぃちゃんとは会えなくなる気がする」
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「仕方ないよ。そういうのも含めて大人になっていくんじゃないかな」
「きっとそうだよね」
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彼女を励まそうとして放った言葉が、急に恥ずかしく思えてきた。
それでも、いくらか彼女の表情が明るくなった気がしたから良しとしよう。
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「あ、そうだ。ちょっと調べたいことがあるから、あの手紙借りてもいい?」
「もちろんいいよ」
「次に会うとき返すね」
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手紙から少しでも手掛かりを得られればいい。
私達は会う日を約束すると、名残惜しい気持ちで別れました。
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アパートに向かっている間、自然と今日の出来事が思い返されます。
大学では仲の良い友人がそれなりにいるとはいえ、彼女のように心を許せる友人は一人もいません。
数年ぶりに出会ったはずなのに、普段から一緒にいたような感覚さえあります。
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そんなことばかり考えてアパートの通りに差し掛かかると、不意に誰かが背後からつけてくる気配を感じました。
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私は振り返りましたが、誰も見当たりません。
気のせいだったのか。
そう考えた時、電柱の影に隠れている何者かの姿が見えました。
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ストーカーだ。
どうしよう。
アパートに逃げ込んでは住まいが分かってしまう。
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かといって、人通りの少ないこの通りを走って逃げきれるだろうか。
私は身動きすることもできず、しばらく固まっていたと思います。
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警察を呼びますよと大声で叫ぼうか迷っていると、電柱に隠れている影が一瞬こちらを覗きました。
それは、髪が長く女性のようにも見えたのです。
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私は咄嗟に「ちぃちゃん...なの?」と尋ねていました。
自分でも何故そう思ったのかは分かりません。
ただ、直感でそんな気がしたのです。
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すると、にわかにその影はこちらとは反対の方向へ走り出し、闇の中へと消えて行きました。
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あまりに突然のことで、今起こったことが理解できません。
本当にちぃちゃんだったのだろうか。
そうだとして、何のために後をつけていたのか。
いつから見られていたのか。
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私は逃げるようにアパートへ戻り、
部屋に入るとすぐさま戸締りを確認してカーテンを閉めました。
室内灯をつけるのはためらわれたので、卓上の小さい明かりで我慢するしかありません。
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せっかくの良い一日が、先ほど不快な思いをしたせいで台無しにされた気分です。
こういう時は眠るのが一番だと思い、お風呂を済ませて寝ることにしました。
日々の疲れがたまっていたせいか、すぐに眠りについたと思います。
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深夜、物音に気がついて目を覚ましました。
どうやら、どこかのインターホンが鳴らされているようです。
こんな時間に迷惑だなと寝ぼけていたのですが、あろうことかインターホンは私の部屋から鳴っているのです。
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眠気は瞬時に消え、飛び起きました。
こんな時間に一体誰が。
酔っ払いだろうか。
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おもむろに立ち上がってから玄関のドアスコープを覗いてみると、そこには髪の長い女がゆらゆらと左右に揺れながら、インターホンを押している姿がありました。
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私は思わず手で口をおさえました。
余りのことに叫びそうだったのです。
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音をたてないよう静かに後ずさりして寝室へ戻ると、布団を被って震えていたと思います。
それが誰かなど考える余裕はありませんでした。
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気がつくと、もうお昼になろうかという時間でした。
いつの間にか眠ってしまったのでしょう。
結局、あの手紙を調べることもできなかった。
私はすぐに携帯を手に取り電話をかけました。
ちぃちゃんの話を聞いてから、不可解なことが立て続けに起こっている。
一刻も早くちぃちゃんに会いに行く必要があると感じたのです。
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「おはよう。どうしたの?」
「急にごめんね。ちぃちゃんに会いに行く件なんだけど、これから行けないかな?」
「大丈夫だよ。もしかして...なにかあったの?」
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「詳しいことは後で説明するね。実は昨日別れてから、変なことが起こってるの」
「ほんとに?大丈夫?巻き込んでごめんね...」
「気にしないで。大丈夫だから」
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私は急いで彼女の家に向かいました。
少なからず街の景色が変わったとはいえ、彼女の家まで道を誤ることなく行くことができました。
それほど頻繁にこの道を通った証拠です。
そして彼女と合流してから、ちぃちゃんの家に案内してもらう道中で、昨日起こった出来事を説明しました。
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「やっぱり、ちぃちゃんなのかな?」
「そうかも...しれない」
「でも、なんで後からつけたりするんだろ」
「たぶん、ちぃちゃんが嫌っている人と付き合いがないか確認してるんじゃないかと思う」
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「小学校の頃からそうだったの?」
「うん。昔ちぃちゃんの家から帰るとき後ろからつけてきたことがあってね。私がそれに気づいて『どうしたの』って言ったら『なんでもない』って。
その時はもっと遊びたかったのかなと思ってたんだけど、よく『あの子とは喋らない方がいいよ』みたいなことも言われたから」
「じゃぁ、私たちが仲良いことも知ってたはずだよね。なにか言ってなかった?」
「うん...大丈夫だよ。何も言ってなかった」
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彼女が私に気を遣っているのは一目瞭然だった。
恐らく私についても何か言われたに違いない。
仮に言われたとして、ノートには名前を書かれていなかったのだから恨まれていないはずだ。
それとも、やはり彼女が気を遣ってくれただけで、本当は書かれていたのだろうか。
私は釈然としない気持ちになりましたが、事実を知ったところでどうにもならないので、これ以上聞きだそうとは思いませんでした。
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そうこうするうちに、彼女が「ここだよ」と言って立ち止まりました。
そこには、一般的な大きさの倍以上はあろうかという立派な邸宅があります。
ただ、住宅街から離れているせいなのか、どことなく活気がないように思いました。
広い庭も荒れていて、生活感が感じられないのです。
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「これ...まだ住んでるのかな」
「そうだね...でも手紙にはこの家に居るって...」
「とりあえず、インターホン押してみよっか」
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私は、わずかに緊張を感じながらインターホンを鳴らしました。
しかし、いくら待っても応答はありません。
念のためもう一度鳴らしましたが、結果は同じです。
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「やっぱり、ここには住んでないんじゃない?」
「そうなのかな...」
「それとも出かけてるとか」
「そうかもしれないね」
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それから庭の方へ回ってみたり、家の裏側へ行ったりしてみたのですが、人の気配が感じられません。
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「もう一回鳴らして出なかったら帰ろっか」
そう言って私がインターホンを鳴らそうとした時、
なんとなく2階の窓に目を向けると、微かにカーテンが揺れているように見えたのです。
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すると、インターホンから「入って」と聴こえました。
それは、まるでラジオの周波数が合わない時のように聴き取りづらく、男女の区別さえ分からない程でした。
手入れがされていないために配線が痛んでいるのでしょうか。
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私は突然の応答に驚きましたが、ちぃちゃんに会うことが目的なので、意を決して中へ入ることにしたのです。
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玄関を開けると、出迎えた女性がちぃちゃんであることはすぐに分かりました。
身長こそ大きくなっていたものの、顔が隠れるくらいの髪に青白い肌は、当時のちぃちゃんそのままです。
むしろ、以前に増して病的な雰囲気が漂っていました。
挨拶も満足に終わらないうちに2階の部屋へと案内されたので、黙って従う他ありません。
2階へ続く階段は薄暗く、壁には奇妙な絵が何枚も飾ってあります。
そして、ちぃちゃんに続いて入った部屋には、異様な光景が広がっていました。
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まず、部屋が極端に暗いのです。
カーテンは閉め切られ、照明もついているのか分かりません。
それから見たことのないガラス細工や置物、山のように積まれた本が散乱しています。
また、机の上も同様に散らかっていました。
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私達は動揺しながらも促されるままソファへ腰をおろし、ちぃちゃんが向かいにある机の椅子に座ると、私はさっそく会話を切り出しました。
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「私のこと覚えてる?」
「まぁ」
「勝手に来ちゃってごめんね」
「別に」
「間違ってたら悪いんだけど、昨日私の後つけてた?」
「...知らない」
「そっか。じゃぁアパートにも来てないよね?」
「...行ってない」
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ちぃちゃんでないとなると誰なのだろう。
もっとも、嘘をついている可能性もある。
しつこく聞いて怒らせてもいけないので、私は別の話題に変えました。
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「ちぃちゃんは学校に行ってるの?」
「行ってない」
「それじゃもう働いてるんだ?」
「働いてないけど」
「それなら、何か目指してるの?本も沢山あるし」
「特に。本は趣味」
「そうなんだ。ちなみに何の本なの?」
「...民族学みたいなもの」
「すごいね。よかったら教えてよ」
「え...でも役に立たないから」
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これまでに感じていた私に対する敵意みたいなものが、少し消えた気がした。
私はこれだと思い、出来る限りちぃちゃんの心を開かせるよう努めることにしました。
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「役に立たないことなんてないよ。昔から頭も良かったし」
「知ったところでどうしようもない」
「なんで?せっかくだから教えてよ」
「そう...じゃぁ言うけど、ここにある本は呪術に関するものしかないよ」
「...呪術?」
「親から譲り受けたものがほとんど。呪具の半分は自分で集めた」
「それって...何をするために?」
「分かってるでしょ。これまで自分を馬鹿にしてきた連中に思い知らせるため」
「馬鹿になんかされてないよ」
「知った口きかないで。今までどれだけ貶されたと思ってるの。あなたには分からないでしょうけど」
「...ごめん」
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ちぃちゃんは「いいものを見せてあげる」と言って机の棚にあった一冊のノートを手に取りました。
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「ここには、これまでに私を軽蔑してきた人間の名前が書いてある」
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例のノートに違いない。
私は問い質すチャンスだと感じた。
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「どれくらい...書いてあるの?」
「100以上」
「私の名前もあるのかな?」
「おそらく」
「...それで、書いた名前はどうするの?」
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「ノートに書いた名前はランク付けしてある。一番高いランクは忌祈する」
「きとう...?」
「術のひとつ」
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ちぃちゃんはパラパラとノートをめくっていた手をとめると、「あったあった。あなたは一番低いランクだから忌祈しないよ」と言って不気味に笑いました。
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「それって...具体的にどうなるの」
「何らかの不幸に必ず見舞われる」
「そ...そんなことができるの?」
「どうせ誰にも真似できないから教えてあげる」
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私は不安と緊張が入り混じった気持ちで耳を傾けた。
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「まず、術の準備には丸一日かかる。内容は本に書かれてる通りやれば良いけど、普通は必要になる呪具を揃えられない。もちろんここには全部あるけどね。それから外の光が一切入らない空間をつくる。環境が整ったら、これに対象の名前を彫る」
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ちぃちゃんが手にした置物には、いくつかの名前が彫られている。
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「これは小さいから名前を彫れる範囲が少ないけど、一旦削ってから彫れば問題ない。名前を彫ったら、それを握ったまま既定の位置に座る。最後に一晩かけて対象の人間を頭に念じ続ければいい。その間は、何も口にしちゃいけないし他のことを考えてもいけない。失敗すると意識の暴走が起こる。成功しても、しばらく無気力になるから1週間近く寝込むけど」
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これまでの経緯を踏まえると、疑う余地がないように思える。
あとは自分が抱いてる疑問を解消していくだけだ。
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「意識の暴走って...どうなるの?」
「自分の制御がきかなくなって意識もなくなる」
「そ...それなら、私につけてきたのもそう?」
「それは分からない」
「今までどれくらいやったの?」
「さぁ。覚えてない。一々数えてないから」
「噂では小学校で同じクラスだった男子が事故にあったみたいだけど...」
「ああ...あれは覚えてる。初めて成功した時だから。あいつは私を馬鹿にしたから当然の報いを受けただけ」
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その時ちぃちゃんの前髪から覗いた瞳には、強い憎しみがみなぎっているようだった。
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「もう...やめた方がいいよ」
「なんでそんなこと言われなきゃいけないわけ」
「いつかちぃちゃんも報いを受けるよ?」
「報いなら受けてるから」
「どんな?」
「色々。ありすぎて分かんない」
「そう...。そういえばご両親はどうしてるの?」
「失踪した。自分らの術が失敗したから」
「そんな...。でも、いつかちぃちゃんもそうなるかもしれないよ?」
「もうなってたとしたら?」
「ふざけないで。ちぃちゃんのために言ってるんだよ?」
「余計なお世話だから。何も知らないくせに」
「何でそんなこと言うの。心配したからこうして...」
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ふと、つい熱くなりすぎて自分ばかり喋っていたことに気がつきました。
私が小声で「何か言ってやって」と隣に耳打ちすると、突然のことだからか彼女はひどく驚いた様子でしたが、一言だけ「また...昔みたいに遊びたいね」と言ってくれました。
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ちぃちゃんは明らかに動揺し始めました。
自分が唯一認めた友人の言葉に、何か感じるものがあったのでしょうか。
再び髪の間から覗いた瞳には、悲しみの色が浮かんでいるように見えました。
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しばらく沈黙が続くと、ちぃちゃんは小さい声で何かを呟きました。
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「何か言った?」
「あの人の...声が聞こえた気がした」
「あの人?誰?」
「帰って」
「え...なんで」
「あなたがいると辛くなるばかりだから」
「自分で誘ったんでしょ」
「誘ってないけど」
「手紙出してたじゃん」
「出してない」
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どうも話が噛み合わないので、私は事前に預かっていた手紙を見せました。
すると、それを見たちぃちゃんは慌てて机の引き出しを開け始めたのです。
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「ない...」
「何がないの?」
「その手紙...閉まっておいたのに」
「自分で出したんじゃないんだ?」
「ああ...前に術が失敗した時かな」
「じゃぁ、出すつもりはなかったってこと?」
「それは...街を出て行った大切な人がいつの日か戻って来た時に、自分の手で出したかった」
「そうなの?でもこうして会えたし」
「きっと自分の意識が暴走した時に出してしまったんだ...」
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なぜだか、急にちぃちゃんはこちらの言うことに耳を貸さなくなりました。
手紙がどうであろうと、会えているのだから何が問題なのだろう。
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そんなことを考えていると、突然けたたましい破裂音が鳴りました。
あまりのことに心臓がとまるかと思ったほどです。
何事かと辺りを見回したのですが、特段変化があるようにも見えません。
しかし、視線を戻すと、そこにちぃちゃんの姿はありませんでした。
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「あれ!?ちぃちゃんは?」
「...どうしたの?」
「ちぃちゃんは何処に行ったの?」
「分からない...ひとまず出よう?」
「...うん」
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家の外へ出た後も、私は今起こった出来事を整理できずにいました。
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「さっきの音すごかったね」
「...音?何も聞こえなかったけど...」
「え、すごい音したじゃん!?」
「そうなんだ...。ひとつ聞いてもいいかな?」
「どうしたの?」
「ちぃちゃんはいたんだよね?」
「...どういうこと?さっきまで一緒に」
「私には見えなかったから...」
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彼女の言っている意味が理解できなかった。
ちぃちゃんが見えていないとは、一体どういうことだろう。
もしかして、私にしかちぃちゃんの姿は見えていなかったのか。
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そうだとしたら、ちぃちゃんの喋った内容が彼女には一切聞こえていないことになる。
確かに、彼女の様子が気になる場面は多々あった。
それに、ちぃちゃんにも彼女の姿は見えていない様子だった。
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「ちょっと待って...インターホンの声は聞こえた?」
「何も聞こえなかった...ただ急に家に入っていったから私もついて行ったの」
「それじゃぁ...私がちぃちゃんに何か言うように伝えたときも?」
「うん...私には見えなかったけど、何か言った方が良さそうだったから...」
「...なんか頭がおかしくなりそう」
「落ち着いて?きっと良い方向に向かうと思うから...」
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道理でちぃちゃんの家にいる間、彼女が自ら喋らなかった訳だ。
てっきり私が喋りすぎているせいだとばかり思っていた。
私が喋っている間、彼女はじっと見守っていてくれたんだ。
さぞかし滑稽に映ったことだろう。
ただ、不思議なことに恐怖よりも疲労が勝っていた。
今は少し休みたい。
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そんな私の憔悴した姿を見て、彼女は近くの喫茶店へと案内してくれました。
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喫茶店についてからも、彼女は自分から話を切り出すことはなく、私のペースに合わせてくれました。
私はありがたさと申し訳なさから、疲弊した精神を押し切って、先ほど起きたことについて話し始めることにしました。
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「あの家には、だいぶ前から誰も住んでないね」
「ちぃちゃんは何処へ行ったの?」
「どこか遠くに行ったか...あるいは、もうこの世にいないのかも」
「そんな...でもきっとどこかで元気にしてるよね?」
「そうだといいね。でも...会うことは二度とない気がする」
「...仕方ないよね。元気でいてくれるならそれでいい」
「ノートの件だけど、やっぱり予想通りだったよ。変な置物に名前を彫って怨みを晴らしてたみたい。物騒な怪しい儀式をするんだって」
「そう...」
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「それで、儀式に失敗すると無意識に行動しちゃうらしいよ。
自分でも制御できくなるの。私の後をつけたのはその時だろうって」
「そうなんだ...」
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「でも、ちぃちゃん自身も報いは受けてるようだったよ。もしかしたら、その影響であの家からいなくなったのかも」
「報いだなんて...」
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「それからね、良い報告があるよ」
「え?どんな?」
重苦しい内容が続いていただけに、彼女の声は期待に溢れていた。
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「あの手紙はね、儀式が失敗した影響で知らないうちに届けちゃったらしいの」
「そうだったんだね」
「でも、本当は自分の手で出したかったんだって。この街を出て行った大切な人が戻って来た時のために。誰のことだろうね?」
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私が少しからかうように問いかけると、彼女は俯いてしまった。
「そっか」と言って顔を上げた時、その瞳は少し潤んでいるように見えた。
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ここにきて、私はあることに気がついた。
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「あ...」
「どうしたの?」
「ちぃちゃんが私をつけてきた意味が分かった気がする」
「ほんとに?」
「多分だけど、私が手紙を持ってたから...取り返しに来たんじゃないかな。ちぃちゃんの潜在意識がそうさせたんだと思う」
「そういうことなんだね」
「どうやって私が持ってるのを嗅ぎつけたのかは分からないけど。そもそもあの儀式自体が謎に包まれてるから」
「それだけで...十分だよ」
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実際のところ、ちぃちゃんが生きているのかさえ分からない。
もし、どこかで生きていたとしたら、あれも呪術の一つなのでしょうか。
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もし、もうこの世にいないとしたら、あれは残留思念のような何かが実体となったのでしょうか。
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そして、ちぃちゃんの姿が私にしか見えなかったのは、大切な人に見られたくないという想いが彼女にあったからなのでしょうか。
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それは今でも分からないままです。
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ただ、荒んだように思えたちぃちゃんの心にも、確かに優しさが残っていた。
あの時に見せた悲しみを湛える瞳は、決して嘘ではなかったはず。
たとえそれが幻想であったとしても。
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それから、手紙は二人でちぃちゃんの机の上に返してきました。
いつか家に戻ってきた時、今度は自分の手で出せるように。
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きっと、戻ることはないでしょう。
二人とも心ではそう思っていたはず。
でも、それでいいのです。
これで思い残すことはありません。
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そして、ちぃちゃんの家を出るため玄関の扉を開けた時、後ろからお礼の言葉が聞こえたような気がしました。
私達は同時に振り返りましたが、当然ながら誰もいません。
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彼女と目を合わせると、お互いに微笑みました。
ちぃちゃんの手紙が来ていなければ、私達も再会していなかったかもしれない。
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「さようなら。手紙、ありがとう」
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彼女は最後の別れを告げると、ゆっくりと玄関の扉を閉めました。
作者r.s
前作に続いて大幅に文体を変えてみました。
4作目の投稿です。