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 「だんぶり様」          

長編23
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 「だんぶり様」          

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「あいうえお怪談」

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「だ行・だ」

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第40話「だんぶり様」

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昨年、コロナに罹患したことがきっかけとなり、軽いうつ状態に陥った渡辺さんは、上司の勧めもあり、秋彼岸から約1ヶ月の長期休暇を取得した。

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コロナの症状は、思ったよりも重篤で、入院を余儀なくされた。

齢(よわい)54歳にして、初めて「死」を意識した渡辺さんは、どうせ死ぬのなら、後悔しない人生をおくりたいと思うようになった。

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ある日、渡辺さんは、家族を説得し、大枚をはたいてマウンテンバイクを購入し、長年の夢だった 日本一周ひとり旅を実現すべく、最低限必要な装備を積み、かつて、出張先で訪れた町や村を再訪してみることにした。

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豊かな自然と温かな人情に再度出会える喜びを胸に、まずは、新人研修で数日間過ごした、みちのくI県Y村を目指し、ペダルに足をかけた。

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9月下旬。秋彼岸過ぎだというのに、北東北は、真夏さながらの猛暑が続いていた。

例年なら、この頃は、秋風の吹く過ごしやすい時期なのだが、あてが外れてしまったようだ。

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コロナに感染する前は、体力も筋力もあったはずなのだが、猛暑に加え、年齢的なハンディもあり、緩い勾配の坂道ですら、上りきるまでかなりの時間を要していた。

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苦労の末、やっとたどり着いた思い出の地は、開発により、見事なまでに都会化され、心身に癒やしと満たしを与えてくれた当時の面影は、どこにも見当たらなかった。

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流れる汗を拭きながら、落胆する渡辺さんの遥か遠方に、こんもりとした森が見えた。

急ぐ余り、充電を怠ったせいで、スマホの電源は、残り少なくなっていた。

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もしもの時のために、ナビを起動させるのは諦め、炎天下の中、気力と体力を振り絞り、遠くの森を目指し、走り続けた。

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件の森は、目視で感じた距離よりは、近場だったようで思いの外早く着いた。

こんな森があったとは、つゆしらず。偶然にも、涼を求めるに相応しい場所にたどり着いたことを喜んだ。

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森の入口には、小さな鳥居が立っていて、鳥居からお社までは、石段が敷き詰められた緩い坂道が続いている。

鳥居の右脇の山道を進むことにした渡辺さんは、マウンテンバイクに乗ったり降りたりを繰り返しながら、休憩の出来る場所を求め奥へ奥へと歩を進めた。

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やっと腰を下ろせそうな草むらに辿り着き、木陰に身体を横たえた渡辺さんは、蓄積された疲れから、いつのまにか入眠してしまった。

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気が付くと、西の空が真っ赤に染まっている。

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手元の時計を見て、更に愕然とした。

なんと2時間以上、ここで熟睡していたことになる。

慌てて、飛び起きたその時、羽をくゆらせながら、手のひら大の「ギンヤンマ」が、渡辺さんの鼻先を掠めるように横切っていった。

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「ギンヤンマ」を見たのは初めてではないが、こんなに大きく優美な姿をした主には、生まれてこの方、一度もお目にかかったことがない。

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「ギンヤンマ」は、渡辺さんを誘うかのごとく、銀色に輝く羽に夕陽を反射させながら、その場にホバリングした。

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ユラリ ユラユラユラ 

フウワリ フワフワ 

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手を伸ばせば、指先に吸い付くのではないかというギリギリのラインまで近づいては、

ふっ

と、離れ、

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ひたっ

と、近づく

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ふっ

ひたっ

ふっ

ひたっ

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を幾度となく繰り返す。

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マウンテンバイクを押しながら、導かれるまま、ゆっくりと、歩を進めているうちに、あたりは、すっかり黄昏時になっていた。

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まずい、このままだと野宿することになってしまう。

大急ぎで近くの町か村に宿を求めなければならない。

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「ギンヤンマ」は、焦り苛立ち慌てる渡辺さんを、翻弄するかのように、まとわりついている。

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これでは、いつまで経っても埒が明かない。

早々に、引き返し、宿を探そう。

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今来た道を振り返り、マウンテンバイクのハンドルを切り替えようとしたその時、

ぬるり ずるっ

粘着性の泥物を踏んだらしい。

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あっ!

泥物に足を取られ、バランスを崩した瞬間、葦の木の茂みの中に尻もちをついてしまった。

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いてぇ!くそぉ。

尾てい骨に走る痛みに耐え、周囲を見やる。

どうやら、この辺り一帯は、葦や水草が群生する湿地帯のようだ。

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よっこらしょ。

ひとまず、態勢を立て直すべく、その場にあった葦の葉に手を伸ばし腰をあげた。

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マウンテンバイクは、転んだ時の弾みで葦の茂みの中に投げ出されたのだろう。

湿地帯の泥にまみれることもなく、きれいな状態に保たれたまま横転していた。

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手のひら大の「ギンヤンマ」は、どこかへ飛び去ってしまったらしい。

せめて、カメラに撮っておくべきだったと後悔したが、後の祭りである。

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その時、背後から、声をかけられた。

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振り向くと、70代ぐらいの小柄な老人が立っていた。

「ここで何してるだ。」

「あぁ、すみません。このあたりの方ですか。」

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渡辺さんは、慌ててバイクを起こし、ハンドルを両手で握りしめた。

老人は、マウンテンバイクを不思議そうな顔で眺めながら尋ねた。

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「あんだ。それでここまで来たのが?」

「あ、あ、はい。これは、山道を走る自転車でして。えぇと、ちょっと、このあたりは来たことがなかったものですから。えぇっと、あぁぁ、あの・・・。」

たじろぎ、挨拶もそこそこに、ペコペコ頭を下げながら、しきりに言い訳にこれ努めた。

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「かつて訪れたことのある村を訪ねて来たんですが、森で休んでいたら、大きな『ギンヤンマ』に会ったんです。その後を追いかけていたら、ここに来てしまいました。

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慣れない湿地帯に、足を取られ、気づいたら、この有り様です。いやはや、お恥ずかしい。」

泥で汚れたスボンの尻を指差し、ポリポリと頭を掻いた。

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老人は、両手を降りながら、

「なんも、咎(とが)めてるんじゃねえよ。」

にっこりと優しい笑みを浮かべた。

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「お兄さんは、間が悪かっただけじゃ。このあたりの人間でも、ここには、なかなか来れねえよ。それにしても、なんともお気の毒なことだのう。」

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「すみません。もうじき日が暮れてしまうので、宿を求めたいのですが、このあたりに宿泊する場所が、あったら教えていただけないでしょうか。」

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「このあたりに宿はねぇよ。ま、今日は、わの家に来(こ)せ。今日は、もうひとりお客人が来ておるから。話し相手には困らねべ。飯なら、バサマが夕餉の支度ばしてるすけ。」

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老人は、くるりと背中を向けると、

「さぁ、こっちへ 来(こ)せ。」

と手招きすると、高齢とは思えない速度で歩き始めた。

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渡辺さんは、マウンテンバイクを押しながら、老人の姿を見失わないように、汗を拭き拭き早足でその後を追った。

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500メートルほど歩いただろうか。

突然、あたりに霧が立ち込め、老人の姿がみるみるうちにその中へ飲み込まれていく。

驚いて立ち止まる渡辺さんに、霧の中から、老人の声が聞こえてきた。

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―さぁ、急ぎなされ。霧が晴れないうちに。来るんじゃ。

オロオロたじろぎ、立ちすくむ渡辺さんを、老人は、叱咤するかのように急き立てた。

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急げじゃ。

ほれ。

早ぐよ。

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言われるがままに、霧の中に足を踏み入れると、辺りは一変し、別世界に来たかのような静謐で清々しい空気に包まれた。

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霧雨が、土や木々や草花を潤すがごとく優しく降り注いでいる。

霧の上に薄っすらと掛かる雲の切れ間からは、眩いばかりの陽光が差し込み、全ての命あるモノたちを見守るかのように、見事な虹のアーチが幾重にも村全体にかかるのが見えた。

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この世のものとは思われぬ 見事な美しさに我を忘れ、立ちすくむ渡辺さんの左手を、老人は、ぐいぃと掴み引き寄せた。

その手は、思ったより細く皮膚の感触は、ザラザラした見た目とは裏腹にツヤツヤとしており、プラスチックのようでもあった。

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「さぁ、お客人。こちらへ。」

気がつくと、渡辺さんは、立派な門構えのある大きなお屋敷の前に導かれていた。

ーこの老人は、一体何者なのだろう。

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霧を通り抜けると「桃源郷」もしくは「異世界」へと繋がっていると息子が話していた。

父親である渡辺さんは、この手の話は、一笑に伏していたのだが、ここは、まさしく、「桃源郷」「異世界」と呼ぶに相応しい場所である。

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白砂が敷き詰められた庭、門の横には、4ドアの白いセダンが横付けされている。

―そういえば、もうひとり。お客人がいると話していたな。

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自分以外にも、ここを訪れた人がいると知り、少し安心した渡辺さんは、マウンテンバイクを白いセダンの隣りに横付けした。

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ーまぁ、どうやら、摩訶不思議な異世界ではなさそうだ。

ー仮に、そうだとしても、孤独ではないし、いざとなればこの人の車で異動出来る。

ー何が起こっても、ふたりならなんとかなるさ。

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ー大丈夫だ。

自らを奮い立たせた。

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老人は、そんな渡辺さんを見て、小さく頷くと、門をくぐり、スタスタとお屋敷の中に入っていった。

「おんでやんせ。」

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相変わらず、追いつくのがやっとなくらい足取りが早い。

渡辺さんは、スニーカーを脱ぎ捨て、転倒しそうになりながら老人の後に続いた。

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ひたひたひた

森閑とした空気が漂う中。黒光りする長い廊下を、ふたりの足音が静かに響く。

行き止まりの壁を左に曲がると、20畳のほどの板張りの部屋に通された。

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そこには、囲炉裏を囲み、老婆と30代ぐらいの男性がお茶をすすりながら歓談していた。

老婆は、渡辺さんに老人の妻だと告げた。

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「今年は、お客人をふたりも迎えることができた。明日の『だんぶりまつり』は、久方ぶりにおもしれぇ日になりそうだ。」

嬉しそうな笑みを浮かべた。

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先客である男性と、渡辺さんは、軽く自己紹介をした。

男性は、年齢32歳で、大学の講師をしているという。 

渡された名刺には、◯△☓大学 生物学部 昆虫学科 専任講師 鈴木 学 

と記されていた。

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「今執筆途中の論文がとおれば、准教授になれそうなのですが。なにぶん、地味な研究なもので。人気はないですね。最近は、全国的にトンボの数も激減していますし。まだまだ、先は長いですよ。」

と頭を掻いた。

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鈴木さんは、トンボの研究のため、全国各地を旅しているうちに、偶然ここに辿り着いたのだという。

昆虫に生涯を捧げる人も居るのだなぁと、渡辺さんは、羨ましいと思う反面、自分の息子や娘が、研究者として、この道に進みたいと言ったら、手放しで喜べるだろうかと思った。

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本音とは裏腹に、

「何をおっしゃいますか。素晴らしいじゃないですか。好きなことを仕事にできるなんて。私なんか、コロナに感染し、以来、気力も体力も消失してしまい。長期休暇中でしてね。全く情けないったらありゃしませんよ。」

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ついいつもの癖で、愚痴を口にしてしまった渡辺さんに対し、鈴木さんは、

「まぁまぁ、明日は、ご一緒に、地元のイベント『だんぶりまつり』とやらを楽しみましょうよ。」

優しい気遣いを見せてくれた。

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「『だんぶり』と言うのは、何のことですか?」

渡辺さんの質問に、老婆が、「だんぶり」とは、「トンボ」のことだと教えてくれた。

このだけでなく、北東北では、トンボのことを「だんぶり」と呼ぶらしい。

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鈴木さんは、訛(なま)りが、よく聞き取れない渡辺さんに、老婆に代わって、優しく易しく解説してくれた。

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『だんぶり』とは、昆虫の中でも、スマートな印象のトンボとは、似ても似つかぬ野暮ったいネーミングだなぁと思いつつ、どことなく愛嬌のある響きに、渡辺さんは、ほっこりと温かいものを感じたのだった。

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『だんぶり』は、ここでは、「神様」のような存在だと老婆が語ってくれた。

明日催される『だんぶりまつり』は、この村にとって大切な神事であり、年中行事の一つなのだろう。

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「そうなんですね。まぁ、確かに。トンボは、害虫を食べてくれる益虫でもありますからね。」

渡辺さんの発言に、鈴木さんが、研究者らしい有益な情報を付け加えてくれた。

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「そうなんですよ。彼らは、意外と獰猛でたくましいんですよね。肉食昆虫ですから。『オニヤンマ』等は、その大きさから、スズメバチの天敵とも言われているのをご存知でしょうか。渡辺さんは、彼らに噛まれたことありますか。ないでしょう。相当痛いですよ。カマキリやクワガタに挟まれた時の何倍も痛いですから。」

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「私は、都会育ちのもやしっ子でしたから、その情報は意外でした。まぁ、トンボに限らず、昆虫が私達と変わらぬ大きさであったり、虎やライオンやヒグマに匹敵するくらい大きかったらとしたら、おそらく、無敵の存在になり得そうですしね。」

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「確かに。あの強力な歯で、頭から齧られてしまったら、即お陀仏ですね。」

渡辺さんの言葉に、鈴木さんは、笑いながら答えた。

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「ですよね。もし、あの姿で巨大化したら。ウルトラマンじゃないとやっつけられないでしょうね。」

「あはははは。全く持って、そのとおりです。上手いこといいますね。」

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「でも、トンボは、ウルトラマンじゃなくて、仮面ライダーじゃなかったですか?」

「あー、そうですねぇ。うんうん。イメージ的にも仮面ライダーですね。」

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老婆の手料理に舌鼓を打ち、地元の美酒を嗜(たしな)むうちに、渡辺さんと鈴木さんは、冗談を言い合うほど親しくなった。

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宴も終焉に差し掛かろうとしていた頃、渡辺さんは、ここに来る前に大きな「ギンヤンマ」に遭った話をした。

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その時、終始優しい笑顔で応対していた老婆の表情が一変し、下を俯いたまま、一切、言葉を交わさなくなってしまった。

ひとり黙々とお銚子や空になった器を片付け始めている。

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ここに来る途中、手のひら大の『ギンヤンマ』と遭った話をしたのが、まずかったのだろうか。

一抹の不安が渡辺さんの繊細な心を曇らせたが、顔を紅色に染めた鈴木さんが、ぐいと身を乗り出し、

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「え!その話もっと詳しく聞かせてください。いつ、どこで、手のひら大の『ギンヤンマ』と遭遇したんですか?」

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渡辺さんは、老婆の醸し出す不穏な空気に戸惑いながらも、ここに来るまでの経緯とともに、手のひらほどもある「ギンヤンマ」との不思議な出会いを語って聞かせた。

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鈴木さんは、

「そうでしたか。それはなんとも幸運な出会いでしたね。いいなぁ。画像には残していなかったのですか?」

「それが、スマホのバッテリーの残量が少なくなっておりまして。いざというときのために、電源を落としていたんですよね。」

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「それは、残念なことでした。多分、その『ギンヤンマ』は、このあたりの神様的な存在だったでしょうね。せめて、画像だけでもいいから見たかったな。」

鈴木さんは、いかにも残念そうに舌打ちをすると、奇妙なことを尋ねてきた。

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「ところで、渡辺さんは、この屋敷の裏手門のそばにある池には行かれましたか?」

「池・・・ですか。いえ、池には行っていませんが。」

はて?ここに来る途中、池などあっただろうか。

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「裏手門の近くの池には、何か珍しいトンボ つまり『だんぶり』が居るのでしょうか?」

素朴な疑問を投げかけてみたところ、驚くような答えが鈴木さんから返ってきた。

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「それが、ここに来る前に見かけたんですがね。トンボになる前の「ヤゴ」つまりトンボの幼虫ですよね。それを見かけたんですよ。」

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「そうなんですか。その「ヤゴ」は、何か特別なモノなのでしょうか。」

「それがねぇ。・・・実は・・・。」

鈴木さんは、スマホの動画画面を開こうとして、渡辺さんに身体を寄せたその時、

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部屋から出ていく老婆と入れ替わるように入ってきた老人が、半ば強引にふたりの会話に割り込んで来た。

「さぁさ、あらかた食事も済んだべぇがら。おふたりとも、湯っこさ浸って早ぐ休め。奥の部屋さ、布団ば敷いでるがら。」

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話の腰を折られる格好となった鈴木さんだったが、気を取り直し、

「お風呂なら、渡辺さん、お先にどうぞ。私は、まだ、やり残したことがあるので、もうしばらくここにいて、仕事していますから。」

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「お風呂に入ってきてください。後から、貴重な動画をお見せいたしますから。」

と告げ、リュックの中から、モバイルパソコンを取り出し、なにやら作業をし始めた。

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「風呂から上がったら、ここに寄って声をかけてください。私も、しばらく風呂に入っていないので、今日あたり入ろうと思っているんですよ。」

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なにやら、論文にとって重要な動画、もしくは、貴重な画像でもカメラに収めることが出来たのかもしれない。

画像編集のため、パソコンに張り付いたまま、こちらを一瞥もしない。

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貴重な動画が撮れた。と嬉々として話してくれた。

おそらく、ここを訪れてから、数日は経っているに違いない。

さすが、研究者だなぁと半ば感心し、

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「私が遭った手のひら大の『ギンヤンマ』。明日の『だんぶりまつり』で見られるといいですね。」

とだけ告げ、老人の後に続き、風呂場に着いた。

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老人の後について行った風呂場は、居間の逆方向にあった。

ちょうど、裏手門にあたる位置だ。

「あれ?鈴木さんが、話していた池のそばじゃないですかね。」

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老人に、話しかけるも、聞いているのかいないのか、なぜかスルーされてしまった。

「さ、ゆっぐりと風呂にはいりゃんせ。」

風呂場には、先程とは打って変わり、満面の笑みを浮かべて立っている老婆がいた。

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脱衣所の掃き出し窓の隙間から、裏手門と中庭らしき庭園が見える。

それにしても、老夫婦ふたりだけの暮らしにも関わらず、脱衣所も風呂も、いや、お屋敷全体が、まるで温泉旅館のように広い。

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収入は何処から得ているのかわからないが、中庭も、玄関前の植え込みも、家の掃除に至るまで、よく手入れされている。

老夫婦ふたりだけで、こんなに完璧な生活が出来るものだろうか。

渡辺さんは、不思議でならなかった。

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掃き出し窓から見える庭園の中央には、大きな池があり、その周りには、灯籠の火が水面を照らしていた。

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鈴木さんが、話していた池とは、ここのことだと確信した。

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鏡のような漆黒の水面には、季節外れの蓮の花が咲き、水面を照らすロウソクの光とともに、幻想的な美しさを醸し出していた。

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その佇まいに、しばし見とれていると、水面に浮かんでいる蓮の花が、ゆらゆらと動き出すのが見えた。

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柔らかな灯籠の明かりを頼りに、池の水面を見やると、細長い影が、こちらを伺うようにゆっくりと水面に浮かび上がるのが見えた。

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それは、全長2メートル以上は、あろうかと思われた。

巨大な何かが、鏡のような水面を、沖の白波のようにざわつかせている。

白波は、やがて大きな渦となり、水柱のようなうねりが立ち上った。

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―なんだ!あれは。

鯉や魚の類でないことは明白だった。

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黒い影と思われたモノは、水面スレスレに浮上すると、長い触手を池の縁に伸ばし、丸太のようなものを、ひたすら手繰り寄せている。

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目を凝らして見て、ゾッとした。

でかい。

かなりでかい。

2メートルなんてもんじゃない。

この闇の中、肉眼でも確認できるくらいだから。近くで見たらもっと大きいはずだ。

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ワニか?

いや、ガラパゴス諸島にすむ、生きた化石といわれるイグアナ?

もしくは、現存する恐竜の生き残りコモドドラゴンの類か。

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いずれにせよ、南の島にしか生息していないものが、果たして、雪深い極寒の北東北で繁殖し、生きながらえることができるものだろうか。

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渡辺さんは、生まれて初めて見る得体のしれない生き物を目の当たりにし、その場に立ちすくむより術がなかった。

酔いは一気に覚め、さっきまでの陽気な気分が一転し。悪夢に変わったような気がした。

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ーいいか、落ち着け俺。

ー落ち着け自分。

ーしっかりと 何が起きているのか、気を強く持って頭で考えるんだ。

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もしかして、あの手のひら大の『ギンヤンマ』は、この池から孵化したのかもしれない。

そして、今、未知の生き物が、すぐ眼の前の池に、その全容を現そうとしているのだ。

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さっき、鈴木さんが話していた池とは、この池のことなのだろう。

着替えもせず、立ちすくむ渡辺さんの耳に、

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ぎぃぎぃぎいぎぃ 

ずるずるずるずる

ガガガガガガガガガ

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地面の上にいる何かを、水中に引きずり込む音が聞こえて来た。

ーな、何をしている。

総毛立つ渡辺さんの耳に、どこからともなく 呪文のような歌が単調なメロディに乗って流れてきた。

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「だんぶりこっこ だんぶりこ」

「だんぶりこっこ だんぶりこ」

「だんぶりこっこ だんぶりこ」

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理解できる言葉は、「だんぶりこっこだんぶりこ」の1フレーズだけで、これに続く言葉は、なんと言っているのかよく聞き取れなかった。

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歌は、一定のリズムを刻み5分ほど聞こえていた。

それは、何かの儀式を行う際に謳われる前振りの歌にも、葬式で謳われる御詠歌のようにも聞こえてくる。

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何か不味いことが起きているのかもしれない。

この歌は、お祝いごとで謳われるものとは違うような気がした。

その逆で、不吉な事が起きる前兆、いや、敢えて不吉なことを呼び覚ます歌のように思えてならなかった。

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自分でも何故そんなふうに思ってしまうのか、不思議でならなかった。

明日が、「だんぶりまつり」だから、今宵は、前夜祭を行っているのだと言い聞かせてみたが、理性が、それを許さなかった。

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こんな時間に、神社仏閣でもない、お屋敷とはいえ一般人の家にある池で行うものではない。

時間にして、深夜0時をとうに過ぎている。

そもそも、日没後の神社仏閣からは、神仏は退去され、魑魅魍魎共に、明け渡すのだと聞いたことがある。

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やがて、歌が止み、一時の静寂が訪れたかと思うと、今度は、

ガツン ガツン ガツン

と鈍い音とともに、

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バシャーン 

激しく水を叩く音とともに、大きな水しぶきが空中に飛び交い、雷が落ちたような爆音が辺りに響き渡った。

かなり重量感のあるものが、瞬時のうちに、池の中に投げ込まれたような音だった。

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ごぼごぼごぼごぼ ごぼごぼごぼ

(んんんんんんんんんん)

プワプワプワ

(うっぷ うっぷ うっぷ)

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池の縁では、一体、何が起こっているのだ。

掃き出し窓から、池に向かって身を乗り出すも、灯籠の明かりだけでは、全く用をなさない。

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どんなに目を凝らしても、音の聞こえる方向は、漆黒の闇が広がるだけであり、まして、池やこの屋敷の位置等。全容を把握することなど到底無理である。

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風向きが変わった時、渡辺さんの鼻先に、鉄のような匂いが漂ってきた。

「ただならぬ事態がおこっているのではないか。」

渡辺さんは、老人や鈴木さんに事の次第を知らせるべく、たった今、脱いだばかりの肌シャツに袖を通した。

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とほぼ同時に、鉄の腐ったような匂いは、消え、あたりは再び静けさを取り戻した。

池の水面は、何事もなかったかのように、暗い闇を映し出す鏡のごとく、さざなみ一つ立ちはしない。

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まるで、こちらの 渡辺さんの動向を一部始終知られているのだろうかと疑いたくなるほどのタイミングだ。

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渡辺さんの身体は、恐怖と厭な汗のせいで、すっかり冷え切っていた。

ゲホゲホゲホ

まずい、咳が出始めた。

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コロナの爪痕が身体の中に残っているらしい。

一旦咳き込むと、容易に止まらなくなる。

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完治したつもりが、まだ、根強く残っている厭な症状のひとつだ。

よりによって、こんな時に。

ゴホンゴホンと立て続けに出る咳に、難儀していると、

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「どうしたね。あんださん。風呂さ、入らねがったのが。」

背後から声を掛けられた。

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慌てて振り向くと、脱衣所の入口に、老婆が立っていた。

一瞬、ぎょっとした。

白装束を身にまとい、能面のような顔で見つめていたからだ。

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―そ、その格好は?どうしたのですか?

と言いかけて、止めた。

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先に口火を切ったのは老婆だった。

「なして、風呂さ入らながった。」

どうやら、風呂に入らなかったことを咎め立てしたいらしい。

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「えぇ、ちょっと飲みすぎたみたいで。気分が悪くなったので、外の空気にあたっていたところでした。すみません。せっかく、用意してくださったのに、お風呂は、遠慮して部屋で休むことにします。」

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「んだば、しがだねぇべな。奥の部屋さ、布団ば用意してらすけ。はよ、休みなせ。」

老婆は、そう告げると、渡辺さんを残したまま、そそくさと走り去っていった。

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老婆の姿が見えなくなるのを見届け、渡辺さんは、長い廊下を通り、つい小一時間前まで、鈴木さんや老人、老婆と楽しく飲食していた居間を通り過ぎた。

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あたりに誰もいないことを確かめると、廊下に立ち止まり、居間のふすまに向かって、

「鈴木さん。いらっしゃいますか。」

と小声で話しかけてみたが、返事がない。

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「あの、鈴木さん。お風呂、お先しました。どうぞ。」

居間の明かりは消え、しんと静まり返っている。

「お客人なら、そこさばいねぇ。」

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振り向くと、件の老人が、無表情のまま突っ立っている。

「あんだ。風呂さ、入らなかったんだってな。」

いつの間に背後にいたのか、いきなり老人から声をかけられ、渡辺さんは、跳ね上がりそうになった。

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「いらっしゃったんですか。びっくりさせないでくださいよ。」

どうやら、風呂に入らなかたことを、老人に咎められそうな雰囲気である。

「なして、風呂さ、入らねがった。」

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「はい。すみません。お風呂場の脱衣所で、奥さんにもお話したと思うのですが、少し酔ってしまったので、熱い風呂に入るのは健康上よろしくないかと思いまして。お風呂に入るのを遠慮させていただきました。」

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「ふん。それで。」

「・・・・・・。」

ーなんだ、この理由では納得しないのか。

冷たい汗が、一気に背中に流れ出す。

渡辺さんの返事を待たないうちに、老人は、徐ろに尋問し始めた。

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「風呂場で、なにか見たか?」

「いえ。何も。外は、真っ暗で何も見えませんでした。」

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「んだば、なにか音ば聞いたが?」

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どくん どくん

心臓が早鐘のように激しく拍動している。

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「さぁ、なんのことでしょう。私には、さっぱり?」

ここは、知らぬ存ぜぬを決め込むしかない。

渡辺さんは、しらを切り通すことにした。

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「まぁいい。ながったごとにしてやるすけ。今日は、もう遅い。確かに、咳もしでるし。身体具合も悪そうだな。昨夜もろくに休んでいないんだろう?とっとと、おぐの部屋さ行って、ねろ。」

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「あの。鈴木さんは、もうお休みになられたのですか。」

老人から、意外な答えが返ってきた。

「あぁ、あの人は、もういねぇ。けえったよ。」

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「こ、こんな遅くにですか?」

「あぁ、そうしたいっていうから。そうしてやった。」

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老人は、背中を向けたまま、視線を合わせること無く渡辺さんに言い放った。

「いいが。よぐき聞げ。悪い事は言わねぇ。黙って日が昇る前に、バイクとやらに乗って、ここがら出で行け。」

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「は?どういうことですか。意味がわかりません。」

「・・・・・・・・。」

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「きちんと話してもらわなければ困ります。鈴木さんは、あんなに『だんぶりまつり』を楽しみにしていたのに。急に、用事を思い出したからっていなくなるはずがない。何か隠していることがあったら、教えて下さい。」

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渡辺さんは、反撃に転じた。

老人は、ふふふと不敵な笑みを浮かべ、渡辺さんに顔を近づけると、耳元にそっと呟いた。

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「『だんぶりまつり』だと?そたら、まつりは、ここにはねえ。あるわけねぇじゃ。ま、どこかでやってるかもしれんがな。ここにはねぇよ。」

「・・・・・・・・。」

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「いいが。余計なことをするなよ。門を出たら、ぜってぇに、後ろを振り向ぐな。

霧が出ても、化け物が追いがげで来ても、ぜってぇに立ち止まるな。そのまま鳥居の先まで突っ走れ。」

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「す、鈴木さんは。どうしたんですか。」

「うるせぇ。しつこいぞ。いねぇったらいねぇんだ。いぢいぢ詮索するなじゃ。あんだは、あいつどちがって、神様に愛でられでここさ来た。(たまたま、迷い込んだ)雑魚(ざこ)とは違うんじゃ。」

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―雑魚(ざこ)って・・・。

「鈴木さんは、トンボあなたがたにとっては神様のような存在の『だんぶり』を愛し、研究しその生態系を守るために尽力している方ですよ。論文に必要な資料をやっと見つけたと喜んでいたのに。雑魚(ざこ)よばわるするなんて。」

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老人は、居間の反対側に位置する出窓の鍵を開け、小声で呟いた。

「とにかく、バサマに気づかれねぇように、こそっとここの窓から出ていけ。まぢがっても、池には、ぜってぇに近づくな。それと、ゆんべ、ここで見だごとは、死ぬまで誰にもはなすんじゃねぇぞ。」

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「わーんどの眼はごまかせねぇど。嘘ついでもよ。ちゃんと、見でるがらな。」

「そ、そんな。じゃぁ、脱衣所で外を見ていたことも知っているんですか。」

「全てお見通しよ。御詠歌も聞いだべよ。あぁ、『稚児神様』は、見えながったがもしれねぇけんどよ。でっけぇごとだけは、わがったんでねぇが。」

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「ひ、酷すぎる。鈴木さんは、研究のために、「ヤゴ」のいや『稚児様』の画像を撮っただけじゃないですか。それの何がいけないんですか。」

「あのな。これだけは、覚えておけよ。雑魚か大物かを決めるのは、おめぇら人間じゃねえ『だんぶり様』が、神様が決めることだ。」

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「そんなの屁理屈ですよ。そもそも、我々人間が、神様の気持ちだなんてわかろうはずがないじゃないですか。」

「あ~、ゴジャゴジャうるせぇ野郎だな。あいつはな。稚児神様を生け捕りにして、見世物にしようとしたんだ。尊い仕事だと。へそが茶をわかずぜ。」

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「・・・・・・・。」

渡辺さんは、無言で頷くことしか出来なかった。

渡辺さんは、老人に言われた通り、夜も開けきらぬ午前3時。居間の反対側にある出窓から出て、白砂を鳴らさぬよう静かに門へと向かった。

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渡辺さんのマウンテンバイクは、昨日置いた場所に立っていたが、鈴木さんの白いセダンは、跡形もなく消えていた。

もはや、他人の消息など気にしている余裕はない。

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果たして、無事我が家に帰れるだろうか。

命がけのひとり旅だ。

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渡辺さんは、両手でハンドルを握りしめ、ゆっくりとマウンテンバイクを押し、静かに歩を進めた。

門をくぐる前、背後に老人の気配を感じ、振り返って文句のひとつも言ってやりたい衝動に駆られたが止めた。

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ー無駄だ。あいつらは、人間じゃねぇ。人間の皮を被った化けモノだ。

渡辺さんは、マウンテンバイクにまたがると、一気にペダルを踏み込んだ。

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朝露が身体を濡らし、ゆさゆさと風に揺れる木々の間を縫うように、一心不乱に来た道を走り抜けた。

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ぎぎぎぎぎぎぎぎ 

がさがさがさがさ

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葦の茂る湿地帯を通り過ぎる時、昨夜、脱衣所に聞こえてきた音が耳に飛び込んできた。

身の丈ほど伸びた葦の群生する合間合間から、数体の何かが渡辺さんをじっと見つめている気配も感じた。

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小型飛行機のような物体が、頭上を掠めるように飛び去って行った。

背後にも、強大な茶褐色をした生き物が蠢く気配を感じた。

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今にもチビりそうになりながら、半泣き状態で、ただただひたすらに前だけを向き、ペダルを踏み続けた。

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幸い何事も起こらなかった。

『だんぶり様』か何様か分からないが、少なくとも命が脅かされることだけはなかった。

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東の空が白み始めると同時に、霧があたりに立ち込めてきた。

―くそ、前が見えない。

泥にまみれたタイヤのせいで、バランスを崩した渡辺さんは、来た時と同じように転倒しそうになりながらも、なんとか持ちこたえ、やっとの思いで、鳥居をくぐりぬけることが出来た。

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昨夜から一睡もしていない。

渡辺さんは、へなへなとその場にへたり込んでしまった。

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30分ほど、恐怖のあまり、その場を動けないでいたが、おそるおそる振り返ってみても、こんもりとした森の入口に立つ鳥居も、神社に続石畳が敷き詰められた緩い坂道も、その先にある小さな神社も、別段変わった様子もない。

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ごくごくありふれた日常の風景が広がっているだけであった。

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後日、鈴木さんからもらった名刺から、◯△☓大学のホームページにアクセスしてみたが、専任講師の中に、それらしき人物の名前は、見当たらなかった。

敢えて、消息を尋ねることはしないことにして、もらった名刺は、その場で破棄した。

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ーこれでいいんだろう。

「だんぶり様」

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以来、渡辺さんは、常に誰かの視線を感じるようになった。

左右上下、縦横 前後 斜め 頭のてっぺんから、足の爪先まで、多角的な方向から、全身いたるところ、じっと監視されているような気がしてならないのだ。

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更に、あの夜、鈴木さんが語っていた言葉が、なぜか耳に焼き付いて離れない。

「トンボの眼は、複眼ですからね。狙った獲物は絶対に逃しません。どこまでも、執拗に追い続けます。彼らは、実に、怖ろしいハンターでもあります。」

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また、あの老人が語った言葉が、棘のように胸に突き刺さっている。

「あんだは、神様に愛でられで ここさ来た。雑魚(ざこ)とは違う。」

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美味しい獲物は、後から、ゆっくりと骨の髄まで味わい尽くす。

時間をかけて、ゆっくりとね。

それが、このトンボ=『だんぶり様』の実像なのだと。渡辺さんの耳元で、誰かがそっと耳打ちしてくれたらしい。

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俺は、雑魚じゃないからね。

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渡辺さんは、今、窓のない壁で囲まれた隔離病棟の中にいる。

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