ひぃさまの話〈『話』シリーズ〉

中編7
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ひぃさまの話〈『話』シリーズ〉

五月のある日。

「次の二限、雷鳥だよー」

「だりぃな、サボるか」

まだ初々しさの残る二人の一年生が、けしからん会話をしながら僕らの横を通り過ぎていった。

「バカが、あとで泣きを見るがいい」

僕の向かいに座るオイちゃんが、彼らを見送りながら鼻で笑った。

「オイちゃんは、経験者だもんな」

「お前もだろ、キタ」

「僕は誰かさんみたいなサボりじゃないし」

「あぁ、引き篭もりだったな」

キタ、とは僕のことだ。前髪で顔の左半分を隠した鬱陶しい髪型のため、そう呼ばれている。

対する彼は、及川くんでも老松くんでもない。物心ついてから今までずっと野球一筋のオイちゃんは、年中日焼けした精悍な顔立ちをしているのだが、若白髪のせいで実年齢より十歳は老けて見える。オイちゃんとは、「おじさん」の意だ。

僕らはクラス内でただ二人の浪人生同士として、入学当初から親しくしていた。現在は、レポート地獄で知られるゼミに所属し、毎週仲良く苦しんでいる。

お互いを貶しあった僕らは、同時にため息をついてテーブルに突っ伏した。

僕とオイちゃんは学部棟の入り口にある、掲示板スペースにいた。

大学のいいところは、構内のあちこちにベンチだけでなくテーブルも設置されていることだ。どこでも勉強しなさいよ、という意図なのだろうが、姿勢を崩してだらしなくくつろぐにはちょうどいい。

レポートに泣かされて、気力が萎えてしまった僕らのことも、優しく受け止めてくれる。

「雷鳥って、ひぃさまのことだろ? なんで雷鳥?」

「平塚らいてうから来てるんだろ。女性解放運動家」

「うわぁ、ピッタリ…」

オイちゃんはゲンナリと眉をひそめた。

ひぃさま、あるいは雷鳥とは、僕らの学部の名物教授だ。

頭が切れて弁が立ち、エネルギッシュで怖いもの知らず。福祉研究の第一人者で、定年間近の現在でも講演依頼があれば日本全国どこでも駆けつける。

実家は老舗の和菓子店らしく、昔は蝶よ花よと育てられたお嬢様だったのだとか。そこから、「ひめさま」が訛った「ひぃさま」と呼ばれるようになったらしい。「雷鳥」というあだ名は、戦前の有名なフェミニストと苗字が同じだからだろう。

自他共に厳しい人で、僕らに地獄のレポートを課す張本人でもある。

学生は授業に出てこそ、がモットーのひぃさまは、授業の単位取得の合否を出席率で決める。しかし、根っからの研究者のため授業は小難しく冗長で、学生からの人気は低い。先程の一年生のようにサボりたがる輩は多かった。

ひぃさまは毎年、新一年生向けのオリエンテーションで宣言する。

「私の授業は、一コマでもズル休みをすると落とします。申告の必要はありません。やむを得ない休みかズル休みかは、ちゃんとわかりますから。追試はありませんから、次の年また頑張ってください」

当然、それを信じる一年生は少ない。

そして、学期末に泣きを見ることになる。

「あ、ひぃさま」

グレイヘアの小柄な女性の後ろ姿が、階段を颯爽と上がっていくのが見えた。

二階の中講義室に行くのだろう。そこでは毎年、新一年生を対象とした福祉概論の講義が行われている。

僕とオイちゃんは、ひぃさまの姿が見えなくなってから、なんとなく詰めていた息をようやく吐き出した。

「ゼミの前に、なんか食うか」

「そうだね」

三限目はゼミだ。ひぃさまと間近で対面しなければならない。

英気を養うために、僕らは学食へ向かった。

・・・・・

昼食前で少し余裕のある学食で、僕はコーヒーとスナック菓子、オイちゃんが小うどんをつついていた時だ。

「見ろよ」

オイちゃんが斜め前を顎で示した。

そこでは、先程の一年生二人組が暇そうな顔でアイスを食べていた。本当にサボったようだ。

僕はほんの少しだけ、左目を覆う前髪を上げた。

一年生の肩にそれぞれ一匹ずつ、奇妙なものが乗っているのが見えた。

それは、折り鶴だった。

細かい柄が入っているように見えるので、千代紙で折っているのかもしれない。

折り鶴は肩の上で不安定に揺れながら、それでも決して落ちることはなかった。

僕は前髪を左目に下ろす。そうすると、奇妙な折り鶴はスッと消え、視界には当たり前のように談笑する一年生二人だけが残った。

僕の左目は、明暗を見分ける程度の視力しかない。その代わり、普通は見えないものたちの姿を映す。

あの折り鶴は、「そう」なのだ。

一年生たちが立ち上がった。もう一度前髪を上げると、折り鶴は一年生が動くと同時に、彼らの肩から離れた。折り紙のくせに、羽ばたいてどこかへ飛んでいく。

それを目で追う僕と同じ方向を見ながら、オイちゃんがポツリと「ご愁傷さま」と呟いた。

・・・・・

三限が始まる五分前に、僕たちはひぃさまの研究室のドアを叩いた。

「はぁい」

中から女性の声で返事がある。僕とオイちゃんはなぜか少し身をかがめるようにして、そっと室内に入った。

狭い研究室の中には、よくこれだけ集めたなと感心するくらい大量の本がある。部屋の両側面に並んだ床から天井まである本棚には収まりきれず、床に平積みされた本がまるで蟻塚のようだった。

「五分前、感心感心」

室内の中央に置かれた六人掛けのテーブルには、二人の女性がいた。一人は、部屋の主であるひぃさま。もう一人は僕らと同じゼミ生だ。

「ユタカ、早いな」

オイちゃんが鞄を下ろしながら言った。言われた方は、切れ長の目を細めてニコリと笑う。

「先生のお手伝いで、これをずっと折っていたので」

ユタカが手のひらに乗せて見せてくれたのは、折り鶴だった。僕は一瞬ビクリとしてしまう。

「これ、羽ばたくんですよ。この前折り方を見つけたんです。ほらほら」

ユタカが折り鶴の尻尾を前後に動かすと、確かに鶴はパタパタと羽ばたいた。よく見れば、普通の折り鶴とは少し形が違う気もする。

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「どおりで…。お前のせいか」

「ん? 何がですか?」

「白々しいな、相変わらず」

オイちゃんとユタカのやり取りを、僕は苦笑して眺めた。

「さて。お茶も入ったし、今週の成果を見せてもらいましょうか」

ひぃさまの声に振り返ると、いつの間に用意したのか、折り紙があった場所には四人分の紅茶が置かれていた。花のような香辛料のような、なんとも言えない芳しい香りがする。

レポートを提出すると、ご褒美のように紅茶をいただける。ひぃさまのゼミは、毎回こうして始まる。

室内には、しばらく紙をめくる音とお茶をすする音のみが響く。

それを聞きながら、僕は学部内でまことしやかに囁かれる、「ひぃさま七不思議」を思い出していた。

一つ。ひぃさまは式神を使える。欠席した学生がサボりなのかどうかこの式神に調べさせるため、言い逃れはできない。

二つ。ひぃさまは瞬間移動ができる。そのためどんなに忙しくても授業や会議に遅れることはない。

三つ。研究室には目に見えない助手がいる。研究室をノックして返事をしてくれるのは、この助手である。

四つ。ひぃさまは若返りの術を使える。時々学生に化けて、他の教授の授業を受けている。

五つ。念力でものを動かせる。研究室の本は全てひぃさま一人で、一日のうちにで運び入れたらしい。

六つ。独自の交易ルートを持っている。ひぃさまがくれるお菓子やお茶の類は、どれも日本では手に入らない最高級品である。

七つ。ひぃさまは、後継者を探している。ゼミには見込みがある学生しか入れず、その人物が自分の後を継ぐに足る人物か品定めをしているーー

初めて聞いた時は鼻で笑い飛ばしたのだが、今は全て本当のような気がしている。

・・・・・

「それじゃ、今日はここまで。レポートがんばれ」

ようやくゼミが終わった。僕とオイちゃんはこっそり、しかし深く長くため息をついた。

「あぁ、そうそう。君たちの中で、後輩と関わりのある人、いる?」

資料をまとめながら、ひぃさまが不意にそう言った。

僕とオイちゃんとユタカは一瞬顔を見合わせ、野球サークルに所属しているオイちゃんだけが手を挙げる。運動部でいかにも社交的なオイちゃんに対し、僕とユタカは、後輩どころが同学年との交流もかなり限定的だった。

「何かありますか?」

「今年の一年生なんだけどね」

ひぃさまは小さくため息をついた。

「まったくもって、よろしくない。まだ五月だっていうのに、授業への出席率が悪すぎる。君からも、ズル休みをは即単位を失うって、言っといてくれる? 先輩が言った方が聞くでしょう。まぁ、私の授業をサボってアイス食べるような奴には、もう遅いけど」

ひぃさまはそう言って、ヒラヒラと二枚の紙を目の前で振った。オイちゃんの喉の奥がヒッと鳴り、僕も続いて息を飲む。

ひぃさまが手にしているのは千代紙で、それは、学食でサボっていた一年生たちの肩に乗っていた、あの折り鶴と同じ色柄に思えた。心なしか、一度折ったものを開いたような折り目も付いている。

固まる僕たちを尻目に、ユタカだけが

「オイさんもキタさんも、教授の授業二年受けたんですもんね。キタさんはともかく、私、オイさんが学食で授業サボってるの、あの時よく見かけましたよ」

そう、ケラケラと笑って言った。

・・・・・

「それじゃあ、失礼しましたー」

ドッと疲れた僕とオイちゃんは、肩を落として研究室を出た。先に出ていたユタカが、廊下でそんな僕たちを見てまたクスクスと笑う。

憮然としながら研究室の扉を閉める寸前、

「お疲れ様でした」

中からそんな声がするりと聞こえてきた。

それは、さっき研究室に入る時に聞こえた返事と同じ声。しかし、ひぃさまの声とは似ても似つかぬ声。

僕はドアに向かって小さく会釈をして、ユタカとオイちゃんの後を追った。

ひぃさまの話は、これにておしまい。

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