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何とFさんは女に歩み寄り、いきなり女の身体を、力いっぱい抱き締めたのだ。
女は声の出し方を忘れてしまったかのように、ただ呆然と、彼の胸に顔をうずめたままだ。
Fさんは腕の力を弱め、背中に回していた右手を女のあごに当て、小さな顔を優しく持ち上げた。
その両目は大きく開かれ、今まで懸命に耐えてきたであろう苦しみ、哀しみを無言で訴えていた。
「よく頑張った、もう少しの辛抱だからね」
Fさんが囁くと、女の両目に涙が溢れた。
それを見てFさんの目も潤む。女の事がいとおしくて堪らなかった。
Fさんはこれらの事を自分の意志でしたわけではないという。身体が勝手に動き、口が勝手に喋ったのだそうだ。
ただ、自分のしている事はちゃんとわかっていた。
何故か急に彼の胸に優しさが溢れだし、その思いは奔流となってその女に向かって流れたのだ。その時、女の事を昔からよく知っているような、言い様のない不思議な気持ちで満たされていたという。
自分の意志で動けるようになってからも、女への溢れるような優しさは変わらなかった。
2人はスーパーを出て、人気の殆ど無くなった通りをゆっくりと歩いた。
Fさんは、少しでも遅く歩いて、女と一緒にいる時間を増やしたいと考えていた。
他人の部屋を覗いたうえに、皮膚病で苦しんでいる女を見て、(気色悪!)くらいにしか思わなかった自分が情けなかった。
女は、こんな男に突然抱き締められても抗えず、逆に頼ってしまう程衰弱していたというのに。
ただの変態だった(自分でそう言った)Fさんが、変わり始めていた。その女とは肉体関係以上のもので結ばれていると感じていたのだ。
そして、女もそう感じている筈だと思いたかったし、信じたかった。
アパートに着いた女は階段の踊り場で立ち止まり、マスク越しに「今日はありがとう、お休みなさい」と言って手を差し出した。
Fさんはその時、初めて女の声を聞いた事に気付いて少し驚いた。
(沢山語り合ったような気がしていたのに、女との会話が全て自分の妄想だったとは!)
Fさんは女の右手を両手で包んで言った。
「今日は御免なさい、スーパーでおかしなまねして」
「私こそ・・・どうかしてましたわ」
女は階段を上がろうとしたが、急に振り向いてこう言った。
「今後一切会わないと、会っても声を掛けないと約束していただけますか?」
Fさんは驚いた。
(あなたの事、特別な存在だと考えていたのに・・・それに俺、ここの住人だし・・・)
「あのう、俺、このアパートに住んでるんですけど」
マスクで顔は殆ど見えないが、目だけで表情が険しくなったのがわかった。
「あなた、私の事知ってるの?」
「いえ、お会いするの、今日が初めてですが・・・偶然アパートが一緒だったんで実は驚いてたんです」
「じゃあ、ここに着いた時何でそれを言わなかったの?」
Fさんは頭をフル回転させて最善の答えを探した。ここで失敗すれば女との未来はない。
「実は、あなたがもう俺の事、知ってるものだとばかり思ってたんです」
「どういう事ですか?」
「実は会ってるんですよ。あなたが部屋に電気をつけてカーテンを閉めようとした時に」
女は少し考えて、思い出してくれた。
「ああ、あの時の・・・」
「スーパーでお会いした時話せば良かったんですが・・・・変質者に見られたんじゃないか、と考えるとどうしても言えなくて・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「私もどうかしてたし、今頃聞いてあれなんだけど・・・・どうして抱き締めたりなんか・・・?」
Fさん、今度は自分の意志で女を優しく抱き締めた。(スーパーの時はこれ程とは思わなかったが、なんて・・・痩せてるんだ・・・)
再び彼の中で女へのいとおしさが込み上げてくる。
Fさんは女の耳元で強く囁いた。
「理由なんてありません。抱き締めたかったから抱き締めた、それだけです。」
女はFさんの胸に顔を押し当てて泣いていた。
Fさんにはわかっていた。その女性は本来、見知らぬ男に抱き締められて、素直に抱かれたままになっているような、そんな女ではない事を。
(ぎりぎりの所で生きてたんだ)
Fさんにとって彼女はもう、かけがえない女性となっていた。しかし、彼女にとってFさんは、溺れかかっているところに手を差しのべた、ただの通りがかりの男に過ぎないのかもしれなかった。そう考えるとFさんは少し寂しかった。
突然、女はFさんの身体を突き放すと静かに言った。「悪いけどあなた、どこかに引っ越して下さい、できないのなら私が引っ越します、でないと・・・」
「・・・」
「あなた死にます」
それだけ言うと女は階段を駆け上がる。
Fさんは追いつき女の肩を掴んで振り向かせた。そして、暗くてよく見えない女の顔に向かって言った。
「あのう・・・俺、べつに、死んでもいいです」
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怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話