「あいうえお怪談」
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第1章「あ行」
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第4話「ある男とアパートD号室」
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「アパートの怪異」
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昭和の中頃まで、実家の周辺は、見渡す限り畑だらけだった。
別に専業農家でなくとも、当時は、家で食べる野菜や季節の果物などは、自給自足している家が多かった。
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昭和も後半になると、自給自足する家庭は減少し、田畑を整地し更地にして売買するか、もしくは、新たに建て替える家が多くなった。
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父も自宅に隣接する粘土質で大した作物も取れない畑を均(なら)し、空いた土地でアパート経営を始めた。
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アパート経営とはいうものの、今で言う副業のようなもので、生業(なりわい)とするつもりはサラサラなかったから、当時でも、かなり格安の賃貸物件だったと思う。
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木造2階建て。1階は、A号室とB号室 2階は、C号室とD号室 合計4部屋。6畳と8畳押し入れ付きの和室が2部屋。
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玄関から入って左手にキッチン。右手がトイレ。砂利を敷いただけの無料駐車場は、路面はただの土。元々が畑だったこともあり、雨や雪が降っただけで泥まみれになる。
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寒冷地でもあり、風呂は、近場に銭湯が2箇所もあったことから付いていない。
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家賃は、たしか、月5,000円いや3,8000円ぐらいだったと思う。
新聞広告は出さず、不動産屋に委託することもしなかった。
たしか、御用聞きに来ていた肉屋さんの店頭に、「貸アパートあります。」の張り紙を貼らせてもらっただけの「素人仕事」だった。
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それでも、格安だったことから、風呂はなくても一向にかまわないという借り手は多く、張り紙をしてから、一週間もしないうちに、4部屋あっという間に埋まってしまった。
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安普請でも新築アパートである。事故物件ではない。だが、なぜか、向かって右側の部屋D号室だけが、早いときで2週間。長くても3ヶ月で空き部屋になってしまう。
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それとなく理由を聞いてみても、トイレは和式、二部屋はふすまを隔てただけの続き部屋、風呂がないといった利便性の問題を挙げる人は、ひとりもいなかった。
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隣町の支店に転勤することになった。
結婚することになった。
高齢の父親の代わりに家業を継ぐことになった。等。
各々、ありがちな納得の行く理由で引っ越していく。
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「不思議なことがあるもんだね。」
と、家族で話していた矢先の出来事だった。
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ピンポーン
深夜0時過ぎ、突然、玄関のチャイムがなった。
2階の自室で試験勉強をしていた私は、なんとなく厭な予感がした。
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訪問客は、門扉から玄関まで石畳の上を30メートルほど歩かなければならない。
石畳の上を歩く度に、ザクザクという独特の音がするのだが、その音が、全く聞こえなかったからである。
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数分後、カーテンの隙間から覗いてみると、外灯に照らされた父の姿が見えた。
誰かと話をしているようでもあるが、相手の姿は見えない。
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なかなか戻ってこない父を心配したのだろう。階下から、母が、居間のドアを開け、玄関先へと急ぐスリッパの音が聞こえてきた。
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「こんな時間に我が家を訪ねてくるなんて。なんの用事だろう。」
辺りは、震撼とした空気と闇に閉ざされ、月明かりひとつ見えない。
私は、そっと窓を開け、玄関先に意識を集中した。
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夜の静寂の中、父の声が聞こえてきた。
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「確かに、一室空いていますよ・・・ですが・・・。」
「・・・・・・・。」
「さすがに、今日、今すぐというのはねぇ。」
「・・・・・・・。」
「そんなに、気に入っていただけたなんて、恐縮ですがね。」
「・・・・・・・。」
「ま、時間も時間ですし、明日の午前中か日を改めてお越しください。」
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やっと、迷惑な訪問客が帰ったと、ホッとして窓を閉め、再び勉強机に向かった私の耳に、
階下から、父と母が言い争う甲高い声が聞こえてきた。
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私は、恐る恐る階段を下り、ふたりの会話に耳を欹(そばだ)てた。
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「あなた、こんな時間に、急に外に出ていって、なかなか戻ってこないから。びっくりしたわよ。」
「だからぁ。アパートのD号を借りたいって人が来たんだよ。何度断っても、今日、今すぐ借りたいって無理言うから。困っていたんだよ。」
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「そもそも、人っこひとり訪ねてなんかこなかったって言ってるの。」
「玄関のチャイム、鳴っただろうが。お前も聽いていただろう。」
「はぁ?チャイムなんて鳴ってないわよ。ねぇ。ゆかり(私の名前)。」
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階段の真ん中に座っている私に気づいた母が、話を振ってきた。
「鳴ったよな。チャイム。ゆかりも聞いていただろう。」
私は、父の問いかけに、こくりと小さく頷(うなづ)いた。
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「ほれみろ。」
意気込む父と、たじろぎ俯(うつむ)く私を前に、
「嘘。嘘よ。玄関のチャイムの音なんて聞いてない。」
母は、今にも泣きそうな表情をしている。
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「でも・・・。」
私は、父を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「お父さん、私、お父さんしか見ていない。」
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「はぁ?それ、どういうこと。」
「2階の窓から、ずっと玄関先を見ていたのだけど、お父さんしかいなかったよ。」
父と母は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
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「お父さんの話し声しかしなかったし。玄関の門灯が照らず影も、お父さんの影しか見えなかったけど。」
「なに、やだ。怖い。」
母は、目を閉じ、耳をふさぎ、廊下に座り込んだ。
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「そういえば、あいつ。『貸してもらえなくても、住め※(住み)ますから。』とか、『ここを、また畑にしたいんですよ。』とか、わけわからんこと話していたわ。」(※父は、どっちだったか忘れたと話していた。どっちでも、同じなようでそうでないような気がする。)
困惑と恐怖に引きつった父の顔が、一瞬ぐにゃりと歪んだように見えた。
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あの日以来、深夜チャイムが鳴ることはなかったし、怪しげな訪問者は、二度と現れることはなかった。
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あれから、数人、2階のD号室を借りたいという人が訪れたが、なぜか、契約には至らず、いつの頃からかずっと空室のままだった。
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「どうせ、皆、すぐに引っ越してしまうから。」
と、父や母も、あの日のことは忘れたふりをしつつ、不思議な出来事として達観していたように見えた。
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数年して、アパートの管理は、母方の伯父の経営する不動産会社に委託することにした。
長年、肉屋さんのガラス窓に張られたままになっていた、お習字の先生から書いていただいた「空き室あります。」の張り紙は、いつの間にか店頭から消えていた。
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件のアパートだが、築40年以上を経て、老朽化が進み、今は、廃アパートと化している。
2階のD号室だけでなく、もう、誰も住んではいない。
と、思うんだけど。
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もし、姿なき住人がいたら、
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家賃払ってほしい。
作者あんみつ姫
この話を書いている途中、いや、ここ数日、「あいうえお怪談」を書き始めてから、ずっと、家鳴りが絶えません。また、時々、耳元で、女の人の溜息や、吐息が聴こえてくるようになりました。
「あぁ・・・どうしよう。全然怖さが伝わらない。」