阪神淡路大震災の少し前のことです。
私の家族は、震災のあった兵庫県神戸市で暮らしており、当時の私はまだ5歳。
記憶はほとんどないので、これは父母から聞いた話になります。
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当時、我が家の裏には平家のアパートがあり、
そのとある一室に、大学生の男性が下宿をしていました。
ゴミ出しの日を守らなかったり、
引きこもって大学に行く様子がなかったりと、
だらしのない生活をしていたこの男性ですが、ある日を境に毎日大学に行き、ゴミ出しの日も「ちゃんと」守るようになったそうです。
近所の人は不思議に思ったそうですが、その疑問もすぐに解決しました。
彼がまともになった時期から、
可愛らしい女性の出入りが見かけられるようになったのです。
優しそうな雰囲気のその女性は、近隣の住人たちにも挨拶をしたりと礼儀正しく、気さくで、
両親をはじめ、アパートの人たちも好意的に思っていたようでした。
彼は、彼女が出来たからちゃんとするようになったんだな、と皆思っていました。
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それから少しして、アパート内でのゴミ出しのルールが変わったらしく、回覧板が回されました。
回覧板を回しに来たお隣さんが大学生の部屋を訪ねると、あの彼女が出ました。
住人である大学生に直接話すべきかなとも思ったそうですが、
よく二人でいることを見かけるので、ゴミ出しのルールを口頭で伝えて、回覧にサインだけ書いてもらい、
お隣さんが、またそのお隣へ回しておくということになったようでした。
その後、大学生はまたゴミ出しのルールを守らなくなりました。
守らなくなったというより、
ゴミ出しの仕方がルール変更の前のまま変わらなかったのです。
回覧板を回した住人は、彼女が伝えそびれているのかなと思い、しばらく様子を見て注意することにしたそうです。
それから日をおかず、アパートでボヤ騒ぎが起きました。
どこかの部屋の寝タバコが原因の小さなものでしたが、
念のため、住人は一時外に出るよう駆けつけた消防から指示をうけました。
ここからは、途中でボヤの様子を見に行った父の話です。
アパートの前が騒がしく、どうも、あの大学生と住人数名が揉めているようでした。
大学生の部屋へ一時待避の声をかけに行った住人が尋ねます。
「今日は彼女は来ていないのか」
すると大学生は驚いて、
「自分に彼女はいない」と返しました。
「いつも一緒にいる人は彼女じゃないのか?」と住人が再度聞くと、
「自分はいつも1人で、誰も部屋に入れたことなどない」と言ったといいます。
そこから「いるいない」の問答が長い間続きました。
私の両親も、アパートの人たちも、もちろん何度も女性を見かけていました。
この話を両親から聞いた時、
5歳くらいの年齢だった私でさえ、ぼんやりとその女性を思い出せました。
でも、大学生は住人たちの話を心から戸惑っている様子で、
「そんな女性は知らない」の一点張りだったのです。
気味がが悪くなったと言って、大学生はその後すぐアパートを出て行きました。
そして、一月も間をおかずに
あの阪神淡路大震災が起きたのです。
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アパートは半壊し、住人の半数が亡くなりました。
潰れた部分に、あの大学生の部屋もありました。
大学生がアパートを出た後どうなったかはだれも知りません。
これが怖い話なのかは今でもよくわかりませんが、一つだけ、不可解なことがあります。
いつもこの話を思い出すとき、私たちは家族みんな一緒に思い出すのです。
「そういえばあの大学生の話さ」と家族の誰かがきりだした時、必ずみんな直前にその話を考えたり、思い出しています。
私は以前、あの女性が着ていたスカートの柄が、すごく素敵だったことを思い出していました。
母に、あの女の人なんだったんだろうねと尋ねました。
すると母は、
「お母さんね、あの人のことスカートしかおもいだせんのよ」
と言いました。
私はその瞬間、不思議な悪寒を感じました。
確かに、彼女のことを思い出すときはいつもスカートだけなのです。
白地に、黄色と紫の小さな花の刺繍が裾に施してあるスカート。
そのスカートを履いた彼女しか知らないわけではなく、色んな服を着た彼女を見ていたはずなのに、思い出せるのはあのスカートだけ。
両親も私も、それ以外のことは顔も声も全く思い出せませんでした。
思い出そうとしても、まるで彼女のことを一度も見たことがないような感覚になって、全く何も思い出せないのです。
明るくて優しい雰囲気というのも、柔らかな印象のスカートのイメージなのかもしれません。
この話を、まがまがしく、恐ろしいものと捉えるかどうかはみなさんの判断に任せますが、父が言っていた蛇足を一つだけ。
ゴミ出しの回覧板に、彼女が書き留めたサイン。
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字が汚いという以前に、
筆圧がバラバラで、
字としての判別がつかず、
なんと書いてあるのかわからない、
字を書こうとしても書けない、
細く太い線が歪に、大学生の苗字をかたちどろうとしている。
父が見た回覧板のサインは、そんな「文字」だったといいます。
あの彼女はいったいなんだったのか。
良いものなのか悪いものなのか。
私達家族に起こるこの現象はなんなのか。
これから先もきっと分かることはありません。
確認する術は、震災がすべて壊してしまいましたから。
作者あかしのこ