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新説ブランコで首を吊った男

大長編183
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新説ブランコで首を吊った男

~プロローグ~

 時代は二千六年……。

 小説を執筆して二年目。

 これまで『新宿クレッシェンド』『でっぱり』『打突』など、多数の作品を執筆してきたが、同じジャンルしか書けていない現状に頭を抱えていた。

 違うジャンルの作品を書いてみたい……。

 いくら考えても、いいアイデアは出なかった。

 今日は仕事も休みで、気分転換にホラー映画を見ている。

 ようは現実逃避をしている訳である。

 一体、何作ぐらいのDVDを借りたのだろうか。

 最近のやつは、「ワー」とか「ギャー」ばかり目立って、心底怖いものが何もない。

 霊的な映像を見ていると、ついこれは合成か何かでやらせなんじゃないかと勘繰ってしまう。

 私ならここをこういじって、もっと怖くするんだけどな……。

「そうかっ!」

 何かが頭の中で閃いた。

 私は、パソコンに向かい、ワードを起動する。

 キーワードはDVD……。

 そして映像……。

 作品名も、自然と頭に浮かんだ。

『ブランコで首を吊った男』

 うん、これならインパクトある名前だ。

 様々な構想が浮かび上がり、一つの物語に混ざっていく。

 今なら、この閃きをうまい具合に、作品を書けるだろう。

 自分にとって未知の新たなジャンル、ホラー小説……。

 私なら、心底怖いホラーを書ける。

 そう静かに心の中で呟いた。

 私は、一心不乱に両手でキーボードを打ち出した。

~亀田の章~

 二階の部屋の窓から見える小さな公園。

 僕はたまにそこへ一人で行く事がしばしある。

 何でかって?

 恋人がいるわけじゃない。

 友達もいるわけじゃない。

 仕事にしたって在宅でできるから、まともな人付き合いさえない。

 でも、それでいいんだ。

 煩わしい人間関係など面倒なだけ。

 ただでさえ家から出る機会が少ない僕は、たまに気分転換で公園へ行く。

 自分でも臭いと感じるぐらい汚れた部屋。

 勝手に転げ落ちるの山になった空き缶のゴミ箱。

 すぐそばには燃える用のゴミ箱があるのだが、中身はほとんどティッシュばかりだった。

 すえたかび臭い匂いが鼻をつく。

 続いて山済みにされたたくさんのエロ本。

 カラーボックスにはエロビデオとエロDVDだらけだ。

 部屋の片隅には万年床があって、目の前にはパソコン関連のものばかり。

 十畳の部屋がとても狭く圧迫感を覚える。

 彼女の一人でもいれば、掃除してくれ少しはマシにしてくれるんだろうな。

 でもそんな事は夢であり、現実でそんな奇特な事をしてくれる女性なんていやしない。

 ふと机の上にある小さな鏡を手に取って、自分の顔を見てみる。

 濁った鏡に、僕の醜い顔が映し出された。

 天然パーマのせいで焼きそばのように縮れた髪の毛。

 しかも天辺は薄くなってきている。

 見事に垂れ下がった細い一重の目。

 鼻もだんごっぱなだ。

 肥満を感じさせる二重アゴ。

 四十歳になっても消えない頬のニキビ。

 これを吹き出物とか言う輩もいるが、僕はニキビなのだと思っている。

 醜く突き出た三段腹。

 運動をろくすっぽしていないので、どんどん太っていく毎日だ。

 チビでデブでちょっとハゲ……。

 そして四十歳の独身中年……。

 部屋に引きこもるオタク……。

 僕に対する世間の評価なんてこんなものだろう。

 パソコンを使う以外は、マスターベーションぐらいしかやる事がない。

 日課の中に必ずマスターベーションが入る四十男。

 惨めなものだ。

 学生時代は常にいじめの対象だった。

 こんな僕だけど、怨みはキッチリと自分なりの流儀で仕返ししてきた。

 パソコン以外、友達のいなかった僕はとことんスキルを追及した。

 僕をいじめた同級生をこっそり隠し撮りし、合成写真を作成して学校の至る所に貼ってやった事もある。

 どんな内容の合成写真を作ったかって?

 それは人と人が醜く争うな物を作るように心掛けた。

 例えばAとBがいつもつるんでいる仲のいい友人だったとする。

 Bの彼女とAを暗い教室の片隅で抱き合ってキスしたりしている合成写真を作り、至る所に貼りまくる。

 当然AとBは殴り合いの喧嘩になった。

 身に覚えがないのに追求されるA。

 自分の女に手を出され怒り狂うB。

 男同士の信頼関係など崩すのは容易い。

 この間僕もいじめに遭わず、仕返しも出来る最高の計画である。

 人為的に相手へ不幸を巻き起こす。

 それが自分の思い通りにいったら気分は最高である。

 僕は人間同士を破滅に追い込む、破壊工作のプロフェッショナルだ。

 生まれてから四十年経つが、誰一人、僕の正体を知らない。

 エロビデオの男優にモザイクをかけるくだらない仕事を済ませ、布団に寝転がる。

 日課であるマスターベーションを済ませると空腹感を覚えた。

「あ~あ…、面倒臭ぇ~……」

 立ち上がるのも、近所のスーパーへ行くのも億劫だが、人間、空腹感には勝てないものである。

 モソモソと着替えを済ませ、食料の買出しに行く事にした。

 当たり前だが、外は夜中なので真っ暗だった。

 アパートを出てすぐ近くにある公園の前に差し掛かる。

 気分転換にブランコでも乗って行こうかな……。

 どうせ二十四時間営業のスーパーなので、時間は気にしなくていい。

 僕は暗い公園の中に入っていった。

 ブランコ一台にシーソー、滑り台付きのジャングルジム、砂場ぐらいしかない小さな公園。

 赤いベンチがポツンと一つだけあるのが、いつもの事ながら薄気味悪く感じる。

 気味悪く人から疎まれる僕と薄気味悪い公園。

 いい組み合わせだ。

 深夜なので、人一人いない静寂に包まれた公園。

 空を見上げると、今日は星がよく見えた。

 この澄んだ空を汚してやりたい気分だった。

 赤いベンチに腰掛け、煙草を吸う。

 吐き出す煙がゆっくりと夜空へ溶け込んでいく。

 僕はそれをゆっくりと眺めた。

 今この時間だけは、僕一人の公園なのだ。

 たまに僕はひと気ののいない夜中、孤独感を癒す為この公園のブランコに乗って、何も考えずただブラブラと漕ぐ。

 ブランコに揺られている間は惨めな気分にならない。

 乱暴に吸殻を投げ捨てると、ブランコのほうへ向かった。

 途中で妙な違和感を覚える。

 おかしい……。

 何だかいつもと様子が違う。

 ここは僕一人しかいないはずだ。

 それなのに誰か他にいるような気配がする。

 辺りを見回してみたが、誰もいる様子はない。

 単なる気のせいだ……。

 自分に言い聞かせ、ブランコの方へ向かう。

 近づくにつれ、妙な嫌な臭いがしてきた。

「うっ……」

 人間本当に驚いた時は声が出ないとよく言われるが、正にその通りだった。

 視力の悪い僕は、ブランコの目の前まで来て、初めて自分以外に誰かいる事に気がつく。

 僕は言葉を失ったまま、正面をジッと見た。

 目の前にサラリーマン風の男がいる。

 視線は地面のどこか一点を見据えているようで、僕などまるで視界に入っていないみたいだ。

 その男は、全身の力が抜けたかのように両腕をダランと垂らしていた。

 頭の上に見える紐。

 その紐を上に追っていくと、ブランコの上の棒にくくりつけてある。

 静寂に包まれた空間の中での異質な状況。

 頭の中がどうにかなりそうだった。

 僕はその場に汚物をぶちまけたかったが、懸命に堪えた。

 しばらく地面に座り込んでから、もう一度ゆっくり男のほうへ振り返った。

 グレーのスーツの男はブランコの場所で、こんな夜中に首を吊っていたのだ。

 地面から三十センチほど宙に浮いた足。

 その足元には糞尿など様々な老廃物でいっぱいだった。

 異臭の元はこれだったのだ。

 警察に通報しなくちゃ……。

 電話ボックスに向かいながら頭の中で整理した。

 通報したらどうなるか……。

 まず警察に第一発見者として事情聴取されるのが面倒だ。

 口下手な僕はどうせうまく説明できないだろうし、下手したらこっちが容疑者にされる恐れもある。

 僕が最初から見なかった事にしたとしても、この公園には誰もいないし分かるはずがない。

 面倒はごめんだ。

 それにしてもこのような場面に出くわすなんて、人生でそう何度もないだろう。

 記念に僕は携帯のカメラで、ぶら下がった男を何度も角度を変えて撮った。

 部屋に戻り、パソコンへ撮った画像を送る。

 あの場では冷静に男の顔とかを見られなかったが、モニターを通しての画像なら普通に見られた。

 こんな事をしたら罰が当たるかもしれない。

 だけど僕は神も仏も霊魂も信じていないから、別段問題ないだろう。

 年齢は五十代だろうか。いや老けているように見えるだけで、僕と変わらない四十ぐらいかもしれない。

 白髪が混じった黒髪。

 あの公園で深夜、自殺するぐらいだから、相当嫌な思いをしてきたのであろう。

 カッと見開いた両目。

 歯の間からは舌がはみ出していた。

 顔色は鬱血しているせいか、かなり醜い。

 あんな糞や尿まで漏らして……。

 これを見たら自殺したいと思っても、首吊りだけはやめておこうという気持ちになる。

 十枚ほどの首吊り画像を丹念に見ていると、全身鳥肌が立ってきた。

『公園』というフォルダを作り画像を納める。

 僕が見た時は、死後どのくらい経過していたのだろう。

 窓を開ければ、あの公園はすぐ見えた。

 まだあの男は、ブランコに吊られているままなのだろう。

 さっきまでの空腹感など、どこかへいってしまったようだ。

 こんな状況で食欲があるほど、僕はタフではない。

「キャーッ……」

 外から悲鳴が聞こえた。

 窓を少しだけ開けて覗いてみる。

 多分、近所の主婦が首吊り男を発見したのであろう。

 こっそり様子を見ていると、夜中にもかかわらず近所の野次馬が続々と集まってきている。

 僕の部屋からだと、公園のブランコの場所は木が邪魔でハッキリ見えない。

 ただ公園に集まる異様な数の野次馬を見て、首吊り男が発見されたのが分かった。

 構わず大声で叫ぶ連中や悲鳴を上げる女性までいる。

 そんな嫌なら見に行かなければいいのに。

 それにしても首吊り男は何故、あんな薄暗い公園なんかで自殺したのだろう?

 自殺者の真意など到底理解できそうもなかった。

 よほど追い詰められていたのかな……。

 まあ、僕には関係のない事だ。

 あんなに大騒ぎするような件を実は一番初めに僕が目撃している。

 しかも証拠写真まで撮ってパソコンに収めてあるのだ。

 ゾクゾクとした妙な興奮が全身を包む。

 遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえる。

 誰かが通報したのだろう。

 野次馬を見物していると、パトカーがようやく到着する。

 そこまで見て、僕は睡魔に襲われたので寝る事にした。

 あの首吊り騒動から一週間が経った。

 首吊り男は自殺だった事が警察の調べで判明したらしい。

 今日は仕事をいつもくれるデザイン会社の担当編集者の早乙女と打ち合わせ。

 新しい仕事の度に駅前の喫茶店で行う。

 どうも生理的に僕はこの早乙女という男が嫌いである。

 理由は特にない。

 でも嫌いなタイプの男だった。

 どうでもいい話だが、昨日隣に新しい住人が引っ越してきたようだ。

「すみませーん。隣に越してきました香田という者ですが……」

 ご丁寧に挨拶周りのつもりか僕の部屋のチャイムを鳴らしてきたが、挨拶するのが億劫なので無視する事にする。

 その事以外、僕の生活は何も変わりがなかった。

 いつものように淡々と仕事を済ませ、マスターベーションをするだけの日々。

 四十年間生きてきて、何も代わりばえのない生活。

 女に相手にされないどころか、男からも相手にされない現実。

 僕は人とのコミュニケーション能力がほとんどないのだろう。

 週に一度は行くファッションヘルスも、僕が客だと風俗嬢は露骨に嫌な態度をする。

 もらっている金は一緒じゃねーかと、何度心の中で叫んだ事か……。

 キャバクラは一回行ってすぐに懲りた。

 あれは金をドブに捨てるようなものだ。

女の身体を触れる分、風俗の方がマシである。

 金で買う疑似体験は、その時間が終わるといつも虚しさだけが残った。

 それでも僕は金を稼ぎ、食料と疑似体験にほとんど費やして生きている。

 人間は平等であると誰かが言っていたが、あれは嘘っぱちだ。

 ルックスのいい男に生まれた奴らはそれだけで勝ち組だ。

 僕ら醜い男は金を稼ぐしかない。

 金で恋愛とセックスを買うしかなのだ。

 それでも僕は、自殺を考えた事はなかった。

 性欲だってあるし、食欲だってある。

 人間は生きていくのが最大の目的なのであると僕は言いたい。

 例の首吊り事件があってから、深夜買い物へ行くのは避けるようにしていた。

 夜にあそこの公園前を通るのは、正直気味のいいものではない。

 あの男のせいで、公園に行く習慣がなくなったのも事実だ。

 さすがに近所の人々も、あの公園には誰も寄り付かない。

 たまにあの事件を知らない人たちが訪れるぐらいであった。

 スーパーに食料の買出しへ行く。

 例の公園も、昼間に通ればそんなに怖くなかった。

 買い物カゴを持ちながら、適当に食料品を放り込む。

 大抵はカップラーメンがメインだ。

 それとお菓子。

 栄養のバランスもクソもあったものじゃない。

 でも誰に迷惑を掛けている訳じゃないのだから、それでいいのだ。

 向こうのほうで、うなぎの特売セールか何かで人が集まっている。

 うなぎか……。

 しらばく食べていなかった。

 たまにはいいかもしれない。

 人だかりの合間から手を伸ばしパックをつかむ。

 その時、パックを掴んだ僕の手に、誰かの手が触れる。

 柔らかくしっとりとした小気味いい感触の手だった。

「あら、ごめんなさい……」

 横で声が聞こえた。

 振り返ると、二十代半ばの女がこちらを見て微笑んでいる。

「この人混みであなたが掴んでいたの気付きませんでした。ごめんなさい」

「い…、いや…。いえ…。そんな……」

 身近でこんなに素晴らしい女に接したのは生まれて初めてだった。

 もちろん声を掛けられたのも初めてだ。

 ウェーブの掛かった綺麗な茶色のロングヘアー。

 薄緑のワンピースが非情に似合っている。

 パッチリと開いた綺麗な二重まぶたの瞳は、中に星でも入っているじゃないかと思うぐらい輝いていた。

 見事なまでに整った端正な顔立ちは、テレビに出ている芸能人と変わらない。

 淡いピンク色の唇は、優しく僕に微笑み掛けている。

 心臓がバクバクと激しい音を立てて鳴っていた。

「よ、よかったらどうぞ」

 僕はうなぎのパックを慌てて離す。

「すみません。気を使っていただいて……」

 その女は軽く会釈をしてその場から消えていく。

 僕はしばらくそのエレガントな後姿を眺めていた。

 あのような気品に満ち溢れた女もいるのだ。

 ストーカーになる男の心理が、少しだけ分かるような気がする。

 他のコーナーを意味なく歩きながら、視線を先ほどの女に合わせた。

 スタイルも顔立ちも喋り口調も優しく完璧な女だ。

 やがてその女はレジに並びだしたので、僕も隣のレジにさりげなく並ぶ事にした。

 スーパーで買い物を済ませると、アパートへ向かう。

 偶然にもあの女が僕の前を歩いている。

 目線は後姿に釘付けだった。

 ほんの数分でアパートだが、彼女はこの近くに住んでいるのだろうか?

 例の公園を通り過ぎ、もうじき到着してしまう。

 できれば住んでいる所を調べたかった。

 女性に対し、このような気持ちになったのは、ずいぶんと昔のような気がする。

「あっ……」

 目の前の女が買い物袋から野菜を落としたのに、気付かずに歩いていく。

 これはチャンスだ。

 僕は大きく息を吸い込んでから声を掛けた。

「す、すいませーん。野菜、落としましたよ」

 僕の声で女は振り向き、慌てて野菜を拾う。

 それからゆっくり微笑んできた。

「やだ、私ったら…。私、すごいおっちょこちょいなんです。全然、気付きませんでしたわ。ご丁寧にありがとうございます」

 笑い顔もすごくチャーミングだ。

 心臓は爆発寸前になっている。

「い、いえ……」

 どもりながら声を出すのが精一杯だった。

 ずっと女性に縁がないと思っていた。

 それでもいいと虚勢を張って生きてきた。

 こんな僕に神様が恵んでくれた最大のチャンスかもしれない。

 この女の裸が見たい……。

 自分のものにしてメチャクチャにしてみたい……。

 歪んだ欲望が表情とは裏腹に増殖していく。

 いや無理だ……。

 こんな醜い男など相手にしてくれるわけがない。

 現実とは非情なものなのだ。

 懸命にもう一人の自分が話し掛けてくる。

「あのー…、どうかしましたか?」

「い、いえ…。僕のアパートここなんで……」

 この場所に住んでいる事を怨めしく思った。

「あら、偶然ですねー。私もここなんですよ。ほんとに奇遇ですねー。昨日、引っ越ししてきたばっかりなんですけどね」

 頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

 昨日、隣に引っ越してきた住人。

 僕の部屋に挨拶周りにきた香田という男。

 もし、予想が正しければ……。

「今後もご近所のよしみでよろしくお願いしますね」

「は、はい……」

 ポケットから鍵を取り出してドアの前に行くと、続けて彼女は話し掛けてくる。

「あら、しかもお隣さんだったんですね」

「はは、そうみたいですね……」

「香田…、香田静香です。よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ…。僕は亀田です」

 最後まで優しい笑顔で彼女は部屋に入っていった。

 天国から地獄とはこの事だ。

 一目惚れした相手が寄りによって隣に越してきた人妻だったとは……。

 泣きたい気分だった。

 夜になって隣の主人が帰ってきたようだ。

 薄壁一枚なので多少の声は聞こえてくる。

 香田静香に出会ってから、自分自身に落ち着きがない。

 仕事もどこかうわの空でまったく進まなかった。

 小さい男の子の声も聞こえてくるので、おそらく三人家族なのだろう。

 あの清楚な静香が人妻。

 子供がいるという事はセックスを何度もやったのか?

 まだ旦那の顔を見ていないが、あのドア越しの声を思い出しただけで悔しくなってきた。

 パソコンを起動して、首吊り男の画像を意味なく見てみる。

 おぞましいグロ画像……。

 見ていて気分が悪くなってきたので、エロDVDを入れた。

 モニターには有名なAV女優の流出物が映りだす。

 こんな人気女優と比べても、隣に住む香田静香は数倍美しかった。

 幸いに体の線は同じような感じに見える。

 僕はまたマスターベーションを始めた。

 顔の部分だけは香田静香の顔を思い浮かべる。

 いい感じのところでチャイムが鳴った。

「すみませーん。昨日、隣に越してきました香田ですけど……」

 昨日と同じ男の声、あの香田静香の旦那なのであろう。

 いいところを邪魔しやがって……。

 本来、男に興味はないが、静香の旦那だと話は別である。

 僕はズボンを急いではき、玄関に向かう。

「はい……」

 思わず絶句する僕。

 正面に立つ静香の旦那は、男から見ても格好いいと言わざるえなかった。

 敗北感が心の中を支配していく。

 旦那はとても爽やかな笑顔でお辞儀をした。

 まだ三十前後だろうか?

 悔しいが、静香とはお似合いの夫婦だ。

 自分の存在が惨めに感じる。

「あ、亀田さんですか。私、昨日越してきた香田と言います。つまらないものですが、お近づきの印に良かったらもらって下さい」

 そう言って旦那は包装紙に包んだものを渡してきた。

「それとうちの家内がキンピラゴボウ作ったので、もしお口に合えば……」

「あ、わざわざ気を使っていただいて申し訳ないです」

「とんでもないです。お隣同士なので今後も仲良くして下さい。うち、三歳の子供がいるので、多少うるさくしてしまう場合があるかもしれません」

「いえいえ、子供は無邪気で元気なほうがいいですよ」

「そう言っていただけると、とても嬉しいです。お隣が亀田さんみたいな方で本当に良かったです」

 社交辞令なはずの台詞も彼が言うと、非情に清々しく感じる。

 これも美男子の利点なのだろう。

 いい男は得をするものだ。

 簡単な挨拶を終え、香田は会釈して帰っていった。

 素直に香田が羨ましかった。

 美しい静香が、いつもご飯を作って出迎えてくれるのだから。

 早速キンピラゴボウを食べてみる。

 彼女は料理の腕前も抜群だった。

 このような料理を毎日食べられる香田……。

 静香の肉体を自由にもてあそべる香田……。

 想像すると羨ましさから、静かな憎悪に変わっていくのが分かる。

 しょせんどの女も顔か……。

 どいつもこいつも面ばかりで判断しやがって。

 僕は引っ越してきたばかりの初対面の男に対し、静かなる殺意を抱いていた。

 そして食べながら何故か泣いていた。

 この涙は何の為の涙なのか?

 悔しさ?

 それとも憎悪?

 自分の感情なのに分からないでいた。

 その日から常にマイペースだった僕の日常に変化が訪れた。

 一日の内、一時間は壁に耳をあてて、隣の部屋の音を聞くようになった。

 静香の声が聞こえてくると、それだけで幸せな気持ちになれる。

 反対に旦那や子供の声が聞こえてくると、イライラしてくるばかりであった。

「あの幸せな家庭を壊してやりたい……」

 小声で呟いてみた。

 あの幸せそうな香田家が憎い。

 旦那とうまくいっていなければ、僕にもチャンスが訪れるかもしれない。

 頭の中は静香の姿をいつも想い浮かべている。

 笑顔を向けてくる静香……。

 少し悲しそうな表情を見せる静香……。

 怒っている静香……。

 楽しそうにはしゃぐ静香……。

 どの顔も素敵だった。

 できる事ならこの壁を壊して、いつでも好きな時に静香を覗いてみたい。

「ほら、隆志。早く食べちゃって。じゃないと遊びに連れて行かないぞ」

 薄い壁から静香の声が聞こえてくる。

 どうやら子供を連れて、どこかへ出掛けるみたいだ。

 静香とあの旦那の間で生まれた子供。

 その小さな存在ですら憎しみの対象になってしまう。

 やりかけの仕事を始める。

 パソコンの画面に映る女。

 グラビア女優の卵が極小のビキニを着て、砂浜に横たわっている。

 モデルの女は作り笑顔で下を向いていた。

 僕は画像を丹念にチェックしながら、ホクロを消していく。

 よくこの程度で雑誌に出ようという気になるものだ。

 静香と比較すると、馬の糞以下だ。

 確かにスタイルはいいほうだが、体だけが自慢なのなら、とっとと脱げばいい。

 シミやホクロまで消して、水着で出ようなんて笑わせてくれるものだ。

 仕事を済ませると、また静香の事を思い浮かべた。

 日常のスーパーの中での衝撃的な出会い。

 あれだけで僕は心を奪われてしまった。

 静香の顔や体、ちょっとした仕草から話し方まで、すべてが理想だった。

 今までずっと一人だった。

 きっとこれからもそうだろう。

 今まではそれでも良かった。

 金で女を買えば、寂しさは軽減できた。

 でも、あの静香を見てしまったら、金で買う女などハナクソ以下に見えてしまう。

 これから僕はどうなってしまうのだろう。

 静香の声が聞きたかった。

 僕は再度、壁に耳をつける。

「ママー、抱っこ」

 子供の声が聞こえる。

 抱っこだ?

 正面からだとすれば、あの胸に顔を押し当てる形になる。

 クソガキめ……。

 自分一人だけいい思いしようとしくさって……。

 ドアを開ける音がして、隣は誰もいなくなった。

 静香が僕の部屋の前を通る。

 慌てて僕は玄関に向かい、覗き穴にへばりついた。

「隆志、あそこの公園行こうか」

「うん」

 一瞬だけ覗き穴に映る静香。

 あとは見慣れた廊下が映るだけであった。

「ちっ……」

 舌打ちをして、ドアから離れる。

 待てよ、公園に行くなら窓から姿が見えるはずだ。

 ここからならカメラに静香を収める事ができる。

 僕はデジタルカメラを用意して、窓に向かう。

 滑り台で滑りながら、大喜びの子供。

 滑り終わった先には例のブランコがある……。

 静香は引越ししてきたばかりなので、首吊り事件があったなど何も知らないのであろう。

 僕はファインダーを覗き込み、静香を数十枚にわたって写真に撮った。

 これでいつでも好きな時に彼女の顔が見られる。

 すぐにパソコンに画像を送り、『静香』と彼女専用のフォルダを作った。

 モニターに写る静香もやはり美しい。

 様々な角度から撮った甲斐があったものである。

 おかげさまで、右側のうなじにホクロがあるのも発見できた。

 彼女のその位置にホクロがある事を知っている人間はそう何人もいないだろう。

 これでまた僕と静香の距離は少し縮まったのだ……。

 出会ってからまだ二日なのに、なかなかいい進展具合だ。

 僕は自然と口元がニヤけていた。

 小腹が減ったので、カップラーメンにお湯を入れる。

 昨日の残りのキンピラゴボウを麺の上に乗せてみた。

 名付けて『静香ラーメン』だ。

 三分経つのを待ってから、すぐにほお張る。

 うん、味はなかなかいける。

 食べながら、いい閃きが頭の中を走った。

 このいただいたキンピラゴボウのお礼に、ケーキか何かを渡せば堂々と静香に会う口実ができる。

 途中、公園を通りかかったふりをして、偶然を装うのもいい。

 僕は食べ終わると、早速出掛ける準備を済ませ部屋をあとにした。

 例の公園を通り掛かると、遠目に静香と子供の姿が見える。

 他には三組ほどの親子がいた。

 この位置から見ても、静香はひと目で分かる。

 彼女は芸能人のような派手さはない。

 しかし普通の人とは違うオーラがあった。

 静香は子供がブランコではしゃぐ姿を赤いベンチに腰掛けながら微笑んで見ている。

 もう少し彼女の様子を見ていたかったが、ここで外から公園を見物していても変に思われそうなので、その場をあとにする。

 昨日のお礼に、駅前のケーキでも買ってこよう。

 僕はいつものスーパーを通り過ぎ、駅前に向かう。

 普段、風俗店に行く以外は、まず駅前に来る事はない。

 静香のおかげで、僕は徐々に変化しつつある。

 駅前の洋菓子屋に行く手前にある風俗店エリアに差し掛かった。

 小さな街であったが、この場所目当てに来る客は少なくない。

 狭いエリアに六店舗の風俗店がひしめき合っているのだ。

 お互いの競争意識からか、質のいい風俗嬢が多いという点が、客を多く引き寄せる要因の一つでもあった。

 僕の行きつけの店、『パラダイス・チャッチャ』。

 まだ昼の三時なのに、客は列を作りながら待っているのが見える。

 時間はたくさんあるのだ。

 静香の顔を想像しながら、風俗嬢の相手をするのもいいかもしれない。

 どうせあいつらは金で体を売り切りする連中だ。

 そのくせ、僕に対する礼儀は何もなっちゃいない。

 僕は扉を開けて店内に進む。

 待合室には七人ほど客が待っている。

 すぐに愛想のいい店員が飛んできた。

「いらっしゃいませ。本日はどの娘を指名されますか?」

 無言で僕は本日の出勤予定の女の写真を眺めた。

 エリカ、ナオミ、エイコ、タマミ……。

 さすがに昼間なので四人しか出勤していない。

 それにしても静香には負けるが、四人ともなかなかの粒揃いである。

「お客さーん、エイコちゃんなんてどうです? 今なら十分でご案内できますよ」

 髪は黒のロングヘアー。

 少したれ目の二重まぶたで小動物を連想させる顔をしている。

 バスト九十九。

 二十一歳。

 僕はエイコの簡単なプロフィールと写真をしばらく眺めた。

 嫌いなタイプではない。

「この子は性格、ほんとにいいですよ。スタイルも顔もいいんですけど、ほんとの売りは優しさなんですよ。リピーター率が当店ナンバーワンなんです」

 一体、ナンバーワンが何人いるのだろうか。

 ものは言いようだ。

「じゃ、じゃあ、エイコちゃんで……」

「ありがとうございます。コースのほうは何分コースに致しますか?」

「六十分」

「はい、かしこまりました。では、指名料込みで一万と八千円になります」

 僕は黙って財布から一万八千円を抜いて渡した。

 待合室まで行って、ソファに腰掛ける。

 隣に座る客が連れと来ているみたいで、話し声が聞こえてきた。

「おまえ、誰にしたの?」

「あ、俺? ナオミ」

「ナオミだと結構待つじゃん。エイコにすれば、一緒に入れたのによ」

 自分の指名した女の名前が出たので、自然と聞き耳を立てる。

「うーん、彼女はさー。テクニックもスタイルもいいんだけど、年齢がな~」

「前に指名したんだ?」

「多分、ありゃーよー。三十は、いってるぜ」

 店員に促され、薄暗い廊下を渡る。

 先ほどの客が言っていた台詞が蘇ってきた。

 約十歳もサバを読んでいる女。

 でも、さほど気にならなかった。

 四十歳の僕からしてみれば、そのぐらいの年齢は充分に許容範囲である。

「では、エイコさんでーす」

 五と書いてある部屋のドアが開き、エイコが笑顔で待っていた。

 実物も写真と遜色はない。

 透けて見えるカーディガンが、エロさを強調している。

「いらっしゃいませー。ご指名ありがとうございます。エイコです」

「ど、ども……」

 もっと自然に話せたらいいのに、いつも僕はこうだった。

「こんな時間に来て、お仕事中?」

「い、いや……」

 エイコは話し掛けながら、僕の服を一枚ずつ脱がしていく。

 自然と胸元に目線がいく。

 さすがに一メートル近いバストを持っているだけあって、素晴らしい眺めだ。

「お仕事は何をしてるの?」

 行くと必ず聞かれる質問。

 この女も僕と話すのを面倒臭がっているのかもしれない。

 それでもまだ笑顔を向けてくるだけ、他の風俗嬢よりマシなほうだ。

「デ、デザイナー……」

「へー、格好いいね」

 エイコは無表情で淡々と答えた。

 格好いいという単語をただ言っているだけに過ぎない。

「そ、そうでもないよ……」

 デザインの仕事といっても、種類は色々あり過ぎるぐらいだ。

 でも、僕だって画像加工の依頼がほとんどだから、嘘は言っていない。

「彼女さんはいるの?」

 静香の顔を思い浮かべる。

 まだ彼女は人妻だ。

 今は、ただの隣近所ってだけ……。

「い、いや……」

「そうなんだ。優しそうなのにね」

 感情がまったく入っていない無機質な声。

 機械と話しているみたいだ。

 結局、こいつも他の連中と変わらない。

 シャワーを浴びていても、マニュアルでもあるかのように、機械的に話し掛けてきた。

 何の仕事か。

 どこに住んでいるのか。

 何歳か。

 よくここに来るのか。

 そういったありきたりの質問。

 もはやこの女の価値は身体だけであった。

「どうでもいいけど、早くプレイしてよ」

 少し不機嫌そうに言うと、彼女の表情にちょっとだけ苛立ちが見えた。

 狭い白いシーツのひいてあるベッドに横たわる。

 エイコは僕の右耳を簡単に舌でちょろちょろ這わせ、キスもせずに乳首を舐めてきた。

 それもつかの間、舌をそのまま下へ這わせながら、体ごと下がっていく。

 二万円近くの金を払っているのに、キス一つしようとしないクズ……。

 こんな風に思っていても、僕の股間は激しく膨らんでいた。

 苛立ちと快感が、僕の中を行き来する。

 目を閉じて、静香にしてもらっているように想像を膨らませる。

 一分もしない内に、僕は果ててしまった。

 言いようのない興奮が体を包み込む。

 想像だけで、これだけ感じ方が違うのだ。

 実物を抱けたら、どんな快感が待っているのだろう。

「もうイッちゃったの。早いわねー」

 静香の想像でまた元気になってきたムスコ。

 エイコの声など気にならないぐらい興奮していた。

 静香が抱けないのなら、こいつでもいい……。

 足のつま先から頭の天辺まで性欲の塊と化していた。

「ね、ねえ」

「なーに?」

「お金あげるからさ…。ほ、本番やらしてよ」

「はー?」

「本番……」

 途端にエイコの顔つきは険しくなる。

 表情が拒絶を物語っていた。

 それでも僕の性欲は収まりそうもない。

「た、頼むよ…。三万ぐらいあげるからさ」

「あんた、あれが見えないの?」

 そう言ってエイコは壁に貼ってある張り紙を指差した。

 プレイ上の注意事項が書いてあるどこの店にもある張り紙。

 内容は本番行為・強要、もしくは女性の嫌がる行為。暴力行為、又は女性を傷つける行為、スカウト、引き抜き行為、同業者の方は禁止等書いてある。

「……」

「何よ、急に黙っちゃってさ」

 どこがリピート率ナンバーワンの女なのだろうか。

 優しさのかけらも見えなかった。

 風俗の禁止事項ぐらい、僕だって理解している。

 だから金をその分、払うと言っているのに……。

 こいつも今までついた女どもと同類だ。

 客に対する感謝のカの字すらない。

 毛穴の先から憎悪が溢れ出す。

「……」

「もうイッたんだから、気が済んだでしょ」

「……」

 心の中で思っている事を、実際に口に出せたらどんなに楽になれるだろうか。

 でも僕はいつも思っているだけだった。

 お互い無言のまま、六十分のプレイ時間はあっという間に過ぎてしまう。

 こいつを指名する事は、金輪際二度とないだろう。

 店内の受付に戻ると、先ほどの従業員とすれ違う。

 客を女のところへ案内している途中だった。

 待合室には客が五名ほど待っている。

 僕は従業員がまだ戻らないのを確認すると、待っている客の一人に小声で囁いた。

「ねえ、ここのエイコって子、病気持っているから気をつけな……」

「えっ、マジすか?」

 濃紺の野球帽をかぶった今風の客は、僕の台詞に驚きを隠せない様子だ。

 僕は気にせず店をあとにした。

 風俗店パラダイス・チャッチャを出て、駅前に向かう。

 もうここへ来る事はないだろう。

 あの驚いた客の表情。

 思い出すだけで顔がニヤけてくる。

 僕の破壊工作の腕前は、まだまだ健在だ。

 静香の存在を知ってしまった今、金で買える女じゃ代用品にすらならない。

 彼女をどうしても抱いてみたい。

 そんな欲望が僕の中でどんどん大きくなっていくのを感じる。

 色々な策を考えねば……。

 四十歳でオタクにしか見えないデブの僕じゃ、到底あの静香の旦那にはかなわない。

 まずは隣近所付き合いを前提に、少しでも仲良くならないといけない。

 静香が僕の事を信頼してくれて、ちょとした悩み事を相談してくるようになれば、付け入る隙はどこかにあるはずだ。

 洋菓子屋に入り、ガラスのショーウインドーを見る。

 彼女の好みが分からないので、並んでいるケーキを一種類ずつ購入する事にした。

 十五種類もあれば、静香も満足してくれるであろう。

「四千七百九十円になります」

 僕は財布から金を取り出して払うと、高校生らしき店員は笑顔でお礼を言ってくる。

 どうせこの女も商売上の作り笑顔なだけで、心の底から応対してくれている訳ではない。

 まあ、この女の価値は単純に若いってだけだろう。

 洋菓子屋を出て、自分のアパートへ向かう。

 まだ静香は公園で子供と遊んでいるのだろうか。

 部屋を出てから一時間半が過ぎようとしていた。

 いるかどうか微妙な時間だ。

 スーパーを通り過ぎ、まもなく公園に差し掛かる。

 何組かの親子が見えたが、そこに静香の姿は見当たらなかった。

 まあ部屋は隣同士なのだから、直接持っていけばいいか……。

「かーめださん……」

 突然、後ろから声を掛けられる。

 聞き覚えのある甘く舌足らずな声……。

 振り向くと、静香が子供と立っていた。

 左手で子供の手を繋ぎ、右手にスーパーのビニール袋を持っている。

 どうやら買い物の帰りらしい。

「あ、ど、ども……」

「お買い物の帰りですか?」

「え、い、いや……」

 僕はどもりながら、洋菓子の入った包みを前に差し出す。

 不思議そうに首を傾げる静香の表情が、たまらなく可愛く見える。

「こ、これ…。昨日、差し入れもらったので、お返しにと思って……」

「え、そんなワザワザ気を使わなくても…。かえって気を遣わせてしまい、どうも本当にすみません。ありがとうございます」

 ちょっと困惑した表情と笑顔が半々の静香。

 申し訳なさそうにケーキを受け取る。

 隆志とかいうガキが上目遣いに僕を見ていた。

 まるで虫を観察しているような目つきだ。

「ほら、隆志。隣の亀田さんがケーキ買ってきたのよ。お礼を言って」

 静香の後ろに隠れる隆志。

 幼いながらも僕を敵と認識しているのだろうか。

「ごめんなさい。この子、結構人見知りするんです」

「いえいえ……」

 静香がいなければ、ガキを殴りたいぐらいだった。

 内面と裏腹に、僕は精一杯の笑顔を作った。

「可愛いお子さんですよね」

 小憎たらしいガキが……。

 まだ観察するようにこっちを見てやがる。

 俺は昆虫じゃねえぞ。

「ありがとうございます。そういえば亀田さん、今日はお休みなんですか?」

「いえ、僕の場合、部屋でデザインの在宅仕事になるので、時間はかなり自由利くんです」

 最初の内はどもりながらだったが、だいぶ静香と話すのが慣れてきたようだ。

 スムーズに口が動く。

「デザイナーですか。格好いいですね。うちのは普通のサラリーマンなんで……」

「転勤か何かで、こちらに引っ越してきたんですか?」

「ええ、できれば一箇所に落ち着きたいものなんですけど……」

「業務命令じゃ仕方ないですけど、家族は大変ですよね」

「はい、まだ隆志も小さいものでして」

 優しそうな目で我が子を見る静香。

 いつかはその目を僕に向けさせてやる。

「このおじちゃん悪い人だ」

 静香の後ろに隠れたままの状態で隆志が呟いた。

 頭に血が上昇する。

 いきなり何を言い出すんだこのガキめ。

「隆志、何言ってんの。失礼でしょ」

 慌てふためく静香。

 子供を叱り、懸命に謝っている。

「いえ、気にしてないですから…。大丈夫ですよ」

「本当に申し訳ございません。ケーキまでいただいているのに……」

 頭を深々と下げる静香。

 大き目のセーターを着ているので、胸の谷間が間から見える。

 僕はそこから手を突っ込みたい衝動に駆られたが、必死に自分を抑えた。

 隆志の幼い目が僕を凝視していたので、さりげなく目線を外す。

 申し訳なさそうに何度も謝り、その場を離れる静香の後姿。

 抱いている隆志は何度も振り返り、僕のほうを見ていた。

 僕にとってあのガキは、邪魔者以外何者でもない。

 黒い憎悪が全身を取り巻く。

 時が経つのは早いもので、香田家が隣に越してから一ヶ月の月日が流れた。

 僕の日常は相変わらず変化がない。

 壁に耳を当てて隣の音を聞くという異様な行動時間が、前より増えたぐらいだった。

 おかげで香田家に対する情報は、色々入手できた。

 旦那は仕事が忙しいらしく、週に一度は泊まりで帰ってこないという事実。

 忙しいくせに稼ぎが少ないのであろう。

 じゃなければ、十畳一間のこんなオンボロ木造アパートに、家族三人で暮す事はない。

 旦那はたまに見掛けるが、仕事の疲れが残っているような表情が印象的だ。

 思っているより夫婦仲は良くないのかもしれない。

 静香は子供を溺愛している様子で、一日最低一度は近所の例の公園へ連れて遊ばせていた。

 あのガキの態度は相変わらずで、僕に警戒心を強く持っている。

 僕は窓からこっそり静香を撮影して、画像や映像コレクションを増やした。

 今じゃパソコンの『静香』フォルダの中には、画像が三百枚、動画が三十点ほどある。

 隣近所同士という関係は日々にうまい具合に発展している。

 何故ならば、静香は自身の手料理をたまに差し入れしてくれるからだ。

 料理を作る際、独り身の僕の事までちゃんと気に掛けてくれている証拠だ。

 料理が趣味といっても過言ではない静香。

 肉じゃがや煮物といった和食が彼女の得意分野みたいで、自分の料理を喜んで食べてくれる人には素直に心を開く傾向が見えた。

 その点で言えば、僕には心を許しているのだろう。

 お返しにと駅前の洋菓子屋に行くケースが増えたので、すっかり常連客の仲間入りだ。

 静香との仲は、次第に進展しているという自負を感じる。

 性欲が溜まると駅前の風俗店に行くか、マスターベーションを済ませた。

 どのDVDやエロ本を見ても、静香の顔を想像して当てはめる。

 その内、想像だけでは虚しくなってくる自分に気がついた。

 パソコンのモニターにヌード画像を出してみる。

 静香と体系の似ている画像だけ残し、別フォルダに保存する。

 顔の部分だけ静香の顔を使い、合成写真を丁寧に作成した。

 誰が見ても合成写真だと分からないレベルまで、画像修正を施す。

 自分で作っておきながら素晴らしいと思うぐらいの出来で、静香のヌード合成画像が完成した。

 眺めているだけで熱くなる股間。

 さっき射精したばかりなのに、もう元気になっている。

 静香効果は大きい。

 彼女自身に見せてやりたかった。

「ほらほら君の魅力は、僕のをこんな大きくしてるんだよ」と……。

 再度マスターベーションを済ませると、急激に性欲がなくなっていく。

 しょせん、これは作り物。

 本物を見てみたい。

 欲望は限界を知らない。

 どんどんエスカレートしていくばかりだった。

 目覚めると全身に汗を掻いていた。

 まだ六月の下旬だが、もうすっかり夏だ。

 冷房のスイッチを入れて窓を閉める。

 夏という季節が嫌いだった。

 どんなに薄着でいても汗は止まらない。

 在宅の仕事で本当に良かったと感じる季節でもあった。

 外を少しでも歩くと噴き出す汗。

 自分の体臭ながら臭く感じるので、この時期外出はなるべく控えるようにしていた。

 しかし今までは嫌いな季節だった夏も、一つだけいい事があった。

 以前より静香が薄着になるからである。

 透けて見えるブラジャーとパンティのライン。

 そして何よりも身体のラインがクッキリとしているのがたまらない。

 子供と遊ぶ時は髪を後ろで縛るので、色っぽいうなじが見えた。

 ある日の深夜、食料の買出しの帰りにアパートの前まで来ると、一枚の白いパンティが落ちていた。

 辺りを見回し誰も見ていないのを確認すると、瞬間的に拾いポケットに押し込む。

 階段を降りる足音が聞こえてくる。

 気にせず階段へ向かうと、ちょうど静香が降りてくるところだった。

 白いTシャツに短パンというラフな格好。

 綺麗な肉付きのいい太ももが妙にそそる。

 彼女は僕がいるのを確認すると、少し恥じらいの表情に変わった。

「こんばんは……」

「あ、こんばんは」

「こんな深夜にどうしたんですか?」

 僕がそう言うと、静香は照れながら口を開く。

「実は洗濯物が一枚だけ、風に飛ばされたみたいでして…。今日は疲れていて早めに寝てしまい、洗濯物を取り込むのを忘れていたんです。さっき起きて数を調べると一枚だけなかったので、下に落ちているのかなと思いまして……」

 すぐにピンときた……。

 僕は大変な宝物をタッチの差で入手したのである。

 股間が熱くたぎる。

 動揺を顔に出さないように、きわめて冷静に接した。

「それは災難ですね。このアパート、周りに大きな建物がないから、たまに強い風が吹きますからね。ところで何の洗濯物を落としたのですか?」

 ワザと意地悪な質問をしてみる。

 予想通り、静香はモジモジしだした。

「いえ、たいしたものじゃないんです……」

「早く見つかるといいですね。では、食料品あるので僕は失礼しますね」

 これ以上、話し込んでいるとボロを出す可能性がある。

 ポケットの中にあるパンティが僕を興奮させていた。

 冷静に話をするのが大変だった。

 変に疑われるのも嫌なので、その場から去る事にする。

 二階に上がり下を見てみると、静香は一生懸命に下着を探していた。

 僕のズボンのポケットにあるなど、絶対に分からないだろう……。

 しばらく無言で静香の姿を眺めてみた。

 部屋に着くと食料品の入ったビニール袋を適当に放り投げ、ポケットから静香のパンティを取り出す。

 両手で広げてみた。

 真ん中に小さなリボンのついた純白のパンティ……。

 これをあの静香がはいていたのだ。

 言いようのない興奮が頭を支配する。

 股間が爆発しそうなぐらい膨れ上がる。

 静香のあの恥じらいの表情、最高だった。

 そっと匂いを嗅いでみる。

 舌をゆっくり出して舐めてみた……。

 今、僕は間接的に静香に触れているのだ。

 そう思っただけで射精してしまう。

 精液でビチョビチョになったズボンとトランクスを脱ぎ捨て、手で一物をつかむ。

 僕は静香のパンティを頭にかぶりながらマスターベーションを覚えた猿のように繰り返した。

 またこれで、静香との距離が一つ縮まった……。

 久しぶりに夢を見た。

 僕の横では静香が寝ている。

 いくら声を掛けても起きる気配がない。

 僕は柔らかそうな胸にそっと手を触れる。

 一瞬だけ体を動かす静香。

 なんて心地良い手触りだろう。

 僕は本能の思うまま、胸をまさぐった。

 背後に誰かいる気配を感じ振り向くと、隆志が黙って立っていた。

「何だ、このクソガキ。向こうに行ってろ!」

 感情のない隆志の目。

 僕の言葉は、何も聞こえていないように見えた。

「向こうに行けって言ってるだろ、ぶっとばすぞ」

 横で静香が目覚める。

 不思議そうな顔で僕と隆志を交互に見ていた。

「ママ……」

「どうしたの、隆志?」

「だから言ったでしょ」

「何が?」

「このおじちゃん悪い人だ」

 急に目の前が真っ暗になった……。

 目を覚ますと、見慣れた自分の部屋の天井が見える。

 不思議な夢だった。

 時計を見ると、まだ昼の十二時前だ。

 静香の子供、隆志の台詞がいまだ脳裏にこびりついていた。

「このおじちゃん悪い人だ」

 我が子の突然言った言葉を静香は、どう感じているのだろうか。

 ひたすら平謝りした彼女。

 その姿からは誠意が見えた。しかし無邪気な子供の発した戯言として済ませているだろうか。

 一ヶ月以上経った今でも答えは分からない。

 いくら考えても答えは出ないのだ。

 気分転換に静香の合成画像をモニターに映し出す。

 パンティも手に持ちながら、マスターベーションを始める。

 その時、ドアをノックする音が聞こえてきた。

 この時間帯だと、静香の可能性が高い……。

 慌ててパンティをしまい、静香の画像を消す。

 ズボンを慌ててはき、玄関に向かった。

「亀田さん。先ほどすき焼き作ったので、もし良かったらと思いまして……」

 花柄模様のエプロンを着たまま静香は、手作りのすき焼きをタッパに入れて持っていた。

「いつも気に掛けていただいてすいません。ほんと静香さんの手料理は、抜群においしいからなー」

「やだー、亀田さんたら……」

「いやー、何を食べてもほんと絶品ですよ。じゃあ、おいしくいただかせてもらいますね」

「タッパはそのまま玄関の横にでも置いといて下さい。それでは……」

 ドアを閉めると、静香のほのかに甘い残り香りだけが玄関に漂う。

 僕は残り香りを可能な限り、必死に吸い込んだ。

 もうこれで手料理を差し入れてもらうのは何度目だろう。

 これで確信できた。

 こう何度も手料理をくれるなんて、静香は子供の言った台詞など何も気にしていないはずだ。

 そう思うと、いくらか精神的に楽になるのを感じた。

 いつもの予定だと、これから静香は公園に行くはずだ。

 その時、いいアイディアが頭の中に浮かんだ。

 いつもお返しが洋菓子屋のケーキでは芸がない。

 僕が自信を持てるもの。

 それはパソコンの画像、動画関係全般だ。

 公園に行く際、僕の持っているビデオカメラを貸してあげたらどうだろう。

 親は子供の成長記録を残してあげたいはずだ。

 僕はタッパのすき焼きを別の皿に移して、丹念に洗った。

 ビデオカメラを用意すると、一目散に玄関へ向かう。

 香田家のドアのチャイムを鳴らすと、静香が顔を出す。

 手に持っているタッパを見て驚いた表情をしていた。

「もう食べたんですか?」

「いえいえ、ちょっと味見して別のお皿に移しました。相変わらず何を作ってもおいしいですね。プロ真っ青です。早めに返さないと悪いかなと思いまして。いつもすいません」

「いいんですよ。私、料理作るの大好きでおいしく食べてくれる人なら誰でも分けてしまうんですよ。前のところでもそうだったんです」

「みんな大喜びでしょう。静香さんの料理、とてもおいしいんで……」

 幸せそうに微笑む静香。

 見ていて僕まで幸せになってくる。

「それで僕、思ったんですけど……」

「何をですか?」

「お子さんの隆志君と、よく一緒に公園行ってるじゃないですか」

「ええ、それが何か?」

「僕、ビデオカメラ持ってるんで、良かったらどうかなって思いまして…。今一番可愛い盛りじゃないですか。幸いこのカメラは動画を撮って、それをDVDにできるんです。今の姿を記録に残しておくのもいいと思いますよ」

「ほんとにいいんですか? そんな事までしていただいて…。恥ずかしい話うちの主人、稼ぎがよくないので我慢してきたんです。前から今の隆志の姿を残しておきたいなって、いつも考えていたんです」

 僕のアイディアは、ものの見事に静香の核心をついたみたいだ。

 隆志の事でというのは引っ掛かるが、それでも静香の嬉しそうな顔を見られるのは心地良い。

 それにしても、僕にこんな事を言うなんて、知らない内に夫婦仲が悪くなってきているのであろうか。

「撮り終わったら、僕のところに持ってきてくれれば、DVDとして作っておきますよ。これ、操作も非常に簡単なんです」

 僕は基本的なビデオカメラの機能を説明した。

 静香は僕のすぐ傍で真剣に聞いている。

 独特のいい香りが漂い始めた。

 心臓は、音を立てて激しく鳴り響いている。

「じゃあ、今日お借りしますね。色々とすみません」

 その日は静香が、今までにない最高にいい笑顔で僕に接してくれた。

 ビデオカメラを返しに来る際、申し訳なさそうにしながらも嬉しさを隠せないでいる。

 今頃、僕が子供のDVDを作るのを隣で心待ちにしているだろう。

 早速中の動画をパソコンに移し、DVDプレイヤーに見られるように変換する。

 時間の掛かる作業ではあるが、最初の設定だけしてソフトを起動させれば、あとは勝手に作成してくれる。便利な世の中になったものだ。

 その間僕はDVDの盤面デザインを作り、空のDVDメディアに盤面印刷を済ませておく。

 我ながらいいセンスのデザインである。

 待っている間、パソコン内にあるデータを見て暇つぶしをしていた。

 中にあるデータの七十パーセントが静香関連のものだった。

 他のフォルダを覗くと、様々なデータがある。

 自分で保存したのを忘れているものもあった。

 過去に作った『公園』という名前のフォルダが目につく。

 これは香田家が隣に引っ越してくる一週間前に、公園であった首吊り自殺の様子を撮った画像だ。

 最近は静香の事を考えているので、すっかり忘れていた。

 あの自殺のあった公園で、彼女は知らずに子供と毎日遊んでいるのだ。

 久しぶりにブランコで首を吊った男の画像を見てみる。

 いつ見ても気味のいいものではない。

 様々な角度から撮影した禁断の画像……。

 その時、これを使ったいい作戦を思いついた。

 静香と僕の関係で邪魔なのは、旦那と子供の隆志だ。

 家族仲が悪くなっていくのは、僕にとって非常に都合のいい事である。

 この作戦をする事によって、静香は悲しい思いをするだろう……。

 それでも僕は静香を抱いてみたい。

 その為には非情に徹しなければいけない事もある。

 僕はモニターに写る首吊り画像を見ながら微笑んだ。

 出来上がった自作のDVDを届けると、静香は本当に喜んでいた。

「このDVDだけは、普通に見て、家族だけで楽しめばいい」と、そっと心の中でつぶやいた。

「これはDVDプレイヤーで普通に見れるんですか?」

「もちろんです」

「本当にありがとうございます」

「また、言って下さい。いくらでも作りますから」

「お金、いくらぐらい掛かりました?」

「要りませんよ。何、言ってるんですか。いつもご馳走になっているちょっとしたお礼ですから、気にしないで下さい」

 静香と出会ってから僕のコミュニケーション能力は、格段に上がったと感じる。

もちろんそのコミュニケーション能力も、静香限定だが……。

 この女を抱きたいという強い欲望。

 言い方を代えれば性欲だ。

 性欲を欲するという行為は、いつの時代も人間を進歩させる。

 現在のパソコンの進歩も、エロから発展した。

「こんなに綺麗に、表面の印刷までしていただいて……」

「ああ、盤面印刷ですか。他愛もない作業ですよ」

「さすがデザイナーさんですよね」

「子供の成長は早いものですから、週に一度は撮ってあげたらどうです」

「すみません。もう、これは私にとって宝物ですよ」

 僕もあなたから宝物をもらった。

 静香の純白のパンティを思い出しながら微笑んだ。

「また腕によりを掛けて料理作りますので、良かったら食べて下さいね」

「期待してます」

 またこれで、静香との距離が一つ縮まった……。

 隣近所同士という表現では表せないくらい、僕と静香の仲はうまく進んでいる。

 DVDを見た静香は子供のようにはしゃぎながら、僕にお礼を言ってきた。

 あれ以来、静香は定期的にビデオカメラで子供を撮っている。

 僕が作ったDVDも七枚になった。

 場所はいつもの公園だ。

 こんな似たような映像を見て何が楽しいのか、僕には一生掛かっても理解できないであろう。

 まあそれだけ我が子を溺愛していれば、僕の作戦はより効果的になる。

 八枚目のDVDを作る時に、計画を実行する予定だ。

 早く時間が経つようにと毎日願っていた。

 すっかり日課なった壁に耳をつけて隣の音を聞く作業。

 香田家がここに越してきてから始まった日課ではあるが、最近になって一つ気付いた点があった。

 三ヶ月は経つのに、セックスをしている気配がまったくないのだ。

 あれだけの美男美女夫婦なのにと、いつも気になっていた点でもある。

 今日も夜の十一時半になって旦那が帰ってきたようだ。

 いつも朝の六時には家を出て、帰りはこの時間。

 そんなに時間を掛けて仕事をしているのに、陰で静香には稼ぎは少ないと言われる始末。

 そんなサラリーマン仕事など、絶対にやるものではない。

「また飲んできたのー?」

 静香の声が聞こえてくる。

 僕は更に耳をすませた。

「しょうがないだろ、付き合いってもんがあるんだから」

「いつもそればっかりじゃない」

「もう、うるさいよ。こっちは仕事で疲れているんだ」

「たまには隆志の面倒も見てあげてよ」

「子供の教育や家事全般はおまえの仕事だろ?」

「だからたまにはって……」

「じゃあ、おまえもたまには仕事してみればいいんだ。そうすれば社会に出る苦労も少しは分かるだろ」

「隆志の面倒はどうするの?」

「じゃあ、俺が面倒見るから、おまえが家族を養えるぐらいの金を稼いでくるか?」

「前はそんなじゃなかった……」

「もういい。寝るぞ」

「あなた……」

「大声出すなよ。隆志が起きるぞ」

「たまには私を抱いてよ」

「何だよ、いきなり」

「だってこっちに越してきて一度も抱いてくれてない」

「仕事でそれどころじゃないんだよ」

「もう三ヶ月もよ」

「隆志が起きるって」

「浮気でもしてるんでしょ?」

「何、馬鹿な事、言ってんだよ」

「この間、ワイシャツから飲み屋の子の名刺が出てきたわよ」

「だから言ってるじゃん。会社の付き合いだって……」

「だからって女の子の名刺があるのはおかしいよ」

「向こうも営業でやってるだけだろ」

「あなた、変わったわ」

「もう寝るぞ、おやすみ……」

「……」

 夫婦仲がここまで悪かったとは……。

 静香もこれじゃ、ストレスが溜まるだろう。

 聞いていて同情するが、僕にとってはいい展開である。

 知らない内に、口元がニヤけていた。

 毎日のようにいじくっていたせいか、綺麗な純白だった静香のパンティは黒ずんできていた。

 最初の頃のほのかに香るいい匂いは、もう何も感じない。

 それどころか僕の唾液の臭いで、悪臭がしてきていた。

 新しい静香のパンティがほしい……。

 最近隣は旦那が帰ると、ちょっとした言い争いが始まっていた。

 必死に話し掛ける静香に対して、面倒臭そうに答える旦那。

 話し合いの最後が酷い時、静香は決まってアパートを飛び出し、公園で一人ひっそりと泣いていた。

 傍に行って慰めてあげたかったが、今の僕では役不足であるのは百も承知だ。

 窓から、こっそり様子を眺めるしかなかった。

 日常静香は、僕と会っても辛さなど微塵も感じさせないよう気丈に振舞っていた。

 楽しそうに笑う彼女の裏側には、泣き顔がある。

 この間までの会話でハッキリしている事があった。

 静香はセックスに飢えているのだ……。

 二十代半ばの女が、結婚をし子供を産み専業主婦になる。

 旦那との性行為がなくなり、次第に寂しさを感じるようになっていく。

 世の中、出会い系サイトが流行る訳だ。

 まだ幼い子供のいる静香は、そんな無茶もできない。

 裏側の汚れた世界に、まだかろうじて一線を引いている。

 このような状況になるのを僕は待っていた。

 あと一押しで静香は崩れる……。

 明日辺りビデオカメラを借りに来るだろう。

 その時僕の作戦が、初めて効果あるものになるのだ。

 窓から見える公園の風景。

 静香がビデオカメラを持ちながら、子供を撮影しているのが見えた。

 砂場遊びに始まり、ジャングルジム、シーソーと順々にこなしていく。

 最後にブランコに乗って撮影は終わる。

 こんな映像を見ても面白く感じるのは、その家族ぐらいの平凡なビデオ。

 写っている子供とそれを撮っている親が違うぐらいで、出来はどの家もそう変わりはないだろう。

 いつものように静香から受け取り、パソコンに映像を取り込む。

 今回はそのまま、DVDにするつもりはない。

 最後のほうのシーン。

 ブランコに子供が走っていく映像がある。

 その部分をコマ送りに詳しく見てみた。

 チェックし終わると、口元が自然とニヤけてくる。

 プロのデザイナーが使うアプリケーションソフト、フォトショップを起動した。

『公園』のフォルダを開き、首吊り男の全身が写っている画像を探す。

 全部で二枚あった……。

 右側から撮った画像のほうがいいだろう。

 僕はその画像をフォトショップにぶち込んだ。

 その画像を『A』とする。

 静香の撮った映像で、子供がブランコに近づいて写る部分を画像として抜き出し、フォトショップに同じくぶち込む。

 こっちの画像を『B』とした。

 マグネットツールを使って、首吊り男の全身を丁重になぞっていく。

 うまい具合に男を囲むと、移動ツールに切り替え『B』の画像に移動させた。

 これを『C』とする。

 これで『C』の首吊り男の全身が『B』の画像に加わる事になる。

 サイズが合わないので自由変形を使い、『C』のサイズを微調整した。

 首吊り男の切り抜いた部分のアラが目立つので、ぼかしツールを使い丹念にマウスでこすっていく。

 ここで気をつけなければいけないのが、面倒でもぼかしの大きさを小さめに設定して、男が背景に馴染むよう細かく何度もこする点だ。

 これで『B』の隆志がブランコに向かって走る部分の画像が、恐ろしい心霊合成写真に変化した。

 無邪気に駆け回る隆志。

 その先に写るブランコに中年男が首を吊っている画像。

 それも本物の死体を使っているのだから、リアリティは更に増す。

 僕は霊など信じないが、あくまでもうっすら写っているほうが気味悪いだろう。

『C』のレイヤーの不透明度を五十パーセント、塗りを二十パーセントに調整する。

 最後に画像を統合させ、一枚の心霊合成写真が完成した。

 同じ要領で、他の画像に『C』のレイヤーを合成させて保存する。

 DVD動画の前の抜き出した部分をカットし、作った数枚の心霊合成写真を動画のコマ送り部分に当てはめる。

 これで心霊合成動画の完成だ……。

 僕は薄ら笑いしながら、八枚目のDVDを作成した。

 静香にはいつもと同じような態度でDVDを渡した。

 丁重にお礼を述べる静香。

 果たしてこのDVDを見ても、その笑顔でいられるだろうか。

 この女の精神の崩れる時が近づいてきた。

 僕はその日仕事もせず、壁に耳を押し当てていた。

 いつもその日に作ったDVDを繰り返し、二回は見る静香。

 今日も同じように見るだろう。

 最後のほうのシーンで、息子の隆志がブランコに駆け寄るシーン。

 そこに半透明の首吊り死体が映っていたら、どう思うだろうか……。

 反応が非常に楽しみである。

「はい、隆志。ちゃんとこっち向いて」

「はーい」

 隣で静香が八枚目のDVDを見だしたようだ。

 DVDの音声が聞こえてくる。

「隆志の第八回目の砂遊びでーす。隆志、山を作ってみようか?」

「はーい」

 確か全部で二十分に満たない映像時間だ。

 まだ問題の部分が映るには、十五分以上待たなくてはいけない。

 昔、有名な監督が言っていた台詞を思い出す。

「もし、ホラーのテレビ連続ドラマを作るなら、一回目の放送から最終回の手前まで普通のホームドラムを作る。そして最終回で一気にドカンと怖いホラーを出すだろう……」

 これは多分、最終回までに視聴者が登場人物に思い入れを持つような布石を作り、最後で一気に怖い思いをさせるという意味合いなのだろう。

 どのようにしたら、人は恐怖をもっとも激しく感じるか。

 それは登場人物たちに思い入れを持たせる事から始まると思う。

 それに当てはめると、僕の作ったDVDはなかなかいい線をついていると思う。

 当たり前のように始まる子供の遊び。

 公園の道具を使って色々と遊びまわる。

 動き回るほど、母親は子供をカメラに収めるだけで苦労するだろう。

 最後にブランコへ行く時に、首吊り死体が薄っすら映る。

 実際にその映像を撮っている時には、何も見えなかったのにと……。

 旦那との夫婦間の交流が悪くなり、子供の成長記録をとっておく為に作ったDVDには幽霊が映っている。

 精神に異常をきたすかもしれないだろう。

 霊現象を信じない人間でも気味悪く感じるはずだ。

 自分の子供に変なものが映っているのだから…。

「滑り台で一生懸命滑る隆志でーす」

 もうじき問題のシーン……。

 もう一度滑って、隆志はブランコの方向へ駆けていく。

「はい、上手によく滑れましたー」

「次、あれー」

「は~い、次はブランコへ向かいまーす」

 もう、一時間は経っただろうか……。

 隣の部屋からは、何の反応もなかった。

 ちゃんと映像を見ていないのか?

 わざわざDVDを見ましたかと、こっちから確認するわけにもいかない。

 先ほどの問題のシーンでは何の悲鳴も声も聞こえてこなかった。

 自分の子供だけ目線を追って見ているから、ひょっとしたら何も気付かなかったのかもしれない。

 それとも首吊りの男を少し半透明にし過ぎて、いまいち目立たなかっただけなのかもしれない。

 敗北感が、全身を支配する。

 想像していた反応と現実は全然違った。

 しかし、これでへこたれては自称破壊工作のプロフェッショナルの名が泣く。

 そんな事よりも静香を精神的に弱らせ、そこにつけ込まないといけないのだ。

 このままでは、静香に何もできないままである。

 次の九枚目DVD作成時にはもう少し考慮して、映像合成しなければいけないかもしれない。

 夜中に隣の香田家は、激しい口喧嘩をした。

 静香がかなり苛立っている証拠だ。

 ちょうど仕事の残りをこなしていたので、何を言っているかまではよく聞こえない。

 三十分ほどやりあって、静香はアパートを飛び出す。

 いつものように公園の赤いベンチへ腰掛け、静かに泣いていた。

 僕は窓から彼女の様子をジッと眺めていた。

 次の日になり、僕は駅前の風俗店に向かう事にする。

 静香がビデオカメラを借りに来るとしたら、一週間ぐらい先の話だ。

 それまでチャンスは訪れない。

 そのやるせなさを癒すのに、どうしても女の裸に触れたかった。

 行く途中、公園で静香がいつものように隆志と遊んでいた。

 昨日の旦那との言い争いのせいか、表情がいまいち冴えていないようだ。

 一応声を掛けてみる。

「こんばんはー」

「あ、こんばんわー」

 僕の顔を見ると、静香は無理に笑顔を作る。

 見ていて痛々しかった。

「珍しいですね、夕方に公園来るなんて……」

「え、ええ…。たまには夕焼けを見ながら、外の空気を吸うのもいいかなって思いましてね。亀田さんは買い物ですか?」

「いえ、ちょっと仕事の打ち合わせで、駅前の喫茶店まで行くようなんです」

 さすがに風俗へ行くとは言えないので、とっさに嘘をついた。

「喫茶店で打ち合わせですか?」

「え、ええ、早乙女という男と……」

 何を僕は、わざわざ他人の名前まで出しているのだ?

 早乙女とは今仕事をもらっている会社の社員で、僕の担当でもある。

 本当にいけ好かない二枚目気取りの馬鹿だ。

 まあ彼の名前まで出せば、彼女も疑わないだろう。

「デザインの仕事も、色々と大変そうですね。頑張って下さい」

「ありがとうございます」

 風俗へ行くのに頑張るもクソもないだろう。

「ママー」

 隆志が静香に駆け寄ってくる。

「どうしたの?」

 隆志の視線が、僕を見つめている。

 子供心に、僕が子供嫌いだと本能的に分かるのだろうか。

「悪い人だ」

「隆志! そんな事、言っちゃ駄目だって何度も言ったでしょ」

 静香の目つきが険しくなる。

「だって悪い人…。あーん」

 初めて静香が息子を叩いたのを見た。

 隆志は大泣きだ。

 彼女は申し訳なさそうに何度も頭を下げている。

 子供にまで手を出すだなんて、もう少しで彼女は限界かもしれない。

 今度、旦那と喧嘩してアパートを飛び出したらチャンスだ。

 気まずくなった僕は、早々とその場を退散した。

 駅前の風俗店エリアに差し掛かる。

 新しく新規オープンした店『ボンジョビ』という店の黄色い看板が目を引いた。

 とりあえず店内写真を見に中へ入ってみる。

 豪華なシャンデリアや装飾品が、店内に飾ってある。

 有名画家が書いたみたいな絵画も多数置いてあった。

 近辺でここまで金を掛けている店は、ここが初めてであろう。

「いらっしゃいませ。ボンジョビへようこそ」

 ちゃんと蝶ネクタイまでした黒服の従業員が近づいてくる。

 見事に制服を着こなしていた。

 こんな対応をされたら、遊んでいかないといけないような気になってしまう。

「お客様、当店のご来店は初めてになられますか」

「は、はあ……」

 向かいにある風俗店『パラダイス・チャッチャ』の従業員とは、対応の質が違う。

「では簡単な当店のシステムから説明されていただきたいと思います」

 簡単な説明を受けると、従業員は現在出勤中の女の子の写真を出してきた。

 パッと見、二十名はいる。

『パラダイス・チャッチャ』にいる女どもとは、品や質が明らかに違っていた。

「ず、ずいぶんと可愛い子が多いんですね……」

「ありがとうございます。当店は現役の大学生中心に集め、店内教育を受けてから初めてお客様に奉仕するようにしています。ですので誰を選ばれても満足されるかと存じます。もし、お客様が不満を感じるようでしたら、すぐにお知らせ下さい」

 久しぶりに感じのいい店へ来られた気がした。

 いや、ここまでちゃんとしている店は初めてだ。

 僕は写真を一枚ずつ眺めてから、従業員に聞いた。

「す、すぐに入れる子って……」

「そうですね。まずこちらの由良正美さん、現役女子短大生です。次に田中夢さん、この子は現役看護婦ですね。それから人妻の及川ひよりさん。この三人でしたらすぐの御案内になります」

 どれもこれも甲乙つけがたい。

 どれもこれも目移りしてしまう。

「十分ほどお待ちになられるのでしたら、こちらの永井ヒカルさん、OLです。それと山口桃香さん、現役女子大生です。次に門脇麗子さん、こちらも同じく女子大生です」

「て、店員さんにお任せします」

「体型などのお好みはございますか?」

「う~ん…。ス、スレンダー……」

 これなら誰がついても文句はない。

 この感じのいい従業員に任せてもいいだろう。

「かしこまりました。では、あちらの待合室でお待ち下さい」

 ソファに座る時に、プレイを終えた客がカーテンから出てくる。

 自然と視線がいく。

 カーテンでよく風俗嬢の顔は見えなかった。

「どうも、すごい良かったよ」

「本日はどうもありがとうございました」

 その代わり、出てきた客の顔に見覚えがあった。

 あの静香の旦那だ……。

 瞬間的に僕は顔をそむけ、旦那が出て行くまでそのままの状態でいた。

 あんな綺麗で素敵な静香がいながら、わざわざ金を払って風俗へ行く旦那。

 僕には、その神経が理解できなかった。

 予想もしなかった静香の旦那との一方的な遭遇に、動揺を隠せないでいる。

 ある意味、これはいいチャンスかもしれない。

 幸いに向こうは僕の存在に気がついていない。

 今日辺り、帰って夫婦喧嘩になれば、間違いなく静香はあの公園で一人寂しく泣いているだろう。

 今、人生で最大の転機がやってきたのかもしれない……。

 想像するだけで股間がギンギンだ。

 ここで遊ぶのも悪くないが、やっぱり僕は静香を抱きたい。

 お金もまだ払っていないので、僕は隙を見て咄嗟に店を飛び出した。

 様子を伺うようにゆっくりと街の中を歩く。 

 旦那はまだその辺にいるはずだ。

 辺りを見回すと、ちょうど旦那が先の道を右に曲がるところだった。

 僕はダッシュで近づく。

 風俗エリアを抜け、旦那のあとをつける。

 あんな店に行っておきながら、何事もなく仕事帰りのように堂々と歩いていた。

 スーパーに差し掛かる。この辺で声を掛ければ自然だろう。

「こ、こんばんわ」

「あ、どうも。どうしたんです、こんな時間に」

「さ、さっきまで駅前の喫茶店で、仕事の打ち合わせがありまして……」

「それはお疲れ様です」

「香田さん、いつもより帰りが早いんじゃないですか?」

「たまには家族サービスもしないと罰が当たってしまいますので、今日ぐらいは残業なしで帰ろうと頑張ってみました」

 そう言って旦那は爽やかな笑顔を見せた。

 酷い嘘つき野郎……。

 さっきまで風俗で遊んでおいて、何が家族サービスだ。

 見掛けは確かにいい男かもしれない。

 でも、中身はただのクソ野郎だ。

 この男に静香はもったいなさ過ぎる……。

「それはいい事ですね。じゃあ、僕はスーパーに寄っていきますので、この辺で……」

 まだ公園に静香がいる可能性があるので、僕は用もないのにスーパーへ入った。

 旦那がこのあと家に帰り、いつものように口論になれば……。

 深夜、一人で公園にたたずむ静香を連想した。

 僕はさりげなく買い物に出掛けるふりをして、公園の前を横切る。

 赤いベンチで寂しそうに泣く静香。

 僕は彼女へ近づき、優しく肩を叩く。

「こんな夜中にどうしたんですか?」

 泣きながら静香は僕に相談をしてくる。

 旦那とうまくいっていない事。

 僕は不満を全部吐き出させ、優しく微笑む。

 そしてタイミングをみて、旦那が今日風俗店から出てきたのを見たと、さりげなく報告。

 うまくいけば、静香は自我が崩壊寸前だろう。

 その時、僕は強引に唇を奪い、強めに抱き締める。

 性欲に飢えていた静香はそのまま……。

 想像だけで言いようのない興奮が僕の脳を刺激した。

 僕の夢だった……。

 出会って以来、ずっと性欲の対象だった静香を、ついにこの手で好きなようにできる時がやってきたのだ。

「ちょっとあんた。買わないならどいてよ」

 冷凍食品コーナーの前でボーっとしていた僕は、買い物客の声で現実に戻された。

 買い物かごを手に持った中年の主婦が、僕を偉そうに睨みつけている。

「す、すいません……」

 僕がせっかく謝っているのに、その主婦は目でジロリと一別しただけで、無視を決め込んだ。

 高慢ちきなババアめ。僕は中年主婦の背後に回った。

 ババアは冷凍食料品を丹念に眺めている。

 右手に持った買い物かごの中には、大根、玉ねぎといった野菜類が入っていたので、そこへ僕は、唾液をダラリと垂らしてやった。

 その唾でも体内に入れて、根性を叩き直しやがれ……。

 部屋に帰り、パソコンの電源を入れる。

『静香』フォルダを開き、今まで撮った静香の画像を順に眺めた。

 出会った頃は、天使のような笑顔を持った彼女。

 しかし、今ではその笑顔に陰りが見える。

 同じ生活を毎日のように繰り返し、自分一人の時間が何もとれない静香。

 子供を育て、旦那の帰りを従順に待っているだけの毎日。

 女だって性欲はあるのに、越してきて一度も相手をしない主人。

 しかも、浮気疑惑まで感じている。

 その部分は、僕が真実を伝えるべきだ。

 結局、僕の作ったDVDは何の効果もなかったが、それに頼らなくてもいい状況になってきた。

 あとは隣の香田家の夫婦喧嘩が始まるのを待てばいい。

 今日は時間が経つのを妙に遅く感じる。

 しかし、少しも苦痛に感じなかった。

 生を受けてから四十年。

 ようやく僕にも最大の転機が訪れているのだから……。

 静香の純白のパンティ。

 すっかり僕の手垢と唾液で、どす黒く変色している。

 もう匂いも相当キツくなっていた。

 今度、隣で下着を干している時に一枚盗ってやろう。

 少し天然の入った静香の事だ。

 また風で飛ばされたぐらいにしか思うまい……。

 しばらく静香の画像や映像を眺めていた。

 時計を見ると十時を過ぎている。

 あと一、二時間もすれば隣は寝に入るだろう。

 その時にいつもの口論が始まれば……。

 今日、僕は珍しくマスターベーションをしていない。

 激しく膨れ上がる股間。

 それでも僕は我慢しなくてはならない。

 うまくいけば、今日これから静香を抱けるのだ。

 窓を開けて空気の入れ替えをした。

 目の前に見える公園。

 静香との仲は、ここから始まったように思える。

 もちろん始まりはスーパーでだが、親睦を深めたのはこの公園だ。

 今日の夕方のシーンを振り返る。

 僕に失礼な事を言った子供の頭を叩いた静香。

 あれは僕に好意を持っているからこその行動に違いない。

 謝れば済む問題が、わざわざ叩いたという事実。

 きっと僕の事を思うあまり、感情的になったのだろう。

 タバコに火をつけて、久しぶりにベランダへ出てみた。

 ムシムシする気温。

 ジワリと汗が滲み出てくる。

 手すりに手を掛けると、ザラザラした感触を感じた。

 このベランダも今度機会があったら、少しは整理しないと駄目だな。

 横目で隣をさりげなく見てみる。

 香田家はカーテンを閉めていたので、中の様子が分からなかった。

 意味もなく隣のベランダを眺めていると、隅に白いものが見えた。

 暗い中を凝視すると、どうやら女物の下着みたいだ。

 絶対に静香の下着だろう……。

 それ以外ありえない……。

 柵を乗り越えて拾いに行きたいが、今はさすがにできない。

 しかし明日になれば、静香は気付いてしまうだろう。

 危険を侵して下着を拾いに行くか?

 それとも隣に誰もいない時を待ってからにするか?

 前者は、見つかったら警察に捕まる可能性がある。

 後者も捕まる可能性はあるが、まだバレる確立は低い。

 だが、下着がなくなる事も考慮しないといけない。

 まさに究極の二択だ……。

 下着は欲しいが捕まりたくはない。

 当然の心理である。

 見つかった時を想像する。

 警察に通報され、取調べを受ける僕。

 当然、部屋も家宅捜査が入るかもしれない。

 そしてパソコンの中身まで……。

『静香』フォルダに入った隠し撮りの画像や映像。

 おまけに首吊り死体の画像まで入っている。

 週刊誌のB級記事として、面白おかしく報道されるかもしれない。

 しばらく考えてから、断腸の思いで後者を選ぶ事にした。

 今、下手な行動をしたら、すべてが台無しになる。

 それだけは避けたかった。

 部屋に戻ろうとする。

 だが、後ろ髪を引かれる思いだ。

 振り返り、落ちている下着を見つめる。

 駄目だ、いけない……。

 見ていると柵を乗り越えて、拾いに行きたい衝動に駆られてしまう。

 隣には今、静香を始め、旦那や子供までいるのだ。

 今は隣でいつもの言い争いが始まり、静香が飛び出すのを大人しく待つんだ。

 パンティじゃなく、本物が手に入るんだぞ?

 僕は必死に、自分へ何度も言い聞かせた。

 何時間ぐらいこの体勢でいるのだろう。

 体を壁に張り付け、耳を澄ましている。

 隣で起きる物音一つ聞き逃さないようにしていた。

 同じ体勢をしているので、体が苦しい。

 それでも我慢するしかないのだ。

 横目で時計を見る。

 夜の十二時を回っていた。

 いつも子供が寝静まってから始まる言い争い。

 もうそろそろ始まる頃合いだ。

 テレビからの騒がしい雑音が消え、隣はこれから寝る体制に入ろうとしている。

 もうそろそろだ……。

 あと少しの辛抱だ……。

 僕は、壁にピッタリつけたまま耳を澄ませた。

 ようやく薄い壁から静香の声が聞こえてくる。

「ねえ、あなた。今日みたいに、いつも早めに帰ってこれたら嬉しいな」

「無理言うなよ」

「だって……」

「これでもおまえや隆志には、いつもすまないと思っているんだよ」

「じゃあ、たまには抱いてよ。もう隆志はすっかり熟睡しているから、ちょっとやそっとじゃ起きないわ」

 無理に決まってるだろ……。

 あんたの旦那はさっきまで風俗で遊んできたんだから……。

 僕は心の中でそっと囁いた。

 しめしめ、予想した通りの展開になってきた。

 近くに鏡がないが、今自分の顔を見たら今までにない満面の笑顔をしているのだろう。

「今日は無理だよ」

「何でよ。今日は早く帰ってきてるじゃないの」

「仕事の疲れがいまいちとれないんだよ」

「いつもそればっかり……」

「もうちょっとで今の仕事が片付くからさ。だから今日は寝させてくれよ」

「こっちにきてから同じ台詞ばっかり…。そんなの聞き飽きたわ」

「うるさいなあ…。仕事仕事で頑張っている俺を何だと思っているんだよ。おまえは家で隆志と遊んでいればいいだけじゃないか」

「ひ、酷い…。そんな言い方ってある……」

「社会の苦労なんて何も分からないくせによ」

「あなただって主婦の苦労を何も理解してくれてないわ」

「お互いに理解し合わないだから、バランスいいんじゃないか」

「何よ、そのバランスって…。結婚した頃はそんなんじゃなかった」

「当たり前だろ。結婚して何年になると思うんだ」

「五年よ」

「付き合い始めのカップルじゃないんだぞ。それを今じゃなんだよ。盛りのついたメスみたいによ」

「私が、盛りのついたメス……」

「今のおまえ見たら、誰が見てもそう思うんじゃないか」

「あなたは、そんな目で…、わ、私を、み、見ていたの……?」

「うるさいって! いつもみたいに前の公園で頭、冷やしてこいよ」

「あなた……」

「だからうるさいって!」

 そこで会話は中断され、物音が聞こえてきた。

 静香がぶち切れたのだろう。

 外に飛び出す為に、今、着替えているはずだ。

 やがて隣のドアの開く音が聞こえ、外の廊下を駆け足で通る足音が鳴り響いた。

 すぐに静香のあとを追いかけたい。

 でも、僕がすぐ外に出掛けるのはさすがに不自然だ。

 窓を少しだけ開けて、外の様子を眺めた。

 予想通りの展開に、僕の股間ははちきれんばかりである。

 窓の隙間から白いTシャツを着たラフな格好の女性の姿が映る。

 その女性は公園に入っていき、赤いベンチに座った。

 その女性とはもちろん静香だ。

 彼女は座った状態で下をうつむき泣いていた。

 僕ははやる気持ちを懸命に抑え、ひたすら様子を伺う。

 ここ最近の静香は、一時間ぐらいこうしている。

 静香が公園に来て、十分ほどの時間が経過した。

 そろそろ僕の出番だ……。

 いざその時になると、緊張が全身を貫く。

 心臓の鼓動が激しくなっているのが分かる。

 落ち着け……。

 自分で一生懸命言い聞かせる。

 興奮と緊張が同時に僕を襲う。

 色々な考えが、頭の中を駆け巡り混乱してきそうだった。

「ずっと…、この時を待っていたんだろ……」

 わざと声に出して言ってみた。

 言いようのない緊張。

 胸の辺りが苦しい。

 ありったけの勇気を振り絞れ。

 今、行かないでどうするんだ?

 この機会を逃したら、もう終わりだぞ?

 心臓の鼓動が、どんどん早くなっている。

 駆けつけたい気持ちはあるのに体が動かない。

 脳の命令に身体が拒絶反応を起こしている。

 時間は、無情にも刻々と過ぎていく。

 こんな迷っている内に、静香は落ち着いて帰ってしまうかもしれない。

 旦那の浮気をさりげなく報告するんだろ?

 シュミレーション通りだと、静香は間違いなく絶望の淵に立たされる事になる。

 その時、僕が優しくしないでどうするんだ。

 出会って以来、ずっと心の内に秘めたこの淡い想い……。

 現実になる時がすぐそこまできている。

 緊張と性欲……。

 答えは一つしかない。

 僕は己の全身を奮い立たせた。

 拾った静香のパンティを手に取る。

 生ゴミが腐ったような臭いが鼻をつく。

 そんなものは構わずに、黒ずんだパンティを口に含んだ。

 口の中に何とも言えない異臭が一気に広がる。

 そのままゴミ箱へ吐き捨てた。

「今までありがとう…。ずいぶんとお世話になったよ。でも…、僕にはもう必要ないんだ」

 ゴミ箱に捨てたパンティに、頭を下げると感謝の意を述べた。

 心の奥底からありがとうと言った。

 しょせん静香のパンティであって、静香本人ではないのだ。

 これから僕は、本物を抱きに行く。

 ゆっくりと玄関に向かう。

 一歩進む度に足取りが重くなっていく。

 それでも僕はくじける訳にはいかない。

 靴を履き、ゆっくりと深く深呼吸をしてからドアを開けた。

 静香は公園の赤いベンチに腰掛け、首をうなだれている。

 僕は足音をできる限りたてないようにして忍び歩く。

 額から汗が噴き出す。

 気温のせいばかりではない。

 極度の緊張からくる汗でもあった。

 一歩近づくごとに、心臓の鼓動は大きくなっていく。

「……」

 声を掛けようとして、すぐに躊躇する。

 落ち着けって……。

 目の前に行ってからだ。

 もう二、三メートル先のところまで静香との距離は狭まっていた。

 これだけ近くに来ても、彼女は僕に気づく様子はない。

 音を立てずに唾を飲み込む。

 更に慎重に近づいていく。

「こ、こんな夜中にど、どうしたんですか、静香さん……」

 静寂に包まれた公園に僕のか細い声が小さく響く。

 静香は一瞬だけ体をビクッとさせ、ゆっくりと顔を上げた。

 目は真っ赤になっている。

 ここに来てから、ずっと泣いていたのだろう。

 そんな彼女の表情も、また違った魅力をかもし出していた。

 彼女は声を掛けたのが僕だと、認識できていない様子だ。

 焦点が定まらず、視線は何処を見ているのか分からない。

「どうかしましたか?」

 二度目の声を掛けて、ようやく静香の視線がハッキリと僕を捕らえた。

「か、亀田さん……」

 何故、目の前に僕が立っているのだろうとでも思っているのだろうか。

 不思議そうに僕を見つめている。

「か、買い物行こうかと、公園を通りかかったら、静香さんらしき人影が見えたものでして…。こ、こんな夜中にどうしたのかなと思って……」

「ごめんなさい……」

「え……?」

 何で僕に彼女が謝るのだろう。

 さっぱり理解できない。

「変なとこ、見せちゃって……」

「何かあったんですか?」

 僕が尋ねると、彼女は視線を地面に向けた。

 憂いのある表情とはこのような事を言うのではないだろうか。

 街灯だけの薄暗い中、とても美しく神秘的に映った。

 天使が悲しむ姿は、こんな感じなんじゃないだろうか。

「いえ、大した事じゃないんです」

 そう言って寂しそうに微笑む静香。

 このままじゃ駄目だ。

 彼女に腹の底をぶちまけさせないと……。

「こ、こんな夜…、いや夜中ですよ…。大した事じゃないって訳ぐらい僕には分かります」

「ほんとに全然……」

 精一杯虚勢を張っていたが、限界が来たのだろう。

 静香はその場で泣き崩れた。

 僕は歩み寄りそっと肩に手を置く。

「口に出して言うだけでも少しは楽になりますよ……」

 面白いように円滑に口が回る。

 今までの自分では考えられない現象だ。

 馬鹿、今はそんな事を考えている場合か。

 もっと話し掛けろ。

 一気に畳み込め。

「いつもお隣通し、仲良くさせてもらってますし…、それに静香さんには手料理などご馳走になったり…。と、とにかく色々恩義を僕は感じてるんですよ。それを今、あれだけ明るい静香さんがこんな夜中に一人寂しく公園で泣いている。何でもない訳ないじゃないですか。僕で良かったら話してみて下さい」

 静香は口を開きかけ何かを喋ろうとしているが、躊躇して口を閉じた。

 それを何度も繰り返している。

 あと一息だ。

 僕は彼女の両肩を掴み、力強く握った。

「じ……」

「……」

 僕は自分の鼻から噴出す息が荒くなっているのに気付く。

 慌てて息を止めて静香の目を見た。

 何かを訴えたいと思いながらも、懸命に堪えている目だった。

「言っちゃいましょう。言えば、あなたは楽になれます……」

「じ、実は……」

 長い沈黙を経て、ようやく言葉が彼女の口からあふれ出してきた。

「はい、何でしょう?」

「何て言ったらいいんでしょうか…。家庭が…、家庭が実はうまくいっていないんです」

「え、どうしてまた……」

 僕は今、初めて知ったような驚いた表情を作り出した。

 心の中ではガッツポーズをとりたい気持ちでいっぱいだ。

「私の気のせいなんでしょうけど…。ううん…、私の専業主婦としてのストレスが溜まってしまっただけの事なんです」

 マズい…、話の方向がズレる。

 彼女は精神的に、本来の落ち着きを取り戻してきたみたいだ。

 こんなお茶を濁したような言い方でせっかくのチャンスをふいにしたら、僕の今までの苦労は一体どうなるんだ。

「ストレスですか……」

「すみません、亀田さん…。こんな夜中になっているのに気を使わせてしまって……」

 僕が聞きたいのはそんな事じゃないんだ。

 焦りが僕の中で広がる。

 馬鹿野郎…、重箱の隅を突付くように静香を尋問しろ。

 もう一人の自分が僕に命令してくる。

 あんな黒ずんだこの女のパンティ一枚だけで、満足して人生を送りたいのか?

 違うだろ?

 もうこの女は崩壊寸前なんだ。

 情けをかけるな。

 崩してから優しく接しろ。

 そして一気に抱いてしまえ。

「静香さん……」

「は、はい……」

「本当に言いたいのはそんな事じゃないでしょう? そんな人がこんな時間に一人で公園にいるなんておかしい…。たまたま買い物に行こうとした僕が、そんな静香さんの気配に気付いた。今、この場に僕がいるのも、何かの縁なんです。言って楽になりましょう。先ほど家庭がって言ってたじゃないですか。昼間のお子さんの件でお悩みですか? それは違いますよね?」

「いえ…。あ、あの…、その……」

 静香の表情がまた曇りだす。

 挙動不審になっている。

 もう一息だ。

 僕は一気にまくし立てた。

 辺りの住民がすっかり寝静まり、物音一つ聞こえない静寂の空間。

 今、僕は静香とその世界に、たった二人きりでいる。

 生暖かい風が吹き、奥のブランコが少しだけ揺れた。

「家庭と言うよりも、ズバリ旦那さんと何かあったんじゃないですか?」

「……」

 すっかり汗ばんだ静香の白いTシャツ。

 ブラジャーの線が透けて見えた。

 彼女は恥じらいを感じたのか、下を向いてうつむいたまま、沈黙している。

「どうしました、静香さん?」

「こ、こんな事、言うのも変なんですけど……」

「はい」

「確かにうちの主人との件も確かにあります。ただ…、息子の隆志の件で……」

 まったく予想外の答えが返ってきた。

 息子、何だそれは……。

 僕は極めて冷静に対応した。

「お子さんですか?」

「隆志と言うよりは…。あ、あのー、亀田さん」

「は、はい」

「本当にこんな事を聞いたら失礼になるのを承知で、聞いてもいいですか?」

 申し訳なさそうに話す静香。

 心臓がひっくり返りそうだった。

 何の件だろうか。

 ひょっとしたら、僕がパンティ拾ったのを本当は知っていて……。

 緊張の種類が百八十度変わった。

「な、何でしょう……」

「亀田さんによく作っていただいているDVD…。その件なんですけど……」

 構えていた分、どっと安堵感が押し寄せる。

「はい、それが何か?」

「隆志の後ろに変なものが映っていたんです……」

 笑いそうになるのを懸命に堪えた。

 静香にプレゼントした息子の成長記録用DVD。

 その八枚目に渡した事を言っているのだろう。

 僕のすぐ目の前に見えるブランコの場所を元に作った自作の合成動画。

 本物の首吊り死体を息子の隆志の背後に見えるようさりげなく加工したDVD。

 聞き耳を済ませて隣の様子を伺っていたが、何もなかったので気付かなかったのだと今まで勝手に思い込んでいた。

 あの時、静香はちゃんと、その首吊り男の存在にしっかり気付いていたのだ。

「へ、変なもの?」

 声をわざと高めに出して驚いてみせた。

 僕の演技力もなかなかのものである。

「え、ええ…。いつもお世話になっているのに、気を悪くしたらすみません……」

「いえ、別に構わないですよ。でも、その変なものって一体……」

「ゆ、幽霊らしきものが、隆志の後ろに…、す、透けて映っていたんです……」

「幽霊?」

「亀田さんは、全然お気付きにならなかったんですか?」

「ええ、私の場合は静香さんの撮った映像をパソコンに繋げて、それをDVDで見れる形式にって作業を命令させるだけなんです。だから最初の簡単な設定だけすれば、あとは時間が勝手に作成してくれるんですよ。その間、だいたいいつも私は自分のデザインの仕事をしてますので、それに関しては何も気付きませんでした」

 我ながら、非の打ち所のない完璧な言い方だと思った。

 まさかあれが、僕の作った合成動画だとは、微塵も感じないだろう。

「変な事を言ってすみませんでした」

「静香さん、別に僕のほうはいいんですけどね。ただ、それが本当に映っているとしたらですよ。しかも、お子さんの背後にという状況で…。親なら、絶対に心配になりますよ。それに気味がいいもんじゃないですからね。できればどんな具合で、どんな風に映っているか詳しく聞かせてもらえませんか?」

 偽善者…、今の僕はこの表現がピッタリとマッチしている。

「ええ、最後のほうのシーンなんですけど……」

 静香は後ろを振り返り、ブランコを指差した。

「あそこにブランコがありますよね」

「ええ」

「隆志が滑り台から降りて、あそこへ駆け寄って行く時に映ったんです」

「その幽霊がですか?」

「いえ、何と言ったらいいのでしょうか。あのブランコを支える上の鉄の棒がありますよね」

「はい」

「そこで首を吊ったような感じの男の人が薄っすらと映っていたんです」

「えっ…」

「うちの主人にはその事を話そうとしたんですけど、全然取り合ってくれなくて……」

 僕は幽霊とか神様だとかそういった科学的に証明できないものは、一切信用していなかった。

 だが、ここは静香が越してくる前に、あのブランコで首吊り自殺が合った事をうまい具合に説明したほうがいい展開になりそうだ。

 今日の僕は非常に頭が冴えている。

「そうですか…。あの静香さん……」

「はい……」

「これから僕が言う事をちゃんと聞いてもらえますか?」

「は、はい」

 深刻そうな表情で僕を見つめる静香。

 小動物が助けを求めるような目をしている。

 心がくすぐられた。

 この女、不思議とどんな表情も絵になる。

 じっくり時間を掛けてでも絶対に僕のものにしてやる。

 僕が静香を追いかけて公園に来て、三十分ほど経過しただろうか。

 辺りは人一人通らず、シーンと静まり返っていた。

 頭の中を整理させる。

 これから話すのに重要な点は二つだ。

 まずあのブランコで本当に首吊り自殺があったという事実。

 そして何故、それを彼女に早く言わなかったのかという点だ。

「か、亀田さん。ど、どうかしたのですか?」

 救いを求めるかのように静香は心細そうに口を開いた。

 きっと不安で仕方がないのだ。

「何がですか?」

「いえ、聞いてもらえますかと言ってから、無言になってしまったので……」

「分かりました。落ち着いて聞いて下さいね。これから話す事は、あなたにとって非常にショッキングな内容です。パニックを起こさずに落ち着いていて下さい」

「……」

「準備はいいですか?」

「そんな言い方されたら私……」

「でも、今、これを聞かないと、ずっとそうやって一人寂しく悩むようですよ。それでもいいんですか?」

 二人の間にしばし沈黙が走る。

 彼女はうまい具合に混乱している。

 これから話す事実。

 そんなものは大した件じゃない。

 その後に話す内容が本来の目的だ。

 その時に平常心でいられるか……。

 今の様子を見ている限り、間違いなく崩れるだろう。

 目の前にいる僕以外、すがる人間は誰もいないのだ。

「ちょっと深呼吸させて下さい。私、かなり今、動揺してます」

「ええ、ゆっくりどうぞ」

「すみません。こんな夜中に……」

「いえ、前にも言ったじゃないですか。僕の場合、在宅で仕事が済むので時間は自由だって。だから気にしないで下さい。さあ」

 静香はゆっくりと上を向いて大きく息を吸い込んだ。

 Tシャツの首元から見える鎖骨一つとっても、彼女は美しかった。

 ほどよく突き出た胸。

 キュッと締まったウエスト。

 紺色の短パンからは、むっちりとしたおいしそうな太ももが露出している。

 もうじきこの体を僕は自由にまさぐれるのだ。

 今すぐに襲い掛かりたい衝動に駆られる。

 これは僕じゃなくても、男ならみんなそうなるだろう。

「お待たせしました。どうぞ」

 少しだけ落ち着きを取り戻した感のある静香。

 真剣な眼差しを僕に向けた。

「実はですね……」

「はい……」

「あのブランコなんですが……」

「え、あのブランコが何か?」

「静香さんが越してくる一週間前に、あそこで首吊り自殺があったんです」

「……」

 静香はショックで声も出ない様子だ。

 無理もない。

 子供映ったDVDにあのブランコの後ろで、首吊りした男が見えたのだから……。

 自分よりある意味大切な我が子に、何かあるんじゃないかと不安にならない奴はいないだろう。

「大丈夫ですか、静香さん」

「は、はい……」

 顔色がみるみる内に青ざめてきていた。

「静香さん、本当にすみません……」

「えっ?」

 いきなり謝る僕に拍子を抜かれたのか、静香は高い声を出す。

 大きな瞳を必死に瞬きしていた。

「何で亀田さんが謝るんですか?」

「いえ、本当は静香さんにもっと早く言いたかったんです。でも、なかなか話すきっかけをつかめずに、ここまでズルズルきてしまったので……」

「そんな…、亀田さんが謝るような事じゃないですよ。反対に良かれと思って私にビデオカメラを貸していただいたりしているのに……」

「僕は折りを見て、もっと早く言えていれば…。そうすれば、静香さんがここまで深刻に悩む事もなかった……」

「何、言ってんですか。亀田さんにはほんといつも感謝してるんです、私。いつも手作りの料理ぐらいしかお返しできないし、引越ししてきてから何かと気に掛けていただいて」

 うまい具合に僕の事は話を反らせた。

 本当にこの女はお人好しだ。

「そんな風に思っていただいて光栄です。でも、話を戻しますけど、静香さんがビデオカメラでお子さんを撮っている時には、何も気がつかなかったのですか?」

「はい。もし、変なものが映っていたら、すぐに気付いていると思います」

「そうですか…。もちろん僕もそんなものが写っていたなんて、全然気付きませんでした。お子さんはそれから何か異常とかありましたか?」

「いえ…。ただ、もし、変なって言ったら……」

「もし?」

「大変恐縮なんですが、亀田さんにすごい失礼な事をうちの隆志が言ったじゃないですか。今日…、もう昨日になりますけど…。前はあんな失礼な事を言う子じゃなかったんです」

 確かにあのクソガキは、僕に対して悪い人とか抜かしやがった。

 静香の子供じゃなかったら、叩き殺したいぐらいだ。

「いえいえ、それは僕がこんな醜いからだと思うんです」

「そんな醜いって……」

 静香は同情するように悲しげな視線を送ってくる。

「いえ、これでも自分の事は、ある程度自覚してますよ。学生時代から、女とは縁のない生活でしたから……」

「亀田さんは、すごい優しいじゃないですか」

 静香は必死に僕を諭そうとしている。

 それはそうだ。

 彼女の置かれた立場では、そう言うしか方法はないだろう。

 だが、ここは同情を引く場面ではない。

「ありがとうございます。静香さんみたいに綺麗な方に言われると、お世辞でも嬉しいですよ」

「そんなお世辞だなんて……」

「でも、今はそんな事より、静香さんの悩みを解決させるのが先です」

「あ、ありがとうございます……」

 静香は深々とお辞儀をした。

 これで僕に対する信用度は確実にアップしただろう。

 お辞儀をする際に、彼女の豊満な胸元が垣間見えた。

 僕はこんな状況だって、決定的チャンスは見逃さないのである。

 ゆっくりを後ろを振り返り、ブランコを眺める静香。

 僕はとりあえず彼女を赤いベンチに座らせ、ちゃっかり横に腰掛けた。

 その状態でも彼女は後ろに設置されたブランコが気になるのか、何度も振り返っている。

「静香さん、DVDに映っていた変な首を吊ったような感じの男の人。どのような格好で映っていたんですか?」

 不安、恐怖、安堵……。

 この三つを交互に組み合わせ、感情の起伏を激しくさせる。

 大抵の人間は精神が高ぶり、中には異常をきたす人間もいると、どこかでそう聞いた事がある。

 僕もうまく静香を揺さぶれているはずだ。

「は、はい…。背景に透けているのでハッキリとまでは言えませんが…。確か灰色っぽいスーツを着ていました。サラリーマンみたいな感じでした。顔までは混乱していたので、よく覚えていません。さすがに繰り返して見る気にはなれませんでした」

「僕も実際に見に行った訳じゃないんですが、その自殺した男性の特徴。あくまでも近所の人に聞いただけの話ですけどね。静香さんが今、話した格好と、非常に似通っていたと思います」

 静香は小刻みに肩を震わせだした。

 僕は近いほうの肩に手を掛けた。

「落ち着いて、静香さん」

 自分でそうさせといて、僕もよく言うものだ。

 笑いが込み上げてきそうだった。

「す、すみません……」

「まあ、お子さんの件は別段、何も異常がなければ特に問題はないと思いますよ」

「でも、何でうちの子に、そのようなものが映ったのでしょうか? 私、心配で……」

「お子さんはそれを見たのですか?」

「いえ、さすがに見せられません。新しいDVDだから、すごいねだられました。でも、親としては……」

 僕は満面の笑みを作り、優しく言った。

「分かりますよ。静香さんは正しいです」

「うちの主人には相談しようと言い掛けても、仕事で疲れているみたいで全然取り合ってもらえないですし……」

 本当に取り合ってもらいたいのは自分だろうが?

 その豊満な体が疼いてたまらないんだろ?

 僕が鎮めてやるよ。

 静香が下をうつむいているので、僕は丹念に体を横から舐めまわすように眺めた。

 一気に股間が熱くなる。

「ちょっとそのDVD、今度、僕に見せてもらえませんか?」

「そんな事までお世話になってしまったら、私、どうしていいか……」

 お礼は体で払ってもらうよ。

 そっと自分の中で呟いた。

 ヤバい、もうじき我慢の…、理性の限界だ……。

 ほのかに香る静香の甘い匂い。

 肩をつかむ手が、じっとりと汗ばんできた。

 とうとう僕の切り札を使う時がきたようだ。

 深夜、公園の赤いベンチで、自分のすぐ隣で座る四十歳の気持ち悪い男が、肩に手を置いている現実。

 そんな状況すら彼女は把握できていないのであろう。それほど疲労しきっているのだ。

「気にしないで下さい。だって旦那さんが助けてくれなくて、心細いんじゃないですか?」

「……」

「こんなに美しい女性が悩んでいるなんていけない事です」

「女性だなんて……」

 僕の台詞に静香は頬を赤らめた。

「結婚してからは女としてなんて……」

「何、言ってんですか。お子さんだって綺麗なお母さんで絶対に喜んでますよ」

「そ、そんな……」

「ご主人だって帰ってくるのが、楽しみでしょうがないんじゃないですか?」

「い、いえ……」

「そんな謙遜しないで下さいよ」

「謙遜だなんて……」

 もう我慢の限界だった。

 気がつけば、僕は彼女の両肩に手を掛けていた。

 自然と向かい合う格好の二人。

 静香は何が起こったのかも分からず、キョトンと目を丸くしている。

 彼女の甘い体臭が鼻をくすぐる。

 理性が吹っ飛んだ瞬間だった。

「か、亀田さ…ん……」

 自然に顔を近づけた。

 静香の顔がどんどん近づいて見える。

 僕のささくれた唇が彼女の優雅な唇に迫った。

 頭の中が真っ白だ。

「い、いや……」

 悲鳴に近い声を出しながら、静香は立ち上がった。

 ふと、現実に引き戻された瞬間だった。

 今さらながら後悔しても遅い。

 僕は焦り過ぎた。

 静香は、虚ろな顔でその場に立ちすくんでいた。

「す、すみません……」

「……」

 彼女は何も答えてくれなかった。

 まともな女性経験のない僕が馬鹿だった。

 一瞬だけ触れた静香の柔らかい唇。

 それだけで僕は射精をしていた。

 精液が下に向かってゆっくりずり落ちている感覚。

 ズボンを見ると、股間が湿っていた。

「ごめんなさい。静香さんが、あまりにも魅力的だったので……」

 言い訳にも何もならない滑稽な台詞。

 もう、何を言っても彼女には届かなかった。

「静香さん、本当にすみません。失礼な真似をしてしまい……」

 僕の言葉は何も聞こえてないかのように、静香はゆっくりと歩き出した。

 マズい、このままでは絶対にマズい……。

 頭が混乱してきた。

「静香さん……」

 公園の入り口に向かって歩く静香。

 反対に精液をズボンに滲ませながら、あとを追う僕。

 最悪の展開になってしまった。

 何度、声を掛けても無言の静香。

 微塵も後ろを振り返ってくれない。

 愛しさ、せつなさ、絶望感……。

 色々な感情が僕を渦巻く。

 アパートの階段に差し掛かろうとした時、僕は駆け足で静香を追い越した。

 階段の前で立ち塞がる僕。

 まるで犯罪者のようだ。

 静香は何のリアクションもせずに、ゆっくり歩くのを止めた。

 何故、僕はこんな事をしているのだろう。

 静香の表情からは何の感情も見られなかった。

 まるで人形のような冷たい視線を僕に送っている。

 果たして彼女には僕の姿が映っているのだろうか。

 いや、映っているからこそ、立ち止まったのだ。

「本当にすみません!」

 目をつぶって、勢いよく頭を深く下げる。

 もう、謝るしかない。

 それしか道はないのだ。

 足音が僕の横を通り過ぎる。

 顔を上げると、静香は階段を上ろうとしていた。

 瞬間に芽生えた殺意……。

 彼女の背中を睨みつける。

 自然と両手を挙げながら近づいた。

 僕の両手が彼女の首に迫る。

 本当にこれは、僕が自分で命令しているのだろうか?

 夢でも見ているような感じだ。

 彼女は僕の行動に何も気付いていない。

 首に手が掛かる寸前に、自分の精液の悪臭が鼻を通った。

 目を覚ますと、明るい日差しが差し込んでいた。

 どこだここは……。

 起き上がり、辺りを見回す。

 ヤニのこびりついた色の白い壁。

 見慣れたパソコン。

 僕の部屋だった……。

 夢だったのか。

 いや、そんなはずはない。

 昨夜の事は現実なのだ。

 まだ疲れが、全身に残っていた。

 疲労感からか立ち上がるのも面倒だった。

 パソコンのスイッチを入れ、タバコに火を点ける。

 今はパソコンにあるヤバいデータをすべて削除しなくてはいけない。

 起動するまでの時間が、非常に長く感じ苛立ちを覚える。

 パソコンが立ち上げるまでの間を利用してトイレに向かった。

 途中でくわえタバコの灰が床に落ちる。

 僕は何の気にもならなかった。

 トイレでズボンを下ろすと、嫌な悪臭が鼻をつく。

 昨日、射精した状態のパンツのままだったからである。

 僕はパンツもズボンも脱ぎ捨て、憎しみを込めゴミ箱に放り投げた。

 自分の理性のなさを呪った。

 もう少しであの女を抱けたのに……。

 節操のなさがすべてを台無しにしてしまった。

 もうこんなチャンスは二度と来ないだろう。

 後悔してもしきれない。

 すべて過ぎてしまった現実だけが、僕に重くのしかかる。

 用を済ませ、パソコンの前に座る。

 モニターにディスクトップの画面が写っていた。僕はマウスを握り、『静香』フォルダと『公園』フォルダを消去した。

 最悪のケースを考えなくてはいけない。

 まず、昨日の夜の事を静香がどう対処してくるかだ。

 彼女の性格を思えば、何も行動を起こさないかもしれない。

 しかし、それは都合のいい考えだ。

 旦那に昨日の事を話しているかもしれない……。

 警察に通報するかもしれない……。

 そうなったら僕はどうなる?

 体が勝手に震い出してきた。

 あれだけ謝っても口を開いてくれなかった静香。

 もう、ここは引っ越すべきである。

 どうやって、これから隣と顔を合わせろというのだろうか。

 毎日ビクビクしながら生きるのは嫌だ。

 ハッとして静香の黒ずんだパンティを探す。

 マスターベーションの最高のおかずとして活躍したパンティ。

 僕の手垢と唾液にまみれ、おぞましいものになっている。

 これもゴミ箱に捨てる事にした。

 これで、彼女との接点は何もない。

 あとはゴミを捨てればいいだけだ。

 目に涙が滲む。

 とりかえしのつかない事をしてしまった自分が情けなかった。

 でも、あの状況で自分を抑える事ができる男はいただろうか?

 僕には到底考えられなかった。

 ふと時計を見ると、朝の五時。

 あれから疲れてすぐに寝てしまったのだ。

 時間的に三、四時間ほど寝たのか……。

 必死に昨夜の事を振り返った。

 あの時、僕は自分の精液の臭いで我に帰る事ができた。

 その点だけは本当に助けられた。

 人殺しにならず済んだのだ。

 それから静香が部屋に入ろうとした時に、僕は口を開いてしまった。

「ご主人…、昨日、浮気してますよ」

 咄嗟に出た台詞だった。

 切り札として温存していたものを自分のドジで言いそびれていた台詞。

 その時だけ彼女は反応した。

 汚いものを見るような視線で僕を睨んでいた。

 可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものだ。

 僕は静香の目を見た瞬間、さらに酷い言葉を浴びせ掛けた。

「昨日、僕が打ち合わせと言いましたよね。あれは大嘘です。実は駅前の風俗に行っただけなんです。まあこんなに醜い僕ですからね。お金でも払わないと誰も相手してくれないんですよ。でもね…、その時、僕は見てしまったんですよ。あなたの旦那がそのヘルスから出てくるのを…。外でじゃないですよ。当然、店の中でです。自分が待合室のソファで座っていたら、プレイを終わった旦那が出てきたんですよ。旦那、何て言ったと思います?」

「……」

「どうも、すごい良かったよって、風俗嬢相手にとても嬉しそうに言ってましたね」

 無表情だった静香の目から、涙がゆっくりと零れ落ちた。

 はたから見ていると魂が抜け、抜け殻だけになったような気がした。

 そんな状況の中、僕はその姿を純粋に美しいと感じた。

 彼女はどこまでいっても崇高で神々しかった。

 静香は、ゆっくりと無言で隣の部屋に消えていく。

 僕はしばらく立ち尽くしていたが、やがて自分の部屋に入った。

 それから力尽きたかのように、そのまま布団に倒れ寝てしまったのだ。

 何故か脳裏には、あの公園で首を吊った男の姿が鮮明に映し出されていた。

 ピンポーン……。

 突然、玄関のチャイムが鳴る。

 僕はビクッとして恐る恐る振り返った。

 静香だろうか……。

 こんな朝の五時にドアのチャイムを鳴らすなんて、常識では考えられない。

 何かあるからこの時間に鳴らしているのだ。

 ひょっとしたら警察だろうか……。

 冷たいものが体の中を走る。

 無視しよう……。

 そしてタイミングを見計らって、この部屋を出て行こう。

 もうここで住むには無理がある。

 今はとにかくやり過ごすしかない。

 全身、汗まみれになった。

 しばらくしてから、再度、チャイムが鳴り響く。

 しつこい奴だ。

 こうなったらこっちも徹底的にやり過ごすしか道はない。

 息を殺し様子を伺った。

 待てよ…、パソコンが、もしメール受信などで、音を立てたらどうするんだ?

 慌ててパソコンの音声ボリュームをミュートに設定した。

 早朝なので辺りはまだ静まり返っている。

 まだ、ドアの外に誰かいるのだろうか?

 耳を澄ませても、鳥のさえずる泣き声が小さく聞こえるだけであった。

 五分は経過したであろうか。

 あれからチャイムはならない。

 僕は忍び足でドアに近づき、覗き穴を覗いた。

「ピンポーン……」

 覗いた瞬間、チャイムが鳴ったので心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受けた。

 おかげで僕は、ドアに強く頭をぶつけてしまう。今ので外にいる人物に絶対気付かれてしまっただろうな……。

 仕方なしに、腹を決めてドアを開く。

「……」

 しかし、外には誰もいなかった……。

 立地条件的にありえない光景である。

 僕の部屋は二階の角部屋で、隣には静香のいる香田家が住んでいる。

 状況的に見て、隣の誰かがチャイムを鳴らしすぐ自分の部屋に戻らない限りありえない。

 でも、誰がそんな事をして得すると言うのだ?

 気のせいで、三回もチャイムは鳴らない。

 目の前で起きた光景がまったく理解できないでいた。

 しばらく辺りの様子を見てから部屋に戻る。

 何もかも投げ出して、この場から逃げたかった。

 原因不明の出来事に混乱している。

 おかしい……。

 何かがおかしい。

 落ち着け……。

 昨日静香に、僕が散々言った台詞だ。

 自分がこういう時、落ち着かないでどうするんだ。

 深く息を吸い込み、大きく息を吐き出す。

 少しは落ち着いてきた。

 しかし、パソコンのモニターを見て、再度、仰天してしまった。

 ディスクトップの壁紙……。

 普段は作業を円滑にさせる為、壁紙は、無しにして真っ黒な状態にしてある。

 それがこの画面は一体……。

 メガネを外し、目を強めにこする。

 疲れているのだ……。

 僕は、再び画面を覗き込む。

「……」

 ディスクトップの画面には、あの公園で首を吊った男の画像になっていた。

 そんな馬鹿な……。

 さっき削除したはずなのに……。

 息が止まりそうだった。

「落ち着け…、落ち着けって……」

 今度は口に出して言ってみた。

 冷静に分析しろ。

 さっきは急いで削除した。

 だから多分どこかに触れて、たまたまディスクトップの背景にしてしまっただけだ。自分で必死にそう言い聞かせた。

 霊などいない。

 すべて科学的に証明されているはずだ。

 ディスクトップの開いている適当な場所で右クリックを押し、プロパティを選択する。

 上記タブのディスクトップを選び、背景なしを選択した。

 一瞬にしてバックの色は真っ黒になる。

 僕のケアレスミスだったに違いない。

 少し横になって休もう。

 きっと疲れているんだ。

 僕は布団に横たわり目を閉じた。

 頭の片隅にブランコで首を吊った男の映像がハッキリ映りだす。

 あの時、目の前で見たように映像がクリアで綺麗だった。

 目を開けると、現実の自分の部屋が映る。

「な、なんだよ…。なんだよ、これは……」

 これだけ進化した世の中だ。

 なのに何故、こんな思いをするんだ?

 寝ろ、とにかく寝るんだ。

 何も考えるな……。

 何も気にするな……。

 目を閉じると、相変わらず僕の脳裏には、あの男が映っていた。

 静香の事を考えた。ひたすら思い返した。

 彼女の性格なら、それに今のあの夫婦仲なら、いちいち旦那には言わない可能性が強い。

 彼女の事だ。

 自分の胸の内に留めておくというのが一番イメージ的に似合う。

 もし仮に、旦那が抗議しにやってきたとする。

 どこに証拠があるのだ?

 別に静香を抱いた訳でもない。

 相談事をたまたま聞くハメになって、しっかりしなさいと、両肩を抑えたら彼女が勘違いした……。

 うん、この言い方なら自分をうまく弁護できるだろう。

 逆にこっちが文句を言いたいぐらいだと開き直れば、向こうもそれ以上僕を追及できないはずだ。

 睡魔に襲われているからか、眠くなってきた。

 自分にとって都合のいい展開しか想像できなくなっている。

 まあ、いい。寝よう……。

 何か声が聞こえる。

 夢うつつの状態なので、夢かもしれない。

 起きているのか、寝ているのか……。

 自分でもよく分からないでいた。

 非常に気分が悪い。

 目を開く。

 見慣れたいつもの部屋。

 目を閉じる。

 また、あの男の姿が見える。

 僕は目を開けた。

 そして、体を起こそうとした。

「……!」

 体がまったく動かない。

 声も出なかった。

 これが金縛りというやつか……。

 しかし、恐怖心はまったくなかった。

 何故ならば、金縛りというのもは医学的に証明されているからだ。

 睡眠麻痺と呼ばれる金縛りは、レム睡眠と言われる状態時に起きる現象だからである。

 レム睡眠とは浅い睡眠の事を指し、意識だけが覚醒した時に金縛り現象となる。

 夢を見るのも、このレム睡眠状態だと言われているのが定説であった。

 つまり、金縛りは睡眠の中の一形態なのだ。

 原因がハッキリしているので怖くない。

 最近の精神的な疲れが蓄積していたのだろう。

 僕は気にせず、再び目を閉じた。

 ピンポーン……。

 今、またチャイムが鳴った。

 またか……。

 ひょっとしたら、先ほどのチャイムもすべて僕の夢の中での出来事だったのかもしれない。

 どうせ金縛りの最中なのだ。

 どっちみち動きたくても動けやしない。

 居留守になるだけの話である。

「亀田さーん」

 聞き覚えのある声。

 隣の香田家、静香の旦那の声だ。

「朝、早くすみませーん。亀田さーん。すみませーん。起きて下さい」

 旦那は僕の部屋のドアをガンガン叩いていた。

 あのクソ野郎め。

 一体、どういうつもりだ?

 しかし、声のトーンを聞く限り、怒っている訳ではなさそうだ。

「亀田さん、すみませーん」

 朝っぱらから近所迷惑な奴だ。僕は面倒臭そうに起き上がった。

「あれ?」

 いつの間にか金縛りも解けていたようだ。

 自由に体が動く。

 相変わらずドアを旦那は強く叩いていた。

 静香が昨日の事をあいつに言ったのだろうか?

 一瞬考えた。

 いや、それならあんなに温和な声をしているはずがない。

 しばらく旦那はドアを叩き続けている。

 仕方ない。

 開けてやるとするか。

 僕はドアを開いた。

「あ、すみません、亀田さん。こんな朝早く……」

 横目で時計を確認すると六時半だった。まったくだ。

「何でしょうか?」

 いつもキチンとした身なりをした印象の強い旦那。

 それが今は髪の毛もボサボサのまま、パジャマ姿で立っていた。

 もうとっくにいつもなら出勤している時間帯のはずだが、何かあったのだろうか?

「うちの家内が朝起きるといなくなっていたんです。しかも息子の隆志まで……」

「え?」

「亀田さんなら隣同士なので、何か知ってるかなと思いまして……」

 まさかこんな展開になるとは、予想もしなかった。

 静香は昨日の一件で確かに限界になったのだろう。

 切り札を出すタイミングさえ間違えなければ、あのまま抱けたかもしれない。

 悔しさがじわじわと体を侵食する。

「え、本当ですか?」

「ええ、さすがに取り乱してしまいまして…。息子までいなくなっていたので……」

「お気持ちは分かりますが、僕は分からないです。静香さんでしたっけ? 彼女とは挨拶と簡単な世間話ぐらいしかしませんでしたしね。何かあったんですか?」

「育児ノイローゼからの極度のストレスが溜まっていたのかもしれません。すみません、こんな朝早く起こしてしまいまして……」

「いえいえ、そんな状況じゃ仕方ないですよ。もし、僕に気付いた点とかありましたら、連絡しますよ」

「ご丁寧にすみません」

 一礼して旦那は隣に戻っていった。

 僕は部屋に戻ったのを確認すると、思わずニヤりとした。

 この展開なら僕がここを出なくても済みそうだ。

 静香を抱けなかったのは非常に残念だが、あのかすかに触れた唇の感触。

 あれだけで、しばらくマスターベーションのおかずに事欠かないであろう。

 部屋に戻ると、唇の感触を思い出し何度も繰り返しマスターベーションをした。

 静香を抱けなかった悔しさをかき消すように何度も飽きることなく続けた。

 あの時、静香にもっと慎重に接していたら、今頃、あの体を「ひぃひぃ」と、言わせていたのにな……。

 自分の節操のなさを恨めしく思う。

 例えば、例のDVDの件でもっと不安になるように煽って、「実は僕、霊的な事に詳しいんですよ。あまり声を大にして言えるもんじゃないですけどね……」とか、うまく言えば良かったのだ。

 心細い静香は、絶対に食いついてくるはずなのである。

 さらに日にちを空けてから、「先日、僕の先生といえばいいのでしょうか…。ちょっと相談してみたんですよ」と、うそぶく。

「そ、相談ですか?」あの可憐な静香が、僕に救いを求めるように聞いてくるだろう。

 そこで「ええ、ちょっと他の人には聞かれたくない話なので、僕の部屋でお話しましょう」と……。

 戸惑う静香。仮にも人妻なのだ。しかし、本来は女。しかも息子の隆志の件でなので、興味はあるはず。そこを優しく、そして狡猾に突いてやるのだ。

「いいのですか、このままで?」と……。

 目線を下に落としながら彼女は、きっと僕の部屋に来ざるおえない。

 この部屋に連れ込んでしまえば、いくらだってやりようがあるのだ。

 あの『静香』フォルダを慌てて削除なんてすんじゃなかった。

 卑猥な妄想が、頭の中を駆け巡る。

 僕は、その想像だけでマスターベーションを猿のように繰り返した。

「チクチョー!」

 もっと僕が、うまくやってさえいれば……。

 あのボリューム満点の体を自由自在にできたのにな……。

 悔やんでも悔やみきれない。

 僕は人生最大の失敗をしてしまったのだ。

 それから一週間が経った。

 僕の日常は変わりないと言いたいが、その正反対であった。

 パソコンのモニターには、常に消したはずの首吊り男が写るようになっていた。

 今まで生きてきて四十年。

 霊など信じた事すらなかった。

 でも、そんな僕も霊を否定できない状況に立たされていた。

 毎日のように起こる金縛り。

 しかも夜になると部屋の隅で、首吊り男が常に天井からぶら下がっていた。

 そしてある事実に気付いた。

 僕が目をつぶる度に、首吊り男は徐々に近づいてきていた。

 怨めしそうな怨念の籠もった表情で、僕の顔を見ていた。

 今も一瞬、閉じただけなのに一センチほど近づいてきている。

 距離は徐々に縮まっていく……。

 首吊り男は両手に縄を持っていた。

 僕の首にそれを掛けるつもりなのだろう。

 多分、僕がこの男の自殺の件を面白半分に利用したから、怨んでいるのだろう。

 顔を見ているだけで、全身に鳥肌が立った。

 恐怖心で頭がおかしくなりそうだった。

 だから逃げたかった。

 でも、無理なのだ。

 僕はこの一週間、ずっと金縛り状態で、指の先まで何も動かせないのだから……。

 この身に待っているのは絶望だけだった。

 今では首吊り男の顔が、目の前に迫っている。

 体の腐った臭いが鼻をつくが、何もできないでいた。

 男はまばたきもせずに、僕をずっと睨んでいる。

 目をつぶると、首に何かを巻きつけられた。

 もういい……。

 確認すらしたくなかった。

 また目を開けても、怖い思いをするだけだ……。

 僕は懸命に目をつぶっていた。

~静香の章~

 スヤスヤと眠る隆志。

 寝顔を見ていると、昼間駄々をこねて困らせているのが、嘘のように感じる。

 この子は、私が生んだ子供。

 お腹を痛めて産んだ、ただ一人の息子。

 この子がいる限り、私は何があっても生きていかないといけなかった。

 だって、それが私の使命なんだから……。

 主人のところを家出して、十日間が過ぎようとしている。

 今は親元に身を寄せていた。

 あの場所に引っ越してきてから、嫌な印象しか残っていない。

 隣に住む住民の亀田。

「悪い人だ」

 隆志が亀田を指差し言った台詞。

 あの時は怒ったけど、この子は幼いながら直感で感じたんじゃないかなって思っている。

 本能的に、この子は守ろうとしたんじゃないかな、私を……。

 私は優しく微笑みながら、寝ている隆志の髪を撫でた。

「ママ……」

 ゆっくり隆志は目を開く。

「なあに?」

「パパは?」

 隆志の言葉が私の胸を打った。

 あの人と私は、夫婦でも他人同士。

 でも、この子は違う。

 私とあの人の遺伝子、両方が流れている。

 いくら母親寄りと言っても、やはり父親は必要だ。

 あの人の浮気疑惑……。

 私は確認もせずに、隣の住民の意見を聞いただけで飛び出してしまった。

 あの時は、確かに限界でおかしくなりそうだった。

 でも、よくよく考えてみると、しょせん私のエゴなんだって気付く。

 この子の為にも戻らないと……。

「今日、帰るわよ」

「ほんと?」

「うん、パパにすぐ会えるよ」

「わーい」

 隆志の喜ぶ顔を見て、今まで一人で悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。

 夫婦なんだから、もっと体当たりで話し合おう。

 もっと私は頑張らないといけない。

「ねえ、隆志。何であのおじちゃん、悪い人って言ったの?」

 私は以前、唐突に言った隆志の言動が気になっていた。

 実際に亀田はとんでもない男だった。

 思い出すと、全身鳥肌が立ってくる。

「だって、あのおじちゃんさー…、いつも後ろで、おじいさんが怖い顔で睨んでいるんだもん」

「おじいさん?」

「うん、灰色の服着たおじいさんだよ」

 私は言葉を失った。

 あのビデオに写った霊の事をこの子は言っているのかしら……?

 今、私はアパートの前にいる。

 隆志はアパートが見えるなり、一目散に階段を駆け足で上っていった。

 よほど父親が恋しかったのだろう。

 でも、主人は仕事で、まだいない。

 電話の一本でもしておけば良かったかな。

 あの人、ちゃんとご飯食べているのかしら?

 私が二階に上り終わると、隆志が駆け寄ってきた。

「あら、ママを待っててくれたの?」

「ママ、隣のおうち、くちゃい」

「え?」

「くちゃい?」

 隆志は臭いと言いたいのだろうか?

 我が家に近づくと、妙な臭いが鼻をついた。

「何、これ……」

 私がハンカチを取り出している間に、隆志は隣の亀田の部屋のドアの前まで歩いていた。

「隆志……」

 背伸びしてドアノブに触れる隆志。

「勝手に触っちゃ駄目よ」

 隆志はドアを開けようとしている。

「隆志……」

 言っている最中にドアが少し開き始めた。

 私はため息をついた。

 できる事なら、亀田とは顔を合わせたくなかったのに……。

「キャーーーー……」

 ドアが三分の一ほど開くと、私は大声で悲鳴を上げていた。

 亀田がドアノブに縄を括りつけ首を吊っている姿が、目に映る。

 最後に見てからまだ十日しか経ってないのに、亀田は腐り始めていた。

 私は気絶しそうになるのを懸命に堪えた。

 亀田から湧き出る異臭で、呼吸すらままならない状況だ。

 泣いている息子の隆志を抱きかかえると、一目散にその場から逃げ出した。

~隆志の章~

 何で最近、パパとママは笑わなくなったんだろ。

 僕と一緒にいる時、ママは笑ってくれる。

 パパは、いつも疲れてそうな顔ばかり。

 前の家の時は、もっと笑っていたのにな。

 あそこのデパートのオムライス大好きだったのに、最近どこにも連れてってくれない。

 こっちに来てから、近所のみよちゃんとも会えなくなっちゃった。

 隣の家の大ちゃんとも、遊べない。

 いつもお菓子をくれた髭のおじさんにも会えない。

 ジュースを買ってくれる太ったおばさんにも会えない。

 いつもママと一緒。

 それは嬉しいけど、他の子とも前みたいに遊びたい。

 夜になると、パパとママは喧嘩をしていた。

 前は二人ともニコニコしてたのにな。

 一回だけパパとママと一緒に、ハンバーグを食べに行った。

 シマシマの洋服を着た大きいお兄ちゃんが、ハンバーグの上に日の丸の旗を差してくれた。

 家でもママが、ハンバーグを作ってくれるといいな。

 アイスクリームの乗った緑色のジュースも、また食べたいな。

 こっちに来て良かったのが、公園ですぐ遊べるところ。

 公園に来ると、ママはニコニコ笑ってくれる。

 僕は、大好きな砂場で遊んで、ブランコも乗る。

 みよちゃんや、大ちゃんたちと、ここで一緒に遊びたいな。

 太ったメガネのおじちゃんが、ママに話し掛けてきた。

 何でこのおじさんの後ろに、怖い顔をしたおじいさんがいるんだろ。

 みんな、半袖なのにおじいさんだけ、いつも灰色の服を着ている。

 太ったおじちゃんの後ろで、いつもピッタリくっつくようにしているおじいさん。

 一回だけ僕と目が合った事がある。

 とっても怖かった。

 だって、僕、何もしてないのに、おじいさんが睨んでくるんだもん。

 でも、ちょっとだけ僕を見たあと、いつも太ったおじちゃんを睨んでいた。

 この間、隣に住んでいるメガネを掛けた太ったおじちゃんと、公園に行く時すれ違った。

 とっても臭かった。

 ママはいい匂い。

 パパもいい匂い。

 パパと同じ男なのに、このおじちゃんの匂いは臭い。

 ホッペが怪人のようにガザガザなホッペで、いつも指でポリポリ掻いている。

 このおじちゃん、いつもママの事をジーって見ている。

 この太ったおじちゃんの顔を見ていると、何かの虫に似ているなあと思う。

 まだ灰色の服を着たおじいさんが、後ろでピッタリとくっついていた。

「このおじちゃん、悪い人だ……」

 そう言うと、ママは怒る。

 だけど、パパがたまに怒った時の目と、灰色のおじいさんの目が同じなんだもん。

 だから太ったおじちゃんは、悪い人なんだ。

 僕の事をおっかない目で見てくる。

 でも太ったおじちゃんは、気付いていないみたいだけど、後ろで今だって灰色の服を着たおじいさんが睨んでいるよ。

 公園でママと遊んでいたら、格好いいお兄ちゃんと可愛いお姉ちゃんが腕を組んで入ってきた。

 とても仲が良さそうな二人。

 よく分からないけど、お姉ちゃんは僕に気がつくと、ジッと僕の顔をしばらく見ていた。

 僕もそのお姉ちゃんをジッと見ていたら、お兄ちゃんが「おい、美和。何してんだよ?そろそろ行くぞ」と声を掛けて公園から出て行っちゃった。

 公園を出てからもお姉ちゃんは、僕のほうを何度か振り返って見ていた。

 ママとパパがまた喧嘩をしている。

 朝起きると、僕はママに連れられてお外に行った。

「隆志、ママのお母さんに会いたいでしょ?」

「うん」

「ママのお父さんは?」

「会いたい」

「そう」

 ママはとても嬉しそうに笑った。

 パパに会ってない。

 どこに行っちゃったんだろ。

 朝起きると、ママが僕の髪の毛を撫でていた。

「ママ……」

「なあに?」

「パパは?」

 僕がそう言うと、ママは黙っちゃった。

 しばらくしてからママは優しそうな顔で言った。

「今日、帰るわよ」

「ほんと?」

「うん、パパにすぐ会えるよ」

「わーい」

 もうじきパパと会えるんだ。

 パパのところに行くと、臭かった。

 太ったおじちゃんの匂いより臭かった。

 この匂いは、なんだろ。

 隣の太ったおじちゃんの部屋のほうに行くと、ママが大声で僕を呼んだ。

「勝手に触っちゃ駄目よ」

 ドアを開けようとしたら、すごい臭い匂いがした。

「隆志……」

 何の匂いだろ?

 ママが僕を呼んでいる。

 でも僕は、気になってドアを開けた。

「キャーーーー……」

 ママの大声。

 ドアの向こうから太ったおじちゃんが、灰色の服を着たおじいさんに首を絞められていた。

~早乙女の章~

 つい先日、不可解な事件があった。

 デザイン会社で働く俺は、知り合いがその不可解な自殺をしたと知り驚く。

 警察の調査の結果では自殺。

 だが俺は、おかしいと思う。

 だから自殺ではなく事件…、自身の中ではそう位置付けた

 その知り合いの名前は、亀田。

 四十歳で、デブで気持ち悪いオタク野郎だった。

 うちの仕事を在宅で引き受けているデザイナーだ。

 何を考えているのか分からない無表情な顔。

 こんな奴、生きている価値があるのだろうか……。

 いつも心の底でそう蔑みながら、奴に接していた。

 俺のマンションの近くのアパートに住んでいる。

 いや、言い方が間違った。

 生前は住んでいたか……。

 その亀田が自分の部屋で、ドアノブに紐をかけて首吊り自殺をしたという。

 あのむさい部屋は過去に、仕事で仕方なく行った記憶がある。

 極端に人と接触するのを嫌がる亀田は、打ち合わせ場所にいつも駅前の喫茶店を指定してきた。

 以前そこが定休日だったので、仕方なく亀田の部屋で打ち合わせをしたのだった。

 オナニーしかしていないような部屋の臭い。

 ゴミ箱にはティッシュの山で、満タンになっていた。

 床に元々は白なのに、すっかりと黒ずんだ女性物のパンティがあったらしい。

 まああいつにはお似合いの部屋だ。

 でも、一つ引っ掛かる点がある。

 普通、そんな状態で自殺なんかするのか?

 俺には自殺願望などまったくないので、自殺者の心理状態など理解はできない。

 それにしても、妙な何かが頭の中で引っ掛かっていた。

「おい、早乙女」

「は、はい」

「仕事中、ボーっとしてんじゃねえよ」

「すいません」

 まったく口うるさい上司だ。

 俺は知ってんだぜ。

 この間、事務の佳代子にふられたの。

 善戦空しく口説いていたけどな。

 俺は心の中で笑ってやった。

 それにしても、亀田の自殺は不可解だ。

 最後に会ったのって、一ヶ月前ぐらいだったのにな……。

 これはひょっとすると、霊的現象が絡んでいるのかもしれない。

 俺はつい、そこへ物事をこじつけたくなってくるんだ。

 もう俺も二十三歳。

 それなのに、まだ一度も霊体験などした事がない。

 あれだけ色々と肝試しに行っているのにな。

 金縛り一つでも、ひと目見るだけでも何でもいい。

 俺は霊体験がしたいのに……。

 仕事を終えビルを出ると、入り口のところに人影が立っていた。

 その人影は俺を見ると、足早に近づいてくる。

 ニコニコ笑いながら近づく影は女だった。

 もちろん俺の彼女の美和だ。

「仕事お疲れ様、雷蔵」

「ああ」

「ご飯でも食べに行く? それとも、何か作ってあげよっか?」

「どっちでもいいよ」

 素っ気なく答える。

 行きつけの喫茶店で偶然相席になったのが、出会いの始まりだった。

 こいつと付き合いだして、まだ一週間。

 毎日のように美和は、会社まで迎えに来てくれる。

 料理が趣味で、食べ物の事になると目の色が変わる。

 俺にどこの店はグラタンがおいしいだの、あっちの店はサラダのドレッシングが絶妙だの、そんな台詞しか言わない。

「だいたい、雷蔵は食に関して、栄養のバランスが悪過ぎるのよ」

 そうやって、いつも俺の食生活に口を挟んでくる。

 もともと腹に入れば何でも同じといった感覚できているから、今さらそんな事を言われたってどうしょうもない。

「気はそれなりに使ってるって」

「それなりじゃ……」

 美和の言葉を遮って、俺は歩き出した。

「あなたに何かあったら、私は悲しいから…。だから、いつも口うるさくなるのよ」

「ああ、分かってるよ」

 確かに心配はしてくれているのだ。

 悪い感じには捉えていない。

 でも元々関心のない事なので、正直ウザかった。

 綺麗な黒髪を人差し指でクルリと絡ませながら、美和は俺のあとをついてくる。

 素っ気ない俺なのに、よくもまあ文句も言わず黙ってついてくるもんだ。

「美和……」

 立ち止まり、振り返って話し掛ける。

 付き合いだしてまだ一週間だが、そろそろ潮時かもしれない。

「何、どうしたの?」

「一体、俺なんかのどこがいいんだ?」

「全部」

「嘘こけ」

「ほんとだよ」

「まだ、知り合って一週間だぞ。一週間。何が分かるんだよ?」

「それはそうだけど、分かりたいって思ってる」

 彼女からもの凄いアプローチで折れた形になり付き合ったが、最近はどうかと感じていた。

 いまいち話も性格も噛み合っていないような気がする。

「何が分かるんだよ?」

 このままいけば、別れ話に展開しそうだ。

「食べてるものに関してね、あまり関心がないのは分かってる。でも、心配だから言っちゃうの。それは分かってほしいの」

「そんな事を聞いてるじゃない」

「あとは、怖いものが、すごい好きなのも理解してる」

「でも、おまえは嫌がるじゃないかよ」

「だって……」

 週に三回は色々なレンタルビデオに行き、ホラー系の作品を借りてきている。

 とにかく俺は怖いものが大好きなのだ。

 しかし、美和は絶対に見ようともしない。

 臆病なのは分かる。

 でも俺が見ているのは作り物だ。

 できれば本当の体験を自分でもしたい。

「怖いものが俺は好きなんだよ。実際にそんな体験ないしよ。だからとことこ追求したいんだよ。でも、おまえは俺がDVD借りてきても、一緒に見る事すらしないじゃん」

「……」

「黙ってちゃ、何を考えているのか理解できないよ。自分だけ分かりたいって思ってれば、それでいいのか?」

「そ、そんなんじゃない……」

 美和の顔は、今にも泣き出しそうな勢いだった。

「別に悲しませるつもりはない。でもうまくやっていけるのか?  おまえ自信あるか? 趣味だって全然違う。確かに俺はおまえを抱いたよ。顔だって好みだ。でも性格が、噛み合わな過ぎる……」

 道端だというのに、美和は泣き出した。

 少し心が痛むが、仕方がない。

 このまま適当に付き合っていても、お互いが不幸になるだけなんだと自分に言い聞かせた。

「とりあえず、今日は帰るよ。食事に行く気分でもない」

 泣いている美和を置き去りにして、俺はマンションへ向かった。

 部屋に帰っても、気分はスッキリしなかった。

 久しぶりの一人の時間だというのに……。

 ここ一週間は、いつも隣に美和がいた。

 付き合いだしてからの一週間は、同棲のようなものだった。

 いつもいて、当たり前の存在になっていたのかな。

 先ほどの状況を思い出すと、少し言い過ぎたような気がしてきた。

 特にする事もない。

 暇をボーっと、ただ悪戯に持て余すのは嫌だった。

 俺って落ち着きがない証拠なのかな?

 まあいい、レンタルビデオにでも行って、ホラーでも借りてくるか。

 簡単にシャワーを浴び、手早く身支度を済ませる。

 部屋を出ようとした時、携帯が鳴り出した。美和からの着信だった。

「はい……」

「雷蔵さん……」

「何だ?」

「今からそっちに行っちゃ駄目?」

「これからレンタルに行こうと思ってたんだよ」

「私も一緒に見るようにするから……」

「無理だよ。おまえ、いつもつまんなそうにしてるじゃん」

「努力する! 努力するから、お願い……」

「分かったよ……」

「ほんと?」

「ああ、部屋で待ってるよ」

「すぐに行くね」

 俺はソファーに腰掛け、美和を待つ事にした。

 ちょっと口うるさいけど、性格はかなりいい女である。

 少し…、俺の配慮が足りなかったかな……。

 俺の部屋に美和が来た。

 先ほど俺が冷たい言葉を浴びせたせいで、美和の目は赤くなっている。

 しばらく泣いていたのだろう。

「さっきは悪かったな」

「ううん、いいの…。私がもう少し気をつけていれば……」

 下をうつむきながら、美和はボソッと話す。

 俺には冷たい行動をとられるのが、何よりもこたえるといった感じだ。

 自分が言い出した事とは言え、少し哀れになってきた。

「お腹は…、飯は食ったのか?」

 そんな簡単な台詞一つで、美和は顔を上げる。

 表情が一気に明るくなっていた。

 恋愛とは、惚れたほうの負けである。

 損をするのは、いつだって惚れたほうだ。

「まだ…。何か食べに行く?」

「何だよ、急に明るくなりやがって」

「だって嬉しいじゃん。好きな人と一緒にご飯食べるなんて、一番幸せな事だもん」

「けっ、単純な思考でいいね」

「うん、だから幸せなんじゃない」

 美和はそう言って嬉しそうに微笑んだ。

 元々身支度は整えていたので、すぐに部屋をあとにする。

 近所のラーメン屋に入り、テーブルにつく。

 味噌ラーメンと餃子を注文し、美和はチャーハンを頼む。

 美味くも不味くもないこのラーメン屋は、そこそこの客入りだった。

 十分もしない内に料理が運ばれてくる。

 まだまだ食い盛りの俺は、あっという間に麺を平らげる。

 まだ腹は半分ぐらいしか満たされていない。

 マーボ豆腐定食も頼んでおけばよかった。

 餃子も食べ終わり、ラーメンのスープを飲もうとすると、美和が声を掛けてきた。

「待って、雷蔵」

「何よ?」

「スープはね、できれば飲むの、やめたほうがいいと思うの。カロリーが……」

「うるさいよ、いちいち……」

 また、始まった。俺は言葉を途中で遮る。

「……」

「俺は、おまえのそういうところが嫌なんだよ」

「ご、ごめんなさい……」

「俺がな、何を腹に入れようが、俺の自由だろ? スープを飲むと、癌にでもなるのか?」

「ううん、そんなんじゃないけど……」

「カロリーが何だとかさー、いつも言うけどー。そんなにカロリーカロリー言うなら、もっと健康オタクでも彼氏にしたほうがいいよ」

「わ、私は、そんなつもりで……」

「そんなつもりでも何でも、俺にはそういうのウザいんだよ!」

 美和はチャーハンを食べる動作をやめ、俺をジッと見ている。

 まだ三分の二以上残っていた。

「なあ…、こういう状況に何度なってる? まだ、俺たちが付き合いだして一週間だぞ。一週間…。おかしいだろ? 付き合い始めのカップルが、こんな喧嘩みたいな形ばかりなんてよ」

「……」

 店内はシーンと静まり返っていた。

 数人の客の視線が、背中に刺さるのを感じる。

 確かに美和はいい女だ。

 男ならみんな可愛いというだろう。

 この状況ではどう見ても、俺が悪者に映っているんだろうな。

 突然、肩をつかまれる。

 振り向くと、チンピラ風の男二人が俺の背後に立っていた。

 挑戦的な目つきで俺を睨んでいる。

 二人とも、どう見ても俺より年上だった。

「な、何だよ……」

 喧嘩が得意でない俺は、いまいち強く言い出せない。

「おう、兄ちゃん。店の中でデカい声を出してんじゃねえよ」

「す、すみません……」

 俺が謝ると、下品な声で笑いだした。

 いかにも喧嘩慣れしたような目つき。

 体つきはそんなでもないが、拳がゴツゴツしている。

 もう片方の黙っているほうは、サングラスを掛けていて、体もデカい。

 二人共パンチパーマみたいなヘアースタイルで、どう見ても一般人ではないようだ。

 内心、怖くて仕方がなかった。

 いくら怖いのが好きだといっても、こういう別の怖さのはごめんである。

「おい、姉ちゃん。こんな馬鹿と一緒にいないで、俺らと一緒に飲もうや」

 美和はこういった側面に接するのは初めてなのだろう。

 無言で震えていた。

 ここは俺が怖くても、何とかしなと駄目だ。

 最低限の男の条件ぐらいは、まっとうしないといけない。

 自分で必死に言い聞かせる。

「姉ちゃん、べっぴんさんだなあ。ほら、こっち来てビールぐらいつげよ」

「や、やめて下さい……」

 何で誰も、この二人をとめようとしないんだ?

 店の親父は何をしてるんだ?

 俺は周りの出方を伺っていたが、誰も動く様子は一切なかった。

 これだから今の日本は腐っているって言われんだ……。

「や、やめろ……」

 懸命に声を振り絞り言った。

 声が小さく震えているのが自分でも分かる。

 サングラスを掛けたデカい男が、俺に凄んできた。

 心臓が萎縮するような感覚。

「あん?」

 大男の顔が、どんどん近づいてくる。

 心臓まで悲鳴を上げそうだった。

 男の臭い息が俺の鼻の穴を通り、胸まで漂ってくるような気がする。

 気分が悪い。

「もう、おまえはあっち行けや、ボケ」

「兄ちゃん、すっこんでろ」

 言い返さないと……。

 喉まで出掛かっているのに、声が出ない……。

 俺は身体が震えていた。

 でも美和を置いて、この場から逃げたりはできない。

「何か、文句あんのか、おう?」

 もう一人の男まで詰め寄ってくる。

 恐怖が体を包み込む。

 怖くて顔をそらしたいが、そうも言ってられない。

 軽く呼吸をしてから俺は睨みつけた。

 男の表情が一辺する。

「す、すみません……。お、俺の女に…、て、手を出さないで下さい……」

 声が震えているが、自分の意見をはっきり伝えた。

 俺は殴られてもいいや。

 美和さえ、無事なら……。

「あん、何て言ったんだ?」

 大きい男が胸ぐらをつかんでくる。

「や、やめろって言ったんだ……」

「あ?」

 自分より弱い人間をいじめて、そんなに楽しいのか?

 はっきりそう言ってやりたかった。

「お、俺の女に手を出すな……」

 そう言うのが、精一杯だった。

 できればこれ以上逆鱗に触れたくない。

「上等だよ、このガキ」

「兄ちゃん、表、出ようか?」

 胸ぐらをつかまれた状態で、俺は外に連れ出される。

 誰も喧嘩をとめようとする者はいなかった。

 そばで美和が心配そうに見つめている。

「美和、早く行け。俺はいいから、早く……」

「雷蔵……」

「早く!」

 目でも必死に訴えた。

 何の為に俺がこうやって突っ張っているんだ。

「行けっ!」

 泣きそうな顔をしながら、美和は何度も後ろを振り向きながら去っていく。

 こんな状況なのに、少しはホッとできた。

「いっちょ前にナイト気取りかい、兄ちゃん。格好いいな」

「おまえは逃がさねえぞ、おい」

 隙を見て逃げ出そうと思っていたのを読まれたのか、手首を強くつかまれる。

「……」

 俺は二人に近くの公園へ連れて行かれた。

 目の前には、ブランコが見える。

 体のあちこちが痛い。

 あいつら、無抵抗の俺を散々殴りやがって……。

「いてて……」

 起き上がるのも一苦労である。

 すぐ近くの赤いベンチに腰掛けた。

 座っただけで痛みが走る。

 そういえば美和はあれからどうしているのだろう?

 俺は携帯電話を取り出し、美和に掛けてみた。

 一回目のコールが鳴り終わらない内に、美和は携帯に出る。

「雷蔵、大丈夫?」

「うーん、どうだろ? まあ、こうして話していられるぐらいだから問題はないだろ」

 明日の会社で何か言われないかな……。

 少し心配になってきた。

「今、どこにいるの?」

 俺は周りの様子を見渡してみた。

 マンションのすぐ近くの公園だ。

 まあ普段公園には来ないが、近所なのである程度場所ぐらいは把握している。

 俺の座っている赤いベンチのすぐそばに、ブランコが一台。

 普通の一人乗りのブランコではなく、二人が向かい合って腰掛けるタイプのブランコである。

 その横にはすべり台つきのジャングルジムがあった。

 あと目につくものといったら、砂場ぐらいなものである。

 まったく何の取り柄もない小さな公園だ。

 あの二人組、この辺に住んでいやがるのか?

 だとしたらまた顔を合わせる確立もあるかもしれない。

 嫌だなあ……。

「ねえ、雷蔵。もしもし?」

 美和と話しているのをすっかり忘れていた。

「あ、もしもし」

「大丈夫なの?」

「ああ、問題ない。それよりおまえはどこにいるんだ?」

「雷蔵の部屋よ」

「そうか、良かった。無事だったんだな……」

 ちゃんと美和を守れる事ができて安心した。

「ごめんね……」

「何が?」

「雷蔵を置いて逃げちゃって……」

「馬鹿だな、俺がそれを望んだんだろ?」

「……」

 携帯の向こう口で、美和のすすり泣く声が聞こえる。

「まあいい…。これから部屋に戻るよ」

 返事はなかった。

 泣き声だけが、かすかに聞こえる。

 そんなに怖かったのか…、それとも俺の事を心配しての涙かは分からない。

 でも、心が安らいでいた。

 ベンチから立ち上がり歩き出す。

 まだ痛みで歩くのも容易ではない。

「くせっ……」

 ブランコの前を通る時、何ともいえない嫌な臭いが鼻をつく。

 公園には俺一人しかいないのに、思わず声を出してしまったぐらいだった。

 一体、何の臭いだ?

 うんちか…、ゲロか……。

 いや、そういった臭さの元がすべて合体したような凄まじい臭いだ。

 口の中にある唾液を吐き捨てる。

 辺りを見渡すが誰もいない。

 人の気配すらない。

 さっきまでは喧嘩に夢中で気がつかなかっただけなのだろう。

 とにかくここにいても臭いだけだ。

 俺は公園を出て、マンションへ向かった。

 その日は部屋に戻ると口数も少ないまま、お互いを激しく求め合った。

 朝起きると、顔がかなり腫れていた。

 色男が台無しである。

 まあ一日も経てば腫れは引くだろう。

 会社に連絡して今日は有休をとる事にした。

 さすがに喧嘩ではと言えないので、急な体調不良と伝えるだけにしておく。

 キッチンで朝食を作る美和の後姿を眺める。

 こいつと付き合いだして一週間。

 たかが一週間。

 されど一週間……。

 こいつを守る事ができて本当に良かった。

 あの時何かあったら、俺は人間として失格である。

 美和は幸せそうに微笑みながら、次々と料理を運んできた。

 野菜たっぷりのミネストローネスープ。

 綺麗に彩りも考えたサラダ。

 ハムとチーズを挟んだクロワッサン。

 ベーコンがたくさん入ったジャーマンポテト。

 トマトとモッツェラレラチーズのサラダ。ほうれん草のおひたし。

 目玉焼きと、朝から非常に豪華な食事になったものである。

「そんなに食えないよ」

 俺が笑いながら言うと、美和は嬉しそうに笑った。

 しかしこうやってゆっくりと朝食をとるのは、本当に久しぶりだった。

 たまにはこういうのも悪くない。

「美和、おまえ仕事は?」

「うん、雷蔵が休むと思ったから、私、有休とっちゃったの」

「もし、俺がとらなかったら、どうするんだよ?」

「そんな顔じゃ、会社に行けないでしょ?」

「確かに……」

 心の底から久しぶりに笑えたような気がした。

 美和は化粧品屋に働いている。

 少し吊り上がり気味の目だが、美和を見れば大抵の人間は綺麗だと思うだろう。

 俺も食事の件に対しての口うるささと、怖いのが苦手という以外には何の問題もない。

 少し甘ったれたような喋り口調。

 厚ぼったい唇。

 スタイルだっていいほうだ。

 今までたくさんの女を抱いてきたが、これで中身もいいという女は稀である。

 まだ、結婚を考える年ではないけど、もしするならこいつみたいな女が一番いいのかもしれない。

「おいしい?」

「ああ、うまいな」

「良かった」

 テーブルに両肘をついて顔を支え、俺の食べる様子を見ながら微笑む美和。

 そういや喫茶店での最初の出会いも、こいつはこうしていたっけ……。

 あの時喫茶店は満席だった。

 俺が一人でリラックスしながらコーヒーを飲んでいると、突然横に女性が立っていた。

「すみません、相席いいですか?」

 俺は店内を見回す。

 確かに満席だ。

 パッと見、いい女だというのが第一印象だった。

「ん、ああ、どうぞ……」

「良かった……」

「え、何が?」

「満席で……」

「はぁ?」

 一体何を言いたいのだろうか?

 俺には意味が分からない。

 満席で相席になったぐらいまでは分かるが、何故それがいいのだろう?

「あ、あの~…、おっしゃる意味が分からないのですが……」

 俺がそう言うと、女性は恥ずかしそうに微笑んだ。

「あのですね……」

「はい?」

「私、美和って言います」

 いきなりこんな状況で、自分の名前を名乗るのはどうかと思った。

 お見合いなら分かる。

 しかしこの状況は、喫茶店でたまたま相席になっただけなのだ。

「外を歩いていて窓越しに、あなたの姿が見えたんです。つい、中に引き寄せられるように入ってしまいました。そしたら満席で…。私、これでも今、緊張してるんですよ」

「……」

 何て答えていいか、分からない。

 確かに美和と名乗る女は、誰が見ても綺麗だ。

 こんな女から告白めいた事を言われ、正直嬉しくも感じる。

 だが、性格的にはどうなんだ。

 この状況で考えるとデンジャラスな香りがしてくる。

「あ、一人ですみません…。ペラペラと……」

「いや……」

「実はですね……」

「ええ」

「以前からあなたの事が、気になってたんです……」

「はぁ?」

「よくここにいらしゃいますよね?」

「まあ……」

「私、窓越しにですけど、よく見かけていたんです。それでいいなあと思っても、なかなかきっかけがつかめなくて……」

「はぁ……」

 俺はこの喫茶店の常連でもあった。

 クラシカルな雰囲気が漂う店。

 昔から建っているせいか、よく見かける常連客も多い。

 近年漫画喫茶というものが主流になりつつある中、このような本来の喫茶店はどんどん無くなっている。

 そんなに儲かる商売でもないのだろう。

 ここのコーヒーがというよりも店の雰囲気が好きで、通っているようなものであった。

「それで今日こそはって、勇気を振り絞ったら……」

「満席だったと」

「はい……」

 素直に嬉しく感じた。

 俺にとっては初めてでも、彼女にとっては自分の中でとっくに出会っていたのだ。

 確かに最初のおかしな言動も、ここまで聞けば理解できる。

「良かったら、何か酒でも頼むかい?」

「え?」

「ここは俺がもとう。偶然的な事が色々重なって起きた現実に、乾杯って感じかな」

「ありがとう……」

 美和は、満面の笑みで喜んでいた。

 何度かこの喫茶店で回数を重ねて、会うようになり、気付けば付き合うようになっていた。

 腹も満腹になったので、レンタルビデオ屋へ行く事にした。

 もちろん美和も一緒である。

 昨日の公園を越えて、近所のレンタルビデオ屋に向かう。

 公園を通る途中、昨日の変な臭いは全然しなかった。

 店に到着すると、俺は真っ先にホラーものの置いてある棚へ進んだ。

 怖がりの美和は新作コーナーに行くと言い、別行動を選択する。

 ホラーもののDVDのジャケットを見るのも、嫌なのであろう。

 まあいい、人はそれぞれ感覚が違うのだから……。

 昨日の絡まれた件で、俺は美和との付き合いを前向きに考えているのかもしれないな。

 一緒にホラー系を見られれば、本当に文句がないのだが……。

 ホラーもののコーナーを見ていて、一つのDVDに目がとまる。

 何十種類もあるのに、何故そのDVDだけ、自然と目がとまったのだろう?

 不思議な感じがするジャケットのデザイン。

 普通の背景が写っているだけの質素なジャケットだった。

 その普通さが、気味悪く感じる。

『一般人投稿の不可解な映像』 …と、いうタイトルだった。

 これだ。

 これしかない……。

 吸い寄せられるように、俺はそのDVDを手に取った。

 ジャケットをしばらく眺め、説明書きの文章を読む。

 普通の一般視聴者から当社に送られてきた不可解なビデオやDVD。

 今回は多数の応募があった中から、三点の映像を選んでみた。

 どの作品も奇妙というしか言いようがない。

 さて、あなたはこの恐怖に堪えられるだろうか?

 ゾクゾクするものがあった。

 作り物なんかじゃない。

 このような日常を映していたら、何故か不可解なものが映っていた。

 そんな映像を俺は、ずっと待ち望んでいたのである。

 実際に霊体験をした事のない俺。

 こういう間接的な関わり方でもいいから、自分の欲望を少しでも満たしたかった。

「雷蔵、選び終わったの?」

 棚の向こうで美和の声が聞こえる。

「ああ、いいのがあった」

 俺は、『一般人投稿の不可解な映像』を借りて、レンタルビデオ屋をあとにした。

 美和は新作のラブロマンスを借りていた。

「おい、おまえ、そんなもん借りたって、俺は見ないぞ」

「いいですよーだ。一人でこれは見るから」

「…と、言う事はだ。おまえ、こっちのホラーは一緒に見るって事だな」

「えー……」

「俺とこれからも、一緒にやっていきたいんだろ?」

「うん、それはそうだけど……」

「じゃあ、今回ぐらいは見るの、付き合えよ」

「……」

 困った美和を見ながら、いじわるそうに笑った。

 DVDプレイヤーにセットして、テレビ画面を見つめる。

 ワクワクするものがあった。

 俺の横で、美和は顔を強張らせながら緊張している。

『視聴者のみなさま方、こんにちは』

 低音で静かな声のナレーションが流れ出す。

 俺は耳を澄ませた。

『今回の一般人投稿の不可解な映像。それは普通に生活している一般の方が、日常の様子をビデオやDVDに納めておこうとした映像の集まりです』

 ひょっとしたら、ただのクソビデオかもしれない……。

 そんな予感が頭をよぎった。

『ただし、本作品に収められたその映像。それは通常の何気ない日常に、不可解なものが映りこんでしまった映像ばかりを厳選しました』

 前置きが長過ぎるんだよ……。

 少しばかりイライラしてくる。

 ナレーションの声はハッキリとして聞きやすいのだが、話速度がゆっくりなので苛立ちを覚えてしまう。

『なお、このDVDは、お払いなど、特別に済ませておりません』

 え……?

 普通はしてなくても、お払いはしたとか伝えるものじゃないのか?

『これから映す三つの作品。これは我々の想像を超えた映像でした。もし、この作品を見て、視聴者の方に、何かしらの災いが訪れても、当社は一切、苦情等を受け付けません。それでもよろしい方のみ、これからの映像をご覧下さい』

 うまい具合に脅し文句を使ってやがる。

 少しは楽しめそうだ。

『それでは、心してどうぞ。最初の投稿作品は、Aさんからの投稿です』

 薄暗かった画面は、急に切り替わる。

 次に映ったのは、普通の部屋だった。

 目線にモザイクのかかった三十台ぐらいの女性が出てくる。

 下のテロップにAさん(仮名)と表示してあった。

「うちの娘が小学に上がったので、電子ピアノを購入しました。まあ、娘がピアノをやりたいと、自分から言ってきたので、ちゃんとしたピアノを買ってあげたかったのですけどね。娘は喜んで毎日のように弾いています」

 辛気臭そうなA。

 自分の娘の話をしているのに、少しも嬉しそうな表情は見せていない。

「はい、それからどうしたのですか?」

 画面には映らないがAさんと対面するような位置に、インタビューの役割も兼ねてスタッフがいるのだろう。

 こういった作品に、似合わない明るい声だった。

「ええ、娘が楽しそうに弾いているものでして、ビデオカメラで撮っておこうかなって、思ったのです。娘は鼻を膨らませながら、興奮して張り切っていました」

「そうですか」

「…で、そのあとの話なのですけど……」

「ええ」

「いまいち機械の使い方を私、分からなかったのです」

「ビデオカメラですか?」

「はい、そうです。もちろん、ちゃんと娘がピアノを弾いている姿は撮れました。そのあと、電源を切ったつもりで、テーブルの上に置いておいたのです」

「はい、それで?」

「カメラの方向は、電子ピアノを向いていていました」

「はあ……」

「誰もいない部屋で、ビデオカメラは無人のピアノを録画していました」

「ええ、それで?」

「あとで、録画した映像を家族で見ている時に気づきました」

「何をですか?」

「部屋の明かりの消えた状態で、映像に映っていました。薄暗いピアノが、誰もいないのに、勝手に音を鳴らしだしたんです」

 Aさんの表情は、その時の光景を思い出したのか恐怖で歪んでいた。

「誰もいないのに、ピアノが音を…。そうですか。それではみなさん。これから、その不可解な映像を流したいと思います」

 横で見ている美和は、ブルブルと震えていた。

 無理もない。

 どうしょうもないようなホラー作品でも、まともに見られないぐらいの怖がりである。

 いくらインタビューが下手クソとはいえ、これから映し出される映像を正視していられるのだろうか。

 強引に自分の趣味を付き合わせた美和に対し、少し哀れに感じた。

「おい、美和」

 俺は一時停止ボタンを押した。

「な、何……」

「強引に押し付けたけど、無理して見なくてもいいぞ」

「でも……」

 美和は不安そうな表情でつぶやいた。

「大丈夫だよ。あとで文句言ったりしないからよ」

「ほんと?」

「ああ、向こうで昼食の用意でもしてればいいよ」

「ありがとう」

 嬉しそうな顔で美和は、その場から消えた。

 よほど怖かったのだろう。

 自分以外は誰もいない部屋。

 これで美和を気にせず見られる。

 俺は再生ボタンを押し、続きを見る事にした。

 Aさんの映っている映像から、画面が切り替わる。

 真っ暗な画面。

 真ん中のほうから、奇妙な音と共に白い渦巻きみたいなものが、ゆっくりと出てきた。

 ―― 誰もいない部屋で勝手に音がなるピアノ ――

 赤い文字で、テロップが浮き出される。

 始めに映ったのは、Aさんの娘がピアノを楽しそうに弾いている映像だった。

 たまに、撮影している母親のほうを振り返りながら弾く娘。

 見ていて、幸せそうな雰囲気が漂っていた。

「はい、上手ねー。●●ちゃん」

 一曲の演奏が終ると、Aさんの声が聞こえる。

 振り向く娘の顔の目線には、モザイクがかかっている。

 誰が見ても、母親に褒められて照れ笑いをしているのが分かるだろう。

 何曲か演奏を弾いて、母親はビデオカメラをテーブルの上へ置いた。

「偉いわね、●●ちゃん。お腹、減ったでしょ?」

「うん」

「じゃあ、ママが腕によりをかけて、おいしいもの作るわよ」

「うん」

 親子の会話はそこで終わり、部屋の明かりが消えた。

 画面には薄暗い状態で、ピアノだけが映されている。

 編集で手直しはしているので、実際にそこまでの時間はかかっていないが、そのままの状態で一時間は経っていた。

 ホラーに興味のない人間が見たら、何てつまらないビデオだろうと思うはずだ。

 それくらい何の変化もない映像だった。

 ピアノの上に置いてあるくまのプーさんのぬいぐるみが、寂しそうに見えた。

 突然、急にピアノを奏でる音が聴こえてくる。

 何かの曲ではない。

 ただ、単音をたまに鳴らしている。

 そんな感じだ。

 誰もいない部屋で、弾かれるピアノ……。

 音に合わせて、鍵盤まで勝手に動いていた。

 俺は少しだけ、背筋に冷たいものが走った。

 いい……。

 こういう映像を俺は望んでいたのだ。

 音は不規則になり続けていた。

 単音で、『ド』と鳴らすと、次は『ラ』『ファ』といった具合に……。

 不思議な光景だった。

 高級なホテルのティーラウンジとかなら、自動で鳴るピアノがるのは知っている。

 ただ、今映っているのは普通の電子ピアノなのである。

 もちろん電子ピアノだって、自動で曲を鳴らす機能がついたタイプもあるだろう。

 しかしそれはあくまでも曲だ。

 こんな不規則な音ではないはずだ。

 十分ほど、その光景が映し出され、画面が切り替わった。

 美和がこの映像を見ていなくて、本当によかったと感じる。

 俺でも、少しばかり恐怖を感じたぐらいだ。

 これは、残り二作品も相当期待できそうだ。

 今頃美和は、キッチンで鼻歌でも歌いながら笑顔で料理を作っているのだろう。

 Bさん(仮名)という、同じようなテロップで二作品目が始まる。

 今度は四十代の男性だった。

 当然目線にはモザイクがある。

「この作品を応募されたきっかけって、何なのでしょうか?」

「うーん、ワシはよー、霊だとか、お化けってのは、まったく信じない性質なんだわ」

「ええ。でも、それで何故、応募を?」

「仕方ないんだわ。ワシの飼っている犬なんだけども……」

「はい」

「それを散歩させている時、ビデオカメラ回してたらよー、おかしいんだわ」

「どのようにですか?」

「うーん、うちの犬。名前、コロって言うんだけども、撮っている時は何も思わんかったけど、あとで見たら、足、消えてんのさ」

「足…。そのペットの犬の足が消えてると?」

「ああ、そうなんだ。ただ、さっきも言ったべ。ワシは、霊とか信じんって……」

「はい」

「数日してから、コロが車に跳ねられてな……」

「……」

「どういう訳さ、知らんけども、コロの消えていた足が切断されてて……」

 俺はまた、背筋に冷たいものが走る。

 Bさんは、今にも泣き出しそうだった。

 映像に収められたのを見た時、異変に気づいていれば、コロを助けてあげられた。

 そんなせつない気持ちのような気がする。

「では、続いて映像に移らせてもらいます」

 ―― 事故の前触れか?ペットの足が消える ――

「ほれ、コロ。もっとさ、走れ」

 田舎の田んぼ道を散歩する映像が映し出される。

 真っ白な犬のコロ。

 舌をハァハァと、出しながら懸命に走っている。

 画面には映らないが、撮影者のBさんは自転車に乗っているのだろう。

 コロの走るスピードで分かった。

 しっぽを振りながら走るコロ。

 Bさんの運転する自転車に負けまいと、頑張っている。

 ひたすら田んぼ道を走る退屈な映像だった。

 十分ほどして、コロの前足が消えたように見える。

 後ろ足は、はっきりと映っていた。

 前足だけが、見事に透明であった。

 その前足が映っている部分に、景色が普通に映っている。

 ただの映像トラブルというだけで、こんなに都合よくなるのだろうか?

 消えていた時間は、だいたい一分ほど。

 現代の映像技術を使えば、このようなものも作れるはずだ。

 しかし、誰がこんなものを作って得をするというのであろうか?

 実際にコロは、この数日後に車で跳ねられ、前足を切断して亡くなっているのである。

 まるで、これから何かがあると、警告しているようにも見えた。

 かなり大きめの犬だったが、Bさんは非常にショックだったであろう。

 この映像のあとコロがこれから事故に遭い、両足を切断されるのだ。

 見ていて奇妙に感じるDVD。

 素直にそう感じた。

 投稿作品自体は、不可解なものばかりだ。

 ただそのあと、どうなったのか。

 スタッフは投稿者に、何のアドバイスもしていない。

 これじゃ、見世物にされたのも同然だ。

 あとで、謝礼でも渡しているのだろうか?

 しかし、これを借りてきて正解だった。

 ベタなホラーなどよりも、このような作りのほうが面白い場合もある。

 俺はそう感じた。

 近年、ワーとか、ギャーといった驚かせばいいという作品が多くなっている。

 ホラー好きの俺は、それでも楽しく思う。

 しかし何故もっと刺激の強いホラーを求めるのか?

 それは俺が、本当の霊体験を味わいたいからだ。

 その点では、この作品はかなり合格ラインに達している。

 少し物足りないといえば、実際に霊が映っていないところである。

 薄暗い中、勝手に音を奏でるピアノ……。

 散歩中に、前足が消えた犬……。

 それだけなのだ。

 あとは無駄な映像があるだけのDVD。

 三つ目の投稿作品は、是非とも霊が映っていてほしい。

 真剣に心の中で祈った。

 今度の投稿者は、モザイクを掛けていなかった。

 年齢は二十代半ばといった感じの綺麗な女性。

 美和と比べても遜色がないくらい、いい女だ。

 ただ、どこか陰りがあるような表情。

 まあこのようなDVDに投稿するぐらいだから、本人にとってはいい思いではないはずである。

 藁にもすがる思いなのであろう。

 Cさん(仮名)というテロップが表示され、スタッフとの会話が始まった。

「こ、こんにちは…、はじめまして」

「はじめまして…。さて、今回はどのような経緯で、作品を投稿したのでしょうか?」

「はい…。私には、三歳の子供がいます。男の子なんですけど、元気がいっぱいな盛りです」

「ちょうど、可愛い時ですよね」

「あ、ありがとうございます」

 ウェーブの掛かった綺麗な茶色いロングヘアー。

 パッチリとした二重まぶたの瞳。

 整った端正な顔立ち。

 どれをとっても、いい女である。

 だけど、陰りのせいか、暗いイメージしか湧いてこない。

 内面にかかえている問題からか、そのすべてが綺麗さを台無しにしてしまっている気がした。

 陰湿な黒いオーラが、彼女を包んでいるみたいに感じる。

「それで?」

「ええ、実はアパートに住んでいるんですけど、隣の住民の方に、ビデオカメラをお借りたんです」

「それは、親切な方ですね」

「……」

 Cさんの表情は、さらに暗くなったように見えた。

 これだけの女だ。

 隣の住民とは男で、下心丸出しだったか何かに違いない。

 いや、待てよ……。

 隣の住民と言っているだけだから、男と決まった訳じゃないのか?

 俺は自分勝手な想像をしていた。

「おや、どうしました?」

「あ、はい…、親切な方でした。その人、向こうから私に言ってくれました」

「何てです?」

「お子さんが可愛い盛りだし、映像に収めておいたらどうですかと……」

「きっと、子供好きな方なんですよ」

「はぁ……」

「はい、続きをどうぞ」

「ええ、それで録画したら、隣の人がDVDにしてあげると言ってくれたので、その好意に素直に甘えました。やっぱり自分の子供の成長記録がほしいって……」

「全然、悪い事じゃないですよ。世の中の親、すべてそう思いますよ。子供が恋しくない親なんていませんよ。目に入れたって、痛くないんですからね。だから、日本は平和な国なんですよ」

 勝手な事、言ってやがる。

 俺は、インタビューでペラペラと話す軽薄そうなスタッフを睨んだ。

 だったら何で世の中、子供への虐待があるんだ?

 中にはとんでもない親だっている。

 無責任な発言を簡単にしやがって……。

「ありがとうございます」

「はいはい、それで?」

「はい、何度か、その方にはDVDを作ってもらいました」

「ほう、それは良かったじゃないですか」

「はい…、その点はとても嬉しかったでした……」

 そう語る表情はとてもじゃないが、嬉しそうには全然見えない。

 その点はと、短い台詞の中でわざわざそれを自己主張しているような……。

 しかも、過去形で話している。

 嬉しいではなく、嬉しかったと……。

「では、本題に進めましょう。その中で何かがあったのですね?」

「……」

 下をうつむきながら、考え込んでいるCさん。

「●●さん?」

「あ、はい…。そうです……」

 実際Cさんの受けた衝撃はそれほど、強かったのであろう。

 前の二作品とは、比べものにならないほど、もの凄いものが映っているのか?

 不謹慎ながら、俺はワクワクしてきた。

「何があったんですか?」

「子供が、いつものように近所の公園で、遊んでいるところなんですけど……」

「ええ」

 公園で、昨日殴られた事を思い出す。

 ちっ、あの二人組め……。

「すべり台でうちの子が遊んだあと、ブランコほうへ行く時に……」

「はい」

「ブランコで首を吊っていたようなサラリーマン風の男が……」

「え、ハッキリと映っていたんですか?」

「ハッキリというよりかは、うっすら透明にといった感じです」

「でも、●●さんは、それを見ながら撮影していた訳ですよね?」

「もちろんです! ただ、私からはその時、何も気づきませんし、何もなかったんです!本当ですよ? 信じて下さい!」

「落ち着いて、落ち着いて……」

 急に取り乱すCさん。

 スタッフは慌ててなだめていた。

「す、すみません……」

「では、その問題のシーンを拝見いたしましょう」

 慌てたスタッフは半ば強引に画面を切り替えたようだった。

 ―― 公園に映るブランコで首を吊った男 ――

 近所の公園で無邪気に遊びまわる男の子。

 三歳というだけあって、見ているだけで微笑ましい光景である。

 母親にビデオカメラで撮られるのを嬉しそうに、元気いっぱいはしゃぐ子供。

 砂場で山を作って遊び。

 ジャングルジムを頑張って必死に登る。

 どこかで見たような風景である。

 気のせいだろうが、見ていて他人事のように見えない。

 不思議な気持ちだった。

 ジャングルジムについているすべり台から、大声を上げながら滑り降りる男の子。

 すべり台つきのジャングルジム……。

 これも見覚えが……。

 子供は、ブランコのほうへ駆けていく。

 確かにブランコの上の棒で、紐をくくって、一人の男の姿が見える。うっすらと透明に……。

 俺がびっくりしたのは、幽霊みたいな首吊り男を見たからではなかった。

 この公園……。

 俺のマンションのすぐ近くの公園じゃないのか……。

 子供が走っている際、右から映りこむブランコ。

 通常の一人乗りのブランコではない。

 二人が向かい合って座るタイプのブランコだ。

 そして、少しだけ映った赤いベンチ。

 間違いない……。

 この公園は、うちの近くの公園だ。

 昨日、ラーメン屋で揉めた二人組に連れて行かれたあの公園。

 思わぬ展開に、鳥肌が立つ。

 何という偶然だろうか。

 怖さも感じているが、それ以上に感動があった。

 こんな近場に霊の出た場所があったなんて……。

 俺はもう一度、映像を見直した。

 ブランコでうっすら映るサラリーマン風の男。

 どう見ても不自然な映像だ。

 俺はデザイン会社で働いているから、このぐらいの映像を作ろうと思えば作れるスキルはある。

 パソコンのフォトショップを使えば、心霊写真を作ることなど、容易いものだ。

 それを動画にうまくはめ込めば、この映像は人工的にでも作れる。

 ただ、誰がこんな事をするというのだ?

 いくら何でも、こんな事は、誰も考えつかないだろう。

 この映像は間違いなく霊が映ったものである。

 俺はそう信じたい。

 興奮で体が震えていた。

 それに昨日、公園で匂った臭い……。

 あれは気のせいではなかったのだ。

 あと少しでこのブランコで首を吊った男と、遭遇できたのかもしれない。

 もっとよく確認すれば良かった。

 非常に昨日の行動が悔やまれる。

 俺の頭の中は、この公園に対する好奇心でいっぱいだった。

 あんな場所に霊がいたなんて……。

 美和が昼食を作り、テーブルに運んできた。

「もう、見終わったの?」

「ああ、すごい……」

 言い掛けて、思わずやめた。

 この事を美和に話しても、いたずらに怖がらせるだけだ。

「すごい…。すごいどうしたの?」

 首を傾げながら、美和は笑顔で聞いてきた。

「すごい…、クソビデオだったよ……」

「ありゃ~」

「まあいい、充分に暇つぶしはできたしな」

「なら、いいけどね」

「お、昼はパスタか」

「うん」

 テーブルに次々とおかれる料理。

 本当に料理が好きな女である。

 クリーミーなカルボナーラのパスタ。

 様々な野菜を使ったシーザーサラダ。

 中に入っている材料は、玉ねぎとわかめだけのシンプルなコンソメスープ。

 デミグラスソースをかけた王道のハンバーグ。

 ジャガイモから、ちゃんと作ったフライドポテト。

 甘く煮たニンジン。

 おいしそうな湯気を出す炊き立てのご飯。

 毎度の事ながらよくもあれだけの時間で、こんなに作れるものである。

 素直に感心する。

 これだけ尽くしてくれる美和に対して、俺はかなり酷い台詞を吐いたものだ。

 心の中で頭を下げた。

 人間、なかなか言い出せない言葉があるものである。

「雷蔵が喜んでくれて嬉しいわ」

 そう言って、美和は嬉しそうに喜んだ。

 その日は結局、一日中二人で一緒に過ごした。

 たくさん話し、たくさんセックスをした。

 だけど俺の頭の事は、あのDVDにも映った公園の事しかなかった。

 何をしても、上の空になってしまう。

 夜になると美和は明日の準備があるからと、帰り仕度をしだした。

 俺は美和を送りついでに、あの公園へ行こうと思っていた。

「雷蔵、悪いから大丈夫よ」

「いいから、いいから…。昨日のラーメン屋の件で、おまえに何かあったら嫌だって俺は思ったんだ」

「ありがとう。昨日の雷蔵、格好良かったよ。とても……」

 濃密なキスをして、俺たちは部屋を出た。

 時間帯は九時を回っている。

 当たり前だが外に出ると、すっかり真っ暗になっていた。

 わりと近所に住んでいる美和は、俺のマンションから歩いて十五分ぐらいの場所にいる。

 マンションを出ると、五分ぐらいで例の公園を通る。

「ねえ、雷蔵。私、何かこの公園って気味悪く思うのよ」

「そうか?」

 わざとおどけて言った。

 美和の感覚は間違っていない。

 本当にあのDVDを見せなくて良かった……。

「何か、辛気臭いって言ったらいいのかな…。できれば、この前を通りたくないもん」

「何か感じるの?」

「うーん、特には…。でも、私って多少、霊感があると思うんだ……」

 初耳だった。

 ただの怖がりでホラーものを避けていただけなのかと、今までそう思い込んでいた。

「霊感?」

「うん…。最近はそうでもないけど……」

「ちょっと、近くの喫茶店で話しようか?」

「やだ、何、そのニヤけ顔」

「仕方ないだろ。俺のライフワークでもあるんだから」

 美和は苦笑いをして、軽く鼻で息をはいた。

「まったくもう…。まだ、あそこの喫茶店てやっているの?」

「ああ、確か夜の十一時までだったかな……」

 美和を送る予定が、思わぬ展開になってきた。

 俺もひょったしたら、実際に霊体験をできる時が、近づいてきたのかもしれないな。

 俺たちは出会ったきっかけでもある喫茶店に向かった。

 二人ともコーヒーを注文する。

 美和は上を見ながら、前の事を思い出しているみたいだった。

「早くおまえの霊体験、何か話してよ」

「うーんとねー……」

 俺はワクワクしながら、美和が口を開くのを待った。

 こんな身近な存在に貴重な体験をした人間がいたとは……。

 嬉しい誤算である。

「私がまだ小さくてね。親元にいた頃の話なんだけど、それでいい?」

「ああ、いつぐらいの頃?」

「うーん、小学六年の時なんだけどね」

「ああ」

「友達の家に遊びに行ったの」

「ふんふん」

「かくれんぼして遊んでいてね。私は友達の部屋のタンスに、隠れようと思ったの」

「それで?」

「タンスの扉を開けると、一人の女の子がいたの」

「友達の妹さん?」

「ううん、その子…。一人っ子だったから、それはない」

「へー……」

「格好は言い方悪いけど、酷く薄汚れた格好をしていて、顔もげっそりと痩せていたんだ」

「うん」

「私と目が合うと、何か言いたそうにしているの」

 マスターがコーヒーを運んできた。

 ここのブレンドは、キリマンジャロがメインになっているので好きだった。

「それで、どうしたの?」

「うん、それで私、その子に話しかけたの。こんなところで、どうしているのって」

「ああ」

「そしたら、その子。口は開いていないんだけど、私の脳へ直接声が聞こえてきたの」

「はぁ?」

「戦争の空襲警報が鳴って逃げてきたけど、母親とはぐれてしまい、逃げる人のあとを必死について行ったら、防空壕に到着したんたって……」

 俺たちは、戦争を知らない世代だ。

 その当時の書物は何冊か読んだ記憶がある。

 防空壕とは戦争時、敵の攻撃から非難する為に作られた施設だという知識ぐらいは持っていた。

 広島、長崎に原子爆弾が落とされ、たくさんの命を失い、日本は降伏をした。

 英国、アメリカ、中華民国の三カ国首脳の共同声明として、当時の日本(大日本帝国)は、ポツダム宣言を受け入れた。

 悲しい俺たちの国の過去。

「食べるものも、水もなく飢えて苦しいって、必死に私に伝えてきたの」

「怖くはなかったのか?」

「うん、不思議とね。その子は亡くなっているのを自分で気が付いていないの。とにかくお腹が減って、苦しんで亡くなったんだと思うんだけどね……」

 美和は寂しそうに言った。

 気持ちは分かる。

 俺たちじゃ、想像もできないぐらいの苦しみがあった時代なのだ。

 今の日本は便利になった代わりに、すっかり平和ボケしている。

「だから、友達に言ったの。タンスにコップ一杯のお水を置いてあげてって」

「うん……」

「それと、お菓子とかあったら、一緒にって……」

「そうか」

「うん。もし、お水がなくなるようなら、必ずまた入れてあげてってね」

「成仏できたかな……」

「多分…、しばらくして、私がその子の家に遊びに行った時、ちゃんとお水も、お菓子もお供えしてあったんだ」

「そっか……」

 俺はできる限り、優しく微笑んだ。

 美和と付き合い始めの頃を思い出した。

 一度だけデートをしていて歩き疲れ、あの公園へ入った事がある。

「なあ、美和」

「ん、何?」

「おまえさ、俺とあの公園に一度デート中に入った事あるの覚えてる?」

「う、うん……」

「あの時、ベンチに親子連れがいたから、すぐ出ようとしたけど、おまえ何故か子供の顔をジッと見ていたでしょ?」

「え、そうだったっけ?」

「うん、だって俺がさ、『おい、美和。何してんだよ? そろそろ行くぞ』って声を掛けたぐらいじゃん」

「あ、そうだったね」

「子供の顔を見てたけど、何か感じるものあったの?」

「う~ん、よく分からないけど私とその子、同じような能力があったような感じがしたの」

「え、そうだったの? あの公園じゃん。だから何か不思議なもんがあったかなと思ってさ」

「え、あの公園じゃんって?」

 しまった。

 美和は『一般人投稿の不可解な映像』を一緒に見ていないから、あの公園が曰く憑きだなんて知らないんだっけ……。

「いや、何となく」

「何か隠してるでしょ、雷蔵?」

「いやさっき俺が借りたDVDあるだろ? あの件なんだけどさ、話すと美和怖がるかなって思ってさ」

「……」

 見る見る内に美和の表情が青白くなっていく。

「この話はやめとこう」

「うん…、ごめんね」

「いいよいいよ。こんな話を振った俺が悪かった」

 少し気まずい空気が流れる。

 コーヒーを飲み干すと、俺たちは喫茶店をあとにした。

 別れ際になって美和が真剣な表情で口を開く。

「ねえ、雷蔵。お願いだから、あの公園には近づかないで」

「ん、急にどうしたんだよ?」

「よく分からないけど、あそこには近づかないほうがいいってすごい感じるの」

「え、じゃあひょっとして俺、初の霊体験ができるかもしれないじゃん」

 俺は飛び上がって喜んだ。

 美和の表情がさらに曇る。

「雷蔵……」

「何だよ?」

「そんな霊体験だとか簡単に言わないで、お願いだから……」

「急にどうしたんだよ?」

「ホラービデオを見ているぐらいなら、私は何も言わなかった。でもあの公園は本当に言っちゃ行けない場所のような気がする。霊体験ってそんな簡単なものじゃ済まない気がするの……」

「美和……」

 これだけ強く言う美和を初めて見た。

 心の底からお願いしているのだ。

 霊体験なんて遭った事がないから楽しみと思っていたが、実際に遭ったらそんな事言っていられないだろう。

 美和を送ったあと、例の公園に差し掛かる。

 あんな話を聞いたばかりなので、いたずらに近づくのはやめようと思った。

 今の日本……。

 確かに腐りきってやがる。戦争時の日本か……。

 大変だったんだろうな……。

 そう思うと簡単に霊だ何だって喜ぶのは、間違いのような気がした。

 俺の先祖も戦争は体験してきたのだ。

 今度久しぶりに墓参りでも行ってこようかな。

 マンションに到着すると、鏡を見てみた。

 まだ、顔の腫れはそんなに引いていない。

 これじゃ明日、会社へ行ったら色々と突っ込まれそうだ。

 明日も有休をつかうか……。

 湯船にお湯をためて、ゆっくりと風呂へ浸かった。

 人間って、どう生きるのが正しいのだろうか?

 そんな事を考えてしまう。

 今の日本が豊かなのは、戦争後の人たちが頑張って築きあげてきたからである。

 俺を始めとして、今の連中は一体なんなのだろう?

 楽しい事だけ、追求して生きるのもいい。

 だがそんな姿を見て、昔の人たちはどう思うのだろうか。

 今の連中は、命ってものを簡単に考え過ぎている。

 自殺する奴も、年間で三万人を越えているという。

 それも日本だけの数字だ。

 驚異的な数字である。

 日本は法律で自殺や自殺未遂に対し、犯罪として扱うことがないようだ。

 昔は違ったらしいけど……。

 自殺者は女より、男のほうが圧倒的に多いのも知っている。

 何でこんな世の中になっているのかな。

 今じゃIT社会ってもてはやされているけど、パソコンが使えなくなった時の被害って、どのぐらいになるんだろうか?

 昔は違った。

 少なくてもパソコンや携帯がなくても、みんな普通に生きてきた。

 特に携帯の機能の充実さは異常である。

 あれば確かに便利だ。

 でも通話とメールができるぐらいで、ちょうどいいんじゃないかと、俺は考えている。

 各メーカーがこぞって色々な開発をしているが、それが正しいのかというと間違っているような気がする。

 そもそも携帯って何だ……?

 携帯とは、手軽に持ち運びができるものを指すんじゃないのか?

 携帯で持ち運びができる電話だから、携帯電話。

 でも今携帯というとみんな…、もちろん俺も含めて携帯電話の事だと思ってしまう。

 テレビもそうだ。

 視聴率、視聴率と言いながら、それをとるのが正論なんだみたいな風潮になっている。

 あのくだらないお笑い芸人たちを見ていても、面白くもなんともない。

 女は整形しても外見だけ良ければいいみたいな感じだし、明らかにおかしくなっている。

 サッカーだってそうだ。ワールドカップと盛り上がっているが、日本代表を見た時がっかりした。

 世界に日本代表としていく訳なんだから、日本人らしくいればいいのにと思ってしまう。

 日本人は黒い目、黒い髪なんだから……。

 代表の中で日本人らしい選手って、どのくらいいるんだろう。茶髪にした選手が非常に多い気がする。

 世界にとって、日本は強い国ではない。

 髪を染める暇があるのなら、ボールを蹴ればいいのになって普通に思う。

 まあ、サッカーだけではないのだが……。

 色々な事を考えていて、すっかり長風呂になってしまった。

 指の先がふやけている。

 風呂を出る時、何か思い掛けたのを感じた。

 だが、それはすぐに消えてしまった。

 何だろう。

 まあいい……。

 顔の腫れもあるし、明日も会社を休む事にしよう。

 幸い今の仕事状況は、そこまで忙しくない。

 きっと上司も文句は言わないはずだ。

 珍しく真面目な事を考えてしまった。

 一体、俺に何ができるというのだろう?

 個人で見れば、ちっぽけな存在である。そんな俺に……。

 いや、似合わないな……。

 真面目な事を考えるのはやめよう。

 気が付くと、朝になっていた。

 風呂から出てベッドに寝転がると、そのまま寝てしまったみたいだ。

 鏡を見る。

 まだ顔は腫れている。

 俺は上司に連絡をして、会社を休む事にした。

 一応美和にも伝えないとな。

 携帯を手に取る。

「もしもし」

「おはよう」

「うん、おはよう」

「まだ、いまいち腫れが引かないから、今日も休む事にするよ」

「そう、大丈夫?」

「まあね。たまにはゆっくり休むのもいい」

「そうね。でも、私はさすがに今日は行かないと……」

「全然かまわないって、いってらっしゃい」

 携帯を切り、再びベッドに寝転がる。

 昨日一瞬だけ思いついた事。

 それが何かはすぐに消えてしまったが、ずっと気になっていた。

 うつ伏せになる時、顔の腫れている部分をかすり、痛みを覚える。

「いたたた……」

 一昨日の二人組……。

 ちくしょう。

 痛みを感じるたびに、あいつらを思い出す。

 もっと俺に力があったらな。

 ん、待てよ。

 そうだ。

 俺は起き上がった。

 昨日の事で、思いついた事。

 それが分かったのだ。

 例の公園の事だった。

 近くにあのCさん(仮名)が、住んでいる可能性がある。

 会って直接話を聞きたい。

 そんな欲望があった。

 待てよ、以前自殺した亀田。

 あいつも確か、首吊りで亡くなったと聞いている。

 何か繋がりがあるのだろうか?

 俺のマンションと、あいつのアパートはすぐ近く。

 その間に例の公園がある。

 幸いに今日は一日暇だ。

 亀田の住んでいたアパートへ行き、隣近所に聞き込みをしてみるのもいいかもしれない。

 普通に考えて、亀田の自殺は不可解だ。

 女には絶対に縁がない。

 一生独身確定のオタク。

 でも女を抱くだけなら風俗がある。

 うちのデザイン会社と契約を結んでいた亀田…、金にはそんな困っていないはずである。

 それだけの金をうちの会社は、あいつに払っていた。

 亡くなった時、部屋に落ちていた一枚のパンティ。

 前にも思ったがこれから自殺するような奴が、そんなところに放っておくのはおかしい。

 いいチャンスだ。

 あのDVDを見なければ、思いつかなかったと思う。

 美和から聞いた防空壕の女の子の話。

 そしてあの公園には近づかないでという忠告。

 思い出すと少し気味が悪かったが、仕方ない。

 亀田の件で探りを入れれば、何か不可解な出来事に遭遇するかもしれないのだ。

 霊体験を俺はした事がない。

 そんなんじゃ済まないって美和は言ったけど、やっぱり一度は経験してみたいのだ。

 しかも家の近所でこんなネタが転がっているのである。

 俺はワクワクした。

 まだ、出掛けるには早い時間帯だ。

 俺はソファーに腰掛け、時間が早く過ぎるのをそわそわして待った。

 もう一度、『一般人投稿の不可解な映像』を見た。

 俺は公園のシーンで何度も映像をとめ、丹念に画面を眺める。

 うん、絶対にあの公園だ。

 こんな近所で、不可解な事があったのである。

 亀田のアパートは前に行った事があるので、場所は覚えていた。

 時計は十時を回った。

 もういいだろう。

 俺は、マンションをあとにした。

 まずは例の公園に行く。

 親子連れが一組いるだけで、公園はシーンとしていた。四、五歳ぐらいの子供と、それを見守る母親。

 俺が中へ入ると、母親が一瞬だけ、こっちを向く。

 怪訝な目つきだった。

 無理もない。

 こんな時間帯に一人で公園に入ってくる男。

 少しは警戒するだろう。

 俺は、ブランコのそばに行きたかったが、やめておく事にした。

 親子のほのぼのとした空間を壊したくなかったのだ。

 公園を出て、亀田のアパートへ向かう。

 どちらかというと、そっちのほうが興味あった。

 小さな公園のすぐ目の前に立つ亀田の住んでいたアパート。

 あのDVDに出演していた人妻も、この辺にいるのだろうか?

 確か、亀田の部屋は二階だ。

 俺は静かに階段を上がる。

 二階に上がって左。

 一番角部屋が、あいつの部屋だった。

 軽く呼吸をする。

 主のいない部屋をノックしてみた。

 当たり前だが何の返答もない。

 ドアノブに手をかける。

 当然の如く鍵が掛かっていた。

 亀田は、このドアを一枚挟んだ向こうのドアノブで紐をくくって首を吊ったのだ。

 今、部屋の中はどうなっているのか?

 表札も何もかかっていない寂れた部屋。

 新聞受けのところにはチラシや封筒が、多数突っ込んである。

 亀田の自殺後、まだ誰もこの部屋を借りていない証拠のように見えた。

 さて、これからどうするか。

 思いついてきたものの、他に方法がなかった。

 何かしら、あると思ったのにな……。

 廊下から、公園の風景を眺める。

 先ほどの親子が、ブランコに乗り遊んでいた。

 多分あの母親は、例のDVDを見ていないのだろう。

 まあ当たり前か。

 こうして亀田も、よく公園の景色を見ていたのか。

 車通りも少なく静かなので、住むにはいい環境だ。

 俺のマンションとすぐ近くなのに、全然違う場所に来たみたいだった。

 この辺りの環境や空気が羨ましかった。

 俺もこのような場所に……。

 ん……!

 待てよ……。

 俺が亀田の部屋にもし、引っ越したらどうなるんだ?

 不可解な首吊り自殺のあった部屋……。

 目の前の公園……。

 ひょっとしたら俺自身、霊体験ができるかもしれない。

 心が躍った。

 何でこんな事、今まで思いつかなかったんだろうか。

 確かに亀田の住んでいた部屋というのは気持ち悪いが、業者に頼めばいくらだって綺麗にしてくれる。

 そんな事よりも、まず霊体験できそうな条件が揃っているのが素敵だ。

 隣の住民に、不動産の連絡先を聞いてみるか。

 頭の中は、この自殺のあった部屋に引っ越したいという気持ちでいっぱいになっていた。

 美和の言っていた忠告など、とっくに頭から離れていた。

 とりあえずここを管理する不動産に連絡しないと……。

 亀田の隣の部屋。

 俺はインターホンを鳴らしてみた。

 表札は『香田』と書いてある。

「はーい」

 しばらくしてドアが開く。

 俺は出てきた女を見て、初対面でないような気がした。

「はい、何でしょうか?」

 どこかで会ったような気が……。

 一体、どこで………。

「……」

「あの……」

 うーんと、どこで会っているだっけ。

 最近、会ったような……。

「あっ!」

 髪を束ねていたが、俺には分かった。

 出てきた女は、『一般人投稿の不可解な映像』に出演していたあのCさんだ。

 あの不可解な公園の投稿者。

 もちろん、向こうは俺の事など知る訳がない。

 テレビのモニタを通して、こっちが一方的に知っているだけなのだから……。

 何と切り出せばいいのだろう。

 まさかこんな形でCさんと出会えるとは、微塵にも感じていなかったのだ。

 俺はただ、Cさんの顔を見ているだけだった。

「あの、すみません…。何かご用でしょうか?」

「あ、はい…。すみません…。実はこのアパートに空き部屋があると、人づてに聞きまして…。それで実際の場所を確認に来ました。それで不動産に借りたいと、連絡をしたいと思いまして……」

 適当にでっちあげた。

 だが、Cさんは俺の話に顔をしかめている。

 何かそんな変な事を言ったのだろうか。

「あ、あの…、どうかしましたか?」

「あなた、知らないんですか……」

「は?」

 Cさんは、目の前にある公園を指差した。

「あの公園って、以前の事ですけど…。ブランコで首を吊り、自殺した方がいたんです」

「え?」

「まあ、こんな目の前で住んでいる私が、言うのもおかしいですけどね」

「いえいえ、そんな事はないですよ」

 あの公園で本当に自殺があった……。

 DVDの映像と、実際の公園を交互に考える。

 あの映像を実は見たんですと、Cさんに切り出すべきか?

 いや、それじゃ気味悪くとられるかもしれない。

 やめておこう。

 俺は、心の底から出る好奇心を抑えるのに苦労した。

 知りたい。

 何があったのか、とことん知りたい……。

「それに私たちの隣の角部屋……」

 そう言ってCさんは、とても嫌そうに隣を見た。

「あそこ、隣の住人が、首を吊って自殺したばかりなんです……」

 Cさんはそれだけ言うと、暗く沈んだような表情になった。

 DVDで見た通り、本当に綺麗な女だ。

 ただ妙な陰りが、美人さを台無しにしている。

 確かに暗くなるのも無理はない。

 自分の住むアパートのすぐ近くで、二回も自殺があったのだ。

 金銭的に余裕があるなら、引っ越したいところであろう。

 Cさんには子供がいた。

 映像で見て、何となく顔も覚えている。

 子供の教育上、どう考えたってここは非常に良くない。

 それでもまだここにいるという事は、生活が大変なのかもしれない。

 さまざまな苦労が重なり、Cさんの表情に陰りがあるように感じるのかもしれない。

「うーん、小さいお子さんがいるのに、環境が良くないですよね」

 俺の台詞に、Cさんは奇抜な表情をした。

「な、何故、私に、子供がいたなんて分かるんですか?」

 Cさんの声は、警戒を含んだ冷たいものになっていた。

 しまった……。

 頭の中で考えていた事と話している事の隔てを忘れ、つい口走ってしまったのだ。

 当然、警戒するだろう。

 初対面で、いきなりそんな事を言われては……。

「いえ…、あ、あのですね……」

「し、失礼します」

 Cさんは気味悪そうにドアをバタンと閉めた。

 何度インターホンを鳴らしても、Cさんは応対してくれなかった。

 完全に俺を無視している。

 こうなったら持久戦だ。

 俺は真実が知りたいだけである。

 霊体験をしたい為に……。

 しばらく通路で待つ事にした。

 もし、彼女が出てきたら、ちゃんとあのDVDを見たって話そう。

 隣で自殺した亀田は、仕事の兼ね合いで知り合いだったという事も。

 俺に対して抱いた誤解を解きたかった。

「香田さん、お願いします。話を聞いて下さい。香田さん」

 表札に書いてある名前を見ながら、大きな声で呼び掛けた。

「お願いしますよ、香田さん!」

 時計を見ると、十二時を回っていた。

 俺はずっと同じ行為を繰り返す。

 必死の呼び掛けにドアが開く。

 Cさんの顔が見えた。

 まだ、警戒を抱いた表情である。

「警察を呼びますよ」

 冷静に言われた。

 冗談じゃない。

 そんな事になる為に、俺は来たんじゃない。

「待って下さい。落ち着いて…。話を聞いて下さい」

「……」

「『一般人投稿の不可解な映像』って、ご存知ですよね?」

 用件をいきなり繰り出す事にした。

「……!」

 Cさんの表情が、驚きの顔に変わる。

「この間、レンタルビデオで俺、それを借りて見たんです」

「……」

 Cさんは無言だった。

 かまわず続ける。

「俺、実はホラー系の事、大好きなんです」

「……」

 俺の目をCさんは真剣に見ていた。

「あのDVDに映っていた映像。あれって、あの公園ですよね?」

 俺は公園を指差しながら言った。

「自分もすぐ近くに住んでいたので分かったんです。まさか、こうしてCさんに会えたのは思いませんでした。それは本当に偶然です」

「そう……」

「ええ」

「見たんだ……」

 下をうつむいたまま、静かに口を開くCさん。

「はい、見ました。それに驚かないで下さい」

「何を?」

「隣で自殺があった部屋。その人間を自分は知っているんです」

「え?」

「落ち着いて下さい。自分は現在デザイン会社にいます。仕事を発注していたのが、偶然にも、隣に住んでいた亀田さんなんです」

「そ、そうなの?」

「ええ、だから自殺したというのも、会社で人づてに聞きました」

「……」

「俺、亀田さんの担当の一人だったんです。不思議だったんです。彼が急に自殺したなんて…。何故か、不可解に思いました」

 ドアが大きく開き、Cさんが通路に出てきた。

「ねえ、少し時間とれる?」

「はい」

「ここじゃなんだから、近くでコーヒー飲みながら話をしたいわ」

「はい、いいんですか?」

「うん、何かあなたなら、色々と話できるかなと思って……」

「すみません、Cさん……」

「Cさんはやめてよ。静香って名前があるんだから……」

 いつもの喫茶店まで、何も話さずに黙々と歩いた。

 聞きたい事、話したい事は山ほどある。

 でも、頭の中で整理をしていた。

 多分、静香もそうなのだろう。

 色々なものが今、繋がろうとしている。

 非常に俺はワクワクしていた。

 喫茶店に到着して、コーヒーを注文する。

 静香は紅茶を頼んだ。

「Cさん…、いや、静香さんって呼んでもいいでしょうか?」

「はい」

「どちらから先に話しますか?」

「どうぞ」

「分かりました。まず、自分から言います。DVDを見たというのと、亀田さんとは仕事の繋がりでというところまでは、話したと思います」

「ええ」

 静香の顔を見ていて、不思議な気分だった。

 昨日テレビのモニタで見た知らない他人が今、こうして目の前で俺と話している。

 偶然とはいえ何かを感じた。

「何故、彼の死因が不可解かという点です」

「他殺だったとか?」

「それは分かりません。ただ、自殺はおかしいなって、素直に思ったんです」

「何故?」

「ま、まあ、女性には言いづらいですけど、ドアノブに紐をくくりつけて首を吊ったという点から言います」

「はい」

「普通、首を吊るとしたら、どこでと考えますか?」

「うーん、やっぱり天井とか、木の枝からとかじゃないかしら?」

「ええ、自分もそう思います。自分の身長よりも、高い場所からって思うのが普通です」

「うん、そうね」

「でも、彼はドアノブから首を吊りました」

「それはあの人は、体重も重そうだし、天井からっていうのを避けたんじゃないの?」

「その仮説もありますよ、もちろん。ただ、引っ掛かるのは次の事なんです」

「次?」

「たつ鳥あとを濁さずって、言うじゃないですか?」

「はい」

「普通、部屋で自殺するなら、身辺の整理ぐらいはすると思うんです」

「うーん、そうかも……」

 唇を尖らせながら考え事をする静香の顔は、魅力的に映った。

「彼の部屋には、女物の白いパンティが一枚落ちていたそうです。床に……」

 一瞬だけだが、彼女は体をピクッと反応させた。

「そこが不可解に感じるんですよ。確かに彼は男から見ても、女にもてないなって感じた人です。でも…、いや、だからこそなんです」

「だからこそ?」

「大抵の人は、亀田さんの事を容姿で気味悪がります。自分も正直に言うと、そう思ってました……」

「……」

「見掛けはどう見てもオタク。不快感を覚えるような感じです。本人は溜まったもんじゃないと思いますよ。見かけで判断しやがってと、いった感情もあったかもしれません」

「うん」

「だとしたら、自殺するとしても、そんなパンティとかは、最初に処分するんじゃないかなって…。そんなものがあったら、変態っぽく見られるの仕方ないじゃないですか?」

「そこまでの余裕が、なかっただけかもしれないじゃない」

「かもしれません。どうせ、死ぬんだから、どう見られてもいいという開き直り」

「ええ、私は隣で、少しは接してたから、多少、亀田さんの事は分かるわ」

 静香の表情は、店に入った頃とは違っていた。

 怒っているような、それでいて悲しみも感じさせるような表情。

 何か、静香と亀田の間に合ったのかもしれない。

 コーヒーと紅茶が運ばれてくる。

 俺はそのまま、ブラックで一口飲んだ。

 静香は砂糖を五杯も入れていた。

 極端な甘党なのか。

 それじゃ糖尿病になっちゃうぞ……。

 初対面の女に対し、変な心配をしてしまう俺。

 美和も俺に対していつもこんな風に思って忠告してくれているのかもな……。

「何か、亀田さんとあったんですか?」

「……」

 静香は黙って唇を噛んでいた。

 亀田と静香がセックスする想像をしてみる。

 とてもじゃないが想像もつかない。

 美女と野獣。

 不釣合い過ぎる。

 亀田が静香の私生活を覗き見。

 リアルに想像できた。

 亡くなった者を悪く思うのはいけないが、それでも亀田は変態という言葉がとてもよく似合う男だ。

「あなた、あのDVDを借りて見たって言ったでしょ?」

「ええ、それが何か?」

「あの子供の映っている映像。亀田さんが、私に持ちかけた事なの……」

「え……」

 頭の中に一瞬の閃きがあった。

 亀田があのビデオカメラをDVDに変換したとしたら、充分にあの映像は合成できるんじゃないか。首吊り映像を……。

「自分の子だから、楽しく見ていたわ。亀田さんの作ってくれたDVDは……」

「ええ」

「だから、あの首吊り死体みたいなものが映っていたのを見た時、あまりのショックに声も出ませんでした」

「分かりますよ」

「うちの主人にも、相談したけど取り合ってくれなくて……」

「亀田さんに相談したと?」

「ええ、彼は知らないと言ってました。そんなものが映っていたんですかと、逆に驚いたぐらいで……」

 静香はこの時点で騙されている。

 そう感じた。

 でも、黙って話を聞く事にする。

「それで、あの映像を送ったんです。何とかならないかなって……」

「それはそうですね。気味が悪いままだと、今後の生活に影響があります」

「でも、あのビデオ会社。ただ映像を商品化しただけで、何の解決にもならなかったの」

「向こうはただの商売ぐらいにしか、考えていないんですよ」

「ええ、そう思ったわ。送った私が馬鹿だったって…。話は戻るけど……」

「はい」

「恥ずかしい話だけど、亀田さんに相談したあと、あの人は私に迫ってきたの」

 確信できた。

 あの映像は亀田が、意識して作った合成映像であると……。

「はい、それでどうしたんですか?」

「当然、払いのけました。確かに主人とはうまくいってない。でも、だからって何であんな人に、身を預けないといけないの?」

「そりゃそうですよね」

 静香は感情的になっていた。

 その時の光景を思い出しているのだろう。

 頬が紅潮していた。

 亀田みたいなオタクに迫られたら、誰だって嫌だろう。

 気持ちは分かる。

「それで、その場は去ったの」

「ええ」

「それから何か疲れちゃって、実家に帰って……」

「その時にDVDを?」

「うん、でも、子供の事もあるし、主人にはなついていたので帰りました」

「ええ」

「そしたら子供が、亀田さんを発見して……」

 途中で彼女の目に涙が溜まっていた。

 自分の子供が、亀田の自殺の第一発見者。

 むごい現実である。

「それで今に繋がると……」

 静香は、テーブルに突っ伏して泣き出していた。

 力のない小動物を見るような感覚を覚える。

 初対面の俺の前で、テーブルに突っ伏して泣く静香。

 見ていて哀れに思う。

 店内の数人の客が、こっちに注目していた。

 マスターのほうを見ると、気づいていないふりをしていた。

 亀田の性格を考えると、あの首吊り映像は作り物だと感じる。

 その時点で、冷めたような感覚はあった。

 あとの話はどうでもよかった。

 でも、目の前で泣いている静香を見ると、悪い気がしてくる。

 自分の興味的な事だけで、過去の嫌な記憶を蘇らせた。

 少なくても今、泣いているのは、俺のせいでもある。

 仕方ない。

 ここまで乗りかかった船だ。

 とことん付き合おう。

 俺は静香が泣きやむまで黙って待っていた。

 そういえば主人は仕事だとしても、子供は放っておいていいのだろうか?

 ここに来て三十分は経つ。

 昼寝をしているだけかもしれないが、あのアパートに一人でいる状況には代わりがない。

 静香は今、自分の事で、いっぱいいっぱいなのは分かる。

 でも、子供の事を言ってやらないと……。

「あの~、静香さん?」

「……」

「いいんですか、お子さん。一人でアパートにいるんでしょ?」

 俺の言葉に反応してくれたのか、静香は顔を上げた。

 目が真っ赤になっている。

「お願いがあるの……」

「ええ、何ですか?」

「付き合ってほしいところが……」

「どこへです?」

「それは返事を聞いてから……」

 どこへ行こうというのだろう。

 まあ、どこでもいいか。

 さっき、とことん付き合うと決めたのだ。

「分かりました。いいですよ」

 子供の事はいいのだろうか。

 それ以上は追求せずに、俺はコーヒー代を払って店を出た。

 賑やかな駅前通から、離れていくように歩く静香。

 俺は、黙ってあとをついていくだけだった。

 彼女は今、何を考えているのだろう。

 明らかにアパートとの方角とは、違ったほうへ歩いていく。

 後ろ姿は、寂しさやせつなさを訴えているようにも見える。

 どんどん人気のないほうへ向かう。

 とりあえず声を掛けようと、横に早歩きで並ぶ。

「亀田さんが亡くなったあとね……」

 突然、話を切り出されたので、心の準備がうまくできていなかった。

「……」

「警察の人が、何度も聞き込みに来たわ」

「それは、そうですね」

「それで私、知ったの……」

「何をです?」

「さっき、あなたが言ってたでしょ?」

「え?」

「床にパンティが落ちていたって……」

「ええ」

「それ、私のパンティだったの……」

 亀田の奴、隣のベランダから忍び込み、静香のパンティを盗み取ったのか。

「……」

 何て声をかければいいか、分からなかった。

「お気に入りのやつだったのよ。真っ白で……」

 もともと白いものが、あいつの手垢などで陵辱され、どす黒く変色したパンティ。

 持ち主の静香は、どれだけ傷ついたのだろうか。

 想像もつかないほどのショックを受けるだろう。

「辛かったら、無理にはいいですよ」

「ありがとう」

 悲しげな静香は、無理に笑顔を作った。

 抱きしめてやりたい衝動に駆られる。

 でも無理だ。

 俺には美和がいる。

 俺たちは、そのまま黙って歩いた。

 やがてお寺が見えてくる。

 静香は真っ直ぐ進み、寺内へ入った。

 一体、俺をどこに連れて行こうとしているんだ?

「ごめんね、変なところに案内しちゃって……」

「い、いえ……」

 静香は墓場に入り、奥に歩いていく。

「……」

 香田隆志と書かれた墓石の前で、静香は立ち止まった。

 ご先祖の墓だろうか。

「私の子供のお墓なんだ……」

 衝撃的な事実に、言葉が出なかった。

 あのDVDに映っていた子供……。

 あの子が亡くなっていた。

 あんなに元気にはしゃいでいたのに……。

 静香はしゃがみ込んで泣いていた。

 小刻みに肩を震わせながら……。

 何ともいえない気分だ。

 一体、何があったのだろう。

 俺はしゃがみ込む静香の肩に手を置いた。

「色々と辛い事が、連続であったんですね……」

 確かに主人とは、うまくいってない。

 さっき喫茶店で、彼女が言った台詞が思い出される。

 こんな小さな背中で、一人ですべて背負い込んできたのだろう。

 そういえば、何で最初に気付かなかったのだろう……。

「な、何故、私に、子供がいたなんて分かるんですか?」

 あの時、静香は「子供がいた」と過去形で話していたのだ。

 静香は俺に抱きついてきた。

 俺は両腕を下に垂らしたまま、立ち尽くすしかなかった。

 俺の胸を借りて泣く静香の頭を優しく撫でてやる。

 携帯が鳴る。

 美和からだった。

 俺は音が鳴らないように、バイブにして再びポケットに入れた。

 裸の静香が、上半身を起こす。

 形のいい胸が揺れる。

 俺は彼女を抱いてしまった。

 俺も静香も何も言わず、自然とホテルに向かっていた。

 旦那とも、しばらくしていなかったのであろう。

 静香は貪欲に俺を求めた。

 俺も彼女の心境を理解し、それに答えた。

 いけない事なのは承知していた。

 でも、自分を抑えられなかった。

 今、彼女の顔は、すっきりしたような感じに見える。

「まだ、名前も聞いてなかったね……」

「早乙女雷蔵…。二十三歳」

「へー、雷蔵って言うんだ?」

「うん、古臭い名前だと思うけど、自分じゃ気に入っている。俺も、静香さんって名前しか聞いていない」

「失礼ね。女に年を言わせるの?」

「抱いた女には、失礼でも聞くようにしている」

 俺がそう言うと、静香は声を出して笑った。

 心から笑っているように見える。

「二十五」

「二つ上なんだ。もっと、若そうに見えたけどね」

「ありがと」

 静香は、俺の頬にキスをしてきた。

「旦那がいるのに、良かったのかい? 後悔してないの?」

「少し長くなるけど、聞いてくれる?」

「もちろん」

「あのアパート、引っ越してきたのって、まだ数ヶ月前だったの。亀田さんとは、偶然近くのスーパーで知り合ってね。最初の頃は、いい近所付き合いをしてたわ。ただ、うちの主人って一度も私を抱いてくれなかったの。何度も言ったけど、いつも疲れているってばかり…。子供を撮ったDVDに、あんなものが映っているのに、全然感心すら抱いてくれなかったの」

「それは酷いな」

 静香は甘えるように、俺の腕に頭を乗せてきた。

「あの公園で私が悩んでいると、亀田さんが偶然、通りかかったんだ。親切にしてくれるから、相談しちゃってね…。そしたら私に迫ってきて…。これが目的で、親切にしてたんだって思っちゃった」

「大抵の男って、そんなもんだよ」

「そうね。心を少しでも許した私が、馬鹿だったんだなって思ったよ。それで、子供と実家に帰ったって言ったでしょ?」

「ああ」

「もう二人で生きていこうって思ってたけど、隆志が、主人を恋しがっていたから、仕方なく戻ってね」

「子供の気持ちがやっぱり優先だよね。間違ってないと思うよ」

「うん、そしたら、亀田さんがドアノブで首を吊っているのを隆志が見て……」

「そっか……」

「最初、あのアパートに戻った時、すごい嫌な臭いがしてね。その時で、妙な感じはしたんだけど、隆志は亀田さんの部屋のほうへ行ってたの」

 すごい嫌な臭い……。

 俺が公園で嗅いだ臭いと同じような気がした。

「それで?」

「ドアノブに手を掛けてたから、やめなさいって言ったら、ドアが開きだして……」

 静香の肌は鳥肌が立っていた。

「辛かったら、その辺は無理に話さなくてもいいよ」

「うん、ありがと。それから警察に通報して、何度も聞き込み調査が来て、すごい疲れたわ」

「そりゃそうだろうね」

「旦那は私に謝ってきたわ。でも、それって形だけだったの」

「何故?」

「息子の隆志が原因不明で、体の具合が急に悪くなり、病院に連れて行っても医者は分からないって……」

「……」

「色々な医者にすがりついたけど、原因不明のまま、隆志は三歳で亡くなったの」

「うん……」

「まだ、二週間前の話……」

「そうか」

「隆志が亡くなったその日…。旦那は、別の女と浮気してたんだ」

「……」

「私、隆志の葬儀とか色々あって、何も言わなかったけど、終ってから実家に戻ったの」

「うん」

「その時、あのDVD出したところから、連絡があってね。隆志が亡くなった原因が、分かるんじゃないかなと思って出演したんだ」

「DVDでは、子供が亡くなった事、言ってなかったじゃない?」

「話している内に、この人たちって何か違うんだなって思って……」

「そうだね。俺も見ていて、それは感じたよ」

「親に言われたわ。おまえの主人も辛さは同じなんだから、家に戻りたい気持ちは分かるけど、一緒にいなって……」

「確かに事情を知らないと、そう無責任に言うかもな……」

「もう何も考えられなくて…。私の居場所って、どこにもないんだって思ったの」

「……」

「家にもいられないし、働いてないから、私は今のところに戻るしかなかったんだ……」

「大変だったな……」

「隆志が亡くなったの、まだ信じられなくて……」

 静香は、涙声になっていた。

 俺はギュッと抱き締めてやる。

 ホテルの休憩時間がきて、俺たちは出る事にした。

「送っていくよ」

「ううん…。大丈夫……」

 静香は寂しそうに笑った。

「そうか」

「ごめんね」

「何が?」

「もう逢う事、ないと思う」

「……」

「ありがとう……」

 静香は振り向いて、歩いていった。

 まだ時間は三時半だった。

 携帯を取り出すと、美和から着信が三回ほどあった。

 美和に対しての罪悪感がのしかかってくる。

 俺はどんな言い訳をしたとしても、あの女をさっき抱いてしまったのだ。

 でも、何故か気分はすっきりしていた。

 美和に、この事だけは黙っておこう。

 俺はマンションに向かって歩き出す。

 一度も静香のほうを振り向かずに歩いた。

 帰り道、公園に差し掛かる。

 今は誰もいなかった。

 この近所の人々は、この場所で自殺があったのを知っているせいだろうか。

 ブランコへ近づいてみる。

 あの映像は亀田が合成したと仮定しても、ここでサラリーマン風の男が首吊り自殺をしたのは本当の事だったのである。

 ここで自殺をした……。

 俺はブランコを支える鉄の棒に触れてみた。

 何も感じない。

 どんな気持ちで自殺をしたのだろうか?

 俺には分からない。

 もう前みたいな変な臭いはしなかった。

 あの時嗅いだ臭いは一体、何だったのであろう?

 赤いベンチに腰掛け、静香が住むアパートを見る。

 もう彼女は帰って中にいるのか。

 色々と考えてみたが、もうどうでもいい事だった。

 彼女とは、二度と会う事はないのだ。

 さっきお互いを求め合ったのが、幻だったように思えてきた。

 帰るか……。

 俺は立ち上がり、公園をあとにした。

 自分のマンションに帰ると、ドアの新聞受けのところに、大き目の封筒が入っていた。

 手に取ると、非常に薄っぺらい封筒だった。

 差出人も何も書いていない、ただの封筒。

 何だろう、これは……。

 中に何か入っている。

 俺は封を切って、取り出してみた。

 真っ白い一枚のDVD。

 中にはそれしか入っていない。DVDのロゴしかない、無地のメディア。

 郵便物で届いたものじゃないとすると、誰からだろう。

 この部屋に来た事があるのは、友人と美和ぐらいだ。

 美和は、まだ仕事しているだろうしな……。

 とりあえず友人に連絡してみる。

「なんだい、雷ぞっち?」

 相変わらずの友人のダミ声が聞こえてくる。

「あれ、今日は仕事休み?」

「ああ、先週の日曜日仕事だったから、今日はその代わり」

「そうなんだ」

「雷ぞっちは?」

「今日、仕事を休んだんだけど、今まで外に出掛けててさ」

「うん」

「それで今帰ると、変な封筒があったんだよ。差出人もないし、おまえが届けたのかなと思ってさ」

「はぁ? そんなの知らないよ」

「そっか……」

「中は見たの?」

「DVDの真っ白なメディアが一枚だけ」

「何、メディアって?」

「うーん、分かりやすく言うと、DVDだよ」

「ああ、なるほどね」

「まあ、プレーヤーで見てみるよ。おまえも一緒に見るかい?」

「俺はいいよ。遠慮しとくよ」

「何で?」

「だって薄気味悪いじゃん」

「それはそうだけど、中身気にはなるだろ?」

「そうだけど、俺が怖いの嫌いなの、知ってるだろ?」

「ああ、そうだな。でも中身がエロいやつだったとしても、あとでじゃ見せてやらないぞ。いいのか?」

「それはまた別の話だろ」

「都合いいやつだな」

「いいじゃねーか。そん時はちゃんと教えてくれよ」

「分かったよ。これから見るから切るぞ」

「ちゃんとエロいのなら、教えてくれよな」

「分かったよ」

「絶対だよ」

「うるせって、しつこいなぁ」

「いいじゃん。あとで少ししたら、俺から電話するよ」

「はいはい、じゃあね」

 封筒は友人からではなかった。

 では、美和からだろうか?

 俺はメールを打って、返事を待つ事にした。

 一体、何のDVDだろうか?

 差出人不明の無地のDVD……。

 内容はどうなっているのだろう?

 とりあえず、美和からの返事を待ってから拝見しよう。

 すぐにメールの返事がきた。

『ただいま、仕事中。封筒? 何それ? 私は仕事で、今日は雷蔵のとこ行ってないよ。さっき電話したのは、ちょっと声が聞きたかっただけでした。寝ちゃってたかな? でもメールが来たので、職場でニコニコしてます。終ったら連絡するね』

 美和からでもない。

 じゃあ、一体、誰がこんなものを……。

 美和のメールを見て、胸が痛んだ。

 さっきまで、静香を抱いていたのだ。

 完全な裏切り行為。

 でも、この分では気づいていないようである。

 このDVDを見てみよう。

 考えても結論は何もでない。

 俺はプレイヤーへメディアを入れた。

 ―― 公園に映るブランコで首を吊った男 ――

 ん、何だ、これは……。

 この間、借りた『一般人投稿の不可解な映像』と、同じ映像じゃないか。

 俺は借りているほうの『一般人投稿の不可解な映像』を見た。

 テレビの横に置いてある。

 間違って入れた訳ではない。

 何だ、このDVDは……。

 薄気味悪いものを感じる。

 借りたものと違う点は、スタートの時点で静香がいきなり出てきているところだ。

 誰がこんなものを……。

 静香とスタッフの話す内容は、前と何も変わらない。

 話す台詞まですっかり同じだ。

「すべり台でうちの子が遊んだあと、ブランコほうへ行く時に……」

「はい」

「ブランコで首を吊っていたようなサラリーマン風の男が……」

「え、はっきりと映っていたんですか?」

「はっきりと言うよりかは、うっすら透明にといった感じです」

「でも、●●さんは、それを見ながら撮影していた訳ですよね」

「もちろんです! ただ、私からはその時、何も気づきませんし、何もなかったんです!本当ですよ。信じて下さい!」

「落ち着いて、落ち着いて……」

 急に取り乱す静香。

 スタッフは、慌ててなだめている。

 ここまで何も変わっていない。

「す、すみません……」

「では、その問題のシーンを拝見いたしましょう」

 慌てたスタッフは、半ば強引に、画面を切り替える。

 俺の思考など気にせず、テレビのモニタはかまわず進めていく。

 問題の映像シーンが始まる。

 近所の公園で無邪気に遊びまわる男の子。

 俺はこの子が隆志という名前だと知っている。

 そして亡くなったのも……。

 静香にビデオカメラで撮られるのを嬉しそうに、元気いっぱいはしゃぐ隆志。

 砂場で山を作って遊び。

 ジャングルジムを頑張って必死に登る。

 本当にこの子が、原因不明の病気で亡くなったのか。

 こんなに元気なのに……。

 でも、俺は隆志の墓まで、実際にこの目で見ている。

 ジャングルジムについているすべり台から、大声を上げながら滑り降りる隆志。

 すべり台つきのジャングルジム……。

 隆志がブランコのほうへ駆けていく。

 ここで、亀田の合成した偽者動画が出る。

 ブランコで首を吊った男が映しだされる。

「ん?」

 何か、前よりハッキリと鮮明に映ってないか……。

 俺は身を乗り出して、さらにテレビへ近づく。

 間違いない。

 前、見た時よりもハッキリと映っている。

 頭が混乱してきた。

 気がつくと息使いが荒くなっている。

「ホラービデオを見ているぐらいなら、私は何も言わなかった。でもあの公園は本当に言っちゃ行けない場所のような気がする。霊体験ってそんな簡単なものじゃ済まない気がするの……」

 美和の忠告した言葉が鮮明に頭の中で蘇っていた。

 画面が切り替わる。

 すっかり俺は画面に見入っていた。

 砂嵐がザーッと音を立てながら流れる。

 これで終わりなのか……。

 プレイヤーからメディアを取り出そうとする。

 その時また画面が切り替わった。

 俺は手を止め、その体勢のまま画面を見る。

 映っているのは、ニュースみたいな映像。

 見た事もないような、アナウンサーが放送席に座っている。

「本日、午後四時のニュースをお伝えします。以前、公園で首を吊ったサラリーマンがいました。その後、また近くのアパートで、ドアノブに紐をかけ、首を吊って亡くなった方もいます」

 何だ、このニュースは……。

 全身鳥肌が立った。

「そしてまた、その隣の部屋で一人の女性が、窓のところから紐をかけ、首を吊ってぶら下っているのを発見しました」

 隣の女性……。

 静香の事か……。

 そんな馬鹿な……。

 落ち着けって……。

 これはただのDVDプレイヤーが再生して映っている画面だ。

 通常のテレビ放送で流れている訳ではない。

「それでは、その模様をお伝えする映像があるので見てみましょう」

 俺は時計を見た。

 四時ちょうどだった。

 何だ、これは……。

 これ以上、見てはいけない気がした。

 あれほど怖いものを見ている俺が、ビビっているのか。

 本能がやめろと、危険信号を送っている。

 額に手をやると、汗を掻いていた。

 俺は冷や汗を掻いているのか……。

 マズい…、これ以上…、見てはマズい……。

 俺はプレイヤーの停止ボタンを押した。

「無駄ですよ」

 テレビから声が聞こえた。

 びっくりして画面を見る。

 画面の中にいるアナウンサーと、目が合った。

 馬鹿な…、今、俺に言ったのか……。

「もう、停止ボタンを押しても無駄なんです」

「……」

 明らかにアナウンサーは、俺のほうを向いてそう言っている。

 何だ、このDVDは……。

「しっかりと画面を見て下さい。私も仕事中ですので、正面を向いてアナウンスしないと怒られてしまうのです」

 ヤバい。

 頭の中で警告音が、やかましいぐらい音を立てて鳴っている。

「では、どうぞ」

 アナウンサーが言うと、画面が切り替わる。

 映ったのは、古いアパート。

 どこの…、いや、静香が住んでいるアパートだ。

 公園とは逆から撮った角度で収まっている。

 二階の一室の窓から、人みたいなものが垂れ下がって見える。

 遠くからの映像なので、よく見えないが……。

 カメラはアパートに徐々に近づいている。

 俺は衝撃を受けた。

 人みたいなものではなく、人間が首を吊っている。

 髪の長いロングヘアー。

 顔も吊るされたショックからか、かなり変形して醜く映し出されている。

 俺はそれが静香だと分かった。

 目から一筋の涙が零れ落ちる。

 何故、彼女がこんな真似を……。

 ちょっと待て…、この映像はおかしいだろう?

 さっきまで俺はこの静香と直に会っていたのだ。

 別れてからすぐ帰り、郵便受けにこのDVDはあった。

 もし静香が本当に首を吊ったとしても、こんなすぐ映像に納めるなんてありえないじゃないか。

 だいたいこのDVDは何なんだ?

 部屋の電話が鳴る。

 誰から?

 美和からか……。

 俺は立ち上がり、受話器を取った。

「もしもし、早乙女です」

「困りますよ、早乙女さん。ちゃんと画面を見てもらわなくては……」

 聞き覚えのある男の声。

 しかし誰からか分からない。

「誰だ、おまえは?」

 俺は叫んでいた。

「静かにして下さい。後ろを振り向いて、画面を見て下さいよ」

 俺は振り返り、テレビ画面を見た。

 さっきのアナウンサーが受話器を耳に当てながら、俺を凝視していた。

「そう、そうやって、ちゃんと見て下さいよ」

 受話器からと、テレビのスピーカーから、同じ声が聞こえてくる。

 思わず受話器を落としてしまった。

 俺が体験したかったのは、こんなんじゃない。

 怖くてこの場から逃げ出したい。

 でも、動こうと思っても動けないでいた。

 ひょっとしてこれが、金縛りというものか……。

「……」

 叫ぼうとしても、声すら出せない。

「では、引き続き、映像をご覧下さい」

 アナウンサーが笑顔で言い、再び、画面が切り替わる。

 公園で無邪気に遊びまわる隆志が映し出される。

 さっき見た映像じゃないか。

 遊んでいる隆志を撮る静香。

 何も変わらない。

 もう見たくない。

 目を閉じたくてもできなかった。

 すべり台を滑った隆志がブランコのほうへ走る。

 そこへ映る首を吊った男。

 さらに前よりもハッキリと映っていた。

 首を吊った男の顔が動く。

 俺の方向を見ているのが分かった。

 助けてくれ。

 誰か助けてくれ……。

 神様、仏様……。

 何でもいい。

 俺を助けてくれ……。

「……」

 首を吊った男が、俺に向かって近づいてくる。

 限界だ…、意識が薄れていく。

 目を覚ますと、天井が見えた。

 俺は気を失っていたのか……。

 部屋の床で寝ていたようだ。

 テレビ画面を見る。

 何も映っていなかった。

 さっきのは夢だったのか……。

 しかし、それにしては、リアル過ぎる。

 玄関のチャイムが鳴った。

 美和だろうか?

 俺は玄関へ向かう。

 これ以上、一人でいるのは嫌だった。

 霊体験をしたいとか思っていた俺が、馬鹿だった。

 ドアを開ける。

「うわぁーっ……」

 外には、首を吊った男がぶら下がっていた。

 ジトッと怨みの籠もった視線で、俺を見つめていた。

「……!」

 また、体が動かない……。

「……!」

 声すら出ない。

 誰にも助けを呼べない……。

 首に紐のようなものを巻かれる感覚を感じる。

 あの時、公園で嗅いだ変な臭いが鼻をつく。

 その嫌な臭いだけしか、感じ取れるものはない。

 頭のヒューズが、プチンと音を立てて鳴ったような気がした。

 何故、この俺が……。

 目の前が、真っ暗になった。

 何も見えない。

 何も聞こえない……。

 疲れた……。

 もう、どうなってもいいや……。

~エピローグ1~

「やっと終わったぜ……」

 私は、『ブランコで首を吊った男』の執筆を終え、大きく伸びをする。

 原稿用紙で三百一枚。そこそこの長さだ。

 私の初のホラー小説が、今ここに完成したのである。

 ひと仕事終えたような気だるさを感じ、その日はゆっくり休んだ。

 明日は、前から彼女が言っていたもの凄い霊媒師のところへ行く予定だった。

 霊など何も見た事ない私が、よくもまあこんなホラー小説を考えながら書けたものである。

 我ながら、素直に感心した。

 後編の主人公早乙女には、私の霊に対する興味本位な性格をプレゼントしたので、非常に書きやすく、サクサクと執筆も進んだ。

 今付き合っている彼女も、早乙女の彼女役である美和のモデルになっていた。

 あいつは、妙に勘が鋭い時がある。

 そんな彼女が、ある霊媒師のところへ行こうと言い出した時は、ビックリしたものの、楽しみでしょうがなかった。

 時計を見ると、夜中の二時を回っている。

「草木も眠る丑三つ時ってか……」

 明日、寝坊したら大変だ。

 私は大人しく布団へ横になり、目を閉じた。

 今私は、例の霊媒師のところへいる。

 見掛けは単なるそこら辺にいる太ったおじさんだ……。

 過度な期待をしていた分、ガッカリしていた。何かしら面白い事があるかもと思っていたが、この分では期待できない。

 彼女からこの霊媒師は先の事まで丸見えだと聞いていたが、どう見ても胡散臭い。

 とりあえず、自分の執筆した『でっぱり』と『ブランコで首を吊った男』を印刷し、製本した状態で持ってきた。

 私の作品が今後、どうなるのか知りたかったからである。

「あの~、先生……」

「何ですか?」

「これ、見てもらえます? 私の執筆した小説なんですが……」

「ほうほう……」

「表紙の扉絵とかも、全部自分でデザインして描いたんですよ。私の小説、どうですかね? 世に出るべき作品だと思いますか?」

 度の強そうな丸いメガネを掛けながら、霊媒師は私の小説をジッと見入っている。

「この『でっぱり』という作品…。何だか暖かいですね…。あなた、これはある人の為に書きましたね?」

「え……」

 私の心臓は、大きな音を立てていた。

 何でそんな事が分かるんだ?

「あなたの根っ子の部分が、この作品には伝わっていますよ」

「は、はぁ……」

 実はこの『でっぱり』という作品を書くにあたって、ある人間を励ましたいという想いから、始めたものだったのである。

 仲のいい先輩がいて、幸せな家庭を築いていた。

 小さな可愛い子供と美人の奥さんに囲まれた先輩は、とても幸せそうだった。

 ある日病気で子供が亡くなってしまい、美人だった奥さんはゲッソリ痩せてしまう。

 見ていられないほどの痩せようだった。

 私は近所で仲も良かったので、時間できる度先輩のところへ顔を出した。

 馬鹿話でも何でもいい。

 とにかく笑わせてあげたい……。

 そんな想いから、この『でっぱり』の構想は始まった。

 執筆を終え、印刷し本にする。

 最初に先輩の奥さんにこの作品を見せた。

 読んでいる内にまったく笑わなかった奥さんの口元がニヤけるのを確認した時、私はこれを書いて本当に良かったと心から思えた作品でもあった。

 思ったより、この霊媒師は鋭い人なのかもしれないな……。

 そのあとで霊媒師は私の処女作である『新宿クレッシェンド』を手に取る。

「これがあなたが初めて小説を書いたという処女作でしょうか?」

「ええ」

「ふむ……」

「どうかしましたか?」

「いや、近い未来かもしれないですが…。いいんじゃないでしょうか、この作品」

「…と言うと?」

「静かでクールな陰の作品なんですね」

「はあ? あの…、この作品をまだ読んでないですよね?」

「だいたい手に取れば分かりますよ」

「え……」

 そう言って霊媒師は『新宿クレッシェンド』の表紙をジーっと見つめていた。

「この作品が陰なら、続編の『でっぱり』は陽。ふむ、表裏一体の作品に仕上げている訳ですね。陰の部分で己の過去を吐き出し、陽でフォローに回っている」

「……!」

 私は言葉を失っていた。

 何でこの人は、作品を読んでもないのにそんな事が分かるんだ?

 心の奥底に眠っていた過去の忌々しい記憶。

 それを私はこの『新宿クレッシェンド』の主人公である赤崎隼人で表現したつもりだ。

 もし、この作品が世に出たとしたら、私はちょっとした罪悪感を覚えるであろう。

 そういった事も踏まえ、続編の『でっぱり』は逆に明るくテンポ良くスムーズに書き、そして前作とのテーマを相対するものとして仕上げたつもりだった。

 二つの作品を読んだのなら、まだ分かる。

 しかしこの先生は本を手に取り、表紙を見ただけなのである……。

 徐々に恐ろしささえ感じていた。

「では、先生…。この『ブランコで首を吊った男』はどうです?」

 昨日、完成したばかりの作品を手渡した。

 先ほどの陽気な表情とは打って変わり、難しい顔をしだす霊媒師。

「あなた、これ…。本物のホラーを書いたんですね……」

「はぁ?」

 何が言いたいのか分からなかった。

 これは私が閃いて、初挑戦したホラー小説である。

 構想からキャラクターまですべて自分で考えたものだ。

 それを本物のホラーとは、まるで意味が分からない。

「お言葉ですが、この作品は私が、一から最後まで考えて作ったものです」

「あれ、分からないで書いていたんだ?」

「は?」

「あなた、これ…、ある霊の力を借りて出来上がった作品ですよ」

「何を言ってんですか? これは自分ですべて考えた作品です!」

 いきなり何て事を言い出すのだ。

 さすがに私はイライラしていた。

「この作品のタイトル…。すごいこだわりがあったでしょ?」

「『ブランコで首を吊った男』ですか? それはありますよ! でもですね、他の作品のタイトルだって同じようにこだわりありますよ。自分自身が生み出したものですからね」

「う~ん、私の言い方が分かり辛かったか~。言い方変えるけど、じゃあ何で『ブランコで首を吊った男』なの?」

「そんなのは読めば分かりますよ!」

「いや、そうじゃなくてね…。何であなた、首を吊るのにブランコなんだって?」

「えっ……」

「普通に首を吊るとしたら、どこを連想します?」

 首を吊る場所……。

 それでパッと普通に思いつくのが木の枝や、部屋の天井などだった。

「あっ……」

「普通、ブランコでなんて連想は出てこないですよ?」

「……」

「それにね、この扉絵…。普通、ブランコって言ったら、一人乗りのポピュラーなものを思うでしょ?」

「ま、まあ……」

「何であなたは、この扉絵のブランコ、二人乗りの向かい合うタイプにしたの?」

「わ、分かりません…。何の意識もせず、普通に違和感なく描いてました……」

「過去を振り返ってごらんなさい」

 振り返る必要など何もなかった。

 私は、過去の忌々しい記憶を思い出していた。

 家のすぐ近所にあった蓮馨寺。

 今考えると不思議な寺で、境内にゲームセンターがあり、ブランコやジャングルジムなどがあった。

 当時松本清張原作の『鬼畜』の撮影シーンにも使われ、その時の背景は未だ映画の中に映像として残っている。

 幼き頃、弟とそのお寺で二人乗りのブランコを向かい合わせで漕いで遊んでいた。

 やっている内に物足りなさを感じ、二人とも立ち漕ぎでブランコを漕ぎだす。

 もの凄い反動がついた時、弟がブランコから放り出された。

 ブランコの軌道上に落ちた弟。

 その額目掛け、非常にもブランコは弟に向かう。

「ギャー……」

 恐ろしいほどの恐怖に歪んだ悲鳴と、おびただしい出血。

 弟は、額に五針を縫う重症となった事がある。

 調子に乗って漕いでいた兄である私のせいだった……。

 その後、そのお寺では自然と遊ばなくなっていた。

 私が中学生に上がる前だっただろうか。

 その二人乗りのブランコで自殺があったと噂で聞いた。

 その事件以来お寺にあったブランコは撤去され、今では桜の木が埋まっている。

「灰色のスーツを着たサラリーマン風の男性…。なるほど…。あなたに自分の存在を書いてもらい、世に知ってほしかったんだね……」

「えっ?」

「まあ、あなたはいい事をした訳ですな」

「あ、あの~…、先生って『ブランコで首を吊った男』、読んでないですよね? 表紙を見ただけですよね?」

「ええ」

「じゃあ、何で灰色なスーツの人って分かるんですか?」

「ああ、それは今さっきあなたから、その人が離れたのを見たからですよ」

 私は『ブランコで首を吊った男』の冒頭の部分を思い出していた……。

 目の前にサラリーマン風の男がいる。視線は地面のどこか一点を見据えているようで、僕などまるで視界に入っていないみたいだ。

 その男は、全身の力が抜けたかのように両腕をダランと垂らしていた。頭の上に見える紐。その紐を上に追っていくと、ブランコの上の棒にくくりつけてあった。

 静寂に包まれた空間の中での異質な状況。

 頭の中がどうにかなりそうだった。

 僕はその場に汚物をぶちまけたかったが、懸命に堪えた。しばらく地面に座り込んでから、ゆっくりと男のほうへ振り返った。

 グレーのスーツの男はブランコの場所で、こんな夜中に首を吊っていたのだ。

 地面から三十センチほど宙に浮いた足。その足元には糞尿など様々な老廃物でいっぱいだった。異臭の元はこれだったのだ。

「……」

 その霊媒師に対し、何の言葉も出なかった。

「まあ、あなたはいい事をしたんですよ。人助け…、いや、霊だから、霊助けってとこですかね」

 そう言って霊媒師は、大袈裟に笑った。

 私の体全身には、ブルブルと鳥肌が立っていた。

 この作品を書くに当たって、メインの違う主人公を二人考えた。

 一人は「亀田の章」に出てくる四十歳男の亀田である。

 彼に関しては、とにかく自分にないものをと考えながら、気味の悪い男を書いていった。

 こんなのがもし身近にいたら、嫌だな……。

 女性が読んだら、気持ち悪いという作品にしたい。

 相手が嫌がるには、どうすればいいだろうか。

 そんな事を一生懸命考えながら執筆した。

 逆に「早乙女の章」に出てくる二十三歳の早乙女は、女にモテるように設定し、亀田とは正反対のキャラクターとして考えた。

 だが、それさえも私はブランコで首を吊った男に、書かされていたというのだろうか……。

 私には、何が本当なのか、未だに分からないでいる。

~エピローグ2~

 ふと『首吊り』という繋がりで、自分自身を振り返ってみた。

 私が生まれる前、いやお袋が小さかった頃、お袋の親父つまり私にとっておじいちゃんだが、風呂場で湯船に浸かろうとして心臓麻痺を起こし亡くなったらしい。

 幼い頃、私は母方のおばあちゃんからそう聞いていた。

 小学校二年生の冬、お袋は俺を捨てて家を出て行った。

 私が二十五歳の時、おばあちゃんが亡くなり密葬をすると聞いたので駆けつけた。

「ねえ、このおばあちゃんの旦那さんって若い頃、自殺したんでしょ?」

「うん、近所には黙っていたけど、そうらしいんだよね」

 その時参加していた人たちが、小さな声で囁いていたのが聞こえた。

 私は密葬が終わるのを待ち、その人たちに聞いてみる事にした。

「あの、すみません……」

「はい、何でしょう?」

「先ほどおばあちゃんの旦那さんが自殺って言ってましたが……」

「ええ、かなり前らしいけど」

「本当に自殺だったんですか?」

「ええ、自分で首を吊って亡くなったらしいわ」

「……」

 ここでも『首吊り』……。

「ちょっと、この子、お孫さんでしょ? 余計な事言わないほうがいいわよ」

 もう一人のおばさんが小声で私に聞こえないよう話をしていた。

 何故おばあちゃんは、生前私に心臓麻痺だなんて誤魔化して言っていたのだろう。

 湯船に浸かって心臓麻痺だなんて、滅多にないはずだ。

 幼いながら不思議にずっと思っていた事でもあった。

 この人たちの噂話を聞き、見た事もない母方のおじいちゃんは首を吊って亡くなったんだと感じる自分がいた。

 思い出せば、おばあちゃんは一度だって私におじいちゃんの生前の写真を見せてくれた事がなかったのだ。

 自分の身内が自殺だなんて、孫に言えなかったのだろう。

 そう思うと、秘密を一人で抱えながら亡くなったおばあちゃんがとても不憫に感じた。

 おばあちゃんが亡くなってから十年以上経つ。

 私は整体を開業し、日々患者さんを施術していた。

 ある日、よく来る常連患者さんと酒を飲む機会があり、色々とお互いの事を話し合った。

 その患者さんは、私よりひと回り上である。

 しかし生活感がまったく感じられなかった。

 ちょうどいい機会だと思い、結婚をしているのか聞いてみた。

「そういえば、波田さんってご結婚されているんですか?」

「あ、私ですか。実は今、独り者なんですよ」

 実は今という言い方が妙に引っ掛かった。

「失礼ですが、離婚されたっていう事でしょうか?」

「……」

 波田さんはそこでしばらく黙ってしまった。

「すみません。失礼な事を聞いてしまって……」

「いえ、実は女房、自殺してしまったんですよ」

「……。そうだったんですか……」

 波田さんは、とても暗い表情になっていた。

 当時を思い出しているのだろうか?

 深い悲しみ。

 それは私がいくら考えても到底及ばない。

 沈んだ瞳は、辛さを物語っていた。

「普通に仕事して帰ってきたら、部屋で首を吊っていたんです……」

 そう言って波田さんは黙々と酒を飲み続けた。

 波田さんと知り合った同時期に、ネット上を通じて知り合いになった小説家がいた。

 その人も偶然な事に波田さんと同じ年で、私よりひと回り年上である。

 価値観が合うというか性格が似ているので、よくお互いの近況を話し合った。

 不思議に思ったのが、奥さんの話がまったく出てこない点である。

 失礼を承知で聞いたが、波田さん同様過去に奥さんが首を吊って亡くなったと、その小説家は静かに言った。

 同時期に知り合ったひと回り年上の二人。

 その二人とも、奥さんが首を吊って亡くなったという事実。

 私はここまで書いて『首吊り』というキーワードが繋がっていくのが怖くなった。

『ブランコで首を吊った男』。

 この作品は、どうやらこの辺で執筆をやめておいたほうがよさそうだ……。

 私はそうしたほうがいいと本能的にそう感じ、この作品について関わるのをやめた。

 後日、例の霊媒師から言われた事があった。

「まだ数年後でしょうけど、あなたはいずれ『天使の羽を持つ子』、そしてさらに先の話ですが、『神の棲む家』という作品を書くでしょう」

 当然心当たりはあった。

 己の過去を振り返り、自分と向き合う為の作品が『天使の羽を持つ子』。

 本当のテーマは私の根底に深く根付いている憎悪の浄化である。

 以前この題名で作品に挑戦した事があったが、原稿用紙四千六百十枚まで書きながら途中で頓挫した。

 自分をテーマにしてしまうと、いくら書いたところでキリがない事に気付き、『新宿クレッシェンド』の続編である『新宿プレリュード』以降の作品などと話が被ってしまう恐れがある。

 よって今は断念していた。

 そして『神の棲む家』……。

 過去二度に渡って輪廻転生をテーマに書いてみた事がある。

 一つは『群馬の家』であり、原稿用紙百五十二枚まで書きながら何故か途中で断念。

 次に『その先に見えるもの』と題名を変え、原稿用紙で九十二枚まで書くも、今の自分ではまだこのテーマを書くには早過ぎると感じ、また断念する形となっていたのだ。

 まだまだ他の作品を書き続けている内に、自然とこの二作品は勝手に生み出されるのだろう。

 そんな気がする。

 いずれにせよ、『天使の羽を持つ子』と『神の棲む家』は、まだ今の俺では完成までもって行けないのだ。

 まだまだ精進が必要である。

 ここまで書いて原稿用紙三百十三枚。

 更新した日時は三月十三日……。

 奇妙な偶然に、妙な薄気味悪さを覚えた。

 何か嫌だな……。

 私はもう少しだけ加筆する事にする。

 現在、霊媒師のところへ行った彼女とは別れ、今も俺は小説を書き続けている。

 そんなある日、幼馴染の同級生とバッタリ出くわした。

 その幼馴染と食事へ行った時の事である。

「ねえ、岩上。あなたの従兄弟で○○さんっていたでしょ?」

「ああ、それが?」

「私さ、○○さんが岩上の従兄弟だなんて子供の頃知らなかったんだけどさ。変な噂を聞いたの」

「噂? 何の?」

「いや、ちょっと言いづらいんだけど……」

「何だよ? ここまで言っておいて」

「いや、○○さんの…、あ、岩上のおばあさんでもあるんだっけ。その旦那さんの話なんだけど……」

「……」

 幼馴染の話を聞いた俺は非常にショックを受けた。

 またこれで一つ何かが繋がった。

 そんな気がする。

 ここでそれを書こうとは思わない。

 この話は俺が心の奥底にしまっておき、墓場まで持っていく事にしよう……。

 もうこれ以上、この作品に関わるのはやめたと決めたはずである。

 やるせなさを感じた。

 この後、余談ではあるが、私の処女作である『新宿クレッシェンド』は、霊媒師の予言した通り、二千七年の夏に『第二回世界で一番泣きたい小説グランプリ』を運良く受賞し、現在全国書店やインターネットにて発売されている……。

 本当に怖い作品……。

 そんな小説を書いてみたかった。

 そして完成した今……。

 この小説は曰く憑きの作品となりました……。

―了―

作者 岩上 智一郎

新説ブランコで首を吊った男

・『ブランコで首を吊った男』を

2006年4月6日より執筆開始

2006年4月18日の13日間で

原稿用紙132枚として完成

・続編の『何故、この俺が…』を執筆

2006年5月8日より執筆開始

2006年5月14日の7日間で

原稿用紙124枚として完成

上記二作品を合作として編集

・『ブランコで首を吊った男』

2007年7月23日より執筆開始

2007年7月24日の2日間で

原稿用紙301枚として加筆

・『ブランコで首を吊った男』

2008年5月29日にさらに加筆し

原稿用紙310枚として完成

2008年7月20日 

 以前この小説を書いたあとのエピソードを『新宿の部屋』や『川越の部屋』で載せておいたが、『ブランコで首を吊った男』と『何故、この俺が…』を合わせ、各章として分類

 タイトルを『ブランコ』と変える

 そしてエピソードを少し変え、オープニングとエピローグという形にして加え完成

・『ブランコで首を吊った男』

最終調整日時2009年3月13日

原稿用紙313枚として完成だったが

上記日付と原稿用紙枚数が同じで

薄気味悪くなり

316枚まで加筆して終わりにする

・『新説ブランコで首を吊った男』

約15年経った2024年9月9日

加筆修正をしつつ開始

実質一日で加筆修正を終える

小説というものにどっぷりハマり、当時はほとんどの時間を費やしてきた

とある日、身の回りでおかしな事が起き過ぎて、執筆するのが怖くなった

そして『鬼畜道〜天使の羽を持つ子〜』を執筆中、過去の嫌だったトラウマをこれでもかと赤裸々に書き、何度もトイレへ駆け込み吐いた

結果、文学というものから距離を置く事に決める

これが2010年だから、もう14年も執筆していなかった訳だ

あの当時の身の回りのおかしな事とは、三つの店の事

『打突』で登場させたどさん子ラーメン

『パパンとママン』で登場させた姉妹モデルの兄妹という居酒屋

そして『ブランコで首を吊った男』のエピローグ2に出てくる幼馴染の家のラーメン屋幸楽である

私の実家から3軒共500m以内の距離

そのすべてが火事で全焼した

『パパンとママン』の姉妹に関しては2人の死人まで出ている

私が何かしたとかでは無いが、執筆していて怖くなったのだ

その後幼馴染の店も火事で全焼

何かしらの因果を感じたのである

14年の月日が経ち、また文学に対しリハビリ程度の事を始めるようになった

それが自身の半生を振り返る闇シリーズであり、今回の新説ブランコで首を吊った男になる

今回のブランコにしても、たたの加筆修正のみ

しかも小説という体形を無視してこの結果である

キチンとした形での新作を書くのはいつになるやら……

しかしそう遠くない気は実感している

岩上智一郎より

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