河童のミイラ【起承転結】

大長編61
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河童のミイラ【起承転結】

 これは、俺が大学に入って、初めての夏を迎えた頃に体験した話だ。

その頃の俺はSNSで知り合った、心霊サークルのオフ会なんかによく参加していた。

元々子供の頃からオカルト系に興味があった俺は、自然と早いうちにこの世界にのめりこむようになった。

が、さすがに親しい友人とそういう付き合いは難しい。(理解のある人間が周りに居れば別だが)

下手をすれば変人扱いされてしまうし、何かと面倒だからだ。

そこで、俺はネットで同じ仲間を探す事にした。

同じコミュニティならば、何も気を使うことなく共通の趣味で盛り上がることができる。

そしてようやく、俺は地元にある今の心霊サークルに辿り着く事ができた。

オフ会は月に2回ほど行われている。

主催者はサークルのHP管理人、ひよりさんという人だ。

サークルにはけっこう人がいて、ネット内だけでも30人規模はいた。

ただ、その内オフ会に参加できる人間は、約半分いるかいないか。

まあ中には未成年もいるし、それは仕方がない事。

参加する人間もまばらで、前回参加した人間が一人もおらず、その日が皆初顔合わせ、何てことも珍しくない。

そして例に漏れず今回もそのパターンだ。

前回から引き続き参加するのは俺だけで、あとは皆オフ会で会うのは初めましてばかりの連中。

まあそれもそのはず、おそらく原因は今回のお題にある。

オフ会には毎回お題が決まっており、主にサークルHPで皆で決めたりしている。

ちなみに前回は心霊写真だった。

オーブもとい、微粒な埃による光の乱射が飛び交う自称心霊写真なるものが、満場一致で一位に選ばれていた。

正直これはかなり微妙でしかなかった。

そして今回のお題はなんと、呪われた代物。

呪われた物なら何でもいいというお題にはなったが、普通そんな物、そこら辺に転がっているなんて事は決してない。

いや、あってたまるかって言うのが俺の本音だ。

つまり、単純にお題が無理難題過ぎて、参加を見送る人が多かったというわけだ。

ちなみに俺は特に何も用意することができなかった為、今回はギャラリーとして参加する。

まあありきたりに言えば、開き直ったって事だ。

参加する事に意義がある、今はそういう事にしておこう。

俺は都内ファミレスの扉を開きながら、自分に頷きつつ店に入った。

時刻はPM7:00、約束の時間だ。

座席は喫煙席、店の一番奥の窓側。

予め決められていたメンバーの一人が、座席を確保してくれているはずだ。

店員の一人が俺を案内しようと寄ってきたが、俺は連れが先に来ているからとやんわり断り、奥の座席へと向かった。

席にはHPで指定されていたとおりの服装と人相、間違いない。

急ぎ足で歩み寄る。

「すみません、お待たせしました、よ、与一です」

軽く会釈して、俺は空いてる席に腰掛けた。

ちなみに与一は俺のハンドルネーム。

「どうも、ヨネちゃんです」

「カッキーです」

「あ、ミカンでえす」

「√(ルート)……」

一通りの挨拶をすませ、俺たちは飲み物を頼んだ。

しかし、今回のメンバーは全体的に若い。

俺とヨネちゃんさん、カッキーさんは同い年ぐらいだろう。

残りの女性二名、ミカンさんと√さんに関しては、おそらく高校生か?ここは深く突っ込まないほうがいいみたいだ。

それにしても、ミカンさんはいいとして、この√って子の格好……

いわゆるあれか、ゴシック衣装?パンクってやつか?

レースのついた蝶柄の黒い服。所々にベルトの装飾があり、首には首輪型のベルト。

よく見れば化粧もどことなくダークな感じ。

しかしこれが妙に似合っている。いや、元が良いのもあるのだろう。

それによく見れば綺麗な顔立ちをしている。

既に、ヨネちゃんさんとカッキーさんは、この√って子に夢中のようだ。

先ほどから話題は常に√って子に振られている。

「あの、そろそろ今回のお題を……」

たまりかねて俺がそう言うと、カッキーさんが、

「あっ、そうだな」

と返事をし、周りもそれに習うようにしてうんと頷く。

やがて、各自思い思いの品がテーブルの上に置かれた。

ちなみに俺はすぐに深々と頭を下げ、今回はギャラリーとして参加した事を告げた。

そんな俺に対して、ミカンさんは、

「気にしなくて良いですよ、参加してくれただけでも嬉しいですし」

と、笑顔で気を使われてしまった。

ミカンさん良い子だな、ポイント高い。

さてそれはともかく、最初のお題はヨネさんからだ。

お題は……呪われた心霊写真。

前回のお題と被るものがあったが、まあ呪いの品という事でセーフだ。

ただし内容は酷いもので、この写真を持っていると呪われる、というそれだけだった。

写真には赤い模様のようなものが全体に浮かんでおり、正直素人目に見ても、ただの現像ミスにしか見えない。

因みに呪いは撮った人間と連絡がつかないとの事。

今頃家でスマホでも弄ってるんじゃないですか?と言いたくなったが止めておいた。

続いてカッキーさんの番となったが、

「なんだよヨネちゃんも心霊写真かよ、ははははっ」

と、大笑い。

ようは被ったって事だ。

写真の内容は、カッキーさんの祖母の葬儀の写真で、そこに写る写真の祖母の顔が、たまに睨めつけるような顔に変わる、というものだった。

が、今回はそのたまに、には当てはまらなかったらしく、しばらく皆で写真を見続けたが、結局何の変化も見られなかった。

心霊写真ですらねえじゃねえか。

続いてミカンさん。

「これ、夜中に一人で勝手に動いてるみたいなの!」

そう言って見せてくれたのは、

「ああ、あの年がら年中蜂蜜ばかり食べてる……熊の○○さんだっけ?」

ここではあえて、世界的に利権の強い熊とだけ言っておこう。

「動くって、どういうふうに?」

俺が聞くとミカンさんは深刻な顔で答えた。

「いつもこれを抱いて寝てたんだけど、朝起きたらベッドの外にあったの」

ミカンさんからは以上だ。これ以上突っ込むのも時間の無駄なので触れないでおく。

最後は√って子の番だ。

この流れだと、どうしようもなくくだらない怠惰な時間を過ごして終わり、というようなパターンになりそうだが……。

「私からはこれ」

そう言って√は、これまた黒いアンテイークなアタッシュケースを開けて、中の物を皆に見せた。

「きゃっ!」

「うわっ、な、何これ?」

メンバーから小さな悲鳴が漏れた。

危うく俺も声を上げそうになったが、何とかそれをのみこむ。

確かめるようにもう一度ケースの中に目をやる。

そこには……

「ミイラ、」

√が投げやりに言った。

そう、ミイラだ。

怪奇もののテレビなんかで見たことがある、あのミイラ。

「これ、河童のミイラだよね?うわぁ、本物だ……」

「マジかよ……初めて見た」

「本当だ、水かきついてる、気持ち悪い……」

思い思いの感想が漏れる。

至極もっともな感想。

確かに、見た目はかなり抵抗がある。

くすんだ茶色に変色したミイラ。

大きさは、膝を真っ直ぐ伸ばせば1mくらい。

膝を折り曲げたような格好をしていて、頭には皿のようなものがある。

顔は原型を留めていない。

手にはやはり河童の定番とも呼べよう、水かきのような物が見える。

「ウギャーッ」

突如聞こえた子供の泣き声に、俺はビクリと肩を震わせた。

思わず辺りを見渡すと、後ろの席に4~5歳くらいの子供を抱っこした、若い母親同士が談笑していた。

赤ん坊いるなら禁煙席行けよ……

などと俺が悪態をついていると、

「これ、持ってた人、みんな火事で焼け死んでるんだよね」

『えっ?』

√の言葉に、メンバーが一斉に声を漏らした。

えっ、死ぬって……いやいや、さすがにそれはないだろ。

よく怖い話なんかで呪われて死んじゃうみたいな事はあるが、現実でそうそう人が死ぬ事があってたまるか。

「火事って、それマジ?」

さすがにほかの男性人も半信半疑のようだ。

苦笑いでカッキーさんが聞き返すが、√は顔色変えずに、こくり、と頷いて見せた。

まあ正直言ったもん勝ちだ。

呪われていなくても、さっきのミカンさんの熊の人形のように、本人が呪われているって言えば、それはもう呪いの代物になってしまうのだから。

「いやあ強烈だねこれは……そうそう、そういえば河童と言えばさ、」

ヨネちゃんさんはそう言って河童にまつわる話をし始めた。

他の皆もヨネちゃんさんの話に耳を傾け、話題は河童の話へ。

それを見て、√はそっとケースの蓋を閉じ、アタッシュケースを傍らにそっと引っ込めてしまった。

やがて各々が河童について知る話を披露し終わった頃、そろそろ解散しようかという事になった。

河童のミイラは強烈だったが、今回のお題は正直に言えば失敗のような気がした。

次回はもっとみんなが参加しやすいものにしたらどうかと、今度ひよりさんにメールしてみようかな。

そんな事を考えながら俺がレジにて会計を済ませていると。

「ねえ」

と、俺を呼ぶ声がした。

√だ。俺の服の肘辺りをつまんで引っ張ってきた。

「えっなに?」

おごれって話なら無理だぞ。

貧乏学生を舐めちゃいけない。

「ちょっと話がある、後でみんなと別れたら、隣の喫茶店に来て」

喫茶店?確か24時間営業の喫茶店があったな……ていうかなんだ?

一体どういう展開だ?まさか美味しい展開ってやつが……

いや、それはないな。

俺は甘い考えを捨て、一体何の罠だと勘ぐる事にした。

「何で?」

そう一言だけ返す。

すると、

「いくよ~?」

出口からミカンさん達が呼ぶ声がする。俺が振り向くと、√はろくに返事も返さないまま、すたこらと店を出て行ってしまった。

「おいおい何なんだよ本当に」

軽くため息をつき店を出ようとした。

「あの、すみませんお客様、お代を……」

レジの女性が申し訳なさそうに俺に言ってきた。

「えっ?」

扉のガラス越しに、俺に頭を下げる√の姿が見えた。

「おいおい……」

これは何かの呪いか?

俺は肩を落とし、仕方なくレジにてメロンソーダの代金を支払い、店を後にした。

女性人を駅まで見送った後、カッキーさん達に呑みにでもと誘われたが、俺はその誘いを断り、店に忘れ物をしたといって、√が言っていた喫茶店を訪ねた。

別にやましい気持ちはない。

とりあえず、メロンソーダの代金分の文句は言ってもいいんじゃないかと思う。

それに、俺は少しだけ気になっていた事があった。

ミイラを見せた後、カッキーさんが河童の話をし始めた時の√の顔だ。

あの時の表情が、なにやらものすごく落胆したような、そんな悲しい顔に見えたのだ。

大して話題にならなかったから?いや、それよりも何か別の思いがあったような気がする。

「本当に来たんだ、あっ、私メロンソーダ」

「あ、はい、かしこまりました」

突然姿を現した√。俺の座っていた席まで来ると、側によってきた俺と同い年くらいの男性店員にそう言ってから、さっきのアタッシュケースをテーブルの上に置き、√はソファーに腰掛けた。

周りの客が一斉に俺たちに振り向く。

やはり目立つか、この女……。

「おい、さっきのメロンジュース代、」

「ここは私がおごるから」

「えっ?あ、ああ……」

さっきの文句を言おうと思ったが、√の一言でもう何も言えなくなってしまった。

まったく何なんだこの女。

「与一は、あ、与一でいいよね?それともお兄様とか呼んでほしい?」

「ぶっ!?……よ、与一でいいよ」

口に含んだ珈琲を噴出しそうになった。

おちょくられてるのか俺は?

「で、その与一に聞きたいんだけど、さっきのミイラ、どう思った?」

「ど、どうって……?」

「私の家さ、両親とも凄く厳しくて、昔から親の顔色ばかり気にして生きてきたんだよね。そしたら何となくだけど、今その人がどんな風に思っているかとか、けっこう分かっちゃうんだ」

「ふうん、それで何が言いたいんだ?」

珈琲から手を離し√に聞き返す。

「さっき、私が皆にミイラを見せてた時、私の事心配してくれてたよね?」

「なっ……」

図星。本当に読み取れるのかこいつ?読心術とかいうやつか?

俺の目の前で、店員が持ってきたメロンソーダをすすりながら√は余裕の表情だ。

「な、なんか落ち込んでるようだったからな……」

咄嗟に俺は付け足すように言った。

「落ち込んでる?ああ、まあね、結局誰も信じてなかったみたいだし」

「信じてって、前の持ち主が火事で死んだって話か?」

「うん。あれ、本当だよ?うちのお父さん、こういう曰くつきのもの集める悪趣味なコレクターでさ。気に入ったものとかたまに私にくれるんだよね」

冗談だろ?プレゼントにこんな物娘によこすのか……?何か色々破綻した親のようだな。

「でも、これ持ってたら毎日変なことが起こるようになってさ、ある日、我慢できなくなって、気になってこのミイラの事調べたの。父親から前の持ち主の名前聞いてね。試しにネットで調べたら、簡単にヒットしてさ、」

「調べたら火事で死んでたってわけか?」

話を聞き終わる前に俺がそう聞くと、√は静かにコクリと頷いて見せた。その表情はどこか不安げだ。

「気にしすぎなんじゃないか?」

たまたま身の周りで起こった事を、その時あった不快な出来事のせいにしたりする事なんて、よくある事だ。

しかもこういった場合、気にすれば気にするほど、どつぼにはまるもの。

「そう思うんなら、これ、ちょっと預かってみてよ」

「はいいっ?」

√がとんでもない事を言い出した。

預かる?このミイラをか?

「気のせいかどうか、その目で確かめてみればいいじゃない」

た、確かに、√の言うとおりではある。

オカルト好きな俺にとっては、願ってもない事ではあるのだが、物が物だ。

が、そんな俺の心配を見透かしたかのように、

「大丈夫、別にケースから出して部屋に飾っておかなくても、ケースの中に入れたままで十分効果あるから」

√がそう言ってアタッシュケースを両手で掴み、ズイっと俺の方にスライドさせてきた。

河童のミイラ……実際には違った生物の骨と骨を、接着剤なんかでくっつけた物だったりとか、その大多数が偽者である事が多い。

最近では作りも本物っぽくて、かなり手が込んでいる物も少なくないと聞く。

まあ同じサークルメンバーのよしみでもある。

ここは何日か預かって、ほら何もなかっただろ?と、安心させてやってもいいかもしれない。

お礼に今度デートでも……って何考えてんだ俺は。

「分かったよ、そんなに言うんならしばらく預かるよ。ただし、俺が何もないって判断したらすぐに突っ返すからな」

「本当に?本当に預かってくれるの?」

「ああ、今のとこは何も感じないし、多分大丈夫だよこいつは」

そう言って俺は右手でケースを軽く叩いて見せた。が、その時だ、

「ウギャーッ!」

思わず体がビクリと反応した。

子供の泣き声。

またか?

思わず振り返る。が、そこには誰もいない。

いや、正確には、店の中には俺たち以外に客はもういなかった。

何?何だ今のは?

「聞こえてたんだ……やっぱり」

やっぱり?√は何を言っている?

「さっきのオフ会の時も聞こえたんでしょ?私にも聞こえたし。与一の顔色で何か分かっちゃたんだよね。あ、この人も聞こえたんだなって」

√はそう言って、両肘をテーブルにつけ、両手を頬に当てながらどこか嬉しそうな顔で俺を見つめている。

「オフ会の時?あっ、あれは後ろの席に子供が、」

そこまで言った時だ、俺の言葉に被せるようにして√が言った。

「あの子供、寝てたよ?」

えっ?寝て……た?

「あれが聞こえてたの与一と私だけだよ。他の人たち、気にもしてなかったでしょ」

そんな……じゃあ今聞こえた赤ちゃんの泣き声は……本物……なのか?

この……この河童のミイラは?

「あ、それと、」

すると√はまたもや俺の心を見透かしたかのように口を開いた。

「私、それが河童のミイラだなんて、一言も言ってないから、クスッ……」

最後にいたずらっぽい笑みを浮かべると、√はケースをお置いたまま伝票だけを持って席を立ち、こちらに振り返りもせず、店を出て行った。

俺の、長くて怪しい夏が……こうして始まった……。

これは、俺が大学に入って、初めての夏を迎えた頃に体験した話だ。

前回、俺は心霊サークルのオフ会で出会った、怪しげなゴシック少女、√(ルート)と名乗る少女から、何の因果か河童のミイラを預かる事となった。

呪いの河童のミイラ……持ち主は火事で焼け死ぬと言う曰くつきのミイラだが、実際に俺がこのミイラを預かる事になった際、謎の子供の泣き声を耳にしてしまった。

果たして、これは本当に河童のミイラの仕業なのか?そして、√が最後に言い残した言葉、

「私、それが河童のミイラだなんて、一言も言ってないから……」

この言葉が意味するものとは……

「ああ、マジどうしようこれ……」

俺はアパートの部屋に帰り着き、改めてアタッシュケースをテーブルの上に置いて、中身を確認するかどうか思い悩んでいた。

ケースのロックを外し、蓋を開けようか迷っていると、ふと√の言葉が頭を過ぎった。

『大丈夫、別にケースから出して部屋に飾っておかなくても、ケースの中に入れたままで十分効果あるから』

出さなくてもいいのか……。

正直、霊障云々と言うより、ただ単にミイラの見た目自体気味が悪い。

「このままでいいか」

俺は再びロックを掛け、アタッシュケースを部屋の隅へとどかした。

音楽をかけ流し、側にあった読みかけの雑誌を手にとる。

別に焦らなくてもいい、時間ならある。

オフ会と喫茶店で耳にした子供の声だって、あれが本当に河童のミイラの仕業なんて確証はない。

そう自分に言い聞かせるようにしながら、俺はその日、極力何も考えないようにして過ごす事にした。

どれぐらい時間が立っただろう。

気がつくと、俺は座布団を枕にして、いつの間にか眠りについていた。

「寝ちまった……」

腕時計に目をやると、短い針が八を示している。

ぽつんぽつん、ぽたぽた、

不意に聞こえる音、雨だ。

「やべ、洗濯物」

ハッとしてベランダに出る。

干してある衣服を回収していると、

「おはよう」

お隣さんからベランダ越しに声を掛けられた。

慌てて俺も挨拶を返す。

歳は三十代、前に本人からこのアパートの近くの飲み屋で働いていると、聞かされたことがある。

「そういえば、親戚の子でも遊びに来てるの?」

「えっ?」

子供?突然何の話だ?

「なあにとぼけちゃって、昨日私がお店から帰ってきたら、あなたの部屋から子供の泣き声がずっとしてたわよ?私はいいけど、下の階の人、けっこう神経質だから気をつけないとだめよ?」

女性はそう言い残して、洗濯物を取り込み部屋の中へ戻っていった。

「まさか……」

俺はずぶ濡れになっていく衣服を取り込むのも忘れ、すぐさま部屋の中へと引き返した。

テーブルの上、√から預かった黒のアタッシュケース。

特に変わりはない。俺は中を確かめようとケースに手を伸ばした。

「なっ……!?」

ロックが……外れている。

おかしい。

昨日確かにロックは掛けたはずだ。

壊れた?

そう思いチェックするも壊れた様子はない。

『あなたの部屋から子供の泣き声がずっとしてたわよ?』

お隣さんの声が、不意に俺の頭の中で再生された。

何だか急に寒くなってきた。

夏だというのに身震いがする。

これはまずい……

俺はアタッシュケースを手に持つと、タバコと財布、スマホをポケットに突っ込みながら、着の身着のまま慌てて部屋を後にした。

「えっ?いいの?まじで?」

俺は近くの喫茶店で朝飯を済ませると、スマホで大学の友人と通話をしていた。

友人は大学で教授の助手をしており、何かと調べ物をする時にかなり重宝している。

そう、俺はこの河童のミイラを科学的にも調べてみようと思い、大学の友人に調べてもらえないか頼んでいる最中だった。

《ああ。夏休みで暇だし、今は教授の留守を預かってるだけだしな。エックス線でもMRIでも使って調べてやるよ》

なんと驚いた事に即答。よほど暇なのだろうか?

「すぐ行く!」

俺は直ぐに返事を返し通話を切ると、今度はネットを使って心霊サークルのHPへと飛んだ。

実は朝飯を食う前に、サークルの掲示板を使って√に連絡を取っていた。

どうしても知っておきたい事があったのだ。

「おっ、レスついてる」

確認する、√だ。レスには、T・Kと書かれていた。

俺の知りたかった事、それは例の火事で焼け死んだという、河童のミイラの生前の持ち主の名前だ。

√の話をまったく信じていないわけではない。ただ、やはり自分の目で確認してみないことには、この件に関しては謎が多いような気がした。

時間がない。俺は名前を書き留めると、√に〖連絡先教えてくれ、掲示板だと何かと不便だ〗と、レスを書き込みスマホをポケットにしまった。

喫茶店を出た俺は真っ直ぐ大学へと向かった。

途中顔見知りの何人かと出くわし、アタッシュケースの事を聞かれたが、まさか中には河童のミイラが、と答えるわけにも行かないので、なるべく人目を避けるようにして、友人の待つ研究室へと向かった。

「悪いな、急に変なこと頼んじゃって」

「おっ意外と早かったな、コーヒーでも飲むか?」

研究室に入ると、友人のHが丁度コーヒーを作っていた。

「ああ、一杯もらうよ」

俺はそう言うと、空いていた研究室のテーブルの上にアタッシュケースを置いて、手近にあった椅子に腰掛ける。

「それか?例のものは?」

Hがコーヒーを入れながら、アタッシュケースを顎でしゃくって見せた。

「あ、ああ、まあな……」

俺はHから手渡されたコーヒーを手に取り、すぐに口に含んだ。少し苦いが落ち着く。

「元気ないな、オカルト好きなお前には願ってもない代物だろ?」

「願っても……ないか」

確かに願ってもない代物のはずなのだが、何だろう……何か今回の件に関しては嫌な予感がする。

今までも何度か霊体験はあったが、ここまで不安な気持ちになるものは初めてだ。

勘ぐり過ぎかもしれないが……

「さてと、んじゃ早速そのミイラとやらの分析を始めるか」

「ああ、頼む。時間かかるよな?適当に時間潰してるから、終わったら教えてくれ」

「あいよ」

Hはそう言ってからアタッシュケースを手に取ると、コーヒーを片手に奥の部屋へと入っていった。

相変わらず軽いやつだが、腕は確かだ。

気さくで人付き合いも良い、教授に気に入られて助手になれたのも頷ける。

さて、俺はどうしたものか。

あたりをキョロキョロと見回すが、特に興味を引くものはなく仕方なしに、そこら辺に積まれていた難しそうな本に目を通すことにした。

これならよく眠れそうだ。

本を開き椅子によっかかりながら、しばらく本と睨めっこをしていると、案の定大きなあくびが出てきた。

そのまま本を置いて腕組しながら目を瞑る。

意識が淀み、体から力が抜ける。

どれくらい立っただろうか、寝ているのか寝ていないのか、自分でも識別できないでいると、不意に腕を引っ張られた事により、俺の意識は戻った。

「おっ、もう分かったのか?」

そう言って後ろを振り向く。

誰もいない。

「H?」

辺りを見回すがやはり誰もいない。

おかしいなと頭を捻っていると、またもや腕を引っ張られた。

「おい、さっきから何な、」

少しムッとしながら後ろを振り向いたその時だ、

能面のような子供の顔があった。

まるで血の通っていない、生気のない青白い顔の子供が、着物姿で俺の後ろに立っていた。

叫び声を上げそうになった、が、声が出ない。

首が動かない、目が子供から逸らせない、いや、体が動かない!?

心臓が恐ろしいほどの速さで鳴っているのが分かる、早すぎて止まりそうだ。

俺の体は椅子に縛り付けられたかのように、その場で固まってしまった。

目の前で子供が動く。

両手がスゥッと上がり、青白い両の手が、俺の首にまとわりついた。

まるで氷の塊を首に押し当てられたかのように冷たい。

必死に首を振ろうとするが無駄な抵抗だった。

両の手は俺の首を握り、やがて、

「グっ!?」

その手に、徐々に力が込められていく。子供の力とはとても思えない力で、

息ができない、圧迫され血が逆流していく、意識が……

ガチャッ、

突然ドアの開く音が鳴った、と同時に首にまとわりついていた手の感触がスッと消えた。

「ぐはぁっッ!?」

堰を切ったかのように、俺の口からは咽るような咳が漏れた。

突然のことにHが俺の側に駆け寄ってきた。

「おいどうした?大丈夫か!?」

「ゴホッ、はぁはぁ……」

視界が鮮明になり、辺りを見回すが子供の姿はもうない。

あれは……なんだ?

「おい、その首!?」

Hが気味の悪そうな顔で俺の首元を指差している。

「えっ?」

思わず首をさすりながら、近くにあった鏡を見ると、

「こ、これ……!?」

俺の首には、薄っすらと赤黒い痕がついていた。よくみればそれは小さな手のような痕にも見える。

あれは、夢じゃない……

ゾクゾクとした悪寒が体中を駆け巡り、今すぐにでも胃の中のものをぶちまけたい衝動に駆られた。

「おい、まじでどうしたんだお前?その首といい……もう今日は病院行って休め。とりあえずデータ採取はできたから、あとは成分表と照らし合わせるだけだ、何か分かったら連絡するからさ」

Hは俺の肩を軽く叩きながら、心配そうに言ってくれた。

「あ、ああ悪い、そうするよ……」

その後、俺はHに言われるまま預けたアタッシュケースを返してもらい、大学を後にした。

Hに首の件は病院に見せたほうが良いと言われたが、それはおそらく無駄だろう。

気遣いはありがたいが、今はこいつの情報が少しでも欲しい。

「T・K……」

不意に、俺は呟いた。

√が教えてくれた名前だ。

こいつの……ミイラの生前の持ち主。

俺はすぐにスマホを開くと、名前を打ち込み、火災事件のキーワードと共にその名前を探した。

検索を続けること数十分、おそらくこれではないかという事件にヒットした。

亡くなった人物は生前変わった趣味があり、コレクションの数々を別館に収めていたらしく、火元はそこから上がったとの事。

変わった趣味のコレクション、名前も一致する。おそらくこれに間違いはないだろう。

有難い事に場所もそう遠くはない。大学前の駅から二駅行った先だ。

俺はスマホをしまうと、おぼつかない足取りで駅を目指した。

正直今日はHの言うとおり無理せず休みたい、しかしさっきの研究室で見たあれは……。

ふと、視線を地面に落とす。

あれが一体何なのか、それが分かるまでは家にいても落ち着けはしないだろう。

ジリジリと音がしそうな午後の日差し、照り返すアスファルトに眩暈を覚えながらも、俺は顔を上げ、再び駅を目指し歩き始めた。

やがて駅に着いた俺は、切符を買いホームへと向かった。

夏休みに入ったせいか、電車を待つ人の姿もまばらだ。

椅子に座ろうか迷っていると、案内のアナウンスが流れ始めた。

《間もなく、電車が……》

俺は座るのを諦め線路側に立つと、向かってくる電車に目をやった。

ドンッ

「えっ?」

一瞬だった。

腰の部分に衝撃があった。体勢を崩しながら瞬間後ろを見た。

子供だ、着物姿。

だが顔が……顔がグチャグチャだ。顔の中央が陥没したかのように窪み、頭は割れてしまっているのか赤黒いものが飛び出ている。

一瞬で心臓が凍りつく。

「うわぁぁっ!!?」

思わずアタッシュケースを放り出しながら、俺の口から絶叫が漏れた。

線路に転倒寸前で、俺の脚はなんとか線路際で踏みとどまった。

そのまま足から崩れ落ち、その場にへたり込む。

「はぁはぁっ……!?」

息を切らしながら辺りを見回す、子供の姿は……ない。

何だ今のは……子供の顔が……

大学で見た子供の顔とは違う。

顔が潰れていた、グチャグチャに……いや、それよりも今俺は……

押されたのか?

あの子供に?いや……得体の知れないあの何かに?

──ガタンゴトン。

電車がホームをゆっくりと過ぎていく。

突如襲ってくる身震いに、俺は両手を肩に回し、震える自分の体を押さえつけた。

殺されるのか……俺?

「あの、大丈夫ですか?」

不意に声の方に振り向くと、駅員が心配そうにこちらを見下ろしていた。

手には俺が落としたアタッシュケースが握られている。

俺は駅員から差し出された手を取り立ち上がると、

「す、すみません」

と慌てて礼を言い、アタッシュケースを受け取りながら、丁度開いた電車の中へと急いで飛び乗った。

ふらついた足取りで空いた席に座り、今起こった事を思い起こす。

「何なんだ一体……くそっ!」

ドガッ、

先ほどまでの恐怖が一気に怒りへと変わり、俺は座っていた椅子を強く殴りつけた。

が、すぐに電車内にいた数人の乗客が一斉にこちらに振り向いたため、俺は視線を避けるようにして、寝たふりを決め込むことにした。

20分程電車に揺られ、やがて目的の駅へと到着。

先ほどのこともあり、俺は警戒心を強めながらホームに降り、急いで改札口を抜けた。

ふらついた足取りで空いた席に座り、今起こった事を思い起こす。

「何なんだ一体……くそっ!」

──ドガッ、

先ほどまでの恐怖が一気に怒りへと変わり、俺は座っていた椅子を強く殴りつけた。

が、すぐに電車内にいた数人の乗客が一斉にこちらに振り向いたため、俺は視線を避けるようにして、寝たふりを決め込むことにした。

20分程電車に揺られ、やがて目的の駅へと到着。

先ほどのこともあり、俺は警戒心を強めながらホームに降り、急いで改札口を抜けた。

ネットで調べた限りでは、T・K氏の住所を細部まで特定することはできなかったが、途中、駅前の公衆電話で手に入れた地図を見ると、同じ苗字の住宅が二件連なっているのが確認できた。

地図も一年前と古いもので、おそらく事件前のものだから間違いないだろう。

T・K氏の苗字と一致する家は、火災のあったこの辺りでは、この地図に載っている二件だけ。

おそらく火災現場はこの二件のうちのどれかだ。

俺はスマホで写メった地図を頼りに、火災現場であるT・K氏宅をめざした。

長い急な坂を登り、やがて閑静な住宅街に辿りつく。

入り組んだ道を、縫うようにしながら歩く事20分程、俺はようやくそれらしい場所を見つけた。

そこは他と比べ、一際広い空き地だった。

地図を何度も確認し、辺りの地形と照らし合わせる、間違いない、ここだ。

この空き地が、もしかしてT・K氏宅の跡地なのだろうか?

しばらく空き地を見回していると、

「おい、そこのあんた……」

突然男の声に呼び止められた。

声のほうに振り返ると、隣の家の玄関から、四十代ぐらいの男性が顔を覗かせていた。

やばい、不審者だと思われただろうか……

俺はいつでも逃げれるように身構えた、が、

「あんたが持ってる鞄……ひょっとしてそれって」

男の言葉に俺は思わず驚いた。

この鞄の事を知っているのか?

そういえば、男の立っている玄関の表札の文字、T・K氏の苗字と同じだ。

もしかして親戚か何かだろうか?

「あ、あの、実は俺この鞄の持ち主を探してまして……」

男のいる玄関前に駆け寄り、アタッシュケースを高々と持ち上げて見せた。

「ああ、やっぱりか、それ、中身あのミイラだろ……?」

男が言いながら苦々しい目を向けてくる。

あまり歓迎的ではなさそうだ。

しかしせっかく掴んだミイラの情報を、ここで逃すわけにはいかない。

「あの、このミイラ事で何か知ってることがあったら」

俺がそこまで言いかけると、男は慌てて玄関から出てきて俺の話を遮ってきた。

「待って待って!家の前でやめてくれよ、ちょっと入って」

男はそう言って俺を家の中へと招き入れてくれた。

家に入ると、男は中にどうぞと言ってくれたが、俺は悪いからここでいいですとやんわりと答え、玄関先で腰を下ろさせてもらった。

「君、葛西さんの使いで来たの?」

「葛西?」

俺が聞き返すと、男は驚いた顔で俺を見た。

「あれ?そのミイラ、気に入らないからやっぱり返しにきたとかいう話じゃないの?」

何の話だ?と一瞬思ったが、俺はもしかしてと思い、男に尋ねた。

「葛西って、このミイラを買い取った……?」

「うん……あれ、本当に葛西さんとは関係ないの?」

そう言って男は首を捻って見せる。

その反応を見て俺は合点がいった。

おそらくその葛西なる人物は、√の父親の事だろう。

あいつ苗字葛西って言うのか、今度葛西って呼んでみよう。

「俺は葛西さんの使いできたわけじゃありません。このミイラの事について聞きに来たんです」

「ミイラの事?本当に葛西さんとは無関係ないのかい?」

男の確認する声に俺は深く頷いて見せた。

「そうか……良かった、そのミイラの事で文句でも言いに来たのかと思ったよ。うちの親父もそのミイラの呪いで死んだかも、何て言っちゃったしね」

親父……?このミイラの生前の持ち主の?じゃあこの男性はその息子さんなのか。

「呪いで死んだかもって、どういう意味ですか?あっ絶対にその葛西さんという方には話しません。あくまでも俺がこのミイラの事について聞きたいだけなんです」

俺の言葉に男はしばらく、

「ううん……」

唸りながら考えた後、

「まあいいか」

と、観念したかのようにぼそりと言って話を続けた。

「そのミイラは親父が知り合いから手に入れた物でね。大層気にいったのか、よく周りに自慢ばかりしていたよ。近所の人も珍しいもの見たさによく親父の家に来てさ、そしたら変な噂なんかもたっちゃって」

「変な噂ですか?」

「ああ、この河童のミイラは呪われている、とかね」

呪い……。

その言葉を聴いて、俺はここに来るまでの出来事を思い返した。

やはり、一連の出来事はミイラの呪いなのだろうか……。

「持ち主は火事によってみんな焼け死ぬってやつですか?」

「それは親父が火事で亡くなってから噂された話だよ。実際親父は二酸化炭素中毒で亡くなったから、別に焼け死んだわけじゃないし、以前の持ち主の知り合いも、今でもピンピンしているしね」

えっ……どういう事だ?持ち主はみんな死んだんじゃないのか?

「の、呪いで死んだかもってさっき言ってましたよね?」

俺は先ほど男が言っていたことを思い出し聞き返した。

「ああ、近所の人たちが親父が死んだのを、勝手に河童のミイラのせいだって噂してね、それをどこかで聞きつけた葛西さんが、そのミイラ売ってくれって家に来たもんで、まあ額が額だったし、ついそのミイラのせいで親父が亡くなったかも、何てその場のノリで言っちゃって……はは、それを怪しんだ葛西さんの使いで、君が来たんじゃないかって勘違いしちゃってね、いやあ、これ絶対に内緒だよ?」

男はそう言って苦笑い。

何て事だ……呪いは、ただの噂だったのか?

それにしてもその場のノリって、仮にも親父さんの遺品をこのおっさんは……。

俺は半ば呆れつつ、分かりました、と言って肩を落とした。

「まあ葛西さんの他にも、親父が亡くなる前から、その鞄を一目見て引き取りたいなんて人もいたらしいよ。親父は売り物じゃないって断っちゃったみたいだけどね」

そんな思い入れのある代物を、この人は簡単に手放したのだから始末が悪い。

これ以上は話を聞いても無駄そうに感じていた俺は、その他の話について二三男に尋ねてみた、が、どれも近所レベルのしょうもない事ばかりで、そのほとんどが根も葉もない噂ばかりだった。

実際にこのミイラのせいで、何ていう話も一つもない。

√にしてやられた。

火事でT・K氏が亡くなったのは事実だが、持ち主はみんな亡くなったと言う話は全部嘘だ。

ミイラの呪いなんていう話は、初めから実在しなかったのだ。

じゃあ……じゃあ俺がここまで来る間に体験したアレは一体……?

何か黒くモヤモヤしたものが頭の中を支配していく。

ゾクゾクとなんだか分からない寒気が、足元から這い上がってきたような気がした。

駄目だ、呑まれちゃいけない。

俺はそれを振り払うかのように頭を振った。

今はそれを考えても仕方がない。

結局、俺は話を一区切りし男に礼をしてから家を後にした。

家を出た俺は、速攻でスマホを使い心霊サークルのHPを開いた。

朝、大学を訪れる前に書いた、連絡先を教えてくれ、掲示板だと何かと不便だ、と書かれたレスに、返信のマークがついている。

√からのレスだ。アルファベット文字が打ち込まれていた。

おそらくLINEのIDだろう。

直ぐにID検索すると、√の名前がヒットした。

俺は急いで友達追加をし、LINE通話を掛ける。

規則的な機械音が何度か鳴り、やがて、

《はい、》

と、抑揚のない女の声がスマホから聞こえた。

聞き覚えのある声、間違いなく√だ。

「√か?俺だ、与一だ」

《分かってる、で何?何か用?》

素っ気無い√の返事。

「用があるから連絡したんだよ。あのな、お前俺に言ったよな?ミイラの持ち主は皆焼け死んだって、」

《正確には、持ってた人、みんな火事で焼け死んでるんだよね、だけど》

直ぐに√は付加えて言い返してきた。

「変わんねえよ。調べたぞ、本人の息子さんにも会ってきた。何であんな嘘付いたんだ?」

俺は観念しろと言わんばかりに言った。

すると√は、

《息子さんって、家まで行ったんだ?マジで?はは、暇人なんだね与一って》

「お前っ!?」

苛々が募りつい声を荒げてしまった。

《怖い声出さないでよ、ノリよノリ。ああ言った方が場が盛り上がるかなって思って言っただけよ、他意はないわ》

T・K氏の息子といい√といい、何でそう簡単にノリで嘘がつけるんだ。

俺は深いため息をつきつつ深呼吸した。

頭に昇った血がスゥっと引く気がする。俺は自分に落ち着くように言い聞かせると、再び口を開いた。

「このミイラはお前に返す。約束が違うとか言うなよ?嘘をついたのはそっちなんだからな」

俺がそう言うと、スマホから√の溜息が僅かに漏れた。

《はぁ、分かったわ、どこで、》

√の声が聞こえたその時だった。

《もせ……もせる……もせ、》

突然聞こえた意味不明な声、明らかに√の声ではない。

何だ?混線?いや、こんなの初めてだぞ?

「おい、√何だ今の?」

慌てて√にそう言うと、直ぐに√の返事が返ってきた。

《はあ?与一こそ何よ今の声、何?からかってるわけ?趣味悪いんだけど》

悪態をつく√。

待て、どう言うことだ?今の変な声は明らかに√から聞こえた声のはずだ。

《もせる……もせ……》

またあの声だ、低く篭ったような声。

「おい、」

俺がスマホに向かって言おうとした瞬間、

《いい加減にしてよ、何よさっきからもせって、意味わかんないんだけど!》

スマホから√の苛立つ声が響いた。

もしかして、同じ声がお互いに聞こえてるのか?

その時だ、ふと、背中にゾゾゾと這い上がってくるような悪寒が走り抜けた。

首の後ろに静電気でも流れたかのように、俺はその場から飛びのいた。

そして、

つんざく様な√の悲鳴が、スマホから突如響いた。

思わずスマホから耳を離す、と同時に、今度は背後から声が聞こえる。

「もせる……もせる……」

先ほどとは違う、背後から聞こえる声。

子供の声……!?

恐怖に足が竦む、が、歯を食いしばり俺は振り返りもせず一気に全速力でその場を駆け出した。

叫びたくなるのを必死で堪えながら走る。

記憶に残る範囲で駅の方を目指し、動悸が激しく波打つのを堪えひたすら走った。

住宅街を抜け、坂道をこれでもかと言わんばかりに駆け下りた。

どれくらい走ったのか。

ヘトヘトになり座り込んだ先は、コンビニ前のバス亭の椅子だった。

「はあっはぁっ……」

全身を椅子の背もたれに預け息を吐く。

やがて正常な呼吸が戻ってきた。

俺はシャツで自分の顔を拭い、汗を拭き取りながら辺りを見渡す。

会社帰りの学生やサラリーマンの姿が目に映る。

もう大丈夫のようだ。

ふと、スマホが振動している事に気がつき、俺はポケットからスマホを取り出した。

√からのライン通話だ。

急いで通話ボタンを押した。

「もしもし?√、大丈夫か!?」

先ほどの√の悲鳴、何かあった事は間違いない。

「昨日の喫茶店で待ってる、早く来て……」

「えっ、お、おい?」

無事を確める間もなく、√はそれだけ言うと唐突に通話を切った。

「返事ぐらい待てよたっく……」

まあいい、連絡がついただけでもとりあえず無事なのは確認できた。

俺はバス亭の時刻表に目を通し、昨日の喫茶店付近に停まるバスを探した。

ラッキーな事に少し待てば近くまで行きそうなバスを見つけた。

再び椅子に腰掛け、ぼおっと道路を行き交う車のヘッドライトを目で追う。

待つこと10分、俺は目的のバスに飛び乗り√との待ち合わせ場所に向かった。

それにしても今日は何て日だ。

俺はオカルトが好きだが、こんな事は望んじゃいない。

おっかなびっくりぐらいの体験でいいはずなのに、俺の軽はずみな行為が、いつの間にか踏み込んじゃいけない領域に足を踏み入れてしまっていた。

首を絞められ、駅に突き落とされそうにもなった。

体力ももうそろそろ限界だ。

おそらく次は何かあっても走って逃げ切れそうにない。

正直もうこのアタッシュケースを放りだして今すぐ逃げ出したい気分だ。

だが、まだ今なら引き返せるかもしれない。

元の持ち主にこれを返す。

手に抱えたアタッシュケースに目をやる。

その為にも√と会わなければ……。

やがて、俺は昨日訪れた24時間営業の喫茶店に辿りついた。

辺りはもう暗い。

店の賑わいと街頭の明かりが、今は俺の心の寄りどことなっていた。

入り口のドアを押し、今は何時だろうと思いながら俺は店の中に足を踏み入れる。

店に入ると、窓際の席に見覚えのある服装の女が目に映った。

今回は薄いレザージャケットに皮の短パンという服装、相変わらず色は黒。

ひょっとしてこいつは黒しか持ってないのかと疑いたくなる。

まあこれはこれで似合っているし目立つのだが……。

俺は無言のまま√の座っている席に向かうと、テーブル越しに軽く頭を下げながらソファーに腰を下ろした。

「待たせたな葛西さん」

皮肉交じりに俺がそう言うと、

「何?人の名前なんか調べて、与一ってストーカーなの?」

相変わらず口の減らない奴。

早速文句の一言でも言い返してやろうかと思ったその時だ。

「私の家に、血だらけの子供がいた……」

「えっ……?」

突然の√の言葉に、俺は一瞬で葉を失ってしまった。

血だらけの……子供?

「与一と通話してた時、もせって声が聞こえた後、私の袖をその血だらけの子供が掴んでた……私の顔見て、笑ってた……」

そう言って√は力なく俯いた。

√の家にあの子供が?ミイラは俺が持っているのに?

その時だ、俺の持っているスマホの呼び出し音が鳴った。

ビクリとしながらスマホの画面に目をやると、画面には大学の友人、Hの名前があった。

「悪い」

√に断りをいれ、通話に出る。

《おっ、もう体調はいいのか?》

「あ、ああ、昼間はすまん」

《いいよ気にすんな、それより例のミイラの件だけど、あらかた調べ終わったぞ》

Hの言葉に俺は思わず、

「ほ、本当か?」

店内にも関わらず声を張り上げてしまった。

√が思わず顔を上げこちらを軽く睨んできた。

気まずいながらもHに話を戻す。

「そ、それでどうだった?」

《いやあ、残念ってとこだな》

「えっ?残念?」

どういう事だ?もしかして分からなかったのか?

そう思い眉間に皺を寄せていると、

《残念賞、ニセモノだよ、あれは》

「えっに、ニセモノ!?」

あまりの事に、俺はまたもや声を張り上げる。

「ちょっと……」

苛々した√の声が聞こえる、が、今はそれどころじゃない。

俺はそれを無視しながらHと話を続けた。

《あれは動物の骨を組み合わせて作られたニセモノだよ。接合部分は蝋が使われていて、人工的に手が加えられた痕も見つかった。肋骨部分の骨なんか、ウサギや犬の骨なんかが混同されて使われてたよ。いや~残念だったな》

「ニセモノ……」

まさかの結果に唖然としてしまい、俺はアタッシュケースに目を落とした。

ニセモノ……呪いも、ミイラも、全部ニセモノ?

じゃ、じゃあ……何が本当なんだ?

頭の中がグチャグチャになりそうだ。

《一応人間の血液反応も出たけど……》

人間の?

「そ、それって!?」

《ああ、だけど微量だよ、極小とも言っていい、それにかなり古いものだよ。アタッシュケースの内装の紙に染み付いてたんだと思う、残念だけどミイラとは関係ないよ》

「そ、そうか……」

そこまで言って俺は口を噤んでしまった。

ショックがあまりにでかすぎる……

「悪いH、今度必ずお礼するから、ありがとな」

俺は力なく肩を落としながらHにそう言った。

《あ、ああ、あんまり落ち込むなよ?じゃあまたな》

Hはそこまで言って通話を切った。

唖然とする俺の耳に、ツーッツーッという機械音が虚しく響く。

「ニセモノって何?どういう事?」

通話の内容を聞いていた√が俺にそう尋ねてきた。

「いや、実は……」

俺は今朝から起こった出来事を、順を追って√に説明する事にした。

俺のアパートで起こった異変から始まり、大学でミイラを調べてもらった事、そしてT・K氏の事を調べ、呪いについて話を聞いた事、そしてその過程で、あの忌わしい子供に命を付狙われた事も。

「まっそうだとは思ってたけどね……」

「えっ?なんだよそれ、お前知ってたのか?」

「知ってたって言うか、あれ何も感じなかったもん。だからねニセモノかなあって……でもさ、変な事もちょいちょいあったのよ。子供の泣き声、与一も聴いたでしょ?」

「あ、ああ」

「だからアレが何なのか気になってたのよ。だから与一に預けてみた」

「預けてみたって、お前簡単に言うけどな……」

「結果はこのザマだけどさ……一体何なんだろ、ニセモノなら私達に起こった事って一体何と関連してるわけ?」

√の質問に俺はどう答えたらいいのか分からず口を噤んでしまった。

あの子供は何なんだ?

ミイラともその呪いとも関係ないとしたら、一体俺は何に命を狙われた?

それに……

「ねえ、もうさ、そのアタッシュケースのミイラ、関係なくない?」

√が怪訝そうな表情で俺に尋ねてきた。

そのとおりだ。

アタッシュケースを預けたはずの√の目の前にも、あの子供は現れた。

それはつまり、例えこのアタッシュケースを返したとこで、何も解決しないという事になる。

「訳分んねえ……」

両手で頭を抱えながら、俺はテーブルに突っ伏した。

「どうするの……私達、たぶんこのままじゃ……」

どんなことにも動じなさそうな√の顔が、不安気な表情を浮かべている。

考えてみれば当たり前かもしれない。

普段はその辺にいる女子高生と変わらないのだ。

それがこんな事に巻き込まれれば、普通なら今頃泣き喚いていてもおかしくない。

だが、それは俺にも言える事だ。

こんな命の危機に際悩まされる日常なんて、まっぴらごめんだ。

本来なら緩く浅くオカルトを楽しみたいだけなのに……。

このミイラも呪いも全てニセモノ……だけど、あの不気味な子供は……。

「このままじゃ家にも戻れない……こんな時にお姉ちゃんがいればいいんだけど……」

「お姉ちゃん?お前お姉ちゃんがいるのか?」

√の不意に漏らした声に、俺は思わず聞き返した。

こんなのがもう一人いると思うと、それはそれで恐ろしくもある。

「うん、腹違いのね。呪いとかに凄く詳しくて、いつもこの店に顔見せるからもしかしてって思ったんだけど……そう言えばお気に入りの店員がいるって言ってたような……あ、すみません!」

そう言って√は突然店内にいた俺と同い年位の男性店員を呼び止めた。

「はい、ご注文お決まりでしょうか?」

「あのさ、赤い眼鏡して毛先のフワッとしたメロンソーダばかり頼んでる女の子とか知らない?」

また随分とアバウト質問だ。店員さんも困っている様子。だいたいそんなので分かるはずが、

「えっ?メ、メロンちゃ、じゃない……あ、はい、心当たりなら……」

分かるのかよ。どんだけ有名人なんだ。

「今日来る?」

「あ、いや今日はまだ……毎日とも限らないので」

「そう……」

しかし呪いに詳しいお姉ちゃんって、やはりろくでもない姉妹なのは間違いないようだ。

「あの人スマホ持ち歩かないから捕まらないのよね……ああもう、本当にどうしたらいいのよ……!」

「喚いたってどうしようもないだろ、それより何かお前も考えろよ!」

√の苛立つ声に、俺も苛立ちを隠せず声を荒げながら言った。

「考えてるわよ!でも手掛かりがこれじゃどうしようもないじゃない!」

√はテーブルに身を乗り出すような格好でそう言ってきた。

「あのな!何でもかんでも人頼みにするなよ!大体原因がミイラじゃなかったら何……なん……」

そこまで声を上げて、ふと俺の中で何かが引っかかった。

「何?どうしたの急に?」

√が訝しげな目で俺を見る。

そんな√を他所に、俺は隅に追いやっていたアタッシュケースを手で掴むと、飲み物をどかし、テーブルの上に置いた。

アタッシュケースをじっと見つめる。

集中しろ……何かヒントがあるはずだ。

かき集めた情報を思い浮かべ順に確めてゆく。

まるで頭の中で散らばったパズルのピースを、一つ一つ組みあげていく感じ。

ニセモノの河童のミイラ、時折現れる着物姿の子供、勝手に開くアタッシュケース。

息子さんが言っていた、T・K氏が生きていた頃に、鞄を一目見るなり引き取りたいと言った人物、Hが言っていた、アタッシュケースの内装の紙に染み付いてた人間の血……。

──ガチャッ

「ちょっ、何急に?」

√がそう言いながら止める間もなく、俺はアタッシュケースのロックを開け、中から取り出したミイラを、ソファーの上に乱暴に置いた。

そして、ベリッ、という音と共に、ミイラを包んでいた鞄の中の綿と紙を一気に引き剥がした。

瞬間、かび臭い埃と古びた鉄のような異臭が辺りを漂う。

「何この匂……あっ!?」

思わず口元を手で覆う√の目が、突然大きく見開かれた、明らかに驚愕している。

そして俺も……。

アタッシュケースを掴む手がわなわなと震えている。

冷房の効いた喫茶店のはずなのに、俺の額にはびっしりと脂汗が滲んでいた。

内装の紙が剥がれたアタッシューケースの中は、茶色く変色した何かが、一面中に、まるで血でも飛び散ったかのように広がっていた。

俺は乱れる呼吸をなんとか落ち着かせながら、振り絞るようにして言った。

「呪われてたのはミイラじゃない、この……鞄だ……」

絶句していた√が僅かに顔を上げ言った。

「何……これ?」

「これが河童のミイラの……呪いの正体なんだよ」

俺がそう口にした時だった。

「ちょっと違うかも……」

「えっ?」

「なっ!あ、あんた!?」

突然割り込んできた少女の声に振り向くと、√が慌てふためく様にして声を上げた。

どうやら知り合いのようだ。

いや待て、この女の子の姿……赤い眼鏡に毛先のフワッとした女……もしかしてこの子が√の……?

「ナマステ」

「何がナマステよ!お姉ちゃんスマホぐらい持ち歩いて出掛けなさいよ!」

なんだこの姉妹……。いや、それよりさっき気になる事を言っていたような……。

「あ、あの?」

「グーデンダーク」

「ど、ドイツ語……いや、じゃなくてさっき変な事言ってましたよね?ちょっと違うとか……」

「うん……言った」

眠そうな、というより力無い眼で√のお姉さんは俺を見つめてくる。

深刻な状況のはずがなぜか調子が狂ってしまう。

「さっさと答えて、さっきあんたが横やり入れてきたでしょ、あれはどういう意味なの?」

√が睨みつけるようにして言った。

何か√の奴、やけにお姉さんに対しては突っかかるな。

ひょっとして仲が悪いのかこの姉妹?

「うーん……呪いなら、あなた達もう死んでるかも」

「なっ!?」

思わずゾクリとした……。

先程まで無気力な√のお姉さんの瞳に、今は怪しげな緋が灯っているように見えたからだ。

まるで俺と√を射すくめるように……。

「し、死んでるってどういう事よ!」

たじろぎながらも食い下がる√。

「そのまんまの言葉。本当の呪いなら躊躇なんてしない」

躊躇?どういう事だ?

「この鞄からは殺意を感じない……呪いは迷い無き純粋な殺意の塊、これは私が欲している物とは違う……」

√のお姉さんはそう言うと、まるで興味を失ったかのように俺達に背を向けてしまった。

「ちょ、ちょっと待って!」

「何……?」

呼び止めた声に振り向きもせず返事だけが返ってくる。

「あ、あれがその、呪いじゃないなら……一体あれは何だって言うんですか!?」

「子供……迷子の……」

「まい……子?」

「うん……迷子の子供を見つけたらどうしますか?」

「えっ?み、見つけたら?それは……警察とか、親の元に送り届けるとか、」

「正解……」

√のお姉さんはそう短く言い残すと、店員にメロンソーダを頼みながら奥の席へと行ってしまった。

「あいつ……!」

√は気が収めらないのかお姉さんの席に詰め寄りそうな勢いだった。

俺はそんな√を制すように片腕で止めた。

「もういいよ、」

「良くないわよ!」

「俺達の置かれた状況忘れたのか?」

「なっ……わ、忘れてないわよ……」

√は少ししょんぼりした顔をして再び席に腰掛けた。

どうもお姉さんが絡むと我を忘れてしまうらしい。

本当にこの二人は姉妹なのだろうか?腹違いとは言っていたがそこに何か訳でも……いや、今はそれどころじゃない。

「ともかくだ。お姉さんの言ってる事で何となく分かった」

「分かったって何が?」

「迷子だよ」

「えっ?」

俺は聞き返す√に鞄を見せながら言った。

「迷子は親に送り届ける……だろ?」

俺と√はお姉さんに頭を下げてから店を出た。(まあ主に俺だけだが)

その後直ぐにスマホを取り出し、俺はある人へ連絡をとった。

昼間、話を聞かせてもらったT・K氏の息子さんだ。

余程暇なのかこのミイラについてまた話が聞きたいと言ったら連絡先を教えてくれたのだ。

少々不用心な気もするが今は有難い。

《もしもし……?ああ昼間の?》

「はい、早速ですけど電話させてもらいました。実はお話というか……」

俺はそう切り出し要点だけを伝えた。

すると息子さんは、

《ああ、ちょっとまってて、確か名刺だけ貰ってたんだよね……見つかったら電話するよ、それでいいかな?》

「はい!できればそのこんな事お願いできた義理じゃないんですが、なるべく急ぎでお願いします!」

《あ、ああ分かったよ。そのかわり葛西さんには絶対に昼間の事……》

どうやらまだ俺の事を葛西の使いだと疑っているようだ。

「そ、それは……そちら次第という事で……」

《わ、分かったよ!なるべく急いで探すから!》

そう言って息子さんは慌てて通話を切った。

これでよし。後は手掛かりを待つだけだ。

「何か心当たりでも掴んだの?」

「うん?ああ、まあな。とりあえずは連絡待ちだ。さて、とりあえず一度帰るか」

そう言った時だった。

「ん?」

袖を掴まれた。√に。

「帰りたく……ないんだけど」

「えっ……?」

思わずドキリとした。

いやだって普通そうだろ?

女の子に、しかもこんな可愛い子にそんな台詞言われてみろ、普通の男なら無条件降伏の筈だ。

いや、普通……ではないのか。

そうなのだ。

√もできれば帰りたいのだろう。

しかし今家で一人になる勇気がないのだ。

なぜ察してやれない……まあこれが彼女いない歴=年齢と言うやつなのだろう。

俺はくしゃくしゃと髪をかきあげ、

「と、とりあえず今日はうちに来い……へ、変な事は……しないから」

「したら破滅させるよ」

「は、破滅って……し、しねえよ、一人より二人の方が安全だと思っただけだ」

「ふん……さっさと案内しなさいよ」

鼻を鳴らしそっぽを向く√。

「へいへい、こちらですお嬢様……」

俺は皮肉たっぷりにそう言うと、腰をかがめて手を添えて見せた。

──ガッツ

「痛っ!」

蹴られた。

アパートに戻ると、√は有無も言わさず俺のベッドに潜り込んでしまった。

近頃の学生は遠慮というものを知らないのだろうか。

電気を消し床に寝転がって寝ようと思ったが落ち着かず、ベランダで一服する事にした。

「あら、やほー」

「あ、ども」

ベランダに出て煙草を口に加えると、お隣のお姉さんが先に一服していたらしく、こちらに軽く会釈してきた。

「何?外で煙草吸うとか珍しいじゃない……あっ?ひょっとして……女?」

「ぶっ!ち、違いますよ!」

思わず煙草を落としてしまった。

「あははは、ムキになんなさんなって、へえそういう甲斐性あったんだねえ、可愛いの?」

「そ、そんなんじゃないですってば、だいたいその辺の女の子より凶暴だし可愛げ無いし、こっちは振り回されてばかりというか……」

「あ、やっぱり女だ」

「あ……」

しまった。誘導尋問だ……。

「良きかな良きかな。でもね、」

「はい?」

「女って男が思っているよりも強がりな生き物なのよ。いざって時は、男見せなきゃダメよ?」

「えっ?ああ……はい」

お姉さんはそう言うと「じゃね」と軽く手を振りながら部屋へと戻っていってしまった。

「そんなもんかね……」

俺は何となく気がそれてしまい煙草をしまうとそのまま部屋に戻った。

暗がりの部屋、僅かに小さな寝息が聞こえる。

開いたカーテンの隙間から漏れる月明かりが、寝ている√の横顔を微かに照らす。

ん?

√の目元に小さく光るものがあった。

涙?

よく見ると目元に薄らと涙を浮かべているようだ。

瞼には微かにクマのような跡もある。

ひょっとして寝不足だったのか?

不意にさっきベランダで話したお姉さんの言葉が頭を過った。

──女は男が思っているよりも強がりな生き物なのよ……。

「強がり……ねえ……」

俺は√の肩に毛布を掛け直し、座布団を枕にし床に転がった。

翌朝、俺は朝早く鳴るスマホの着信音で目が覚めた。

《あっ悪いね朝早くに》

T・K氏の息子さんだ。

「あ、はい大丈夫です……」

ぼおっとする頭を何とか抱え、俺は息子さんの教えてくれた内容をメモに取った。

「本当にありがとうございました」

《あ、ああ、これでその、約束は……》

──プツッ

通話を切った。

これに懲りて故人の私物を簡単に売り払ったりしないようにしてもらいたいものだ。

とりあえずこれで目的地は分かった。後はこの鞄を持ってそこに行けば……。

──トントン

肩を後ろから軽く叩かれた。

振り向くと√が不機嫌そうな顔で俺を見ながら玄関を指さしている。

「お、おはよう……な、何だよ?」

何となく気まずい。別に何かあった訳でも無いのに……。

「シャワー……」

「シャワー?」

「シャワー浴びるから出ていって!察しろ!」

「ええっ!?」

──ガチャッ

結局裸足のまま追い出された。

──ガチャッ

「あら?」

「あ、どうも……はは」

昨夜のお姉さんが部屋から出てきたところで俺と目が合った。

「ぷっ、なあにその格好」

「いやあ……俺もどうしてこうなったか聞きたいと言うか……はは」

「喧嘩も程々にね」

お姉さんはそう言ってウインクした後に足早に去っていってしまった。

結局その後一時間近く待たされたのに、俺は部屋に戻る事を許された。

女の身支度っていうのはどうしてこう……。

とまあ愚痴り出すとキリが無いので、俺と√は身支度を済ませサッサと部屋を出て目的地を目指す事にした。

アパートから歩く事十五分、俺と√は近くの駅のホームへと辿り着いた。

ベンチに腰掛けていると。

「いい加減何処行くか説明してくんない……?」

ムッとした顔で√が聞いてきた。

「ああ悪い、余りに素直についてきてくれるから話すの忘れてた」

「あんたが強引なだけでしょ……まあ……ちょっとは頼りになるところもあるけど……」

「頼り?」

「何でもない!それで、どこ行くのよ?」

「一々怒るなよ、H市にあるS村だよ」

「H市?K県の?なんでそんな遠くまで?」

「T・K氏の息子さんだよ。話を聞きに行った時に聞いたんだ、鞄を売って欲しいと、あの鞄を欲しがる人物がいたってね」

「その人物がH市に?」

「ああ、気が変わったらって名刺を預かってたらしく、息子さん一応遺品として取っておいたらしいんだ。で、その名刺の人物がこれだ……」

「町議会議員代表、M?」

√が、俺が見せたスマホの画面に写っている人物の名前を読み上げた。

「そう。名前と住まいを調べたら出てきたよ。地元では古くからの地主で結構な金持ちらしい。しかもこのM氏が住む家では、ある噂があるんだ」

「噂?」

「ああ、地元のローカルニュースでこのM氏が取り上げられた時に、地元の人間が言ってたんだが、昔からこの家では座敷童子が住み着いてるって」

「座敷童子って……あの妖怪の?」

「そっ、河童の次は座敷童子だとさ」

「座敷童子……子供……」

√が独り言のように呟く。

「そう……何か繋がってるよな」

あの血だらけの子供達とも……。

「それに、K県の辺りの方言で、燃えるゴミってなんて呼ぶか知ってるか?」

「燃えるゴミ?さあ」

「燃せるゴミって言うらしい」

「燃せ……あっ!」

√の顔が困惑した顔から驚きの表情へと変わった。

ホームに電車の到着を知らせるサイレンが鳴り、駅員のアナウンスがスピーカーから流れ出した。

「色々と繋がっただろ?だからこれはもう、」

「行くしかないわね……」

「だな」

俺と√は互いに顔を合わせ頷くと、到着した電車に乗り込んだ。

車窓から見える高層ビル群の景色が、のどかな田舎の田園風景に変わり始めた頃、俺達はようやく目的地の駅へと辿り着いた。

「ふう……はぁ……」

大きく背伸びをする俺の横で√が、

「田舎ね……コンビニ寄っていい?」

「ん?あ、ああ」

駅を出て直ぐのコンビニに入ると、√は色々と買い込み始めた。

「何をそんなに買うものがあるんだ?」

「下着……何?見たいの?」

「下っ!?あ、いや……結構です」

なるほど、よく考えてみれば下手したらここに一泊って事も有り得る……。

とりあえず√が買い物をしている間、俺はこの辺で泊まれる場所をスマホで探す事にした。

決して怪しい宿を探すわけじゃない。

ちゃんと一般的な……いやもしなかった場合はそっちも視野に入れて……。

「終わった。行きましょ」

「おおう」

「何?変な声出して」

「い、いや何でもない。とと、とりあえずM氏の家の近くまで行ってみよう」

「そうね、もっと情報も欲しいし」

「ああ、ていうかさ」

「何?」

俺の声に√がキョトンとした顔で聞き返す。

「やっぱ目立つなその服装……」

「うっさい!」

「痛っ!一々蹴るなよ!」

「さっさと歩け、また蹴るわよ」

「分かった、分かったから!」

√に急かされながら、俺はM氏宅を目指した。

田んぼだらけのあぜ道、蝉の鳴き声が響き渡る中を歩く。

人も自転車も車すら滅多にすれ違わない道、ただ静かに草木を渡る風の音が聞こえる。

本来なら歩くだけで気持のいい場所のはずが、今はこの纏わり付く不気味さを拭えないでいる。

一体この先に何が待ち受けているのか、この一連の事件に終わりは来るのか……。

「ねえ、あれじゃない?」

先を行く√が、遠くに見える大きな屋敷を指さして言った。

いかにもといった旧家を思わせる大きな屋敷だ。

「あんたらMさんとこに行くのかい?」

「えっ?ああ、はい」

突然呼びかけられ田んぼの方へ振り向くと、麦わら帽子を被った農家の夫妻らしき人物に声を掛けられた。

「Mさんやったら明日の昼頃にならんと戻らんよ?今朝仕事で家を空ける言うとったからね」

「そ、そうでしたか」

「あんたら何?取材か何か?」

「取材?あ、ああ……はいそうです!」

「ちょっと……」

√が小声で小突いてきた。

「いいから……」

俺も小声で返事を返す。

「実はMさんのお宅での座敷童子のお話を伺いまして、ほら夏ですし、うちでもそういった話の特集でも組もうかなって事になりまして話を聞きたいなと……あ、この子はアイドルやってる子でして今回アシスタントとして」

「ちょっと誰がアイドルよ……!」

「いいから合わせろ……!」

「ほお……アイドルさんかい、またこんな田舎によう来たねあんた。それも衣装かい?いやあめんこいねえ」

日焼けした顔をくしゃくしゃにしながら笑う農家のおばさん。

良かった、何とか信じてもらえたようだ。

「は、はい……これは衣装で……」

俯き観念する√。

「覚えてなさいよ……!」

何かすげえ怖い事言ってるが今は無視しよう。

「と、ところで、Mさんの家で座敷童子の噂って聞いた事ありますか?」

「わ、わしゃ知らん……」

俺がそう聞くと、さっきまで黙っていた夫妻の旦那さんが、なぜか強ばった顔でそう答えた。

「知らんって、お父さんも聞いた事あるやろ有名やないの」

「知らんたら知らん……」

「あの、奥さんは知ってるんですか?」

「えっ?ええ、昔からあの家には座敷童子が住み着いとるって、この辺りでは有名な話しよ。この近くで民宿やっとる女将さんも、昔あの屋敷で夜に座敷童子を見たって言っとったよ」

「夜に座敷童子?」

「うん、まだMさんのお父さんが生きとった頃、Mさんは一人っ子のはずなのに、Mさん以外の子供が夜屋敷を駆けずり回ってたとか、赤ちゃんが屋敷をハイハイしとったとか」

「なるほど……」

「でもまさかあんな事件が起きるなんて……ねえ」

「事件?」

「事件って何ですか?」

黙っていた√が食い気味に奥さんに聞いた。

「何ねあんた達取材に来たのにそんな事も知らんの?Mさんのお父さんの事よ。何十年も前に火事で亡くなったんよ。それで座敷童子も見かけんようなったって」

「火事で……?」

「まあ見た通り家は栄えとるし、地元の人間は今でもあの家には座敷童子がおる言うて噂しとるけどね」

「そうですか……」

そこまで聞いて√の顔はどこか青ざめているように見えた。

いや、正に俺がそうだ。

火事……またミイラの呪いと繋がった。

なぜM氏は鞄を手に入れようとしている?

ミイラではなくあの鞄を、それは……それはきっと何か心当たりがあるからだ。

この鞄と、血だらけの子供達、座敷童子、そして数十年前の火事……。

俺と√は夫妻に頭を下げそこで別れた。

そしてその後、近くで民宿を経営しているという女将さんを訪ねる事にした。

あわよくばそこで宿を予約するという手もある。

時刻は午後三時半。

ひぐらしの鳴き声が虚しく響き渡る気怠い夏の昼下がりを、俺達は憂鬱な面持ちで歩いた。

「いらっしゃいませえ、お泊まりですか?」

目的地の民宿に辿り着き中へと入ると、三十代程の気建ての良さそうな女性が明るい声で出迎えてくれた。

M氏が帰ってくるのが明日の昼頃。

そう考えれば泊まりは確実だ。

俺はその場で一泊をお願いし、先程農家の夫妻に話したように、取材と称してM氏について幾つか聞きたいことがある事を伝えた。

「Mさん……?ああ、だったらうちのおばあちゃんに聞いた方がいいわね、今寄り合いで出掛けてるから晩御飯の後にでもお部屋に伺いましょうか?」

「あ、ぜひお願いします」

話を聞くと、この民宿は孫である娘さんとそのおばあちゃんの二人で切り盛りしているらしい。

元々この村で乳母をやっていたおばあちゃんが引退を期に始めた宿らしく、この辺りでは地元に愛され結構長くやっているとの事。

確かに。

宿自体は古い作りだが、手入れも良くいき届いていて小綺麗で嫌な感じはしない。

俺は部屋を二部屋借りると、風呂に浸かり旅の疲れを癒した。

小さな露天風呂だったが景色も良く、宿は貸切状態だったため眺めのいい景観を独り占めできた。

「よっ」

風呂から上がると浴衣姿の√と出くわした。

ほのかに薫良い匂い、少し火照った頬が妙に色っぽい。

こいつ本当に学生か?

というか今思ったら学生を連れ回すって軽くやばくないか?

「な、なあ√?」

「何……?」

「お前昨日今日と外泊した事親に……」

「言ってないわよ」

やっぱり。

「ま、まじか、それってやばくないか?」

「大丈夫よ、うちほとんど親帰ってこないから。帰っても私とお姉ちゃんだけよ」

「お姉ちゃん……あああの……にしても凄いお姉ちゃんだよな」

「凄い?」

「うん、何か色々お見通しっていうか、何か全て見透かしているようなさ」

「私達昔からそうだった。でもあの人は別格。見える物も、感じている事もまるで別次元。誰もあの人を理解なんてできやしないわ……」

「√でもか?」

「ええ……無理……今はね」

そう言った√の顔はどこか寂しそうに見えた。

昨夜喫茶店でお姉ちゃんに突っかかっていた√の姿が目に浮かんだ。

あれはひょっとして必死に姉に追いつこうとすがる妹の……。

「行きましょ……」

「え?」

√に言われハッとして我に返る。

「ご飯、お腹空いた……」

「あ、ああ、そうだな。腹が減ったら戦は出来ぬ!だな」

「与一ってさ、」

「ん?」

「たまにおじさん臭いよね。まあおじさんだけどさ」

「お、おい!俺はまだお兄さんだ!」

「はいはい……」

「おい√!」

「はいはい分かったからおじさん……」

少なくとも仲の悪い姉妹というわけではなさそうだと、俺は妙な安心感を抱きつつ、√と一緒に部屋に戻った。

食事は地元の食材を使った所謂郷土料理というやつだった。

牛鍋をメインにマグロの刺身、生しらす丼など多彩に渡った料理はとても民宿レベルとは思えないほどの味で、俺と√はあっという間に食事を済ませてしまった。

「ふう……美味かったなあ」

正直食いすぎた感があるが本当に美味かった。

これが普通の旅行か何かだったらまたこの味わいも違ったかもしれない。

今度は絶対遊びで来よう、などと思っていた時だった。

「失礼します……」

入口の外からノックの音が聞こえ、女性の声が聞こえた。

娘さんの声ではない、少ししわがれた声。

「あ、はいどうぞ」

そう返事を返すと、扉を開け七十代くらいの気の良さそうなお婆さんがにこやかに頭を下げながら部屋へと入ってきた。

「あ、女将さんですか?」

「はい、この宿の女将、Sと申します。と言っても店は娘に任せっきりなんですがね」

言いながらSさんは歯の抜けた口で気さくに笑って見せた。

「どうぞ……」

√が座布団を用意しSさん招くと、Sさんは会釈しながら座った。

「さてお客さん達、何やらMさんの件でお話が聞きたいと伺いましたけど?」

「あ、はい、座敷童子の噂はご存知ですか?」

「ええ……まあ。私もあの屋敷で何度か目撃した事が……あっ……!」

突然、Sさんが口を開けたまま固まってしまった。

いや、僅かだが唇が少し青ざめ僅かに震えている。

様子がおかしい。

「あ、あのSさん?」

呼びかける声を無視し、Sさんは部屋の隅を震える腕を上げ指さした。

そして途切れそうな声で、

「あ、あれが何で……ここに……?」

「あれ?」

「鞄……」

√がボソリと言った。

ハッとしてSさんが指さす方に目を向けると、そこには俺達が持ち込んだあの件の鞄があった。

「あの鞄を……知ってるんですか?」

Sさんは何も答えない。

「Sさん?」

Sさんは俯き、ただただ肩を震わせるばかりだ。

「Sさん!?」

思わず声を荒らげると、

「与一!」

√が俺を見てこれ以上はと首を横に振って見せた。

結局、Sさんはその後も何も答えてくれなかった。

そして暫くして俺達に深々と頭を下げると、黙ったまま部屋を出て行ってしまった。

「くそっ……」

──ドンッ

思わずテーブルに八つ当たりしてしまった。

「仕方ないよ……あれは余程何かあったんだと思う」

鎮痛な面持ちで√は言った。

「何でそんな事分かるんだよ?」

「前に言ったでしょ、私そういうの分かっちゃうの。あれは余程嫌な事……ううん、触れてはいけないような事があったような……何だろう、とにかく口にも出したくないって感じだった」

「口にもか……」

然しこれで重要な話は聞けなかったわけだ。

これからどうする?

このまま明日M氏の元へ行ってもいいのだろうか……。

その後、俺と√は各々の部屋に戻り、翌朝を待つ事にした。

これ以上は何もできないし、翌朝にもう一度Sさんに聞けば何か答えてくれるかもしれない。

などと淡い期待を抱きつつ、俺は布団に潜り込んだ。

やがてうとうととし始め、深い眠りへとつこうとした時だった。

──ガタッ

物音がした。

一階からだ。

直ぐに身体をお越した時だった。

「うぐっ」

口元を抑えられた。

慌てて振り払おうとした瞬間、どこかで嗅いだことのある匂いが鼻腔をくすぐった。

これは√の?

「しー」

俺の口元を片手で抑え、自分の唇に指を立てる人物が居た。

暗闇に目が慣れてきたせいか、よく見るとそれは√だった。

「な、何でお前が」

「大きな声出さないで……誰か来る……」

「Sさんじゃ?」

「違う……足音で分かる……」

「あ、足音?」

「しっ!隠れて」

「え?うわっ」

√は言いながら俺を布団に倒し上から布団を被せてきた。

──ガチャ

扉が開く音がした。

部屋に近付く足音。

ドキドキと心臓の鼓動が早まる。

口元から飛び出そうな勢いだ。

部屋の襖がゆっくりと開く音がした。

限界だった。

俺は我慢していた叫び声と共に布団から飛び出した。

その瞬間。

「はっ!」

──シュッ

と鋭い風切り音が鳴ったと同時に、白い何かが舞った。

「うぐっ!!」

──ガラン

鉄のような何かが床に落ちた。

急いで部屋の灯りを付ける。

──カチッ

「あっ……!」

√だ。

あの白い何かは√の素足だった。

綺麗に伸びきった足が、襖の前で腹を抑えうずくまる男に突き付けられていた。

床にはスコップが一本転がっている。

「私空手やってるの……ていうかおじさん誰?」

伸ばした足をゆっくりと戻し、冷たく見下ろすように√は言った。

空手有段者だったのかこいつ……。

──ダッダッダッ

階下から複数の足音が聞こえた。

「お客さん達!?」

聞き覚えのある声、娘さんだ。

扉を見ると顔面蒼白の娘さんの姿があった。

その後ろにはSさんの姿もある。

「何か凄い音がしたから様子見に来たけど……なな、何があったの!?」

「くっ……」

うずくまっていた男が床に両手を着いた。

この男どこかで……?

男の姿を見てどこか見覚えがある気がした。

「あっ……田んぼの……」

√がハッとしながら言った言葉に、俺もようやく思い出した。

そうだ。

昼間田んぼで出会った農家の夫妻、あの時の旦那さんだ。

然しなぜ?

「お前……Nか?」

娘さんの背後から遅れて部屋に入ってきたSさんが信じられないといった顔で言った。

「Sさん……」

Nと呼ばれた昼間の男は、今にも泣きそうな顔を上げSさんを見た。

「そうか……そういう事か……馬鹿な事を……」

そう言ってSさんは目に大粒の涙をため崩れ落ちるようにしゃがみこみ、えづく様に泣き出したNさんの背中を優しく撫でた。

二人が落ち着くと、Sさんが申し訳なさそうに俺と√を見て頭を下げてきた。

「お客さん達、本当に申し訳ないね……全て、全てわしが悪いんじゃ」

「な、何言い出すんだ!Sさんは悪くない!悪いのは俺だ!」

「いいんだよN……」

「でもSさん!」

「あ、あの落ち着いてください!」

このままじゃ埒が明かない。

娘さんも状況が飲み込めず唖然としている。

俺は一旦落ち着いてもらうように、娘さんに皆の分のお茶をお願いした。

布団を片付け皆に座ってもらうと、今回の一件について、俺はSさんとNさんに落ち着いて尋ねた。

「これも運命なのかもね……分かった……全て話そう……」

「お願いします」

そう言って俺は大きく頷いて見せた。

「あれは私がまだこの宿を営む前、乳母をやっていた頃の話さ。Mのお父さん、Eさんの子供が産まれた時だった。嫁さんから取り上げた子は、明らかな奇形児だった」

「奇形児……?」

「ああ……しかも4つ子だ。一人はMさん。そして二人目は両目の無い子供、三人目は目が一つしかなかった。最後の四人目は能面のような表情一つ変えない奇妙な赤子……」

「嘘……」

お茶を運んできてくれた娘さんがショックの余り声を失っている。

「本当だよ。私はそれを取り上げたんだから。あの一族は親類婚が多かったんだ。なるべく外に血を流さない様に、親戚同士の結婚がね……当時Eさんは地元でも有名な起業家でね、政治家とも仲が良く中々の有名人だったよ。ある日私はEさんに呼び出されてね、こう言われたんだ」

Sさんはそう言ってはぁ、と軽くため息をついてから口を開いた。

「子供達の事は口外無用、誰にも話すな、とね。そしてこうも言われた、産まれた子供は一人、Mさんだけだと」

Sさんの目元に再び大粒の涙が浮かぶ。

それでもSさんは全てを話してくれた。

そして付け加えるようにしてNさんも、二度と語るまいと、墓まで持っていこうとした話を、俺たちの前で打ち明けてくれた。

やがて外が白み始め、夜が明けそうになった頃。

「昨日Mさんに連絡した……朝一番で屋敷に戻ると言っていた……今行けば……」

Nさんはそう言って畳に頭を擦り付けるようにして頭を下げた。

「Nさん……そしてSさん、話してくれてありがとうございます。全て……全て終わらせてきます。だからもう、これで終わりにしましょう。こんな事、終わらせなきゃいけない、絶対に……」

握り締めた拳に力が篭もる。

「与一……」

声を掛けてきた√と目が合った。

その目にはどこか強い意志を感じる。

「ああ、行こう√……」

返事はなかった。

だが代わりに√は今までの中で一番強く、そして大きく頷いて見せてくれた。

直ぐに支度を整えた俺と√は、見送ってくれたSさんと娘さんに別れを告げ、NさんのトラックでMさん宅へと向かった。

昨日見たあの邸宅の前に着くと、Nさんは

「後は……頼みます」

そう言って頭を下げ元来た道を引き返して行った。

「与一……」

「ん?」

√の声に振り向く。

「ありがと……ここまで連れて来てくれて。私一人じゃきっとたどり着けなかった」

「俺もだよ。√、お前がいたから……いや、お前だったからここまで来れた、ありがとな……」

「うん……行こう、与一」

「ああ、終わらせよう……√」

互いに頷きあい、俺達はM氏の玄関のインターホンを鳴らした。

暫くして応答は直ぐにあった。

厳格そうな男の声で、中に入り縁側の廊下を突き当たった部屋まで来てくれと言われた。

大きな玄関。

入口には高価な鎧や掛け軸、鷲の票本等が飾ってあり、正に富の象徴と言わんばかりの様子だ。

誰も出迎えない玄関から上がり、俺と√は縁側の長い廊下を突き進んだ。

やがて突き当たった目の前の部屋から、

「入りたまえ……」

と男の声が響いた。

言われるまま俺は目の前の障子をゆっくりと開く。

目の前に漆塗りの大きなモダンなテーブル、そこに座椅子に腰掛けた五十台くらいの、痩せこけた着物姿の男が居た。

短く刈り上げた髪に黒縁の眼鏡が、引き締まった顔により厳格さを感じさせている。

「遠路はるばる……かな?よくここまで来た……君たちの事はNから聞いている」

「Nさん?ああ、貴方が僕達を襲わせた男性の事ですか?」

先ずは牽制。

「襲わせた?何か不手際でもあったかな?私はNに丁重にもてなしてくれと頼んだつもりなんだが……」

眉一つ動かさない。

食えないおっさんなのは間違いなさそうだ。

「まあいい、何か手違いがあったのなら謝罪しよう、すまなかった。それで君達にお詫びも兼ねてなんだが聞いて欲しいお願いがあるんだ」

「お詫びとお願いですか?何か妙な話ですね」

「ふふ、まあな。なあに、悪い話じゃない。お互いに損をしない話だ」

「聞きましょう」

「君が持っているその鞄……それを私に譲ってくれないか?勿論ただとは言わんよ。報酬は弾む、詫びも含めてね……」

「詫び……ですか?」

「そうだ。悪い話ではないだろう?」

「与一……?」

「なんだ√?」

「こいつの話くだらな過ぎて吐き気がするんだけど」

「なっ!」

いつもならここで俺が注意の一つでもするのだが、今は違う、その言葉に俺も完全同意だ。

「確かにくだらないな」

「貴様らっ……」

M氏の顔つきが変わった。

目付きが一際厳しくなり、獲物を前にして我慢できなくなった猛禽類のそれだ。

恐らくこれが本性だろう。

「この鞄を買い取ったところで、もう遅いですよ……この鞄も、そして貴方に纏わり付く因果も、全て知ってしまいましたから……」

「何!?まさか……Nか!」

「Nさんも、Sさんも全て話してくれました。そしてこの河童のミイラ……いや、この鞄の謎も全て理解しました」

俺はSさん、そしてNさんから聞いた話を、順を追ってM氏に話して聞かせた。

おぞましい、この家の因果……それはこの家に奇形の4つ子が産まれた事が発端となっている。

当時政治家とも繋がりのあったM氏の父Eは、産まれた子供を外に口外せず、屋敷に隔離した。

昼間は外に出さず、家の中にあった座敷牢に隔離し、せめて夜だけはと外で遊ばせた。

この座敷牢だが、屋敷が火事になった時、焼け爛れた木造の牢の跡を、Nさんが確認している。

話を戻す。

やがて両目のない赤子と一つ目の赤子が病気になった。

元々長生きはできない状態だったとSさんは言っていた。

ましてやそれを口外しなかったのだから病院にも連れて行くこともできない。

ある真夜中、当時この家の小間使いとして雇われていたNさんは、この家に呼び出された。

Eによって。

そしてこう言われた。

「これを……鞄の中の物を捨ててきてくれ」

Nさんはそれが何かは聞かなかった。

だが、すえた血の匂いと死臭が漂うその鞄に違和感を感じないはずは無かった。

然し当時Eの命令はNさんにとっては絶対だった。

身ごもりの奥さんと病に伏せた両親、家族を養うためにも、NさんにとってEは絶対に逆らえない対象だったのだ。

やがて言われたままEの所持している山奥へと辿り着き、カバンの中に入った血だらけの袋を目にして絶句した。

袋の中を確認する事はできなかった。

だがそれがなんであるかは、薄々と感じていたらしい。

罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、Nさんはそれを無我夢中で地中深くに埋めた。

鞄を持ち帰り屋敷で待つEに報告すると、数日がたった後に、E氏から、

「鞄はお前が持っていろ」

と言われた。

鞄は手直しされ、血の跡も取り除かれていた。

これはつまりEはNさんに鞄を預ける事により、お前も共犯だと思わさせたかったのだろう。

Nさんはその通りに預かった鞄を後生大事に家に閉まっていたらしい。

然しある日事件が起きた。

屋敷が火事にあったのだ。

火事によりEも奥さんも亡くなった。

恐怖の支配、繋がりはそこで途絶えたのだ。

預かっていた鞄を、後を引き継いだMさんに返し、借りていた田畑を譲り受け、NさんはようやくEの呪縛から解放された。

以上が、俺が二人から聞いた話の全容だ。

そこまで話、俺はM氏をじっと見つめた。

あれほど威厳に満ちた眼光が、今では明らかに狼狽えた目になっていた。

額には大量の汗が滲み異常な状態である事に間違いない。

「Mさん?」

そう尋ねた時だった。

「仕方なかった……」

今にも消え入りそうな声でM氏は言った。

「仕方がないとは……?」

聞き返す。

「私だって知らなかったんだ……自分に、自分に兄弟がいたなんて……夜になると屋敷から子供の声がするのは知っていた。けれど夜は部屋から出してもらえない私に知る由もなかったんだ……」

ハアハアと荒い息遣いが聞こえる。

息を飲み込むようにしてM氏が話を続けた。

「あ、あれは事故だったんだ!わ、私は何も知らなかった!あれは事故だ……事故なんだ……」

「落ち着いてください!事故って……?」

ゴクリと、M氏は唾飲み込んだ。

そして観念するように口を開く。

「ある夜……あ、あいつが私の部屋に来たんだ……夜に遊んでいる最中、おそらく抜け出して来たんだろう……親父のライターを手に持って……もう片方の手に持っていた虫をライターで燃やして遊んでいた……燃せ、燃せと言って私にもやらせようとしたんだ!あ、あの能面のような不気味な顔で!あんなのが……!あんなのが自分の兄だなんて思うわけがないだろ?ましてや知らされてすらいなかったんだ、だから……だから……」

「まさか……貴方が……?」

「違う!あれは事故だ!!あいつの手を払ったら火があいつに……あいつに燃え移って……燃え移って……」

そう言うとM氏の体は崩れ落ちるようにしてテーブルに突っぶした。両の肩を震わせながら。

屋敷の火事はその時のもの……それに巻き込まれEも一緒に……。

「あの鞄……Nさんから返してもらった後どうしたの?」

それまで黙っていた√が、突然M氏に質問を投げ掛けた。

の反りと身体を起こし、M氏が口を開く。

「父の残した会社が傾き、財務整理の中売り払われた……後に成人した頃にあの鞄の事をNに尋ねられ手放した事を話すと、例の一件について聞かされた……もしあれが何らかの形で知れてしまったら……そう思い、この数十年方方を尽くし探し回った……そしてようやく……」

T・K氏に辿り着いたというわけか……。

「結局隠したかったんだ……」

√の冷めきったような声。

「ち、違う私は……!」

「提案があります……」

「な!?何だ?」

√の言葉にM氏は大きく反応を返した。

「この鞄……貴方にお返しします……」

「√……!?」

「待って与一……確かにこれは警察に届けるべきか悩んだ……けれどお姉ちゃんも言ってたでしょ?迷子は親の元にって……」

「あ、ああ……」

「本当に、い、いいのか?」

M氏が顔を上げて言った。

充血した目ですがるようにして。

もはや始めの頃の威厳などどこにも見当たらない。

「ええ……後は……貴方次第よ……」

√はそう言って長い髪をかき上げ立ち上がると、片手を俺の方に向けてニコリと笑って言った。

「帰ろ、与一……」

「分かった……お前がそれでいいなら……」

苦笑いをこぼし、俺はその手を取ると、M氏には振り向かずそのまま二人で部屋を出た。

手を繋ぎ田んぼのあぜ道を通っていると、ふと思い出したように√が言った。

「やっぱりあの人には敵わないな……」

「あの人?お姉ちゃんの事か?」

「うん……あの人の言う通りだった。呪いじゃなく、子供……純粋な子供の駄々っ子だった……」

「駄々っ子ね……それで首締められたのは納得いかないけどな」

「ふふ……そうね……ねえ?」

「ん?」

「サークルのオフ会、次も……来る?」

「えっ?あ、ああ参加するつもりだけど、何で?」

「ううん……そっか……なら、私もまた行こうかな……」

「えっ?どういう意味」

「うっさい、いちいち聞くな」

「痛っ!だかる蹴るなって!」

「いいからさっさと歩け、また蹴るわよ」

「分かったって!」

真夏の太陽が溶けた水銀のように輝いている。

草木が蝉時雨の中、ざわざわと風に揺らいでいた。

夏も折り返し残り僅か……俺達の旅もようやく終点を迎えようとしていた。

あの事件から二週間後、俺は昼間の街角で、とある速報ニュースを目にして呆然と立ち尽くした。

見上げる巨大テレビ塔。

その大きな画面に映し出されたのは……。

《H市の町内議員代表、M氏宅から出火し建物が全焼、焼け跡からは身元不明の焼死体が発見されており、家主であるMさんの安否は未だ確認されておらず……》

M氏が……死んだ?

──ブルブルブル

スマホのバイブ音がなり、少し狼狽えながらスマホを手に取る。

√からだ。

嫌な予感がする。

「もしもし……?」

《あ、与一?ニュース見た?》

あっけらかんとした口調。

「あ、ああ今丁度な……」

《やっぱりだったね》

「やっぱりって……お前?」

《だってあの時ああ言わないと、与一警察に届けてたでしょ?》

「お前……わかってたのか?こうなる事……知ってたのか?」

《お姉ちゃん程じゃないけどね、あれが相当な恨みを持ってる事は気付いてたよ……》

「√っ……!」

《与一……》

「何だ……?」

《私達……共犯だから……ね》

──ツウツウツウ

通話はそこで途絶えた。

ふとなぜだか視線を感じた。

辺りを見回す。

24時間の喫茶店、あの時の店が目に止まった。

目を凝らす。

店の奥で誰かがこちらに向かって手を振っている姿が見て取れた。

近付くと……。

√だ。

淡いソーダ水をストローですすりながら不敵な笑みを浮かべている。

そのテーブルの上には、見慣れたあの黒い鞄が、不気味に佇んでいた……。

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メロンちゃんシリーズも大好きですが
妹さんのお話も面白いです!
楽しませて頂きました。

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