あれはこうして海からやってきた。
僕は某旅館に泊まっていて、夜の八時頃に露天風呂へ入りに行く途中だった。木の廊下はいやに湿っていて裸足で歩いていると床がべとついているように感じられた。
旅館の人の掃除が不足しているせいで床が汚かったとは思わない。
そのとき、季節は夏だった。しかもすぐそばには海があった。それだから湿気がひどかった。湿気でべとついていたのは床だけでなく、僕の足の裏もそうだったと思う。
露天風呂へ行く道の途中、二人組の男がふすまを開けて部屋から出てくるのを見かけた。
男二人組の動きは慌ただしかった。ふすまを閉じていくことすらしなかったぐらいだから相当焦っているに違いなかった。
二人組はそのまま、露天風呂のある方へ向かって歩き去って行った。
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僕は開けっぱなしになっている部屋の中を見てぎょっとした。
部屋の床の真ん中あたりに蓋が開けられた状態の赤い筒のようなものと、大量の砂と人形が落ちていた。
人形は女の子で、赤い振り袖を着ていた。砂で汚れてはいたが、見ていてなんとなくきれいな人形だと思った。
砂と人形はおそらく筒の中に入っていたものだろう。それにしてもなぜ、筒の中に砂と人形を詰めているのだろう?そのときの僕にはそれが疑問だった。
ふと視線をあげると部屋の中央に、ちょうど見ている僕と向かい合うような形で神棚が置いてあるのが見えた。
榊の木が飾ってあり、果物も供えてあった。中央にはぽっかりと空間が空いていた。ちょうど床に落ちている赤い筒がおけるくらいのスペースだった。
砂と人形が入った赤い筒は、神棚のこのスペースに飾られていたのである。
僕はその神棚を見たとき、この部屋があの二人組の宿泊部屋でないことを知った。普通の宿泊部屋に神棚が置いてあるはずがない。
してみるとあの二人組は入るべきではない部屋に入った狼藉者と言うことになる。さらにいえば筒の中の砂を床にぶちまけていった無法者どもである。
これはいけないと僕は思った。その場で露天風呂行きは取りやめた。その代わりに旅館の従業員を探し始めた。
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受付の女性がいたところへ向かってみたが、カウンターには誰もいなかった。しかし奥を覗いてみるとおじいさんが奥のテーブルに座ってせんべいをかじっているのが見えた。
「すいませーん」
おじいさんは聞こえていないのか、まだせんべいをかじっていた。
「すいません!」
「お客さん、でかい声で謝るのはちょっと勘弁してもらえます?ほかのお客さんもいるので」
「謝ってるんじゃないですよ!あなたに来てもらいたいんです」
「あ、違うの。道理ででかい声出すと思ったら」
そう言っておじいさんは腰を上げてこちらへやってきた。
「いやさ、全然違う方に向かって声かけてるような気がしたからさ」
「いやいや、がっつりそっち向いてましたよ」
「ああ、そう。で、何?」
「神棚の置いてある部屋なんですけど」
言いかけた僕の言葉を遮っておじいさんが強い語気で問い返した。
「神棚?神棚の部屋がどうしたって?」
おじいさんは目を細め、眉にしわを寄せて鋭い視線を僕に向けた。
「あの、部屋に赤い筒が床に落ちてて、中に入ってた砂と人形が出ちゃってたんですけど」
僕がそう言い終わる頃にはおじいさんは走り出していた。
おじいさんはカウンターの横にある扉を乱暴に押し開けた。そして廊下をものすごい勢いで駆け抜けていった。
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僕はおじいさんについて行った。おじいさんは神棚のある部屋へ入っていった。追いついた僕がその部屋を見ると、おじいさんはしゃがんでいた。
赤い筒の中が畳の上に立てておかれていた。赤い筒の中には人形を入れていた。おじいさんは両手で砂をすくって、赤い筒の中へと戻していた。
すると突然、おじいさんは僕の方を向いていった。
「今すぐこの旅館すべての窓やドアの戸締まりをしてくれ!それをうちの孫にも伝えて手伝ってもらえ」
「え…………」
「早くしろ!」
「あの、孫ってどんな人ですか?」
「受付で会ったはずだ」
僕は受付で会った女の人の顔を思い出した。
そして僕は戸締まりに行こうと振り返った。
すると僕のすぐ横には受付をしていた女性が立っていた。おそらく、おじいさんの足音や声からただならぬものを感じて様子を見に来たのだろう。
「戸締まりをしてくればいいんですか?」
女の人は尋ねた。
「はい」
「それじゃあ、あなたは客室と廊下の窓を見てきてください。私はほかのドアや窓を確認してきます」
「わかりました」
僕はそして言われたとおりにした。廊下の窓はいくつか開いていたので閉めた。それと一つの客室だけ、窓が開いていたが客がいなかったので入っていって閉めた。
閉め忘れが怖かったので、来たと思うようなところでも何度もぐるぐる回ってみていた。その途中で女の人と合流して、
「すみましたか?」
と尋ねられたところで、終わったと答えてようやく確認するのをやめた。
神棚のある部屋に戻ると、おじいさんは未だに畳の上に落ちた砂を拾っていた。
だが今や砂は畳の繊維の隙間に入り込んでおり、完全に取りきることは不可能となっていた。
赤い筒の中には、大体口元が隠れるくらいのところまで砂に埋まった人形の姿があった。
おじいさんが背中越しにこちらを見ていった。
「あんたがやったのかね?」
「いえ、僕が見たときにはすでにそうなってました。多分男の二人組の人たちがやったんだと思います。その人たちが慌てて部屋から出てくるのを見ましたし。その人たち、露天風呂に向かったので多分そこにいると思います」
僕は言った。そのとき、女性は叫んだ。
「あ!露天風呂のところ、閉めてない!」
「早く閉めてこい!」
そういっておじいさんは立ち上がった。女の人はかけだした。僕もそれについて行った。
「露天風呂に入ってる人がいたら、すぐに出てもらえ!」
「私が言いに行くの?女が男風呂に入っていいの?」
「緊急事態だから仕方ない。代わりにおじいちゃんが女風呂を見てくるから」
「それならおじいちゃんが男風呂見てくればいいじゃないの!しかもよく考えたら、今日の客、男三人しかいないし」
「あ、それもそうか」
女の人がさきに露天風呂の入り口にたどり着いた。そして女の人がドアを開けると同時に、野太い男の悲鳴が聞こえてきた。
女性は脱衣所へと入っていった。もはや、男風呂とかそういうものは気にならないようだった。僕とおじいさんもその後に続いた。
女の人は男風呂の入り口の前で立ち止まっていた。
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風呂の入り口のドアはアルミサッシにガラス窓がはまったものだった。悲鳴はそのドアの向こう側から聞こえてきていた。
「おじいちゃん、あれ何?」
女の人は震える声で言った。
おじいさんは孫娘に近付くと腕をつかみ、引き戻した。
「た、助けなきゃ。中の二人を」
「もう手遅れだ」
おじいさんは孫を引っ張りながら僕に言った。
「おまえも出ろ!ここを施錠する」
「中の二人はいいんですか?」
「行ったってできることは何もない」
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僕たち三人が露天風呂の部屋から出るとおじいさんは戸を閉めた。そして鍵を施錠した。
その直後、ドアの向こう側でアルミサッシの戸の開く音がした。
ぴたぴたと足音が聞こえてきた。人が裸足で駆け寄ってきているときのような音だった。
それからドアが揺れた。誰かがドアを開けようとしているようだった。
中にいる誰かはドアが開かないことに気がついたのか、ドアを猛烈な勢いでたたき始めた。
「開けてくれ!誰かそこにいないのか?」
それから再びどんどんとドアをたたく音。
僕はドアを開けようと鍵に手を伸ばした。その手をおじいさんがつかんだ。ものすごい握力で、つかまれているところが痛いくらいだった。
「開けてくれ、お願いだ!」
そう男が言った後、ドアをたたく音がやんだ。
音がやんで、別の音が聞こえるようになった。
それはもう一つの足音だった。ピタピタと音をさせてこちらに近付いてきていた。
男がドアの向こうでささやくように言った。
「助けてくれ。頼む」
それから男の悲鳴が聞こえた。
ドアが激しく揺れた。激しい物音が聞こえてきた。時折、液体状の何かをかきまぜるようなぐちゃっぐちゃっという音がした。
だんだん男の悲鳴が小さくなっていき、次第にうめき声に変わっていった。
そしてついには聞こえなくなった。だがそれからもしばらくドアは小刻みに揺れていた。
そのときだった。
低くおぞましい何かの鳴き声がドアの向こうから聞こえてきた。
それは蛙が鳴くときの声に似ていた。しかし蛙のように断続的に声を出すのではなく、人がうめくように声を出し続けるのである。
それから向こうにいる何かはドアを激しい勢いでたたき始めた。もはや強いノックと言うよりも、ドアを壊そうとしているみたいだった。
「こっちへ来るんだ」
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おじいさんは言った。おじいさんの後へついて行くと、彼は神棚のある部屋へと入っていった。そして赤い筒を手に持った。
「それ、大事なものなの?」
女の人は尋ねた。
「ああ。新しく砂をいれてもらわなくてはいかんからな。それよりもはやくボイラー室に行かねばならん」
「それもそうね。ガラス窓なんかを割られたりしたら、そこから旅館の中に入られるかもしれないし。その前に避難した方がいいわね」
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僕らはボイラー室へ向かった。
幸い、ボイラー室に着く頃になっても、まだ風呂場にいた何かが旅館の中に入ってくることはなかった。
僕らはボイラー室へと続く階段を降りていった。
ボイラー室の扉は鉄でできており、さらには施錠することができるようになっていた。しかも窓ガラスはなかった。
ここにいればひとまずは安全を確保できるだろうと思われた。
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おじいさんはボイラー室の中に入ると明かりをつけた。そして扉を閉めて施錠した。
「これで大丈夫だろう」
おじいさんはそう言うと床に座り、配管に背をもたれた。
僕は扉にもたれて座った。女の人は僕から少し離れた右の方に座った。
「おじいちゃん、その人形は何なの?あと、外にいるあれは何なの?」
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「この人形は俺が海の中から拾ってきた。三十年くらい前のことになるかな。
「その頃、俺は趣味で素潜りをしていて、あるとき、この人形を見つけた。
「見つけたときはきれいな人形だな、と思った。でも別に特別ほしいって思うほどのものでもなかった。
「ただ、持って帰ったら聡子(おじいさんの亡くなった妻)が喜ぶと思ってな。
「家に持って帰って聡子に見せたらとても喜んだよ。それを見て俺もうれしかった。
「今思うと信じられないくらいに馬鹿なことをしているように思える。すくなくとも、この人形の正体を知っていたら、そんなことはできなかったはずだ。
「この人形を持って帰った日の夜,その日はたまたま寝付けなくて深夜までずっと起きていた。「今思えば、そのおかげで生き延びられたんだから、不眠症もそう悪いものとも言えない。
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「俺が寝ていたすぐそばには大きな窓があって、それが揺れる音がしたんだ。それでふと窓を見たらあれがいた」
「あれって、どんな姿なんですか?」
「知らない方がいい。智美にも俺の言ってることがわかるだろ?」
智美と呼ばれた女性はうなずいた。
「俺はとっさに泥棒だと思って大声で盗人め、と叫んだ。
「そのときはまだ、姿は見えなかったから人だと思った。
「しかしあれが声を出したのを聞いたとき、すぐさまこれは人ではないとわかったよ」
僕はあれの声を思い出した。確かにあれは人に出せる声ではない。
「俺は隣で寝ていた聡子を起こそうとしたが、すでに起きていた。
「俺の出した声に驚いたんだな。それから二人して立ち上がって部屋から逃げ出した。
「それから俺は猟銃を取り出した。護身用としていつでも撃てるよう、弾だけはすでに込めてあった。
「で、窓ガラスを割って後ろから追ってきたあいつの胸に一発撃ち込んでやったよ。
「それから猟銃を捨てて玄関から逃げ出した。それから交番に行った。
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「おまわりさんに、家に怪しいやつが来た、窓ガラスを割って家に押し入って来たところを逃げてきたから様子を見てくれって頼んだよ。
「そしたら二人いたうちの一人が家を見に行ってくれた。
「俺たちはしばらく待っていた。その間、俺は自分が人を殺したんじゃないかと不安で仕方がなかったよ。
「声を聞いてとっさに人じゃないとは思ったが、暗闇で見たその影はひとにそっくりだった。「もし間違って人を撃ち殺していたとしたら、俺は被害者から一転して、人殺しになっちまう。
「だがあれが人でないとするならば、猟銃やおまわりさんでどうにかできるはずはない。そうなれば俺はまたあれに追い回されるはめになるかもしれなかった。
「俺はこの二つの恐怖におびえながらおまわりさんの帰りを待っていたよ。
「だけど交番に帰ってきたのは見に行ったおまわりさんじゃなかった。あれだった。
「あれは猟銃で撃たれたにもかかわらず何事もなかったかのように交番の入り口にふらりと現れた。
「そして俺はあれの姿を見て、今度こそ人ではないと確信した。あれは人とはほど遠い、恐ろしい化け物だった。あれは顔や首と胸を血でぬらしていた。見に行ったおまわりさんを殺したときについた血だ。
「俺たちのそばにいたおまわりさんが俺たちを守ろうとしてくれた。
「そして背中越しに俺たちに神社に行けと言った。あれはこの世のものじゃない、でもあのこの神主さんならなんとかしてくれるはずだと。
「おまわりさんにそう言われたことで、俺と聡子は交番の裏口から抜け出して神社に行くことにした。
「裏口へ向かう途中、背後からおまわりさんの悲鳴が聞こえた。翌日、何もかも収まってから行ってみたら、あの人も死んでいた。
「裏口のドアを開けようとしたときだった。ドアが開かなかった。鍵をかけてあったんだ。
「つまみをひねればすぐに解錠できるやつだった。でも開ける間のわずかな時間のせいで取り返しのつかないことになった。
「俺は鍵を開けて外に出た。後ろを振り返っている余裕はなかった。すぐそばにあれが迫っていることは見なくてもわかった。
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「それで必死に走って行って、少ししてから聡子がちゃんとついてきているか気になって後ろを見たんだ。
「そうしたら、後ろに聡子はいなかった。
「だけどはるか遠くからあれが追いかけてきていた。あれと俺との間に聡子はいない。じゃあどこにいたのか?
「聡子は俺が裏口の鍵に手間取っている間かその直後、あれに襲われて殺されたんだ。
「それなのに俺は何にも気がつかないで一人ですたこら逃げちまった。
「あのとき、俺が後ろにいればよかったんだ。そうすれば俺は死んでもあいつは助かったんだがな。
「あいつが襲われたことに気がついた俺はそれでも逃げた。
「そのときはとにかく生き延びることしか考えられなかった。
「生き延びなきゃ聡子のために助けを呼ぶこともできないって自分に言い聞かせた。でもそれは結局のところ、逃げるための口実だったのかもしれない。
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「俺は神社に入ることができた。だが、神社には入れたからと言って必ずしも助かるとは限らない。
「そもそも後ろから追いかけてくるあれがなんなのかさえわからないんだからな。
「そう思っていたら、あいつが鳥居の前で立ち止まったんだ。
「あいつは鳥居より先からこっちへ来られないようだった。ただこっちを見て突っ立っているだけだった。
「それから神社の建物の中に入ると、神主がいた。事情を説明すると、朝までここにいるようにと言われた。
「そして翌日の朝になるとあれはいなくなっていた。神社から出ても、襲われることはなかった。
「神主と俺は俺の家に行った。
「そして神主は俺の拾ってきた人形を見つけていった。この人形がすべての原因だと。
「この人形は特殊な方法で死を人形に背負わせて海に流したものだと。
「だけど死は人形に背負わせただけでなくなりはしない。
「今じゃ死がこの人形を邪悪な存在にゆがめてしまったとさえ言っていた。だから拾ってしまった俺のところにあれが来たのだと言っていた。
「だけど神主さんはそれを封じ込めてもくれた。
「人形を砂に埋めればいいと言っていた。
「砂は海を陸と隔てるものだから、海から来たものを隔てるのだとか、あとほかになんか言ってた。まあ、その辺のことはよくわからなかったよ。
「そのうえ、神主さんは人形を引き取って供養すると言ってくれたんだ。それでいったんは丸く収まったんだ。
「ところが、つい最近になってその神主が死んだ。
「そうしたらその息子がこの人形をこっちへ送り返してきやがったんだ。
「なんでも、砂に埋めても供養をしようとしてもそれが完全に収まることはなかったらしい。で、持て余したから俺に渡しやがったんだ。
「俺も持ってるわけにはいかないから、直接神社に持って行って供養してくれって言ったんだよ。
「そうしたらあの坊主、俺にはどうにもできないとかわめき散らしやがって。結局受け取らないで神社に引きこもりやがった。
「本職でも無理なものを素人がどうにかできるわけがないだろって思ったね。
「せめて業界のつてでもたどって誰かに頼るでもよかったのに、こともあろうに俺に送り返してくるとは。
「おかげで今、こんなめにあってる。こいつには力のようなものがある。
「こいつがここへ来てからずっと、変なことが起こり通しだ。ガスが漏れていたり、箱にしまってあったはずのあれがいつの間にか泥棒にとられそうになっていたり。
「仕方ないからあのガキに電話したら、神棚にまつっておけば少しはよくなるなんて言ったからそうしたけど、かえってまずかったらしい。ちくしょう、思い出したらだんだん腹が立ってきた」
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「あの、話を聞いてて思ったんですけど、ここで朝まで立てこもっていれば僕らは助かるってことですか?」
「そうだよ」
おじいさんは言った。
「でも、朝だっていうのはどうやってわかるんですか?」
「そりゃおめえ、眠って起きて、鶏がコケコッコーって鳴いたら朝だ」
「いや、ここに鶏いないでしょ」
女性は言った。
「大丈夫だよ。どっかその辺に野生の鶏とか、多分いるから」
「野生の鶏がたまたまこの辺にいるとは限らないでしょ」
「しょうがねえ、時計とってくるよ」
そう言っておじいさんはドアに向かっていった。
「ダメダメ!死ぬよ!」
僕と女性は二人がかりでおじいさんを押さえつけた。
「おっとそうだった」
「待ってればそのうち、夜が明けるわよ」
「まあ、そういう考え方もあるわな。しょうがねえから、勘だ。朝かなって思ったら出てみよう」
「それしかないですね」
僕はうなずいた。
「ところでおめえさん、名前はなんて言うの?」
「高田真一です」
「俺は石山源一郎っていうんだ。で、これは石山智美ってんだ。俺の孫娘」
それからしばらく、いろいろなことを話していたが、やがて話す話題もなくなり、ただ黙って待っている時間が続いた。
体調が悪くなったというのもあった。ボイラー室にいてしばらくして、頭痛と吐き気を感じ始めたのだ。そのため会話をしたい気分ではなかった。
時計を見ていなかったので、どれほどの時間が経ったのか正確なところはわからない。多分夜中の三時はとっくに過ぎていたと思う。
僕は焦げ臭い匂いを感じた。はじめは火事かと思った。だが、匂いをたどっていくと、匂いの元がボイラーであることに気がついた。
「源一郎さん、ボイラーから焦げ臭い匂いがしますよ」
源一郎さんは寝ていた。
「源一郎さん」
僕は源一郎さんの体を揺すった。すると源一郎さんは起きた。
「ボイラーから焦げ臭い匂いがします」
「うん?」
「ほら、匂いません?」
「あっまずい!」
源一郎さんは慌てて飛び起きると、ボイラーを操作し始めた。すると先ほどまでしていたボイラーの稼働音が止まった。
「ボイラーが不完全燃焼を起こした」
源一郎さんは言った。
そのとき、僕は今まで感じていた頭痛と吐き気の正体が単なる体調不良などではないと気がついた。
これは一酸化炭素中毒による症状だった。
「源一郎さん、このままだと一酸化炭素中毒になります。換気しないと」
「多分、その換気するための配管か何かが詰まってるんだろう。換気は無理だ」
しかしこのままでは一酸化炭素中毒を起こして僕ら三人とも死ぬ恐れがあった。
「何でこんな時に限ってこんなことが」
「こんな時だからこそ、かもしれません」
僕は言った。
「どういうこと?」
「この人形には力があると源一郎さんが言っていたじゃないですか。たぶんこれはよくないことを引き寄せることができるんです」
僕は人形をいれている赤い筒を見た。
不意に僕は今すぐこれをボイラーの中に入れて燃やしてしまいたい衝動に駆られた。しかしきっと、そんなことではこの人形を始末できないのだろう。
その程度でなんとかできるなら、神主さんがとっくにこの人形を始末していたはずだ。おたきあげという手法を神主が思いつかなかったはずはない。多分、その方法は失敗したのだろう。
「こうなったら、ドアを開けるしかない」
源一郎さんは言った。
「でもそうしたらあれが入ってくるかもしれないわ。もしかしたらドアのすぐそばで待っているかも」
「それはそうかもしれんが、しかしそうしないわけにも行かない。おまえだって、頭痛か吐き気のどちらかを、もう感じ始めているんじゃないのか?」
「それはそうだけど。でも、たいしたことないし、このままでも大丈夫かもしれない」
「でもだめかもしれません。一酸化炭素中毒は重症化すると、意識を失うこともあります。そうなってからじゃ遅い」
「じゃあ、どうすればいいのよ?」
「それは…………」
僕が考え込んでいると、外からあのおぞましい鳴き声が聞こえた。それも鳴き声はドアのすぐ向こう側から聞こえてきた。
智美さんがびくりと身を震わせた。
ここにとどまっても死ぬし、外に出ても死ぬ。一体どうすればいいのか。
そのとき、僕は部屋の奥に置かれている白いペール缶に目が行った。
はじめはなんでこんなところにペール缶があるのだろう、と思った。その直後、僕は頭の中にひらめくものを感じた。
火事の起こる危険のある場所には、消火用にあれを置くこともあるはず。
僕はペール缶を開けた。その中身を見て、僕は解決の糸口を思いついた。
「これ、使えるんじゃないですか?」
僕はペール缶を示していった。
「いや、これはただの砂だ。ボイラーの消火用にと砂浜からとってきただけで。清められた砂ではないから、使えんよ」
「清められた砂ではなくてもいいのかもしれません。砂そのものにこれを封じ込める効果があるのかもしれないですし」
「何でそんなことがおまえにわかる?」
「はっきりしたことはわかりませんよ。でも、きっとうまくいくと思うんです」
「おじいちゃん、やるだけやってみよう?どうせほかにすることもないんだし」
智美さんはそう言った。
おじいさんは不承不承というようにうなずいた。
赤い筒を持って砂のそばに行くと赤い筒を開けた。そしてペール缶に砂をいれ始めた。
それまで口元から上は砂から出ていたのだが、砂をかけるとさらに姿が隠れていった。
そのとき、不思議なことが起こった。
人形の頭がふたたび姿を現したのである。
砂は缶いっぱいに入っていた。それにも関わらず人形は缶の中からせり上がってきて、今では首まで砂の上に出てきていた。
「こいつ、抵抗してやがる。信じられん。人形のくせに」
おじいさんは指で人形の頭をおして砂の中に押し込もうとした。するとおじいさんは慌てて指から手を離した。
「あっつ。見ろ、やけどした」
僕はおじいさんの指を見た。
おじいさんの指の腹が、まるで高熱のなべにふれでもしたみたいに焼けただれていた。
「僕の服の袖で触って押し込みます。人形の姿が隠れたらふたをしてもらっていいですか?」
「私が蓋を閉めるわ。おじいちゃんの片手はもう使えないし」
智美さんは言った。
僕は人形を押し込んだ。服が間に入っているにもかかわらず、それでも少し指の腹が熱く感じた。
人形の頭が砂に隠れたところで指を離した。智美さんが蓋をした。
しばらく僕たちは赤い筒の様子を見ていた。人形が赤い筒の蓋を押しのけて飛び出して来はしないかと思った。しかしそんなことはなかった。
僕は服の袖を見た。
服の袖の人形の頭に当たっていた部分が丸く、黒くなっていた。
その黒くなった部分に人形の呪いが残っているような気がした。僕は袖をまくって黒いのを隠した。
「外のあれはどうなったと思う?」
「わからん。いるかもしれん。別にいなくなったとも思える音がしたわけでもないしな」
「開けましょう」
「何を言ってる?」
源一郎さんは眉をひそめた。
「どちらにしろ、開けるしかありません。このままここにいれば一酸化炭素中毒になるだけです」
「だが、出たらあれに襲われるかもしれん」
「ええ、もちろんその可能性はあります。だからこうします。
「僕がドアを開けます。それでもし外に何かがいたら、僕があれを食い止めます。それで、僕とあれが外にいる間にドアを閉めてください」
「そんなこと、できるわけないでしょ!」
「大丈夫ですよ、いないに決まってますから」
「もしいたとしたら、あなた、間違いなく死ぬわよ?それでもいいの?」
「そのときは、死なないよう全力を尽くします」
そう言って僕はペール缶を手に持った。万が一の時は、これを盾代わりにするつもりだった。僕はドアの前に立った。
「ドアを開けますよ」
「本当にやるのね?」
「生きるためにはこれしかないんです」
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僕はドアの鍵を開けた。
もしかしたらドアの鍵を開けた直後にひとりでにドアノブが動いて向こうから何かが入ってくるという想像をしてはいたが、そんなことはなかった。
僕はドアノブを握った。ひんやりとしたドアノブの感触に一瞬びっくりしそうになったがそれはこらえた。後ろの二人を驚かせたくなかった。
そして僕はドアを開けた。
このとき、僕は一つ間違いを犯していた。あれはいなくなっていると思っていた。
しかし智美さんと源一郎さんが見たあれはまだそこにいたのだ。
まずドアを開けたときに陰を感じた。
そしてさらにドアを開けると、悪臭を嗅ぎ取ることができた。それは腐った水の匂いだった。海の匂いをもっと強くしたもの、ヘドロに似た匂いだった。
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そして僕は見た。あれの姿を。
あれは確かに人の形をしていた。性別で言えば男だった。
右の眼窩には死んだ魚のように真っ白になった目玉が入っていた。
左の眼窩に目玉はなかった。その代わりに目の中にフジツボが住み着いていた。
肌は青白かったが、緑色になっていたり黒くなっている部分があった。黒いところは多分、カビが生えていたのだと思う。
顎の下から胸にかけてのあたりが血で赤黒く染まっていた。それが何よりも僕の不快感をかき立てた。
それが僕の目の前でおぞましい鳴き声を発した。
僕は叫んだ。そしてペール缶を盾代わりにして、化け物に体当たりした。
僕の後ろでドアが閉まる音がしたが、気にしている場合ではなかった。
僕は僕でなんとかして生き延びなければならなかった。
だがここで智美さんも間違っていたことがわかった。外に出たら僕が死ぬというものだ。
僕が体当たりすると、それは階段に倒れた。
するとそれはまるで豆腐が地面に落ちたようにぐしゃぐしゃに潰れてしまったのだ。
あとにはあれの姿はなく、汚らわしいヘドロだけが残った。
どうやら人形を封印したことで目の前にいたこれはすでに虫の息だったようだ。
これには僕を襲う力どころか、己の形を保つ力さえ残っていなかったらしい。
「出てきても大丈夫ですよ」
僕は言った。
するとそろそろと階段が開いた。
「やったのか?」
源一郎さんは尋ねた。
「いや、もうすでに死にかけていました。人形を封印したからでしょう」
「俺はあんたが死んだかと思ったよ」
「ところがどっこい生きています」
僕たちはボイラー質から脱出した。
そのとき、裸足でヘドロを踏まなければならなかったのはかなりつらかった。ヘドロを裸足で踏んだとき、それのぬるぬるどろどろした感触を足の裏に感じた。
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それから僕たちはまず風呂場に行った。ヘドロを足の裏から洗い流すためだ。
男湯には死体が一つあったので、さすがに使えなかった。だから女湯で足を洗った。
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それからおじいさんが警察に電話をした。おじいさんが電話をした頃には夜が明けていた。
窓の外の風景に朝の柔らかな日差しが広がっていく様を見ながら僕は言った。
「僕の知り合いに、心霊関係の方面でとても頼りになる人がいます。彼が起きた頃にに電話して、ここに来てもらいます」
「ありがとう。それと、あのときは悪かった。君をその、見殺しにしようとして」
おじいさんは言った。
「いや、あそこで戻って二人を巻き添えにする方が見殺しにされるよりよっぽどつらいですよ。それにこうして生きてるから問題ないです」
僕は言って、二人を安心させるために笑みを作った。
遠くからパトカーのサイレンが鳴っている音が聞こえてきた。もうすぐ日が昇りそうだった。
作者匿名
登場人物の名前は全て仮の名前を使用しています。