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中編6
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ミミサケ様

私は走っていた。

ただひたすら走っていた。

左右にかぶりを振りながら。Tシャツが汗でぐっしょりと濡れていた。

遠くの藪の方から蝉時雨が聴こえていた。

夏休みが三日後に差し迫っていた日の夕暮れ時。

夕陽に背を向け、必死に一本の農道を走っていた。辺り一面には水田が広がっていた。小学生の自分には水田がどこまでも無限に続いているように思えた。

車や人の往来もない静寂の中を背後のなにかに捕まらないように逃げていた。

下校途中に突然、背後で殺気立った気配が沸き起こるのを感じた。そして、すぐに足音が後ろから聞こえてきた。足音のすぐ後にごりごりと石がアスファルトの地面を引きずっているような硬くて鈍い音がこっちに迫ってくる。

その速度はおそろしくゆっくりだった。一歩ずつ、一歩ずつ、遅い足取りで進んでいる感じだ。これならどうにか逃げ切れそうだと思った……が、その油断が失敗を招いてしまった。小石か何かに躓いてしまい、前のめりに転んでしまった。

さらにまずいことに足を挫いてしまったのである。何度も必死に起き上がろうとしたが激痛に耐え切れなかった。

そうこうしているうちにあの気配、足音、石を引きずる音が背後に迫ってきた。おもむろに振り返ろうとした瞬間────。

 

 夢はいつもそこで終わってしまう。この夢は私が十歳の時に体験した奇怪な記憶である。転んだあとにどうなってしまったのか全く覚えていない。はっきりしているのは気づくと私は病院のベッドの上で寝かされていたということだ。親の話によれば私は通学路で意識を失い、耳を怪我した状態で倒れているところを巡回中の警官に発見されたのだという。

翌日には退院できたがその後、大人たちから何が起きたのかと質問攻めを受けた。警察、両親、学校の担任教師から耳の怪我について尋ねられたが覚えていないから答えられない。それに記憶を失う前に殺気立った気配に追いかけられていたことについても話さなかった。言ったところで信じてもらえるとは思えなかったからだ。だが唯一、祖父だけには覚えていることを全部話した。祖父は民族学に造詣が深く、怪談も好きで全国を旅して奇怪な話を収集している変わり者だ。話せば信じてくれるだろうし、喜んで聞いてくれると思った。

「それはな。ミミサケ様の仕業じゃ」と祖父は得意げに言った。

「じいちゃん。そのミミサケってなに?」

私が質問すると祖父は少年のように目を輝かせて楽しげに教えてくれた。

ミミサケというのは私の地元に古くから伝わっている妖怪だ。たしかそういう話だった。道端に道祖神として祀られた石仏が信仰する者を失い、粗末に扱われることで祟って妖怪化するらしい。その妖怪は子供ぐらいの身長しかないが手が異常に長く、指先に生えた鋭利な爪は鋼鉄をまるで紙切れのように切り裂いてしまうという。ミミサケという名前の由来は通行人を襲った際、必ず相手の耳を引きちぎって持ち去るという習性からきているそうだ。とくに人間を殺すということはしないらしい。だが、どうして耳だけを奪うのかはわかっていない。

「よくわからんもんが妖怪だからなあ」と祖父が笑っていたのを思い出す。

 私は人間の命を奪うという伝承がないことに安堵した。

 ただ、気になっていたのはあの夢のことだった。同じ夢を年に一度だけみるようになったのだが怪我や大病を患いもせずに学校生活を元気に過ごした。

 ────それから時はあっという間に過ぎた。地元の大学を卒業後は上京して都内の会社に就職した。無事に職につけたことは喜ばしいことだが言いようのない不安感が増していた。入社して三年目になる今年の年明けを迎えた辺りからあの夢を月一回みるようになってしまったのだ。夢の周期が短くなっていることに不気味さを覚えている。

 そして、二日前の朝のことだ。祖父に電話で夢のことを相談しようと思った実家から祖父が倒れたという連絡が入った。祖父は九十歳を超える高齢なのでいつ死んでもおかしくはないのだが半年前に帰省した時は元気だったので驚いてしまった。急いで実家に戻り、祖父が入院している病院に駆けつけた。それまで昏睡状態だった祖父は私が声をかけると突然、かっと目を見開いて「……お、お前に話がある」と言った。

「じいちゃん。俺だよ。話ってなに?」

「……す、すまん間違いじゃった」

「何のこと?なんで謝るの?」

「み、ミミサケエエエっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ううっ……」

 祖父はそう叫ぶと急に胸をおさえ、苦悶の表情を浮かべながらベッド上でしばらく悶え苦しんだ後に絶命した。白目をひん剥いたまま絶命していた。

 私はあまりにも苦しそうな死に様を目の当たりにしたことでショックを受けてしまい、祖父が発した言葉の意味にまで思考が働かなかった。

 葬儀が終わった後になってからようやく物事を冷静に考えられるまでに気持ちが落ち着いた。

 そして────いま、私は実家の二階にある祖父の部屋にいる。両親から祖父の遺品整理を頼まれたのだ。欲しい本があったらもらってもいいと言われたから喜んで引き受けた。

 この部屋はタバコと古い本の臭いが混じっている。祖父は安楽椅子に座ってパイプ煙草をふかしていた。長年の喫煙のせいで天井や壁がヤニで茶色くなっている。

 椅子の前に置かれた机の上には本棚に収まらなかった書物がうず高く積み重なっていた。単行本もあれば和綴じの書籍もあった。そのどれもが民俗学や妖怪などを取り扱ったものだ。

 おや。机の引き出しが空いているな。

 ん? これは手紙のようだ。

 しかも私に宛てた手紙らしい。

 茶封筒には便箋が入っていた。

 そこにはミミサケについて書かれていた。

 私は椅子に座って手紙を卓上に置いて読んでみる。

親愛なる孫へ

 

お前に謝らないといけないことがある。昔に話したミミサケについて話をしたのを覚えているか?

実は最近、この町でもっとも古い旧家の家からミミサケに関する古文書が見つかった。そこには耳を千切られた者はに十五年後に命を奪われるとあった。どうやらこの妖怪はどういうわけか耳を千切った後、十五年遅れて命を奪いにくるようだ。

何か助かる方法を調べてみたが見つからなかった。すまん。すぐに伝えてやりたかったがお前も仕事で忙しいだろうと思って連絡するのは遠慮していた。これがただの伝承に過ぎないものだと願ってやまない

私は手紙の内容に思わずゾッと寒気を感じた。

だが、私にはただの伝承ではないと断言できる。何故なら失われた記憶がいま蘇ってきたからだ。

あの夏、足を挫いてしまった時に奴は背後から耳元で「ジュウゴネンゴ」と囁き、両方の耳たぶを引き千切っていった。

声がどもっていたから言葉の意味も理解できなかったし、あまりにも恐ろしい経験をしたせいで記憶をシャットダウンしていたのかもしれない。

なんだ? 何か聞こえてくる。

そういえば、さっきから何者かが階段をゆっくりと登ってくる音がしているな。

あの足音に遅れて石が木の床を引きずるような音も一緒に聞こえている。

どんどん近くなっている。

ミシリ。ミシリ。

ズズッ。ズズッ。

ああ、近づいた。あと、もう半分か?

だが、こうなっては逃げようが無い。

窓から飛び降りる勇気もない。そこそも椅子から立ち上がることができない。金縛りのせいだろう。

背後から一メートルもない位置にドアがある。

ミシリ。ミシリ。

ズズッ。ズズッ。

もう音がしなくなった。

金縛りは続いている。すでに奴はドアの外に来てしまったのだろう。

コンコン。コンコン。

ドアをノックしている。

無視しているが諦めてくれない。

ドンドン。ドンドン。ドンドン。ドンドン。

ドドドドドドドドド。ドドドドドドドドド。ドドドドドドドドド。ドドドドドドドドド。

背後でドアノブがまわる音がしている。

全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出している。

扉が勢いよく開かれる音がした。

夏のような、なまぬるい空気と一緒に奴の気配がこちらへ迫ってきた。

そして、奴は耳もとで囁いた。

「ムカエニキタヨ」

男でも女でもない低く、くぐもった声で…………。 

Concrete
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