忘れてはいけない悲劇~二本松少年隊~

中編6
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忘れてはいけない悲劇~二本松少年隊~

怖い話とは違いますが、投稿します。

戊辰戦争の中の二本松の戦いにおいて、藩の兵力は仙台などの応援兵を合わせても僅かに約1千人。

それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は、約7千人。 徹底抗戦の末、1868年(慶応4・明治元年)7月29 日正午前、ついに二本松城は炎上し、落城しまし た。

落城・敗戦は誰もが予想し得たことでしたが、 奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた 二本松藩の守信玉砕戦は、他藩には見られない壮絶な最期でした。

戦死・負傷者の数は記録によって違いがあり、 1890(明治23)年に調製された、 「戦死姓名簿」によると、二本松藩の戦死者337人、負傷者71人でした。

負傷者が少ないのは自分を恥じて届出をしなかっ たためともいわれ、 また他藩の戦死者は200人を超えたといいます。

旧二本松藩主丹羽家菩提所の大隣寺境内には、 戊辰戦争殉難者の戦死郡霊塔とともに、 二本松少年隊隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守と、少年隊戦死者14人の供養塔が 建立されています。

明治維新の夜明け前に、愛する郷土そして家族を守るために 激戦の末に可憐な花を散らし、義に殉じた少年隊士を弔う参詣者の献花と香煙は今なおその悲劇を伝えています。

正式に編成され名が付けられた会津藩の少年 16、17歳からなる 「白虎隊」とは違って二本松藩の場合は西軍 (討幕軍)が二本松城下に 切迫する直前に。出陣を志願した13歳~17歳までの少年たちが 緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名前はなく、五十年経った後に「二本松少年隊」と名付けられたそうです。

徳田鉄吉(13歳)

母・秀は「出陣の門出に、母の言うべきことで はないが、 当主の佐七郎(鉄吉の兄)が不在なので・

と、 戦陣での心得を諭した後に、

戦陣での心得を諭した後に、「徳田の家名を汚すことのないよう。」 また、亡くなった祖父や父の分まで忠勤を励むよ うに。」と激励したと、 後に語ったといいます。

上崎鉄蔵(16歳)

一時は大喜びしていたが、時がたつに連れて物思いに沈むようになり、これを見た母・スマはその訳を問いただしたとこ ろ、

「恥ずかしくない刀を持って戦いたい」とのことでした。

上崎家には実戦用の両刀がなかったのです。

鉄蔵の気持ちを汲み取った母は、すぐに実家にかけつけて 相州ものを調達し、鉄蔵に与えました。27日の朝、出陣する鉄蔵を母は祖母と共に見送り「行ってこいよ」と、いつものように声をかけると

「行ってこいよ、ではないでしょ う。今日は行けでいいのです。」と答えて玄関を出て、にっこり微笑み、ちょっと頭 を下げると元気よく駆け足気味に立ち去ったといいます。

戊辰戦役50回忌にあたり、鉄蔵との最後の別れ を語ったスマは、「言の葉の耳に残るや 今朝の秋」 と詠んでいます。

岡山篤次郎(13歳)

最初の木村銃太郎門下生です。

母に頼んで戎衣 (戦場での着物)をはじめ、 手ぬぐいにいたるまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いてもらい出陣しました 「母が屍を探すときにわかりやすいように。字が下手だと敵に笑われる。」との理由からだと伝えられています。

久保豊三郎(12歳)

母に何度も出陣を願ったものの、年が満たないため許されませんでした。

それでもねだるように出陣を求めたため、母は困り果て「幼いから、間近に砲声でも聞いたら 恐ろしくなって帰ってくるだろう。」と考え、下男と一緒に行く事を許しました。 豊三郎は下男の手を引くようにして、大壇口に向 かって行ったといいます。 兄の鉄次郎も大壇口に出陣しています。

成田才次郎(14歳)

傷つき疲れ果て、そして霞ヶ城にたどり着きいた才次郎はもはや夢遊病者のようにフラフラと歩き、敵兵にも相手 にされませんでしたが、才次郎の目はまだ死んでいませんでした。

やがて長州藩の身分が高そうな隊長を見つけます。それが白井です。刺し違える覚悟を決めた才次郎に父の教えが聞こえます。 (良いか才次郎、藩祖の丹羽光重公は江 戸城松の廊下において、吉良上野介を斬り損じた浅野匠之頭の事を伝え聞き、

『なぜ斬らずに突かなかった。突けば仕留められたろうに!』と嘆いたという。

分かるか才次郎、子供のお前が斬り付けられても振り払われる。敵に刀で対した 場合は迷わず突け!) 才次郎は刀を抜くや、白井の腹部を一突き! 白井は薄れる意識の中で 『突き殺されるは我が不覚、こんな勇敢な童に討たれて本望だ。その童を殺してはならぬ』と言い残したそうです。

しかし捕らえるにも才次郎は刀を振り回し抵 抗。ついに銃弾で撃たれてしまいます。 才次郎享年十四歳でした。

隊長木村銃太郎(22)は、城近辺で敵銃弾を被弾し 最早指揮不能を悟り、部下少年に「首を取るよう」命じ、少年は応じたが、子供の力とて一刀の切断ならず、数回刀を振るってやっと首を切ったそうです。

小沢 幾弥(17歳)

小沢幾弥は合戦で傷つき疲れ果て、か つ素手で師を埋葬したので爪は剥がれ、 残る爪には泥が詰まっていたそうです。

もはや気力も尽き、地に倒れました。 そこへ薩摩藩の伊藤仙太夫が率いる一隊 が通りかかりました。血が目に、それとももう目が見えなかったのか、小沢幾弥 はその一隊に『敵か味方か』と問いま す。

伊藤は幾弥を哀れみ『味方だ』と言 いました。幾弥は介錯を求める手振りを します。もはや助からない重傷の幾弥を これ以上苦しめるのは哀れと伊藤は介錯したと云います。

副隊長の二階堂衛守(33)とともに少年隊は撤退しています。丹羽家の菩提寺である大隣寺を通りかかったとき、敵兵がいました。手招きをしている。そして銃を持っている。

岡山篤次郎 (13)は味方かと思いフラフラと歩き出しましたが、 「待て、敵だ!」 副隊長の二階堂衛守が篤次郎の前に出 ました。 「撃て!」 敵兵は乱射してきました。衛守は抜刀して立ち向かいましたが敵兵はまるで狩りを楽しむかのように銃弾を浴びせました。衛守は即死しました。

「副隊長!」 と駆け寄る篤次郎にも敵兵の容赦ない 銃弾が貫きました。敵兵の一人が 「よせ、よく見れば子供だ」 時すでに遅く、銃弾は篤次郎の腹部を 貫いていました。新政府軍の仮設野戦病院である称念寺に運ばれて手当てを受けていましたが、苦悶のうちに 「銃を、銃を貸せ……」 「残念だ…」と言い死んでいったそうです。享年わずか十三歳。

など総勢14名の少年が戦死。

130年ほど前に本当にあった事で、戦う事が当たり前の時代だったと、彼らの悲劇をそのような簡潔な言葉などでは言い表す事ができません。

彼らは出陣が決まった時は、修学旅行へ行く学生のように喜び、はしゃいでいたそうです。

彼らのように郷土を愛する気持ち、家族を思う気持ちを決して忘れてはいけないと思います。

人と人、ましてや日本人同士が争うことがいかに哀れか…

歴史を繰り返さないためにも、後世へ伝えていかなければならないと思います。

そして、忘れないで頂きたい。

あなた方が今いる場所は、数千年先の歴史の一頁であることを。

先日から、ふと思うことがあり二本松少年隊士のお墓や慰霊碑をネットで見てみました。

興味のある方は、見られてみてください。

見えるでしょうか?

今もなお、勇ましい彼らの姿が。

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皆様、コメントありがとうございました。
どうか一人でも多くの方にこの悲劇を知って頂き、どんな後世になっても忘れないで頂きたいです。
私は、地方は別ですが、なぜだか二本松という地名を初めて知った時にとても懐かしく、そしてある光景が浮かび今もなお、頭から離れません。

定かではありませんが、もしかしたら私の前世は、二本松藩 少年隊士だったのかもしれません。

不思議な運命に導かれ、今の世に大切な事はなにか日々、考えております。皆様、どうか生きる事の大切さ、故郷や家族を愛する気持ちを忘れないでください。

平和や平凡は一番簡単で一番難しい
命の重みは今も昔も同じなのにそれを平気で奪う争いやいじめは醜いです(;_q)