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お帰りなさいが待っている

長編11
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お帰りなさいが待っている

「わぁ、すっかり遅くなっちゃったわ」

青山寿子(あおやまひさこ)は独りごちながら、バタバタと玄関で靴を脱ぎ、台所へ直行した。

「もう、店長ったら話が長いんだから」

エプロンをつけながら、店長の楽しい長話を思い出し、苦笑いする。あの、一分に一回は相手を笑わせようとする話し上手のおかげで、パートが三十分も長引いたのだ。迷惑この上ない。毎日楽しみで困ってしまう。

幸い、二人の子供たちはまだ学校から帰ってきていないようだ。

買ったばかりの買い物袋から特売シールのついた牛すじ肉を、冷蔵庫から玉ねぎを取り出す。今日の献立は、子供たちのリクエストのすじ煮込みだ。

「まったく。簡単にリクエストしてくれちゃうけど、なかなか手がかかるんだからね、これは」

文句を言いながらも口元が緩むのは、食べながら「おいしい!」を連発してくれる子供たちと、いつも以上にご飯の進む夫の顔を思い出したから。

━━今夜の食卓も、きっと賑やかになるわ。

牛すじ肉を食べやすく切って、生姜と一緒に水から茹でる。一時間ほどして柔らかくなったら一旦水を捨てて、玉ねぎを入れて醤油ベースの煮汁でじっくり煮込む。煮汁が半分ほどになったら、トロトロのすじ煮込みの出来上がりだ。

「あぁ、いい匂い。さすが、私」

自画自賛しながら、ふと壁の時計を見た。

「え、もうそんな時間⁈」

夏は日が長いからつい気がつかなかったが、もう午後七時を過ぎている。それなのにシンと静まり返った家の中をぐるりと見回して、寿子の背筋を寒気が走った。

子供たちがまだ帰ってきていない。

二人はまだ小学生だ。クラブがあったって、いつも六時前には帰宅するはず。いつまでも明るいから、つい友達と遊び過ぎてる? 五年生の娘と二年生の息子が、二人揃って?

「たいへん…」

慌ててエプロンを外して探しに行こうとしたときだ。

カラカラと音がして、玄関の引き戸が開いた。

━━ようやく帰ってきたみたい。ちょっと叱ってやらなくちゃ。

ホッとしながら、わざと足音を立てて玄関に向かうと、

「あ、あら」

玄関に立っていたのは、スーツ姿の若い女性だった。

女性は深々と頭を下げて言った。

「忙しい時間に申し訳ありません。青山寿子様でよろしいでしょうか」

「は、はぁ」

「私、こういう者です」

差し出された名刺には、

『菅原不動産

塚本玲子』

とシンプルに記されている。

「えっと、すがわら不動産の、つかもと、れいこさん?」

「はい」

「えぇっと、不動産屋さんが、どうしてうちに? あ、でもちょっと今は忙しくて。子供たちがまだ帰ってきていないんです。探しに行かなくちゃ」

セールスだろうか? とりあえず今日は引き取ってもらおうとしたが、

「お子さん方なら、ご心配は要りません。少し、お話をよろしいですか? 玄関で構いませんので」

塚本という女性はにこやかに微笑んだまま、玄関から動こうとしない。

「どういうことですか?」

寿子の声は自然と苛立ったものになる。塚本はそれに動じることなく、表情を崩さないまま一枚の書類を差し出した。

「なんなの、これ」

「こちらは、不動産の査定依頼書です」

「え? さ、査定?」

「はい。青山美月(あおやまみづき)様と、青山寿徳(あおやまひさのり)様からのご依頼で、こちらのお宅売却のための」

「は?」

それは、寿子の二人の子供の名前だった。

寿子の頭にカッと血が上る。

「バカなこと言わないで。あの子たちはまだ子供よ。それが、この家を売るですって? そんなことあるわけないじゃない!」

「青山様、落ち着いてください」

「この家がなければ、あの子たちも主人もどこに帰ってくるっていうの? 私はこの家で、ずっとずっと、ずぅっと、あの子たちを待ってなきゃいけないのよ‼︎」

寿子の声に呼応するように、置いてあった箒がひとりでに浮かび、塚本の顔スレスレに飛んで玄関の引き戸に当たる。もともとヒビが入っていたガラス戸が、甲高い音を立てて割れた。片方しかないスニーカーも踵の折れたサンダルも宙に浮かび上がる。玄関中を舞って壁や天井に激突し、分厚く積もった埃を舞い上げた。

もはや般若のような寿子と対峙しても、塚本の表情は穏やかなままだった。彼女はその切れ長の瞳で寿子をまっすぐに見据え、静かに言った。

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「青山様。あなたはもう、お亡くなりになっているんですよ。二十年も前に」

・・・・・

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青山美月と寿徳の姉弟が菅原不動産を訪れたのは、今から半月前のことだった。

「塚本玲子さん…」

二人は玲子の差し出した名刺をまじまじと見て、次いで玲子の顔をチラリと盗み見るようにする。その仕草も表情もそっくり同じで、玲子は内心吹き出しそうになった。

「はい。私が、ご指名をいただいた塚本です」

「…お若い方なんですね」

ポツリと漏らした寿徳を、隣の美月が小突いた。

「すみません、弟が失礼なことを」

「いえいえ、皆様そうおっしゃいますよ。お気になさらず」

「でも… 私もちょっと意外でした。私と同じくらいの方が、拝み屋をされてるなんて」

美月の言葉に玲子は苦笑した。

「そんなに大それた者ではありません。ただ怖いもの知らずで、そちらの方面に少しツテがあるだけですよ」

玲子の言葉を謙遜と取ったのか、美月と寿徳は感心するような視線を送ってきた。

菅原不動産は、一見『町の小さな不動産屋さん』なのだが、知る人ぞ知る別の顔も持っている。

それが、『いわくつき専門』スタッフである塚本玲子の存在だ。

大々的に宣伝することは決してないのだが、時折人づてに噂を聞いた人が、こうやって玲子を指名してやってくるのだった。

「それで、ご相談というのは?」

「はい。私たちの生家を、売りに出したいと思ってるんですが…」

「僕たちの住んでた家、近所でも有名な幽霊屋敷になっちゃってるんですよ」

「幽霊屋敷、ですか」

「はい。多分、母がまだ自分が死んだことを知らずに、あの家にいるんだと思います」

二人の生家は、県庁所在地郊外にある築二十五年ほどの一軒家だという。

「失礼ですが、お母様は?」

「二十年前に、パート帰りの事故で亡くなりました。それから私と弟は父方の伯父夫婦の家に引き取られたんです。父は母が亡くなってからは仕事とお酒に逃げるようになってしまって、とても子供を育てることはできなかったので」

「あ、でも伯父の家はすごく楽しかったんですよ。僕たちと従兄弟たちで合わせて五人きょうだいになって、そりゃもう毎日賑やかで」

「あんた、余計なことは言わなくていいのよ」

またも美月に小突かれる寿徳の姿を見て、玲子の口元は自然に綻ぶ。両親がいなくとも愛されてまっすぐに育ったのだと、二人の様子を見れば手に取るようにわかった。

「お二人が家を離れられたということは、ご生家はずっと空き家だったんですか?」

「いえ。父がずっと一人で住んでいました。でも、その頃から近所の方は不思議なものをよく見ていたみたいで…」

「夕方になると勝手に門灯が点くとか、料理をしてる匂いが漏れてくるとか。時々僕たちが遊びに行くと、いつも家の中は綺麗に片付いてたし、僕たちの好物のおやつが用意されててね。親父はそんなことに気が回る性格じゃないし」

「それで、お母様がいらっしゃると」

玲子は頷いた。ここまではいい話だ。しかし、目の前の二人の困り顔は、それでは終わらないことを物語っていた。

「問題は、昨年父が亡くなってからです。父はお酒がたたって肝臓を壊して亡くなったので、それ自体におかしなところはなかったんですが」

「姉ちゃんも僕も、もうあの家に住む予定はなかったので、親父の死を機に売ろうと思って、近所の不動産屋を当たってみたんです。そしたら……」

査定に訪れた不動産業者は、驚きの光景を目にした。

宙に浮かぶ置物や食器、部屋のドアは勝手に開閉を繰り返し、カーテンは捲れ上がる。そして、壁となく天井となく、家中を激しく叩き回る音。

それはまるで、家が侵入者を拒もうとしているようだったという。

「私たちが一緒に行ったときは、なんともないんですよ。だから最初は信じられなくて。でも、業者の方が動画を撮ってくれたのを見たら、信じざるを得なくって…」

「ポルターガイストっていうんですかね? それのおかげで、一年前まで人が住んでたとは思えない荒れっぷりですよ。もうほとんど廃墟。名実ともに立派な幽霊屋敷になっちゃってんです」

二人はため息をつく。

「なるほど。それで、こちらにいらしたわけですね」

「はい。そっちの方面に強い方がいると聞きまして」

美月は、期待と疑惑の混じり合った目で玲子を見ながら言った。

「お願いします。一度見てもらえませんか? あの家に、本当に母がいるのか。いるのなら、私たちになにができるのか。知りたいんです」

美月と寿徳は、揃って頭を下げた。

・・・・・

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寿子は困惑していた。

今までも、何人かの見知らぬ人間が無遠慮にやってきては、家中をジロジロと見回していた。しかし、なんて失礼なんだとこんな風に怒れば、彼らはすぐに家から飛び出していたのだ。

それなのに、目の前のこの塚本とかいう小娘は動じる様子がない。その上、訳のわからないことを口にした。

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「私が、もう死んでるですって?」

「はい。二十年前に」

「なにをバカなことを。だったら、証拠を見せてみなさいよ」

口の端を吊り上げて笑う寿子に、塚本は書類を取り出して見せた。

「こちらはいかがでしょう。コピーですが」

寿子は書類を覗き込んで息を飲む。それは遺影の写真だった。写っているのは、自分の顔だ。

「な、なんなのこれ。悪趣味な…」

「こんなものもございます」

続けて出された書類にも遺影の写真が。今度は白髪の男性だったが、

「あ、あなた? これ、あの人なの? まさか……」

年をとった夫の写真におののく寿子に、ダメ出しのようにもう一枚差し出される。そこにあるのは遺影ではなく、並んで映る若い男女の写真だった。初めて見る、しかしどこか愛しい面影の残る顔。二人が誰なのかわかったとき、寿子の目から涙が溢れた。

「美月、寿徳……。二人とも、こんなに大きくなって…」

感動に声を詰まらせる寿子だったが、塚本の次の言葉に涙も止まる。

「おわかりいただけましたか、青山様。ご自分がもうすでにお亡くなりになっていること。二人のお子さんは、こんなに立派に成長されました。お二人からのご依頼で、私が今日お邪魔させてもらったのです。この家を売りたい、と」

寿子はもう一度、髪が逆立つほどの怒りを覚えた。

「この家を売るですって? 子供たちがそう言ってるですって? デタラメを言うのはよしてちょうだい。あの子たちが、どうして帰る家を売るものですか。私が待つ家を売るものですか!」

「お二人は、もうご自分で帰る家を決められたのです。もう、あなたがご存知の小さい子供ではないのですよ」

「そんなはずがないわ‼︎ 私は、この家で、あの子たちを待っていなければぁぁ!」

寿子の絶叫に合わせるように、落ちていたガラスの破片が一斉に塚本に向かって飛んでいく。

しかし、

「!!!」

金属同士がぶつかるような甲高い音がしたかと思うと、ガラス片はすべて地に落ちてしまった。塚本には傷ひとつ付いていない。

「青山様。どうかお心を鎮めてください」

塚本の静かな声に、寿子は後ずさった。先ほどまでの怒りとは別の感情が、いまの寿子の心を占めている。

この、塚本という女が怖い。

この後に及んで穏やかさを失わない表情も、冷静な口調も。

そしてなにより、塚本の胸のあたりで光っているなにか。それはまるで、今にもこちらに飛びかからんと身構える獣を彷彿とさせた。

「な、なんなの。なんなのよ、あんたは!」

「私は、先ほどご紹介させていただいたとおりの不動産業者です。今日参ったのは査定のご連絡と…」

塚本は、怯える寿子をよそに肩からかけたカバンをあさり、弁当箱のようなものを取り出した。

「こちらを、美月様から預かってまいりました」

塚本が弁当箱の蓋を開けると、懐かしい匂いが寿子の鼻をくすぐった。

「これって…」

「美月様からは、お母様の得意料理だったと伺いました」

それは、ついさっきまで寿子が作っていたはずのすじ煮込みだった。

「え、どうして…?」

「美月様、おっしゃっていましたよ。何度も練習して、やっとお母様の味に近づいたと。できることなら味見をしてほしい、と」

寿子は恐る恐る手を伸ばす。その手は弁当箱をすり抜けたが、口に運ばずともすじ煮込みの味が伝わってきた。

「これを、あの子が…」

「寿徳様も、このすじ煮込みが大好物だそうです。いつでも食べにきてほしい、待っているからとおっしゃっていました」

「……」

「それから、もうひとつ。お二人から、なにか自分たちにできることはないのか、と。いかがですか?」

寿子は、溢れる涙を拭うこともせず、鼻をすすりながら言った。

「……二人とも、元気に、大きくなってね、って」

塚本は大きく頷く。

「確かに、お伝えします」

寿子はそれを聞いて、体が温かく、軽くなっていくのを感じた。

・・・・・

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「本当に、ありがとうございました」

青山美月と寿徳は深々と頭を下げ、赤く腫らした目で微笑みながら、菅原不動産を後にした。

二人の背中が見えなくなるまで見送った玲子に、社長の菅原仙太(すがわらせんた)が話しかける。

「あの二人は、信じたのかな? 君の話」

玲子は肩をすくめた。

「さぁ、どうでしょう。でも、なにか感じるところはあったんじゃないですか? 社長があの後青山邸に行かれたときも、異常なく査定ができたわけですし」

「そうだねぇ」

仙太は手元の査定結果に目を落とし、次いで玲子をチラリと見る。

「いやしかし、さすがだね。さすが、我が社の『いわくつき専門』」

「ありがとうございます」

「塚本君の実力もさることながら、そのお守りも、毎回いい仕事してくれるねぇ」

玲子はいつも首から下げているお守りに、服の上からそっと触れた。薄い銀盤が入った布袋は、いつもほんのりと温かい。

「お稲荷様? お狐様のお守りだっけ? 君の実家がそうなんだっけ?」

「まぁ、そんなところです」

曖昧に流した玲子に、仙太もそれ以上は追求しなかった。

「ま、なんにせよ、買い手がつくまでが仕事だからね。頑張ってくれたまえ」

「…まったく、なにが『いわくつき専門』なんだか」

「仕方ないでしょ。うちみたいな零細企業じゃ、一人で何役もこなせなきゃやっていけないんだから」

「はぁい」

仙太の背中に舌を出しながら、玲子は美月が差し入れてくれたすじ煮込みのタッパーを、絶対分けてやるもんかと、こっそりデスクの下にしまった。

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