「あいうえお怪談」
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第1章「あ行・え」
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第12話「駅で待つ女」
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中央線沿線に住んでいた頃の不思議でちょぴり怖い話。
読んでもらえたら嬉しい。
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N駅から徒歩15分。武蔵野の雰囲気を今に残す閑静な住宅街にアパートを借りた。当時の職場に近かったこともあるが、場所が場所だけに社会人になったばかりの私には、分不相応な物件だった。
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働き始めて3ヶ月か過ぎた頃、駅前に佇む髪の長い女の人を見かけるようになった。歳の頃は、20代後半から30歳前半ぐらいだろうか。
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ベージュ色のコートを羽織り、肩から真っ赤なショルダーバックを下げ、駅前の郵便ポストから少し離れた場所に立ち、じっと青梅街道に抜ける通りを見つめている。
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時々、ぐっと上半身を前に突き出し、きょろきょろと辺りを見回す。
誰かを待っているのだろうか、さもなくば、誰かを探しているようにも見えた。
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特に気にも止めなかったのだが、ある時から、ふと違和感を覚え始めた。
女の人は、私が出かける朝の時間帯だけでなく、その日によって帰宅する時間が異なるにも関わらず、ずっと同じ姿勢で、同じ服装のまま、同じ場所に佇んでいるのである。
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たしか、週の半ば、水曜日だったと記憶している。その日は、朝から、とても疲れていた。仕事でミスを連発し、そのショックから階段で足を滑らせ軽く捻挫した。
処置をしてもらい、小一時間ほど休んでから外に出た。運悪く冷たい雨が降リ出し始めた。
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路面は濡れて歩きにくかった。乗り換え駅で、コーヒーとサンドイッチの軽食をとり、冷えた身体を温めてから電車に乗る。20:30を少し回った頃、やっとN駅に着いた。
痛む足を庇いながら、ホームから階段を下り、出口へと向かう私の行く手を阻むかのように例の女の人が横切った。
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私は、キャっと小さく叫び声を上げ、その場に立ちすくむ。
いつも長い髪で覆われた顔が、一瞬垣間見えた。
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ケロイド状になった皮膚。口が右片側に引き攣り、赤黒い血のような痣が出来ていた。皮膚病というよりは、怪我で出来た火傷かもしくは、薬害による後遺症のように見える。
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こんな姿になるとは、なにか複雑な事情があるのかもしれない。
きっと、お気の毒な方に違いないと、ほんの少し同情した。
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女の人を間近で見て以来、なぜか鉛を抱えているかのように身体が重く感じるようになった。日を追うごとに、左肩を襲う激しい痛みに耐えきれなくなった。
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仕事も満足に手がつかない状況に陥るに至り、しばらく休ませてほしいと、上司の元へと向かう途中、先輩のUさんに呼び止められた。
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「あなたこのままじゃ良くないわ。予約の電話入れておくから、すぐここに行って。」と、『〇〇鍼灸院』と書かれた一枚の名刺を渡してきた。
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たじろぐ私に、「とにかく、今は、私の言う通りにして頂戴。いいわね。」
Uさんは、有無も言わせず半ば強引に行動に移すよう促した。
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Uさんの剣幕に、私は言われるがまま、早退の許可を得て後、すぐ電車に乗り、20分ほど先にある〇〇鍼灸院に行った。住宅街の片隅にひっそりと建っていた鍼灸院は、見落としてしまいそうなくらい、こじんまりとした20坪ほどの平屋建て住宅だった。
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受付の小さな小窓に声をかけると、50代ぐらいの男性が顔をのぞかせ、施術室に入り、用意してある病衣を着てベットに横たわるよう指示された。
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着替えを済ませ、施術室のベットで横になっていると、30代半ばぐらいの清楚な雰囲気の女性がドアを開けて中に入って来た。
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その人は、私を一目見るなり、眉をひそめ呟いた。
「ア~、そっか。これは、ちょっと、しんどいね。」
それから、私の左肩に手を置くと、息を吐き、傍らに置かれた台の上から、細く長い糸のような針を取り出した。
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すーっと針が身体の芯を目掛け、通り過ぎるのを感じると、急に眠気が襲ってきた。
「そのままじっとしていてね。」
遠くなる意識の中で、耳元でささやく、微かな声が聴こえてきた。
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何かが抜けていくような感覚とともに、痛みで耐えられないほどの痛みが和らいでいくのが分かる。
「はい、息吐いて。もう少しで終わるよ~。」
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ふっと息を吐くと、ツンと足の先から、うなじを通り、頭のてっぺんまで、一気になにかが突き抜けていった。
「これでよし。終わりました。」
鍼灸師の女の先生は、そう呟くと合掌した。
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嘘のように身体が軽くなり、今より、ずっと元気だった頃を思い出した。
「もう大丈夫だと思います。あとは、お水をたくさん飲んでくださいね。では、」
と言って、お礼を言う暇もないまま早々に施術室から出ていってしまった。
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受付でお代を払おうとしたら、にべもなく拒否された。
「ここは、そういうところではないので。」と一言。
戸惑う私に対し、更に追い打ちをかけるように、受付の男性は、
「あなた様は、もう来なくて結構です。」とぴしゃりと受付の小窓を閉められた。
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N駅に着き、せっかく休みをもらったのだから、このまま部屋に戻るのは、勿体ない気がした私は、しばらく、アパートの周辺を散策してみることにした。
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心地よい風が身体を通り過ぎ、数分も立たないうちに、汗が出てきた。
ペットボトルの水を飲みながら、いつも歩いたことのない道を歩いてみた。珍しいお店が並ぶ小さな路地を通り抜け、しばらくすると、駅前に至る大きな通りに出た。
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この道は一度も通ったことがないなと思いつつ、ふと、道路脇にこの街に似つかわしくない看板があることに気がついた。
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◯◯年△月□日 午後8時25分頃、ひき逃げにあった若い女性が死亡したというものだった。当時、この周辺で不審な車を見かけた方、この事故を目撃した方は、至急警察へ連絡してください。
といった内容だった。
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被害者の女の人の服装が書かれていた。
よもや・・・まさか・・・いつも見かけるあの女の人と寸分たがわぬ格好に、ゾクッとした。
嫌な予感がした私は、駅前には行かず、そのままUターンし、新たに発見した道を通ってアパートに帰ることにした。
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帰宅してすぐ、私はU先輩に感謝とお礼の電話をした。
お代を受け取ってもらえなかったことについて恐縮する私に対し、U先輩は、「気にしなくていいのよ。」とだけ話し電話を切った。
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それからは、見違えるように仕事が楽しくなった。余暇には、一人旅をしたり、以前習っていたピアノを再び弾くようになったりもした。
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毎日が充実するようになってから、駅前であの女の人を見かけることもなくなった。
肩こりが酷くならないように、時々、運動もするようになった。
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いつの頃からか、通りの片隅に置かれていた「ひき逃げ犯」の看板が取り除かれていた。
果たして、ひき逃げ犯が見つかり、事件が解決に至ったのかどうかまではわからないが、あの女の人は、二度と私の目の前に現れることはなかった。
作者あんみつ姫