扉の向こうは、ごく普通のマンションのフロアだった。表札のついたドア、そう広くない廊下、
白い壁。特に変なところなど見当たらなかった。
「なんだ、ふつうのとこじゃん」
安堵して息をつくと、僕は少し調子に乗って先立って歩き始めた。うしろからナナシがついてくるのがわかる。いつも背中を追いかける側の僕としては、ナナシの前を歩けることが些細なことだがひどくうれしかった。
少し薄暗いが割合綺麗なマンションだし、各ドアに飾られたかわいらしい折り紙の細工物や「セールスお断り!」の札などを見ても、とても自殺者のでたマンションには見えないし、今日はハズレだね、と僕は笑って言った。
しかし、
「本当にそう、思うか?」
ナナシから返ってきた言葉は、予想外のものだった。
驚いて振り向くと、
ナナシはひどく真剣な表情をしていた。すこし怒ったような、硬い表情。僕はなにか間違ったことを言ったのだろうか。と不安になった。
するとナナシは次の瞬間、僕の手を引っ張って階段のほうに走り出した。訳がわからず慌てふためく僕に、ナナシは叫ぶように言った。
「 絶 対 後 ろ を 見 る な ! ! ! 」
ナナシの声は、聞いたことが無い怒気をはらんでいた。すこしあせっているようなナナシのその口調が、僕は怖かった。今まで数々恐ろしい目にあってきたけれど、こんなに切羽詰ったようなナナシを見るのは初めてだった。
狂ったように笑うナナシよりも、「あの」ナナシが余裕を無くしていることが怖かった。
けれどその時点で、僕にはナナシがなんでこうもあせっているのかわからなかった。
それもまた、恐怖だった。
階段の入り口までくると、ナナシは蹴飛ばすような勢いでドアを開け、転ばないのが不思議なほどの速さで階段を駆け下りた。握られた手は、ひどく冷たい。なにかに緊張してるのがわかる。
「ナナシ!!ねえナナシどうしたの!!?」
引きずられながら僕は必死にナナシに尋ねた。なにもわからないまま走る恐怖に耐えられなかった。するとナナシは小さな声で、
「足元、見てみろ」
とだけ言った。
そこでようやく、僕にもわかった。そしてその恐怖に悲鳴をあげた。
ぼくらの足元に、影が差していた。
ゆらゆらと、規則的に揺れる、黒い大きな影。
そう、まるで、首を括った人間の体が揺れているかのような、影が。
「ひ、ひ、や、なにこれええぇ!!!」
「考えんな、走れ!絶対ふりかえんなよ!」
泣き出す僕にナナシが怒鳴った。振り返れるはずがない。
なにが揺れているの?
なんで揺れているの?
だ れ が ゆ れ て い る の ?
考えたくないのに、恐ろしい疑問ばかりが浮かぶ。影は止まることなく揺れつづけ、僕らのあとを追ってきていた。規則的に、ギシギシと音を出しながら、揺れる影は僕らから離れなかった。
助けて助けて助けて。そう叫びながらもつれる足を走らせていると、途端に前が明るくなった。
ナナシが出口のドアを開けたらしかった。
転がるように僕らはマンションを出た。そのまま大通りまで走り、家路を急ぐ人々が見えてきた頃には、もう影はいなくなっていた。
となりで少し苦しそうに息を整えてるナナシに、僕は聞いた。
「あれは、な、に?なんだったんだよ?」
「さあな。今回ばかりは焦ったけど、俺にもわかんないよ。ま、死人は執念深いってことだな」
ナナシはいつもと変わらない口調で言った。とても怖かったけれど、ナナシのその普段どおりの口調に僕はとても安心した。
しかしそのすぐあと、ナナシは言った。
「俺は、気をつけなきゃ。失敗、しないように」
その言葉の意味を知ることになるのは、もうすこし先の話だけど
そのとき、その言葉の意味がわからなくて、
でも、なぜだかひどくぞっとしたのを覚えてる。
なにを、気をつけるの?
なにを、失敗しちゃいけないの?
ねえナナシ、きみは
な に を し よ う と し て い る の
あのとき、聞けていたなら。
怖い話投稿:ホラーテラー アロエさん
作者怖話
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