その男は、突然店に現れ、こう言った。
「君は古書は読むのか?」
と。そして俺が、
「いや、店はやっていますが、古書を読む事はありません。実は苦手で……」
苦笑いしてそう言うと、男は満足そうに一度頷いてから、鞄から一冊の古めかしい本を取り出した。
「この店は色々と守りが強い。ここなら安全かもしれないな。買取ではなく、これを引き取ってもらえるかな?」
男はそう言ってから本をカウンターの上に置いた。
本の表紙には、題名も、著書名もなかった。もちろん背表紙にも。
ページを捲ってみる。が、そこには何も書かれていない。
空白のページが、延々と続く。
「あの、これ?」
顔を上げると、男の姿はもうそこになかった。
ここは鎌倉にある、とある古書店。
大学を中退した俺が、祖父さんからこの店をまかされて、ようやく半年が過ぎようとしていた、そんなある日。
「それで、その男はどんな奴だった?」
そう言って、Sは駒台に置かれた飛車を手に取り指した。
今、俺と同居人のSは、店の外にある長椅子で将棋を打っていた。
外は気持ちの良い風は吹いていたものの、初夏も半ばというのに、夏がもう一度迫ってきたかのような暑さだ。
パタパタと、団扇で扇ぐ俺の手が止まった。
「う~ん」
思わずSの一手に唸り声をあげる。
「人の話、聞いてるかい?君の方から話してきたんだぞ?」
「あ、ああ、その男は、」
その男とはつい昨日、店に現れたあの男の事だ。
ただ引き取って欲しい、そう言って本を俺に渡して姿を消した男。
あまりに変だったので、俺は何となくその話をSに聞かせた。
オカルト好きなSは、こう言った謎めいた話が大好きだからだ。
容姿端麗で頭も良い、なのにそのスペックを活用せず、ひたすらオカルトにのめり込む彼は、ある意味ちょっとした変わり者でもある。
「ハット帽子を目深く被ってたかな。五十代くらいだったと思う。この時期にロングコートを着てたよ。見た感じからあやしそうな感じだったな」
「五十代くらいのコート姿か……その本、ちょっと見せてもらえるかい?」
「良いけど、Sの番だよっと」
我ながら良い指しだ。思わず口の端が歪む
「じゃあ……6八飛車成り、王手っと。さあ本を見せてもらえるかな?」
「えっ?ええっ!?ちょ、ちょっと」
「待ったはなしって最初に言ったはずだが……?」
冷たく言い放つSに、俺は仕方なく件の本を店から持ってきてSに渡した。
Sは本を受け取ると、表紙などには拘らず、すぐにページを開いた。
「ん?」
Sが開いたページを見て、俺は驚きの声をあげた。
「どうした?」
怪訝そうにSが聞いてくる。
「いや、そのページ、昨日見たんだけど、何も書かれていなかったんだ。何も……」
そう、昨日本を開いた時は何も書かれていなかった。
なのに今は、何やら難しそうな文字が、ページの隅から隅までビッシリと書かれている。
「その時は眠っていたんだろう」
「眠る?何が?」
Sの言葉に思わず聞き返す。
「本の虫が、ね」
「はあ?」
「なんだいその間抜けな面は、まあいい、この本はあまり良くない、本棚の隅にでも閉まっとくといい。まあどうせ君は古書には興味ないだろうし、読む機会はないと思うけど」
そう言ってSは本を俺に返した。
「いや、良くないって、そんな本店の棚に置いたら、」
「大丈夫、普通の人には見つける事もできないし、多分読む事も叶わないと思うよ。じゃ、私はこれから大学に所用があるから、これで失礼するよ」
「ああちょっと、S?」
呼び止めるも、Sはそのまま行ってしまった。
何だ、本の虫って?
本が好きで読み漁ってしまう、本好きの人の事を指すのなら分かるが。
だがSの話だと、まさに本の中に虫がいるみたいな言い方だった。
頭を捻り考えても訳が分からない。
「おーい、Aちゃん」
ふいに声を掛けられ振り向くと、そこには竹籠を背負った恰幅の良い、日焼けしたおばちゃんが一人立っていた。
近所に住むMさんだ。
近くに畑があるとかで、よく収穫時期になると、竹籠にたくさんの野菜やらを積んで顔を見せに来る。
「あ、どうもMさん。うわあ美味しそうなお野菜ですね、明日葉にいんげん、南瓜に舞茸もある。うわ、大きなナスだな~」
「ははは、AちゃんとSちゃんも腹空かせてるだろうと思ってね、どれ、好きなもんもっていきんさい」
柔和な笑みでそう言ってくれたMさんに、俺は目を輝かせて、
「い、いいんですか?ありがとうございます!あ、ちょっと待っててください」
俺はそう言ってから、一度店の中に本を置いて、再び外に出た。
しばらくして、俺はMさんから頂いた野菜で、さっそくナスのお浸しを作り昼食を取った。
腹も満たされた俺は、ついと、店のカウンターでそのまま、うたた寝をしてしまった。
ふと、少しだけ開けておいたドアから、
ヒュー、
と、肌寒い風が舞い込んだ。
寝起きの目を擦りながら欠伸をすると、カウンターに置いてあった本が、風でひらりと捲れた。
あの本だ。野菜に夢中で、本棚に直すのをすっかり忘れていた
本に手を伸ばす、が、そこで俺の手は止まってしまった。
いや、待ておかしいぞ……。
捲れた本のページ、相変わらず難しそうな文字の羅列。
だがそこに、違和感の正体はあった。
文字だ。1ページ目、一番最初の文字が……ない。
そこだけ文字が切り取られたかのようにない。滲んだ跡も、何か修正された形跡もない。
確かにこのページを、俺はさっきこの目で確かに見た。
「蟲って文字が、確かに初めに書かれていたはずだ……」
なぜ……?
他にも何かおかしな点がないか、俺は確かめるようにしてページを捲った。
2ページ、3ページ、4ページ……。
何が書いてあるかはさっぱり分からない。延々と続く、見慣れぬ漢字の羅列。
ゴロゴロゴロ、
微かに聞こえる遠雷。戸の隙間から顔を覗かせると、空は今にも泣き出しそうな勢いだった。
戸を閉めカウンターの椅子に腰掛けた瞬間、
ザーッ、
戸窓に雨が叩きつける様にして振り出した。部屋の中が、少しひんやりとした空気に包まれる。
ふと、本に視線を落とした。
「えっ、何で……」
開かれたページに書かれていた文字が、ない。
消えている。最初に一文字が消えていたように。だが、今度は消えた文字が多い。
ページをさかのぼり確認する。
「嘘だろ……」
1ページから4ページまで、文字が全て消えていた。まるで初めっからそこには何も書かれていなかったかのように。
なぜ、なぜ、なぜ……!?
唖然としながら、俺は椅子に深く腰掛け直し、本を手に寄せページを捲る。
もう何が何だか分からない。
分からない?分からなくてもいい……読まなければ。
このまま続きを、続きを読まなければ……。
ゴロゴロ、
遠雷が地響きのように鳴り響く、がそれすらもすぐに耳から遠ざかる。
雨音も聞こえない。静かな、静かな空間。
やがてそれは……。
「Aっ!?」
ガラガラガラッ
突然、横開きの戸が凄い勢いで開かれ、Sが姿を現した。
「S……?どうしたの、そんな……あ、あれ?」
ビックリした俺は椅子から立ち上がった、が、ぐらり、と体はその場で崩れ落ちた。
かろうじてカウンターにすがり付いたが、体に力が入らない。
そんな俺にSがすぐさま肩を貸してくれた。
そして、
「間に合ったか……こっちに」
Sはカウンターに置いてあった本をチラリと見ると、俺を居間まで運んだ。
そして布団を引き、俺をそこに寝かせると、Sは手際の良くお粥を作ってくれた。
俺は差し出されたお粥をあっという間にたいらげた。
昼を食べたばかりだというのに。
「ご馳走様、でも、これはちょっと大げさじゃないか?」
確かに体に妙に力が入らなかったが、別に風邪などは引いていない。
「台所に、使い終わった、乾いた茶碗が置いてあった」
「ああ、さっきお昼ご飯……えっ?乾いた?」
「ああ、ちなみに、俺が出かけたのは昨日の昼で、今はその翌日、午後6時、軽く24時間は立っている」
「き、昨日!?」
Sは何を言ってるんだ?そう思い、俺は近くにあった自分のスマホを手に取り、カレンダーと時刻を確認した。
「う、嘘……!?」
Sの言う通りだった。時刻は午後6時。日にちも、次の日になっている。
あり得ない。俺は昼食を食べ、店のカウンターであの本を読んでいた。
途中で雨が降って、
「あ、雨は?」
「雨?雨なんか昨日からこれっぽっちも降ってないよ。ちなみに天気予報は晴れだ」
怪訝そうな顔でSは言った。
「な、何なんだ、一体」
俺は少し怖くなった。自分に降りかかった何か、得体の知れない何かに怯える様にして。
「本を、読んだね?」
Sの冷めたような声。
「本?あ、ああ……文字が一文字消えていて、気になって読み進めていくうちに、何か、自分でもよく分からなくなってきて」
あの時、正直自分でもおかしいと思っていた。何かがおかしい、自分のとっている行動に疑問を感じていた。感じていたが、止められなかった。
まるでそれを命令されているかのように、俺は一心になって本を捲っていた。
あれは、なぜ……。
「本の蟲だよ……」
「本の?」
昼間Sが言っていた言葉だ。
「その本はね、おそらく、それ自体が、呪術の道具なんだよ」
「じゅ、呪術?」
Sの口からは、とんでもなく物騒な言葉が出てきた。
「ああ。蠱毒、という呪術を知っているかい?ムカデやカエル、ヘビなど、百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、最後に生き残ったものを呪術の触媒とし、人に災いをもたらす呪法だ」
「え、えぐいな……」
聞いてるだけで吐き気がする方法だ。さっき食べたお粥がこみ上げてきそうだった。
「その本は、おそらく蠱毒の蟲を宿した本だろう」
「こ、この本が?あ、だから本の蟲……なのか」
そう聞くと、Sは黙って俺に頷いて見せた。
そしてまた話続ける。
「これを持ってきた男は、おそらく呪術に失敗したんじゃないかな?体には相当の外傷を負っていると思うよ。それで季節外れのコートを着ていたんだろう。ちなみに、その本を手にした者は、本を延々と読み続ける。文字が消えていただろう?あれは、本の蟲が、文字を食べているからだよ」
そこまで聞いて、俺はぞっとした。
本の蟲。蟲は文字を食べていた。じゃあ、あのまま文字を食べ続けていたら?
すると、Sはそれに気付いたかのように口を開いた。
「君はもう、この世にはいなかっただろうな」
部屋がシーンと静まり返る。
ごくり、と、俺の喉が鳴った。
「感謝したまえよ」
「あ、ああ、もちろんだよ。Sには本当に、」
「違うよ、私にじゃない」
俺の言葉を最後まで聞かず、Sは言った。
「えっだって助けてくれたのはSだろ」
「確かにな。だが、こんな事言ったら笑われるかもしれないが、大学の研究室で仮眠を取っていたら、夢の中に綺麗な女性が現れたんだ」
「女性?」
以外だった。オカルト以外興味のないSが、綺麗な女性という言葉を使うなんて。
俺にとってはある意味オカルト案件だ。
「うん。見た事もない女性だったよ。リンドウをあしらった雅な着物を着ていてね、A様を助けてくださいと、俺に泣きながら訴えるんだ。気がつくと研究室で目が覚めたよ。そして嫌な予感がしてね、今に至るってわけさ」
「リンドウ……着物……!?そ、それは、もしかして……」
「ん?なんだい?心当たりがあるのかい?そういえば名前も名乗っていたな。確か真夜、だったかな?」
その後は大変だった。
なぜSの夢の中に真夜さんが出てきたのか、もう呪いの話どころではなくなっていた俺は、頭に血が昇り本の一件もあって、そのまま気を失ってしまったのだ。
目が覚めた頃、再びSに真夜さんの事について、質問の嵐を浴びせた事は言うまでもない。
そうそう、あの本だが、今もうちの店の棚の一角に眠っている。
燃やしても祟られそうだし、読まなければ害はないらしい。
ただ、時折気がつくと、いつの間にか俺は、あの本の前に立っている事がある。
自分でも本当に気がつかないうちにだ。
気のせいであってくれれば、いいのだが……。
作者コオリノ
冒頭の将棋を指すシーンが、我ながら書いてて一番ニヤニヤしていました。
うん、気持ち悪いぞ私。
次回、同居人「禍津道中」でお会いしましょう。
古都、鎌倉怪異譚へようこそ。
第一話→「孤現灯篭」http://kowabana.jp/stories/29793
第二話→「少女怪帰」http://kowabana.jp/stories/29796
前回→「弧現恋歌」http://kowabana.jp/stories/29811
次回→「禍津道中」まだ。