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神御呂司村(かみおろしむら)の怪奇譚 プロローグ

長編12
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神御呂司村(かみおろしむら)の怪奇譚 プロローグ

清水康介(しみずこうすけ)が新岩国駅のホームに降り立ったのは五月上旬のことだった。空には雲一つなく、清々しいほどに晴れ渡っていた。

 康介は新幹線の入り口から降りると背中をゆっくり伸ばした。

 ふいに初夏の爽やかな風が頬を優しく撫でる。

 ──ああ、良い風だ

 康介は風が自分の帰還を喜んでいるように思った。

 故郷の地を踏んだのはたった四カ月前。正月に帰ったばかりだ。

 それでも懐かしいと思ってしまうのはなぜなのだろうか?

 自分でもよく分からない。そもそもこれほどの強い望郷の念に駆られるきっかけは何だっけ?

 康介は青空を仰ぎながら一人、ものおもいにふける。

 ──清水康介は現在、二十六歳。

 大学の入学と同時に山口県から上京した。在学中は寮があった東京郊外の迦楼羅町(かるらちょう)で福祉関係のバイトをしていた。具体的な業務内容は在宅の身体障害者にヘルパーとして介護をするというものだ。彼は人の手助けをするのが好きで利用者からも感謝され、それなりにやりがいを感じていた。

 大学卒業後は都内の某企業に就職したが日々の激務で一年も経たないうちに体を壊してしまう。大病を患い、半年近くは生死の境をさまよっていた。病気が落ち着いたら職場復帰を考えていたが会社から解雇されてしまった。現在は次の就職先が決まるまで学生時代に世話になった迦楼羅町の介護派遣事務所でヘルパーをしている。

 今年でそんな状態になってから二年目を向かえようとしていた。

 康介は二週間前。出勤中に見知らぬ綺麗な女とすれ違った。女は黒髪でロングヘア、花柄の白いワンピースを着ていた。どんな香水を使っているのかは知らないが甘い匂いだった。女の匂いを嗅いで以降、無性に実家に帰りたくなった。

 本来ならこの日も介護の仕事に行く予定だったが、気がついたらここまできていた。

 事務所に連絡もしていない。無断欠勤は申し訳ないと思うのだが、康介は自分でも故郷に帰ろうと思った理由もわからない。

 『ひとまずは実家に帰るとするか。事務所には後で連絡するとしよう』

 心の中で呟きながらホームの階段を小走りに降りて行った。

 康介は駅の改札口を出た後、ロータリー近くのタクシー乗り場へと向かった。ゴールデンウイーク前ということもあり、普段なら閑散としているはずの駅前も観光客でそれなりに賑わっていた。新岩国駅は西日本で一、二を争う新幹線の閑散駅と言われている。駅前にある建物と言えばローカル私鉄の駅、一軒の土産物屋、一棟のビジネスホテル、それに数軒の民家、そして無数の駐車場があるだけだった。

 タクシー乗り場には停車中の車両が数台あった。

 運転手の一人が康介に気づいて車の窓から顔を出しながら話しかけてきた。

 「お客さん、乗っていきませんか?」

 運転手は六十歳ぐらいの男性だった。

 康介は相手の人の良さそうな雰囲気に安心感を覚えた。

 「神御呂司村(かみおろしむら)までお願いします」

 「神御呂司村? すみません……その住所を教えて頂けると有り難いです。お恥ずかしい話ですが初めて聞く地名なもので」

 「ああ、こちらこそごめんなさい。説明が足りませんでした。寂地山(じゃくちさん)っていう山はご存知ですか?」

 山口県岩国市と島根県吉賀町の境界に寂地山という標高千三百三十七メートルの山があり、その山の麓に位置する集落が神御呂司村である。新岩国駅から車で一時間四〇分。県道から分岐をひとつ曲がればもう一本道だ。

 運転手は康介が後部座席に座ったのを確認すると同時に慣れた手つきで車を発進させた。走り出したタクシーは新岩国駅を離れ、郊外の寂地山へ向けて出発した。

 「今日は良いお天気ですね。お客さんはどちらからおいでに?」

 「東京です」

 「今回はご旅行で?」

 「いえ、実家に帰ろうと思いまして」

 「なるほど、親孝行とは感心ですね」

 運転手はバックミラー越しに笑顔でそう言った。

 「うちもお客さんと同じぐらいの年齢の息子がいましてね。最近じゃあ、滅多に帰って来やしない。それに比べてお客さんは大したもんですよ」

 「それはどうもありがとうございます」

 康介は運転手に褒められ小恥ずかしいものがあったが、不思議に嫌だとは思わなかった。父が生きていればこんな感じなのだろうかと親近感さえ芽生えた。

 車窓へ視線を移してみると田園風景が広がっていた。広大な田園地帯のはるか後方には霞がかった山々が連なっている。

 彼は田舎の景色を眺めているうちに都会の喧騒が嘘みたいに思えてきた。同時に東京ではあまりの忙しさに自分が疲れていることさえ忘れていたのだと気づいた。

 バイトをしながらも空いた時間には次の就職先を探さなければならず、将来への不安から生じるストレスで精神的な疲労も重なっていたのかもしれない。

 「ところでお客さん。神御呂司村はどんな場所なんですか? 寂地山にはよく釣りに行くので知っていますが、あそこにそんな地名の村があるなんて思いませんでしたよ」

 「まあ、人口が百五十人しかない寒村ですからね。近年では高齢化が進んでいて、二十年後には廃村になってもおかしくはないそうです」

 「それは寂しい話ですね」

 「そうですね」

 康介は運転手と会話しているうちに眠気がしてきた。

 運転手はうとうとし始めた彼を気遣い、「お疲れのようですね。目的地の近くまで来たら起こしますので少しお休みになられては?」と声をかけた。

 「すいません。そうさせてもらいます」

 康介は車に揺られながらまどろみに落ちて行った。

 「お客さん。そろそろ到着しますよ」

 康介が運転手に起された時、すでにタクシーは神御呂司村付近の渓谷に架けられた「よみわたり橋」にさしかかっていた。おもむろに腕時計を見てみると午後一時を少し過ぎていた。橋を渡る車輪の振動に揺られながら外を眺めてみると、辺りはすっかり深い霧に包まれていた。

 「お客さん。凄い濃霧ですね。いつもこんな具合ですか?」

 「いえ、こんな霧が出ることなんてありませんよ」

 康介も驚いていた。さっきまで快晴だったにもかかわらず、今では辺り一面が乳白色の世界に覆われてしまっている。山の天候が変化しやすいと言っても今までこんな状況はなかった。

 タクシーはヘッドライトで前方を照らしながら橋を渡っていく。康介は窓越しに橋の下を覗き込んでみたが何も見えない。相当に深い谷底だったがいつもなら遠目でも川の流れが見えるはずだった。

 この「よみわたり橋」は神御呂司村と外界とを繋ぐ唯一の道だった。他の道から迂回しようにも山間部に位置するこの村の周囲は断崖絶壁に囲まれており、橋以外に往来できる道はない。

 梅雨時の台風などで川が増水したり、冬の豪雪で交通止めになったりするとすぐに村は外界から閉ざされてしまう。そういった状況下で急病人が出た場合は救急ヘリが出動することも珍しいことではなかった。過酷な村で生まれ育った康介にとって新岩国駅の寂れ具合など不便さには入らず、むしろ住みやすい環境で羨ましいとさえ思うほどだった。

 

 その後、村に入った辺りで霧はすっかり消え失せていた。車内の窓から午後の陽光が差し込んでいた。

 タクシーは数件の古民家が両側に立ち並ぶ村道を進んでゆく。地蔵や祠が幾つも通り過ぎていった。道なりに進んでいくと民家はまばらとなり、前方に竹林が広がっていた。竹林を抜けると開けた場所となり、そこに周囲を木の塀に囲まれた大きな屋敷が建っていた。茅葺屋根で横長の木造家屋。築年数は相当に古そうだ。この重要文化財に指定されそうな屋敷が清水康介の実家である。

 康介は実家の門前近くでタクシーから降りた。運転手は「また機会がありましたら是非ともうちのタクシー会社をご利用ください」と愛想の良い笑顔で会釈した後、ゆっくりとした速度で車を発進させた。

 康介が門をくぐり抜けて庭先へ向かってみると、鎌を片手に持ちながら背中を丸めて草刈りにいそしむ母親の姿があった。

 「母さん、ただいま」

 康介が背後から声をかけると母親の恭子は驚いた顔で振り返った。

 「あら、康介。どうしたの?仕事は?」

 「休んできた。何だか急に帰りたくなってね」

 「前もって連絡くれたらお昼ご飯用意したのに。余りものでよければ食べるかい?」

 「うん。ちょうどお腹が空いていたから助かるよ」

 「ちょっと、待ってておくれ」

 母親はそう言うと腰をさすりながらゆっくりと立ち上がり、首にかけていたタオルで汗を拭いながら家の中に入っていった。康介も自分の荷物を抱えながら後に続いた。玄関先の引き戸を開けると土間になっている。土間で靴を脱ぎ、上がり框(かまち)を踏み越えて家の中へ上がった。

 木目の浮き上がった床が敷き詰められた長い廊下を歩いてゆく。板を踏むたびに軋む音が鳴った。

 

 清水家は江戸初期から明治初期まで代々、村長を務めてきた一族である。明治以降も地主として村の有力者であり続けた。だが、この一族には呪いめいた特徴があった。それは本家の男子が全員、短命であるということだ。それも分家や近所の親戚ではなく、本家の人間だけが二十代から三十代の間に必ず死亡している。長生きしても四十代が限界だった。この不幸な現象は江戸末期から始まったのだという。

 康介の祖父も戦時中、三十一歳の若さで戦死している。その後、代わりに家督を継いだ祖父の弟などは三十代後半で謎の変死を遂げた。そして、康介の父親は彼が三歳の時、交通事故で亡くなっている。二十七歳という若さだ。康介の母親は同じように夫と死別して苦労した祖母と助け合いながら生きてきた。

 現在、清水家で生存しているのは母の恭子(きょうこ)、祖母のカネ、長男・康介の三人のみ。祖母は九十歳で体は丈夫なのだが、近ごろは物忘れが激しい。視力も衰えてしまい今では散歩も一人では行けない状態だ。康介の母親は祖母の介護で一日の時間をとられている。だが、山間部の田舎に福祉サービスが整備されているはずもない。今のところ祖母のカネは徘徊するような状態ではないので交通事故に遭う可能性は低いが、認知症が進行すればどうなるか分からない。それが母親の一番の悩みだった。

 夜の七時過ぎ。三人で夕食をとっていた。

 「康介。次の就職先は見つかりそう?」

 母親はほとんど目が見えない祖母の口に食べ物を運びながら康介に話しかけた。

 「それがなかなか見つからなくてさ」

 「大変ね。それで今回はいつまでここにいられるの?」

 「まだ決めてないけど、数日はいようかな」

 「そうかい。あたしは嬉しいけど、あんまり無理するんじゃないよ」

 「大丈夫だよ」

 康介と母親が会話を続ける中、祖母だけは押し黙ったまま一言も発しなかった。

 康介は認知症が悪化したのではないかと心配になり「母さん。おばあちゃんは大丈夫なの?」と言った。だが、母親は「いつものことよ」と意に介せずに会話を続けた。

 「康介。そんなことより気分転換に釣りにでも行ったら? 明日もお天気が良いみたいよ」

 「そうだね。ミサゲ山近くの沢にでも行こうかな」

 康介が「ミサゲ山」という地名を告げた瞬間、さっきまで黙っていた祖母の態度が豹変した。  

 しわだらけの顔は険しい表情となり、白く濁った眼を見開かれていた。

 「康介、ミサゲ山には絶対に行くんじゃないよ!」

 「ばあちゃん、落ち着いてよ。あの山には入らないから」

 「そうよ。お義母(かあ)さん、康介だって子供の時からあの山に入ってはいけないことぐらい知ってるわ」

 「それなら良いんだよ」

 祖母はそういうと再び無言になってしまった。

 神御呂司村は忌地のミサゲ山と呼ばれる小さな山の周囲を囲うように密集した集落だ。

 この山は古くから神が住まう場所である「禁足地(きんそくち)」とされ、絶対に入ってはならない場所だった。年に一度、神に供え物を捧げるために神職者と村長だけが踏み入ることを許された場所である。

 康介は幼い頃に村の不気味な話を大人たちから聞かされた。昔から村では何人もの子供たちが行方不明になっており、言い伝えによればミサゲ山で神隠しに遭ったのだとされている。それほどに恐ろしくも神聖な場所なのだということは幼心にも理解していた。

 だが、大人になった今はそんな迷信など信じていない。だからこそ、康介には祖母が血相を変えてまで忠告した意図が理解できなかった。やはり、認知症が悪化したとしか思わざるを得なかった。

 母親は「お義母さんは康介が子供だった時代と今の記憶がごっちゃになっているのよ」と疲れ切った顔で言った。夕食の後、母親は祖母に薬を飲ませて寝室へと連れていった。

 康介は自分の部屋に戻ると早速、釣りに備えて準備を始めた。実家とミサゲ山の距離は徒歩で三十分ほどしかかからない。その中間に位置する場所には渓流釣りの穴場があった。中学生の時、近所に住んでいる釣り好きの老人に連れていってもらったものだった。

 彼は翌日に備えて、早めに就寝することにした。

 翌日の朝六時過ぎ。

 康介は釣り道具を持って渓流に向かった。暖かくなったとはいえまだ早朝は肌寒い。ひんやりとした山の空気は澄み切っていた。

 辺りには白い霧が微かに立ち込めてはいたのだが、視界不良というほどのものではなかった。

 康介は川原にたどり着くと釣り竿を取り出した。そして、あらかじめ造っておいた仕掛けを竿先に結びつけると早速、釣りを始めることにした。

 竿を握り始めて二時間後。未だに何も釣れなかった。川底まで見えるほどに水は澄み切っている。だが、苔むした岩の陰にも魚影は一つも見当たらない。

 「釣る場所を変えてみようかな」

 康介がそう呟いた瞬間、背後で鈴の音が微かに鳴った。振り返ってみたが誰もいない。

 ──気のせいか……

 耳を澄ませても渓流の水音しか聞こえてこない。再びポイントに向かって竿を投げ出した。

 しばらく待つと手ごたえがあった。糸が引かれている。康介が釣り竿の力加減に意識を集中させようとした時、また遠くから鈴の音がした。今度は音のする方向がわかったので首を捻じ曲げたのだが動物すらいるようには思えない。あっ…康介が持っていた釣り竿が急に軽くなった。釣り針ごと獲物が食いちぎってバラしてしまった。康介は軽く怒りを覚えて立ち上がった。 

 すると、追い打ちをかけるようにまた例のさめざめと響く音がする。こうなると原因を確かめずにはいられなくなっていた。康介は岩場に釣り竿を置くと、そのまま音を辿りながら歩き出す。

 鈴の音はミサゲ山から聞こえていた。山の方へと近づくにつれて霧が濃くなってきた。

 突然、音が止まった。不思議に思って佇んでいると赤いものが視界の中に飛び込んだ。

 距離にして二メートル先。

 霧のせいで判然としないが、どうやらそれは赤い着物を着た六、七歳ぐらいの幼女のようだった。

 ──うふふっ。ふふふふ。

 幼女は楽しそうに笑いながら山の方へと走っていってしまった。

 康介はまるで魔法にでもかかったかのように無我夢中で幼女を追いかけた。不思議なことに急斜面の歩きにくい山道も気にはならなかった。

 ブナなどの植物で鬱蒼としている樹林帯に入ったようだが、霧のせいで何も見えなかった。

 ただ、鈴の音だけは聞こえている。

 皮膚にべったりと張り付くような粘着質の濃霧の中を歩いているうちにいつしか、山の頂に辿り着いていた。

 だが、誰もいない。 

 ふと、霧の中に古びた鳥居が浮かび上がった。鳥居は黒く焼け焦げており、白い煙が出ているように見えた。

 康介は鳥居をくぐり抜けて、その先に向かって歩き出した。

 すると、眼前に朽ち果てた祠が見えてきた。原型をとどめてはいるものの、ほとんどの部分が焼け崩れていた。

 祠の残骸を眺めていると背後に何者かの気配が沸き上がった。

 振り返るとそこに立っていたのは幼女ではなく、赤い着物を着た大人の女だった。端正な顔立ちをしており、黒くて長い髪には艶があって美しかった。だが、全身の肌が死人のように蒼白い。背筋が凍り付くほどの恐ろしさと同時に妙な妖艶さがあった。

 康介は奇妙な女の魅力に囚われていた。もう思考を巡らすことはおろか、声すらも出せなくなっていた。

 「康介。おかえりなさい」

 女は康介の頬にそっと手を触れる。すると、彼は心地良さと懐かしさにも似たものを感じながらその場に倒れ込んでしまった。

 意識が遠ざかりつつある康介の耳に聞こえていたのは鈴の音だけだった。

 ──シャリン、シャリン、シャリン……

 

Concrete
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五月晴れって五月じゃないですよね。
内容は面白かったです。

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