叔父の家を訪れた日の夜。俺は夕食を簡単に済ませた後、入浴の前に休憩をしようとベッドで横になっていた。が、あまりにも疲れていたのでそのまま眠ってしまった。
それからどれぐらい眠ったのかは覚えていない。
俺が眠りから覚めたのは真夜中だった。
夢も見ていないほどの深い睡眠だったのに途中で目覚めてしまった。
どうしたことか墨汁の匂いが辺りに漂っていた。
それに室内には何者かの気配もする。だが、それはヘルパーのものではない。自分が仰向けで寝ているベットの隣からはヘルパーの寝息が聞こえていたからだ。
不思議に思っていると突然、頭上から人の笑い声が聞こえてきた。
ふふ。
うふっ、
うふっ、
うふふ、
あはは、
あはっ、あはは、
と、若い女の声が楽しげに笑っているのだ。
正直言って不気味だったし、怖くもあった。だが、笑っているだけで殺意のようなものは感じられなかったので無視することにした。
幽霊の中には人を脅かして喜ぶだけの悪戯好きな者もいるという話を思い出したからだ。害を及ぼさない場合は相手にせず、放置していれば幽霊は勝手に消えるケースもあるらしい。
俺は瞼を閉じて無視し続けた。ところがこの怪異はとどまることを知らず、依然として笑い声が部屋に響き渡っていた。
不思議なことにその声でヘルパーが起きることはなかった。
聞こえているのは俺一人だけだったようだ。
そんな状況では眠れるものも眠れなくなってしまう。
どんな奴が俺の睡眠を妨害しているのか気になり出した頃、俺の顔に何かが落ちてきた。
バサッ。
それは髪の毛のようだった。
俺は瞼を開けて頭上の方へと視線を向ける。
すると、視界に不可解な何かが飛び込んできた。
いや、よく見るとそれは女の生首だ。
女が天井から首だけを覗かせて、こちらを見下ろしていた。女は長い黒髪であり、毛の一部がこちらの顔に垂れ下がっていたのである。
女というのは分かったが髪の毛のせいで顔の全貌までは確認できなかった。
だが、口元だけはよく見えていた。
鮮やかな赤い唇。
今でも脳裏に焼き付いて離れない。
女がこちらの視線に気づいたのかピタリと笑い声が止まった。
「このまま消えてくれるかもしれない」という俺の期待を見透かしたように女の口から意味深げな一言が発せられた。
「あと二日」
確かにそう聞こえた。
あと二日。
女はそう言うと姿を消してしまった。
何が二日なのかは分からない。意味が分からないだけに不気味さは際立っていた。
気づいた時にはカーテンの隙間から朝の光が室内に入り込んでいた。
こうして、俺は一睡も眠ることができなかった。
二日目の夜。またもや、俺は奇怪な現象を体験した。
その日は女の首が脳裏に焼き付いてしまったせいでなかなか眠ることができなかった。
幸運なことに何時間経っても前日のような笑い声はなく、誰かの気配を感じることはなかったのである。
ところが、安心して眠りにつこうとした瞬間、それは聞こえた。
「明日だよ」
耳元で誰かが吐息交じりに囁いた。
声とともに息が耳にかかる感触に生々しいものがあった。
それも少年の声。どこか中学校時代の安達の声に似ている。
あまりの怖さに鳥肌が立った。下手に実体があるよりも声だけの方が不気味だ。それに前日と同様に墨の匂いがした。
「もう明日だよ」
安達とおぼしき声はそう言って消えた。
声がかき消える間際、首筋を爪でひっかかれたような感触があった。
その後は他に奇怪なことは起きなかった。
むしろ、気味が悪いほどの静寂が室内を支配していた。
これは嵐の前の静けさに違いない。明日、何が起こるのだろうか?
俺はもう一度、叔父に相談することに決めた。
翌日の早朝。俺はさっそく叔父に電話をかけた。叔父は朝が早いので起きているはずだ。
「もしもし。正芳だけど……」
「どうした? こんな朝早くに電話とは珍しいな」
叔父は少し驚いた口調で言った。俺は叔父の察しの悪さに苛立った。
緊急でなければ誰が朝の五時に電話をかけるだろうか?
それに呪いの手紙との関連性を疑わないというのも祓い屋にしては鈍すぎる。
俺はため息をついた後、少し苛立ち気味な口調で話した
「どうしたもこうしたもないよ。こっちは叔父さんのせいで二日も寝ていないというのに」
「ワシのせいだと?」
「叔父さんは俺に言ったよね」
「何を?」と一言で問い返した叔父に対して俺の感情がついに爆発した。
「あの手紙を処分するって言ったじゃないか!」
「ああ、そのことか……すまん。祈祷はしたんだが失敗した」
「なんでそのときに教えてくれないんだよ! どおりでおかしなことが起きるわけだな」
「何があった?」
叔父はあくまで俺の怒りに冷静に返事してくるのと、一応謝罪はしてくれたので説明しようと試みたのだが、
「一昨日は首、女の首が……」
言葉がのどに引っかかるようにうまく出てこない。
「首がどうしたんだ?」
「そう、首だけが現れて『あと二日』と言ったんだ……」
「それで?」と叔父は俺の次の言葉を待った。
「そ、それで昨日は耳元で声がしたんだ。それに一昨日の女じゃない何者かが『明日だよ』と囁いて……。おかげでこっちは二日も寝てないよ。これって祈祷の失敗のせいなの?」
「……それはまずいな。分かった。今日の夕方までには解呪(かいじゅ)の専門家をお前の部屋に連れていく」
「解呪? 専門家? そんな人いるの?」
「そうだ。人やモノにかけられた呪いを解除する仕事」
「祈祷に失敗した叔父さんの知り合いなんて信用できる?」
なんとか皮肉をぶつけるくらいに余裕を取り戻しつつあった。
「まあ……少し変わった奴だが呪いに関しては信頼できる」
「奴? じゃあ男なのかな。なら仕方ないから夕方まで待っているよ」
「すまないな」
「叔父さんでも不可能なことはあるんだね。本当に祓い屋の仕事を依頼されてるのかよ」
「そう皮肉を言わんでくれ」
叔父は気弱そうに言った。その声から困り果ている顔が思い浮かぶ。
「分かったよ。じゃあ、また後で」
俺はため息と共に電話を切った。叔父の頼りない面に呆れつつも、解呪の専門家とはどんな人物かが気になった。呪いの専門家だというからには叔父よりも少しは信頼できるのかもしれない。
不安と期待が入り混じった感情を抱えながら半日過ごすことにした。
その夜。時刻は十一時。
ちょうどその時、俺はベッドの上でテレビを見ながら休んでいた。そのベッドの傍らには霊感がある坂口が椅子に座っていた。彼はヘルパーの中で唯一、怪異の話ができる人物であった。
今回の怪奇現象について坂口と話していると、部屋のインターホンが鳴り響いた。
俺は一瞬だけ驚いたがすぐに叔父だと思い、坂口に玄関先へと向かってもらった。
しばらくして、坂口が叔父を連れて戻ってきた。叔父の隣には見慣れぬ女性がいた。
解呪師は女性だったのだ。
年齢は二十七、八歳ぐらいだろうか。小柄で痩せ気味の体型だった。体型自体はよくいそうな女性に見えたがそれ以外の部分では相当に奇抜だった。
まず服装が特徴的だった。彼女は巫女装束風の服を着ていた。だが、全体が黒一色に染められていた。
巫女というよりも西洋の魔女と呼んだ方が似合いそうだった。首には五芒星が刻まれた金色のペンダントをかけていた。
容姿は端正な顔だちをしていた。目鼻立ちがくっきりとしており、髪の毛も銀色に染まっているので白人女性にさえ見える。髪型はミディアムヘアーで右目だけを前髪で隠していた。
その前髪が揺れるさまよりも、左目の瞳に魅入られたように見つめてしまった。見間違いだろうが、不思議なことに琥珀色に輝いているように見えてしまったのだ。呆けてしまった俺に叔父が割って入ってきた。
「この人が解呪師の土御門(つちみかど)さんだ」
「稲生正芳です。今日はよろしくお願いします」
我に返った俺が緊張気味に挨拶をすると、その女性はベッド脇に歩み寄って微笑みながら白い手を差し出した。
「初めまして。私が解呪師(かいじゅし)の土御門聖歌(つちみかど せいか)。叔父さんからあなたのことは詳しく聞いているわ。よろしくね」
握手を求めたのだろうが、俺は腕を前に突き出せないので戸惑ってしまった。
土御門さんはハッとした顔をした。
「ごめんなさい。腕を動かすのは難しいわよね」
彼女は自分から俺の手を握ってくれた。これが土御門さんとの初めての出会いだった。
挨拶を済ませた後、俺は叔父、それに土御門さんを含めた三人で作戦会議をすることになった。
ヘルパーの坂口には外で待機してもらうことにした。彼は霊感があるので怪異の影響を受けやすいから危険だという叔父の提案によるものだった。
ヘルパーが退室すると同時に土御門さんが開口一番に「今回の対処方法を伝えたいのだけれど、いいかしら」と言った。
「正芳君。あなたにかけられた呪いについて説明させてもらうわ」
そう言って土御門さんが居住まいを正した。
「はい。是非とも聞かせてください」
「正芳君が受け取った手紙を拝見させてもらったのだけど、あの手紙には死霊を召喚する術式が記されていたわ」
死霊? 術式? ……オカルトで眉唾な話が飛び出しそうな雰囲気にも思えたが、土御門さんが冷静に粛々と伝えてくる様をみて、ほら話をしているようには思えなかった。
「ええ。死霊を操り、殺したい相手に死をもたらす呪術よ」
「なるほど。ちなみに昨日、一昨日と二日続けて現れた奴らは何者でしょうか?」
「それも呪術で呼び出された死霊だと思うわ。一度に殺さないのは精神的に追い詰め、絶望に陥れた上であなたを殺したいという術者の趣向によるものかも」
「何だか怖くなってきました」
「大丈夫よ。私が必ず助けて見せるから」
その瞳が俺の胸のなかに突き刺すように、しかし穏やかな気持ちにもさせる説得力をもたせた視線を投げかけてきた。
「ありがとうございます」
「ただ、正芳君にも少しだけ頑張ってもらう必要があるの」
「え? 俺に何ができるのでしょうか?」
予想外の提案に俺はどぎまぎして次の言葉を待った。
「そんなに難しいことじゃないわ。死霊があなたの体に触れる寸前まで一言も発せず、じっとしてもらえればいいの」
それなら簡単だ。
「そのあとは?」
「私がいいタイミングで死霊の動きを封じる。その後、私はさらに呪殺返(じゅさつがえ)しの呪歌(じゅか)を詠唱するからあなたもそれを真似してちょうだい」
呪殺返し? 何だそれは。それに……。
「俺がこんなことを言っていいのか分かりませんが、それなら土御門さんが死霊を祓った方が早いのでは」
「私もそうしたいのだけど、この呪いは厄介なのよ。呪われた本人が打ち勝とうという意思がないと術を破れないわ」
「そういうことか。でも、呪殺返しの呪歌なんて聞いたことないけど覚えられるかな」
「呪殺返しの呪歌とは、文字通りに呪ってきた相手に呪殺を打ち返す呪文よ。覚えなくても私を真似して口にするだけで効果は出るから安心して」
「口真似するだけなら俺にもできるかも。少し不安だけど頑張ってみます」
「そう。良い返事が聞けて安心したわ。ところで蕭山さんからアドバイスはある?」
「えっ、ワシから?」
押し黙っていた叔父はいきなり土御門さんに話を振られて驚いていた。
「……いや、ワシから言うことは何にもない。正芳のことはあんたに任せるよ」
「やっぱりそうよね。蕭山さんは呪いが不得意だもの。だから、呪い絡みの依頼は私に手伝わせるのよね?」
土御門さんは意地悪そうな笑みを叔父にぶつけた。
それに対して叔父は頭を掻きつつ、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ああ、その通りだよ……それにしてもよ、報酬のうち七割を持っていくなんて鬼女だな」
「何か言った?」
「何でもねえよ」
俺は土御門さんに弱みを握られた叔父の滑稽な姿を見て不安が少し軽減された。叔父は妖怪や悪霊払いは得意なようだが、相手が呪いを絡むとまるで役に立たないようだ。
叔父の信頼性はともかく、呪いの対処方法は明確になった。
まず、俺はベッドの上で死霊が現れるのを待ち続ける。叔父と土御門さんの二人は部屋の隅で待機するということになった。
土御門さんの話によれば死霊というのは丑三(うしみ)つ時に現れるらしく、それまでは軽く仮眠を取っておくようにとアドバイスされた。命を狙われている状況で眠れるわけがないとも思ったが、午前二時までにはだいぶ時間があった。
瞼を閉じて体だけでも休ませることにした。
がさがさ音がして、その方に振り向いて目を開けてみると、叔父と土御門さんがコンビニのビニール袋から助六寿司のパックやインスタント麺などを取り出していた。
土御門さんがいなり寿司を嬉しそうにほおばる姿をみて、その冷静なキャラとのギャップに笑いそうになってしまった。
「それにしても蕭山さん」
「何だ?」
「あなたって本当に呪いが関係してくると役に立たないわね」
「またその話か。いい加減に目上の人間をからかうのはよせ」
「どうして苦手なのかしらね?」
「お前に話すのは悔しいが……ワシには呪いを解除する力がないようだ。単純な呪術なら祓えるのだがな、今回のような見たことがない複雑な呪術はさっぱりわからん」
「あら、いつになく素直なのね」
「放っておけ」
俺はそんな二人の会話をもう少し聞いてみたくなったが、連日の睡眠不足がたたって気づかないうちに眠りに誘われていた……。
どれぐらい眠ったのかは分からない。部屋の電気は落ちていた。
目が覚めた瞬間、俺は何者かが近づいているような気配を感じた。だが、それは叔父と土御門さんのものではない。自分が仰向けで寝ているベットの近くで二人は待機していたからだ。死霊が出てもすぐには行動しないと言っていた。
やがて、その気配が俺の足のすぐ脇にやって来た。二日連続で鼻腔を刺激したあの匂いも漂っている。
悪寒がするが冷房を強く設定した記憶は無いし、風邪の発熱症状とも思えない。
これは間違いない。
瞼を開けて状況を把握したかったが怖くて出来なかった。ただ戸惑っている俺に次の異変が起こるのは必然だった。
何かが足元から這ってきたような感触がタオルケット越しに伝わる。
俺の腰の上にさらに覆いかぶさるようににじりあがって来た。
呼吸はできるのだが全身に強い圧力がかかっているような感覚。冷汗が額から流れ落ちた。
俺は意を決して両目を開いた。
ゆっくりと目が室内の暗さに慣れるのを待ち、自分の体の上に視線を向けてみる。
そこには禍々しい雰囲気を漂わせた異形の者がいた。そいつは黒い色をした人型の化け物だった。影をそのまま人間の形に切り取ったような感じだ。その大きさは明らかに二メートルはあった。
頭部らしき部分には目、鼻、口、耳すらもない。
目をそらしたいのに、のっぺらぼうの顔が視界に入り続け、その変化を目の当たりにしてしまった。
苦悶に満ちた見知らぬ人間の顔がうっすらと浮かび上がり、喜怒哀楽様々な表情に変化しては消えていく。
それが何度も繰り返された末、白い仮面にすり替わった。
それは般若(はんにゃ)の面(めん)だった。
しかし、普通の能面とは明らかに異なっている。
仮面の眼窩におさまっている目玉は作り物ではなかった。それは生きているのだ。濡れた目玉が闇の中で怪しく輝いていた。その血走った目にはまるで獲物を追いかけている肉食動物のような獰猛さがあった。
俺はその化け物と視線が重なった瞬間、声が出せなくなった。指先や首を動かすこともできない。この感覚は金縛り……。
「……シニソウラエ……タタラレソウラエ」
そいつは女の声とも男の声とも区別がつかない、くぐもった声で片言の言葉を発しながらこちらを凝視し続けていた。
しばらくの間、化け物は俺のことを品定めするように眺めていた。その後、奴は何かを思いついたように動き出し、両腕をこちらに向けて伸ばしてきた。繊毛に覆われた指がゆっくりとだが確実に近づいてくる。動きは緩慢だが全身からどす黒い鬼気(きき)のようなものをみなぎらせていた。
俺には相手が何をしようとしているのか気づいていた。
奴は俺の首に手をかけて絞め殺そうとしているのだ。
やがて、自分の首筋に化け物の指腹が触れる。あまりの冷たさに全身の毛穴が粟立つ。叔父たちを呼ぼうと必死に口を開けて叫ぼうとしたが声が出ない。
気が遠くなっていく。これ以上はもたない……かすんでいく目の隅に土御門さんの姿が飛び込んできた。
「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう) 死霊呪縛(しりょうじゅばく)!」
と彼女は陰陽師の言霊を吐き、懐から護符を取り出して死霊の顔に投げつけた。
すると、見事に護符が死霊の面の額にぴたりと張り付いた。
その瞬間、死霊の動きがピタリと止まったのだ。再生された映像を一時停止させたように身動き一つしない。
呼吸が楽になり、ゆっくりと息を吐きだした。指先なら動かせる。
「正芳君、チャンスは今しかないわ! 行くわよ」
「わっ、わかりました」
俺は混乱しつつも土御門さんの指示に従うことだけは忘れなかった。
土御門さんは深呼吸をゆっくりとした後、呪殺返しの呪歌を口にした。苦行僧が読経するように一定の音程に整えながら息をしぼりだすようにフレーズを化け物に投げ続けた。
俺も必死に一言一句違えぬように必死で真似をした。
「祓へ給へ(はらえたまえ)、清め給へ(きよめたまえ)。守り給い(まもりたまい)、さきわえ給(たま)へ」
「死霊を切りて放てよ梓弓(あずさゆみ)。引き取り給え(ひきとりたま)経(きょう)の文(もん)」
すると、般若の面をつけた黒い化け物がうなり声を発しながら苦しそうに身をよじらせた。
奴は伸ばしてきた腕を引っ込めて、両手で自分の頭を抱えながらさらに悲鳴を上げた。耳をつんざくような鳴き声だったがすぐに止んだ。
化け物は全身から白い煙を噴き出し、それとともに急激に小さくなっていく。……最後に恨めしそうにこちらを睨みつける目玉だけが残り、それも消滅してしまった。
俺は目まぐるしく変化していった現象を目の当たりにしたせいか、助かったことに安堵するのも忘れて放心状態となっていた。
土御門さんはそんなこちらの様子を見て微笑んだ。
「終わったわね」
「……はい。まだ頭が混乱してますが」
「すぐに落ち着くと思うわ。ゆっくり眠りなさい」
「わかりました。あっ、ところで叔父さんは?」
「ん? 蕭山さんなら部屋の片隅で眠っているわよ」
耳をすますとイビキすら聞こえる。叔父のあまりの豪傑ぶりに呆れたのを通りこしておかしくなってしまった。
「私はこれで帰るわ。蕭山さんにあとで代金はしっかりいただくと伝えておいてね」
「わかりました。ふんだくってやってください」
「ヘルパーさんにはお部屋に戻るように伝えておくわね。それじゃあ、また何かあったら呼んで。すぐに会うような気はしてるけどね」
え? 首を傾げた俺に土御門さんは反応せず、ゆっくりした足取りで退室していった。
ヘルパーの坂口が戻ってきた後、俺は朝までもうひと眠りしようと考えていた。だが、なかなか眠ることができなかった。
死霊と対峙したときとは反対に、体内に熱を帯びていた。自覚している以上に自分は恐怖を抱いていたのだと気づいた。
ただ、襲われた時は必死で生き延びようという気持ちが恐れを緩和させたことで、どうにか対処することができたののかも知れない。さきほどの出来事を思い返しながら逡巡しているうちに疲れがにじみ出してきたのか、やがて俺は深いまどろみに落ちていった──
翌日の昼下がり。
俺は叔父とアパートの一室でテレビのニュース番組を眺めていた。
自分は電動車椅子に乗った状態。叔父はテレビの前の床に座ってインスタントラーメンを食べている。
──本日未明。Å警察署の拘置所で拘留中だった安達雅史・容疑者が死亡しました。死因は不明とのことです。
女子アナウンサーが神妙そうな面持ちで原稿を読み上げていた。
「あの夜、土御門が言った通りになったな」
叔父がラーメンの麺を啜りながら呟いた。
「確かに」と俺は静かに頷いた。
叔父の「土御門が言った通り」というのは、安達の死についてだった。彼女は呪殺返しの呪歌とは呪ってきた相手に術を跳ね返すものであり、呪いを返された人間は死ぬと言っていた。
俺は呪いというものが現代社会において、今も息をひそめながら続いていることに背筋が凍った。怪異は恐ろしいが人間の怨念もなかなかに厄介なものだと思った。
「ところで、安達はどうして俺を恨んでいたんだろう?」
俺は殺されそうになったばかりなのに、呑気にそんな疑問をぶつけた。
だが、叔父は当然だと言わんばかりの顔で「そればかりは安達本人にしか分からん」とぶっきらぼうに言った。
自分の言動に問題はないと思っていても他人がどう捉えるかは分からないと、続けた後に「お前は想像力が足りない」と説教じみたことを言い出した。
「だいだい、お前は思いついたことを口にする。ものには言い方というものがだな………」
「ああ、わかったよ。今後は気をつけさせて頂きます」
俺は叔父の話が長引きそうなのを察して、反省の意を表明することで講釈を中断して頂いた。
「理解しているなら良いだろう。酷い目に遭ったばかりだしな。今日はこの辺で帰ってやるよ」
叔父は空になったカップ麺の容器を片手に床から立ち上がり、玄関口のゴミ箱が置いてある方向へと歩いて行った。
「まあ、怪異にも人間にも気を付けることだな」
「叔父さんも土御門さんに報酬を取られ過ぎないようにね」
「そいつを言われると返す言葉もないな。ワシも修行がたらんようだな」
叔父は笑いながらそう言うと容器をゴミ箱に放り込んで、そのまま帰って行った。
「ゴミは持ち帰れよ」と、呼び止めようとも思ったのだが面倒くさいのでやめた。
それから一週間後の晩。
ちょうど、俺が暗い寝室のベッド上で横向きになってウトウトしている時のことだった。暗いと言っても室内の窓から街灯が入り込んでいるので、人影ぐらいならわかる状態だ。
ふと、人の気配を感じて目が覚めた。
視線の先は寝室と吹き抜けになっているリビングルーム。
その部屋の天井から吊るされた蛍光灯の下に人影があった。夜勤のヘルパーは五分ほどとっている喫煙休憩中なので、彼ではないはずだ。薄暗いので顔は判然としない。
俺が人影を凝視していると突然、声が聞こえてきた。
「……稲生君」
囁くような声だった。
だが、鮮明に言葉が頭の奥へと伝わってくる。
誰だ! 俺は意を決して声をかけた。
「僕は安達だよ。中学校時代の同級生」
「安達君? 君は死んだはずでは?」
「そうだよ。確かに僕は死んだ。だけど、恨んではいないよ。むしろ、今日は謝罪と感謝を伝えにきたんだ」
「どういうこと?」
俺には訳が分からなかった。安達は俺を恨んでいるはずであり、だから今回の怪事件が起きたのだ。
それを謝罪に感謝だと?呪いが失敗したことに後悔していてもおかしくはないはずだ。
「特にもう一人の自分が暴走するのを止めてくれて感謝しているよ」
「ちょっと、待って……もう少し詳しく教えてくれないか?」
「もちろんだとも。ただ、長話になるけど……」
安達とおぼしき人影はそう言うと、過ぎ去った過去に想いをはせるように天井を仰いだ。
「あれは……」
彼は淡々とした口調で語り始めた。
あれは小学生の頃。ある時、僕は上級生に身に覚えがない因縁をつけられた。そのことに抗議したのだが逆に相手を逆上させることになり、思いきりぶん殴られた。
僕はそれが悔しくて上級生を憎しみのこもった目で睨んだ。
「何だその目は? まだ、殴られたいみたいだな」
上級生は悪意に満ちた笑みを浮かべていた。
「お前なんか死んじまえ!」
僕は激情にまかせてそう叫んだ。
相手は顔を真っ赤にして「減らず口を叩けなくしてやる!」と拳を振り上げた。
その瞬間、異変は起きた。
上級生は鼻や口から大量の血液を噴き出していた。
その後、彼は病院に救急搬送されたが結局は助からなかった。死因は分からなかったようだ。
僕は自分に恐ろしい力があることに気づいた。
そのことを同居していた祖母に相談したことがある。
祖母は蒼ざめた顔で「それは人を呪い殺す力だよ。いいかい、これからは二度と人を憎んではいけないよ」と忠告してくれた。
祖母の話によると安達家は代々、祟り屋という闇の仕事をしてきた一族だったらしい。
祟り屋は依頼人が憎んでいる人間を呪術で殺すのだ。ただ、あまりにも呪いが強力過ぎて関係の無い人間まで被害に遭うことが多々あり、明治時代になってから廃業したという。
廃業後は一族の者で呪いの力を持った人間が生まれることはなかった。ところが、僕だけが突如として先祖返りをしたらしい。
僕はそれ以来、誰にどんな嫌なことをされても怒らないように我慢した。
「他人が死ぬくらいなら自分が我慢すれば良いのだ」と言い聞かせれば暴走を抑えることはできた。だが、我慢する時は必ず頭痛と一緒に変な声が頭の中で聞こえてくるようになった。
「お前はどうして我慢するんだ? 気に入らない奴は殺してしまえよ」
「嫌だよ。僕は誰も殺したくない」
「何を弱気な。俺たちには力があるのに勿体無い」
僕は変な声と何度もそんな言い争いを繰り返した。気がついた時には奴はいつでも頭の中にいるようになった。
稲生君みたいに普通の人格を持っている人にはわかりづらいよね。
まあ、簡単に言うと僕は二重人格者だったと言うことだよ。自分の中に秘められた呪いの力がいつしか、もう一つの人格を生み出したというわけさ。
ここから紛らわしくなるから二つの人格を言い換えるよ。
まず、僕の本来の人格を「人格Å」と仮定しよう。僕は争いを好まない。誰も死んで欲しくない。
だけど、もう一人の人格はまったくの別人。これを「人格B」としよう。この人格は人間そのものを憎んでいる。執念深い性格で隙さえあれば誰かを呪い殺そうとする奴だ。
僕は今まで奴を理性で押さえつけてきた。いつ暴走してもおかしくはないから誰とも親しくしないように努めていたんだ。誰にも愛情を抱かなければ、誰かを憎むこともないと考えていた。
そのせいで中学校時代も友人を作らず、イジメのグループに目をつけられてしまった。だけど、稲生君。君だけは人として声をかけてくれた。そのことは理性を維持する上でも役立ったよ。
自分を見守ってくれる人がいると思えば希望を持つこともできる。
まあ、人格Bは稲生君をひどく憎んでいたけどね。君のことを偽善者呼ばわりしていたから、奴を何度も眠らせてやったんだ。その眠りは人格Bにとって苦痛だったようだから、懲らしめてやった。
でも、心が不安な思春期は人格Bを抑制するのに苦労したよ。今までは僕の頭の中で話しかけてくるだけだったが、しだいに肉体の主導権を狙うようになってきた。
それでも僕は絶対に主導権を渡さなかった。人格Bを完全に消滅させることはできないけれど、抑制することはできたからね。
だからこそ、恋人を持つこともできたんだ。人格Bの性欲を満たすことで、相互扶助的な方向へ向かわせようとした側面もあったけれど。
それが、あの事件現場で殺人犯と遭遇した時から自分の運命は変わってしまった。
あの殺人犯の禍々しい怨念は僕の体内を浸食していった。その悪影響で人格Bの力が増大してしまい、僕は奴に強く抵抗することができなくなった。人格Bは自らを悪鬼と自称するようになった。
彼女と口論するようになったのもこの時期だった。
僕はそれで「いずれ奴は彼女を殺すのではないか?」と危惧した。だから、悪鬼(人格B)が完全に主導権を握る前に自殺する計画をした。一カ月間の失踪はそれが理由だ。
しかし、人間は簡単に自分で死ぬことはできない。富士の樹海にテントをもっていって過ごしながら何度も首吊りや服毒自殺を試そうとしたが、結局は実行できなかった。
気がついた時、悪鬼に主導権を奪われていた。悪鬼はこの僕「人格Å」を眠らせることに成功ということだ。その間、悪鬼は僕の肉体を操って彼女を殺害した。人格Bにとって彼女は性のはけ口の道具であり、おもちゃに過ぎなかったんだ。
僕にとっては初めて愛した人間だったのに……。
目覚めた時、自分の目の前には惨殺された彼女の死体。
僕は眼前に広がっている光景に絶望し、自分の身を引き裂きたくなったよ。
声もない悲鳴というものを僕は味わったんだ。
その瞬間から自分の自我は深い眠りについた。僕は壊れてしまったんだ。
悪鬼はこの僕「人格Å」の自我を弱体化させるためにわざと絶望的な光景を見せ付けたのだと思う。完全にしてやられたね。
そして、悪鬼は担当の弁護士に「彼女を誰かに殺された挙句、濡れ衣を着せられた」と訴えたようだ。
悪鬼は心神耗弱状態を装うことで刑期を軽くさせ、自由の身になったら大勢の人間を殺そうという悪だくみを思いついたのだろう。
留置所の檻の中で稲生君宛に呪いの手紙を書いたのは悪鬼自身だ。奴は僕と記憶を共有していたし、安達家の先祖の呪殺方法も熟知していたから簡単だったに違いない。
だが、悪鬼の運命も尽きたようだね。
奴が君に倒された瞬間、僕の肉体も息絶えた。その衝撃でこの僕「人格Å」の自我だけが目覚め、幽霊として肉体から離脱した。
それから一週間、過去の記憶を辿りながら自分とゆかりのある場所を彷徨い歩いていた。
それで二人分の記憶を整理した上でいま、こうして君の前に現れたわけだ。
安達は「分かってくれたかな」と穏やかな口調で長い話を締めくくった。
俺は驚きながらも腑に落ちなかった疑問に答えが得られたので満足した。安達という男がそんな過酷な状況にあったとは思わなかった。
それが自分だったらと思うと恐ろしくなる。一年と持たずに肉体を奪われていたことだろう。
安達は改めて謝罪してくれた。
「今回は悪鬼の暴走を抑えられず、君を巻き込んでしまったことを許してくれ」
「正直、怖かったよ。でも、君も大変だったみたいだから許すよ。まあ、死にそうになったけど、今は生きているからね」
「そうか。ありがとう。君が悪鬼を倒してくれたおかげで、被害が増えることもなかった」
「俺がというよりは……解呪師の協力があったからなんだけどね」
安達はもう少し話したいような様子だったが突然、思い出したように「そろそろ行かなくては」と寂しそうな声で行った。
「行くって、どこへ?」
「あの世だよ。もう思い残すことはない。もし、来世で会うことがあったら親友になりたいものだ……」
安達はその言葉を最後に姿を消し、後にはいつものように車椅子が事務机の前に佇んでいた。
それでも俺は安達の見果てぬ姿をどこかに探しているような悶々とした気持ちが残った。
俺は涙を流していた。中学校時代に勇気を振り絞って、安達と仲良くすれば良かったと後悔していた。
だが、すでに過ぎ去った日々──失われた過去を取り戻すことはできない。
当たり前のようだが人間は与えられた時間を後悔しないように生きようと努力する。それでも人間は後悔の一つは持っているものだ。どんな後悔にせよ、その人間が生きてきた証の一部であり、それを結局は受け入れつつ生きるのが人間の姿なのかも……。
と同時に誰からも恨まれない人間などいないのだと思いつつ、心の奥にこそ魔物が潜んでいるのだと理解した。
だが、俺はなるべくなら他人に恨まれないように生きたいものだと心の中で呟くのだった。
作者黒月ミカド