長編8
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形而上の世界

森の中、緑に囲まれ揺れている。

私は木漏れ日に照らされハンモックに揺られていた。

読みかけの本を胸に置いたまま、ウトウトと微睡む。

新緑の季節、涼しい風に吹かれながら鳥の囀り(さえずり)が優しく耳を擽る。(くすぐる)

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別荘での生活は私の楽しみの一つだ。

3年ぶりに訪れたこの地は風化する事なく、以前と変わらない情景で優しく迎え入れてくれた。

ダージリンティーの香りがフンワリと漂って来る。

ウッドデッキの片隅で揺れるハンモックから、横目でティータイムである事を確認すると、不意に空腹である事に気付く。

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昼食を摂っていない気ままな身体は正直だった。

ハンモックから降りると、側で寝入っていた愛犬も尻尾を振りながら戯れてくる。

愛犬を撫でながらウッドデッキ中央のテーブルの上、焼きたてのシフォンケーキとダージリンティーを並べる妻に向かって声をかける。

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「良い香りだね。

僕もお邪魔しても良いかな?」

妻はにっこりと微笑み席に着くように促した。

テーブルの真ん中には籠いっぱいのレモンが置かれている。

黄色く瑞々しい果実。

周囲の木々の緑色と合わさりコントラストが美しかった。

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「紅茶にレモンはいかが?」

妻がゆったりとした動作で紅茶をティーカップに注ぎながら聞いてくる。

「レモンは暫く良いかな、、、、」

私は肩を竦め戯けて見せる。

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視界に入るだけでも口の中に唾液が広がる。

いくら名産と言っても、手を替え品を替えてもレモンはレモン。

鮮やかな黄色はテーブルを彩り、微かな柑橘系の香りが爽やかに鼻を抜ける。

シフォンケーキを口にほうばると、クランベリーとヨーグルトのすっきりとした味わいが、ダージリンティーとよく合う。

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充実した日々、此処でずっと過ごして行きたい。

心からそう思うと同時に、そう願う自分がいた。

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ザァザァザァザァー

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強い風が吹き、樹々のざわめきが周囲の森を駆け抜けた。

愛犬が落ち着きなく吠え立てる。

日が落ちる前に散歩に連れて行くか、、、、

ティータイムも早々に、愛犬と散歩に出掛ける事にした。

別荘地であるこの場所は、森の中にありながら舗装された歩道により、ゆっくりと散歩をするのに適していた。

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ふと何かの視線を感じる。

辺りを見回すと樹々の中、一つの樹の陰に誰かが立っているのが見えた。

数メートル先に立つその人物は、身体の三分の一位が見えているだけで、男か女かもわからない。

地元の人かなと、特に気にも留めず歩みを進める。

別荘の外周を大回りして、散歩から戻ると妻が駆け寄ってくる。

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「誰かに見られてる気がするの、、、、

怖いわ、、、、」

妻は不安に満ちたその表情で、もしかしたらと続ける。

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「あの人が此処まで追って、、、、」

「そんな訳ないだろ。

ははっ、、まったく、君は時々突拍子も無い事を言うなぁ。」

無意識に話を遮っていた。

最後まで聞く勇気など無かった。

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「僕も君も日々の生活に疲れているんだ。

羽根を伸ばすために来たのだろう?要らぬ心配で楽しい時間を無駄にするのはよそう。

さあもう日が暮れる。

午前中に燻しておいた燻製とワインで静かな夜を過ごそう。」

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そうね、、、、と妻は眉を曇らせたまま答える。

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幾ら誤魔化しても拭い去れない過去。

幸せは幻想であり、いつだって絶望という現実が目の前に横たわっているのだ。

私の心にはねっとりと黒い暗雲が垂れ込めていた。

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気を取り直し、リビングで燻製とバケット、暖かいスープをワインと共に楽しむ。

傍で愛犬も行儀良く夕食を摂っている。

今日の日のために用意した妻との思い出の映画、そして結婚式や二人で過ごした日々のDVDを鑑賞する。

妻と僕は思い出に二人心を寄せ合った。

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いつの間にか眠ってしまっていた。

ソファに座ったまま、暗闇の中砂嵐のテレビの画面に照らされ目を覚ます。

チカチカと無機質で、小刻みな光の連続で照らされるリビングの床をぼんやり見つめる。

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ヒタヒタヒタ、、、、

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女性の素足が、床に落とした視界に入る。

白くしなやかで美しい脚。

「あなたの道を行って。」

その脚、その声が妻のものであると安心し顔を上げる。

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?!

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顔を上げた瞬間、リビングには私一人しかいない事に気付く。

脚の主である妻はいなかった。

時刻は夜22時。

隣に座っていたはずの妻が、傍でスヤスヤと寝息を立てていた愛犬が、、、、いない!?

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二人で寝室へ行ったのか?

私は一抹の不安を抱えながら、寝室へ向かう。

寝室には誰もいない。

右手でくしゃくしゃに自らの髪を掴みながら、他の部屋を調べる。

やっぱりそうだ。

何処にもいない。

私は独りだ。

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急に背後から男の声が聞こえる。

「勝手に入って悪いね。

連絡をしても繋がらないので、此処にいると踏んだのが正解だったよ。

君を見ていて心配でね。

やはり予想していた事が起きている。

定期的な受診に足が遠のくと、君にとって良いことは無いんだよ。

私の話を聞いてくれないか。」

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またこの男だ。

精神科の私の主治医のこの男に関わる度に、私の中の現実は悪夢である幻想へ引き戻される。

その都度妻と愛犬は姿を消してしまう。

この男が憎い。

この男さえいなければ、形の無い私の中の理想郷である精神世界から引き摺り出される事も無いのだろう。

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男は尚も続ける。

「思い出すんだ。

そして一歩踏み出すんだ。

君にはそれが出来る筈だよ。」

絶望という名の現実に苛まれる日々が、私の中で呼び起される。

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ある日帰宅すると自宅は静まり返っていた。

何時もなら真っ先に玄関まで駆け寄って来る愛犬も、その様子をリビングの入り口から微笑ましく覗く妻も出迎えには来ない。

それどころか玄関には灯りが灯っていなかった。

不審に感じながらも、胸騒ぎから徐々に大きくなる鼓動を抑えつつリビングへ向かう。

リビングの中央に倒れている妻。

その上に覆いかぶさる様にグッタリとしている愛犬。

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彼等の周り一面は紅い水溜りが出来ている。

暗闇のリビングで月明かりに照らされ、紅い湖の中で眠る妻と愛犬を目の当たりにし、恐ろしいまでの美しさに見惚れていた。

その後自分がどの様に行動したのかが、どうしても思い出せない。

気がつくと警察署の取調室で、目の前の刑事に同じ事を繰り返し話す自分がいた。

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「帰宅したら既に死んでいました。」

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要領を得ない私の回答に、正常な精神状態でないと判断され、精神科の専門病院へ入院をさせられる。

診断名はPTSD(心的外傷後ストレス障害)

その診断を下されて間も無く、妻と愛犬はたまたま押し入った強盗に、凶器の刃物で刺され殺害されたと刑事に聞かされる。

色々と配慮をされながらも、告げられたその事実であったが、私は表情一つ変える事なく淡々と言葉を交わす。

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「そうですか。

分かりました。」

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精神科の治療を受け、病院も退院の運びとなると私の前にある男が現れた。

その男は私に小切手と書類を手渡して来た。

妻と愛犬を殺害した容疑者は既に逮捕されていたが、未成年ということで保釈金で釈放をされていた。

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裁判も唯一の肉親である私に判断能力が無いとされ、情状酌量の措置がとられた。

そう話す容疑者の父親は大手企業の役員であり、今後事を荒立てない事を制約するというかたちで、多額の示談金の支払いを申し出て来た。

私はその小切手の受け取りと、簡単な書面の手続きを何の抵抗もなく取り交わした

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現実はただの夢であり、自らの中での幻想が現実たる認識を強く持ち過ごす日々。

やがて妻や愛犬の姿が見える様になり、事件のあった年から訪れていない別荘へも来ることが出来た。

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多額の示談金で一生生活には困らない。

この別荘でハンモックに揺られ、パンケーキを焼き紅茶を入れて気ままな生活を送っていくのだ。

誰にも邪魔はさせない。

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「うぅ、、、、ゴホッ!」

気がつくと、私の手の中でもがき苦しむ男がいた。

主治医の男の首を絞める力を段々と強める。

「ウグゥ、、、、君の中のイデアは、精神世界は何と言っている!?ご遺族はこんな事など望んではいない!カハッ、、、、やめるんだ!」

男は必死に私に語りかける。

痛っ!、、、、!?

右脚に痛みが走る。

見ると愛犬が私の右脚に噛み付いている。

紛れもなく愛犬であり、私の意識の中の幻想では無い。

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その姿をまじまじとみる。

愛犬は右脚を噛むのを止めて私の顔を見上げると、リビングから走り去った。

男は隙をついて私の手を弾く。

即座に体当たりをしながら私を組み伏せた。

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「何か見えたのか?それは君の進むべき道なんだよ!気付くんだ!」

男はうつ伏せの私の腕を捻りながら話す。

うつ伏せになりながらも、暗闇のリビングの床に先程と同様の脚がヒタヒタと私の目の前まで歩み寄る。

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うつ伏せに抑えつけられている私には、もはや妻の顔を見上げる事は出来なかった。

頭の上から声が聞こえる。

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「もうやめて。

私は貴方の中にいるけれど、本当の私は此処にいるのよ。

貴方の中だけで生きないで、自分の外側の世界をしっかり見据えて生きるのよ。

そこに私はいるから。

いつも見守っているわ。

愛してる。」

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優しく響く妻の声が私の中に染み込んでいく。

妻が亡くなり、愛犬が旅立ち、初めて泣いた。

涙が止まらない。

ポタポタとリビングの床に、いくつもの雫が落ちて行く。

滲む視界でいつまでも妻を感じていたいと視線を巡らすが、いつの間にか私の幻想では無い妻は姿を消していた。

男は既に私を抑える手を放し、静かにその様子を見守っている。

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「もう苦しむ事はない。

君が見たのは“霊体”というものだよ。

私はその様なものを信じている。

霊体は君の意識が創り出すものではなく、君の外側から訴えかけてくるんだ。

実態のない霊や魂といった“形而上”の存在。

彼等のいる世界は物事の真理を司る世界だ。

ご遺族は、“形而上の世界”を通してこの先も何かを伝えてくる筈だよ。

それをしっかり感じ取るには、外界に意識を向ける必要がある。

これからの君の人生、ご遺族の分もしっかりと生きなさい。」

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男の優しく力強い言葉に、止めどなく涙を流す私がいた。

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、、、、、、、、

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「検証終了だ。」

目の前で蹲る(うずくまる)私に気付かれない様、袖口に仕込んだ小型マイクで協力者と連絡を取る男。

「離人症の治療は大きな成果を見せている。

ああ、うん、ご苦労様。

この調子で行けば学会での発表も近いぞ。

解離性同一性障害(多重人格)の線は、引き続き様子を見るしかないな。」

私はうつ伏せのまま、意識を失う様に眠っていた。

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妻と呼ばれた女の脚。

1度目は本物、、、、

2度目は偽物、、、、

見たものを只口にする。

中空に浮遊しながら男と“私”の姿を俯瞰で眺める[私]は、何も感じず何も想わず男を欺き、只々“私”自身を支配する事だけを考えていた。

Concrete
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