日常の話〈『話』シリーズ〉

中編5
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日常の話〈『話』シリーズ〉

朝、アラームの音で目が覚める。

ゆっくり目を開けると、見慣れた一人暮らしの部屋の天井が見えた。

と同時に、目の前で僕の顔を巨大な魚のような顔が覗き込んでいるのに気づいた。

への字に見えるタラコ唇に、細長い顔の両脇に付いた目、口の下には短めの細いヒゲが数本生えている。鯉を真正面から見たことはないが、きっとこんな感じなのだろう。

魚は、まるで水中でするように宙を泳いでいる。見え隠れする胸びれをピロピロと動かしながら、僕の様子を伺っているようだ。

僕はわざとらしくあくびをすると、伸びをするように大きく腕を前に突き出した。

魚は、水の中と全く同じ動作で優雅に僕の腕をかわす。

魚の大きさは一メートルほどもあり、油膜のような濁った虹色をしていた。体やヒレを動かすたびに、カーテンから漏れる朝日を鱗が反射して鈍く光る。

魚は寝ている僕の上をゆっくり旋回すると、壁の中に消えた。

あの魚は、世界中のどんな図鑑を調べても載ってはいないだろう。しかし、僕にとってはもはや顔なじみとも言える、ありふれた日常の一部だった。

体を起こすと、長く伸ばした前髪が重力に応じてパサリと顔に落ちてきた。手で軽く整えると、前髪は左目を中心とした顔の上半分を覆って落ち着いた。

大変鬱陶しいが、これがいつもの僕の髪型だ。いわゆる、鬼太郎ヘア。

左目が覆われると、向かいの壁から再び顔を出してきた先ほどの魚も、部屋の隅にうずくまるように丸まった影も、室内を漂っていた赤や黄色のマリモのような物体も、まるでカーテンを引いたかのように見えなくなった。

僕の左目は、事故が原因で明暗をぼんやりと見分ける程度の視力しかない。

しかし、今まで当たり前に思っていたものが見えなくなったと思ったら、今度はまったく別のものを映すようになった。

それは、一般的に妖怪だとか幽霊だとか思念だとか、そう呼ばれる類のものだ。

でも、もしかしたら僕が「そう」と思い込んでいるだけで、すべては僕の幻覚妄想なのかもしれない。僕にも、本当のところはよくわからない。

よくはわからないが、本物にしろ幻覚にしろ、それらは左目を隠すとまったく見えなくなった。

目には見えないものなのに、目を隠すと見えなくなるなんておかしい気もするが、僕が前髪で左目を隠しているのは、それが理由だ。

もう一度、今度は本当のあくびをして、僕は学校に行くための身支度を始めた。

服を着替え、朝食にパンを牛乳で流し込む。

起きてから、ものの十分でアパートの玄関を開けた。

僕が住む学生アパートの築年数は、僕の年齢より長い。鉄筋がむき出しの階段は、上り下りのたびにカンカンとアパート中に音を響かせた。

階段の下のスペースには集合ポストがある。サビの浮いたポストの隣に、古アパートには不釣り合いな新品の箒が立てかけられていた。

「いってきます」

誰もいないが、僕は小さくそう呟いてアパートをあとにした。

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教室の扉を開けると、顔見知りの学生が何人か手を挙げた。

「キタくん、おはよう」

「おぅ、キタ」

キタ、とは僕のことだが、本名ではなくあだ名だ。由来は髪型。教授以外の知り合いは、大体このあだ名で僕を呼ぶ。

僕は、大学で福祉を学ぶ学生だ。三年生だが、事故で一年浪人しているため、同学年の多くよりは年上だ。

左目がほとんど見えないことについて、言いふらすことではないが特に隠すことでもないため、同じクラスの学生はほとんど知っている。目が見えないことを知ると、大体の学生が独特な髪型のことを勝手に納得してくれるため、むしろ助かっている。

この髪型は、左目を隠すためというより、覆って何も目に映らないようにするためなのだが、それを知っているのはごくわずかだ。

左目を覆っている間は、僕は片目が不自由なだけの、どこにでもいるありふれた学生だった。

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その日の学校帰りは、もう黄昏時だった。

今年から僕が所属しているゼミは教授がなかなかスパルタで、毎週何かしらのテーマに沿ったレポート課題が出される。その資料探しで図書館にこもっていて、午前中しか授業はなかったにもかかわらず、こんな時間になってしまったのだ。

僕の通う大学は高台の上に建っている。

正門を出ると道は二手に分かれ、右手は同じく高台に広がる学生アパートの群れ、左手は高台を下り市街地へ向かう駅に、それぞれ続いていた。

僕が住むアパートは、左の坂道を下った先だ。

多くの学生は、右側の大学と同じ高台に住むため、この長く急な坂道を使う者は少ない。

周りに誰もいないのを確認し、僕は左目を隠している鬱陶しい前髪をかき上げた。

途端に、それまではなかったはずのものたちが、僕の視界に登場する。

あちこちにうごめく黒いモヤ。

坂道を這いつくばりながら登ってくる老婆。

トンボと一緒に、羽の生えたムカデのようなものが目の前を通り過ぎていった。

道の端に等間隔に植えられた桜の木には、すべて輪を作った縄がぶら下がっている。

道の真ん中で鼻から下を地面に埋め、周囲を恨みがましく見回している女。

空を見上げれば、普通サイズのコウモリが、その三倍はあるようなコウモリに追い立てられるように飛んでいった。

これが、僕の左目が映す世界。

突如現れたわけではなく普段は見えないだけの、世界の日常だ。

『その目だって、あんたの大事な体の一部なんやから。そんなに嫌わんと、たまには使ってあげなさい』

ある人にそう言われたことがあり、慣れた場所限定だが、時々こうして左目を晒して歩いている。自分では、なんとなく虫干し感覚だ。

今日は晩飯に何を食べようか。そんなことを考えながら、ゆっくりと帰路についた。

アパートに着くと、集合ポストの周りを箒で掃く、初老の男性がいた。

男性には、右足が膝下からない。

男性は僕に気がつくと、「おかえり」の形に口を動かした。そして、新品の箒を少し掲げて「ありがとう」と。

「ただいま。どういたしまして」

僕は朝と同じように小さく呟き、上げていた前髪を左目に下ろす。

途端に、初老の男性の姿は消えた。

僕は目だけで彼らを感じているからだろうか。目の前にその姿があっても、声や気配というのはまったく感じなかった。

ちなみに、僕は自宅ではいつも前髪は下ろしたままだ。

せっかくの一人暮らしなのだから、鍵もチェーンも関係なく入ってくる奴らのことを気にしたくはなかった。僕にとって見えなければ、いないのと同じだから。

僕の日常の話は、これにておしまい。

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