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ドクター・ジョン・ボドキン・アダムス

中編5
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ドクター・ジョン・ボドキン・アダムス

ジョン・ボドキン・アダムスは結局無罪になったので、彼を殺人者に並べるのは倫理に反するのかも知れない。しかし、彼を「シロ」と断定することは難しい。コリン・ウィルソンもこのように述べている。

「たとえ陪審が有罪評決を出したとしても、それほど重大な冤罪事件とはならなかったろうと感じざるをえない」

 イングランド南東部サセックス州の保養地イーストボーンのでっぷり太った開業医、ドクター・アダムスが世間の耳目を集めたのは、1956年7月のことである。49歳の未亡人、ガートルード・ハレットが1000ポンドの小切手をアダムスに手渡すや否や昏睡状態に陥り、そのまま息を引き取ったのである。彼女は数日前、ロールスロイスをアダムスに遺贈する旨の遺言状も書いていた。いくら生前にお世話になったとはいえ、1000ポンドにロールスロイスはやり過ぎである。彼女の友人は警察に通報した。

「ガートルードは薬で頭がおかしくなっていました。そして、あの医者に云われるがままに遺言状を書いて、殺されたんです」

 たしかに、アダムスには以前から悪い噂があった。

「あいつの右のポケットにはモルヒネの小瓶が、左のポケットには白紙の遺言状が入っている」

 彼が方々の患者たちから多額の遺贈を受けていることを揶揄するものであったが、所詮は噂だ。まさか本当に患者を殺しているなんて、いったい誰が信じるというのだ。

 ところが、マスコミは飛びついてしまった。ハレット夫人の死の3日後の全国紙には、このような見出しが躍った。

「資産家未亡人殺人事件」

 まだ殺人だかどうだか判らんちゅうに。

 しかし、マスコミは無責任である。他にも3人の女性の死についても捜査中であるとし、続報では「6人の女性が殺された可能性がある」と書き立てた。

 結局、ハレット夫人の死因は「睡眠薬の飲み過ぎによる自殺」と結論づけられたが、マスコミは過熱する一方だった。

「サセックス州イーストボーンで、過去20年に渡り資産家の女性が多数毒殺された疑いが明るみになり、スコットランド・ヤードが捜査に乗り出す模様である。容疑の大半がいまだ推測の域を出ないため、捜査はまず、当地で死亡した400人余りの遺言状の調査から着手することになるだろう。その結果、英国犯罪史上最もセンセーショナルな事件が明るみになるかも知れない」

 スコットランド・ヤードが乗り出したのは本当だが、マスコミが煽ったために乗り出さざるを得なくなったというのが実情だろう。

 しかし、聞き込みを進めるにつれて、アダムスがマスコミの期待するような「悪徳医師」であることが判ってきた。強欲で、医師としての倫理観も欠けている。弁護士や銀行の支店長の話によれば、アダムスは自分に遺贈するように患者に遺言状を書き替えることを強要し、時には瀕死の病人の手を取って書かせるようなことまでしたという。

 また、アダムスは何件かの遺言状の内容や小切手の額面を勝手に改竄していた。

 老婦人を脅迫して立ち退かせ、その家の売買代金を着服したこともある(但し、訴状が送られてきたので返還していた)。

 ある時などは患者の夫人にステッキで叩き出されたこともあった。アダムスは瀕死の患者の耳元でこんなことを囁いていたのだ。

「この屋敷を私に譲ってくれれば、あなたの奥さんの面倒を見て差し上げますよ」

 捜査の結果、132通の遺言状により4万5000ポンドもの大金がアダムスに遺贈されていることが判明した。これを放置することが社会正義に反することは、誰の眼から見ても明らかだった。

 アダムスは殺人に関しても嫌疑が濃厚だった。

 1950年、キルガー夫人を往診したアダムスは、

「ぐっすり眠れるようにしてあげましょう」

 と、付き添い看護婦が驚くほどの量の薬品を注射した。キルガー夫人はたちまち昏睡状態に陥り、翌朝に死亡した。看護婦はアダムスに抗議した。

「先生、あなたはご自分がなさったことがお判りですか!? あなたが殺したんですよ!」

 キルガー夫人はアダムスに2000ポンドを遺贈していた。

 1957年3月、アダムスはモレル夫人の殺害の件で起訴された。1件に絞られたのは、彼の犯罪は立証が極めて困難だからだ。モレル夫人の件は4人の看護婦の証言があるので、相対的に立証しやすいと判断されたのである。

 誰もがアダムスの有罪を信じていた。ところが、弁護人のジェフリー・ローレンスは切り札を持っていた。証人席に看護婦の一人、ヘレン・ストロナックが座った時のことだ。ローレンスが反対尋問に立った。

「アダムス医師が注射した後、モレル夫人は意識がなくなった…あなたはそう云いましたね?」

「はい」

 すると、ローレンスはおもむろに1冊のノートを取り出した。

「これは1950年 6月の看護日誌です。そうですね?」

 検察側ははっとした。看護日誌が存在していることを知らなかったのだ。もうとっくに棄てられているものだと思っていた。ところが、アダムスは棄てていなかったのだ。

「これはあなたの筆跡ですね?」

「は、はい」

「この日誌によれば、あなたが『意識がなくなった』と云ったその日、モレル夫人はウズラとセロリとプディングの昼食をとり、ブランデー・ソーダを飲んでいます。意識がなくなった人がこれを口にできますか?」

 ストロナックは黙ってしまった。

「ストロナックさん。あなたは先ほど、アダムス医師が注射した時には夫人は半ば眠った状態だったと云いましたね。それはあなたが既に注射していたからだと。ところが、この日誌にはあなたが注射したとは何処にも書いてありませんよ」

 この瞬間、裁判の流れは変わった。看護婦たちの証言が信用できないことを強く印象づけたのだ。

 決定的だったのは、モレル夫人が亡くなる直前の、アダムスによる「最後の注射」だ。看護婦たちはそれが夫人の死を招いたと証言したのだが、日誌にはその記述がなかったのだ。

 かくして、アダムス医師は無罪放免となった。当初はおとなしくしていたアダムスだったが、4年後に剥奪された医師免許が復活すると、各マスコミを相手どって名誉毀損の訴訟を始めた。そのために、彼について書くことは長年タブーだったわけだが、1983年に死んだので、今ではこうして書くことができる。そして、誰もがこう記す。「やっぱりあいつは怪しい」と。

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