真新しい一軒家の前に、カラフルで決して上手とは言えない、人や動物の絵がプリントされた一台のバスが停まった。
観音開きのドアが開き、中から黄色い帽子を被り、水色の生地に白いドット柄の服を着た男の子が出てきた。
「あらあ。お母さん、いないねえ」
男の子の後ろから、ドア枠で両手を支え身を乗り出している女性が言った。二十代後半だろうか。栗色のショートの髪とは対照的に幼さの残る顔が印象的な幼稚園の先生だ。
「ーうん。たぶん、おかいものに行ってるのかもしれないから」
いつも玄関で自分の帰りを待っていてくれる母親がいない為か、男の子の目はどこか不安気に左右に揺れていた。
「先生、降りたほうが良いかな?」
先生がドア枠の手すりに体重をかけて屈み、バスと家との間で立ち止まる男の子に聞いた。
ううん、と言いながら、男の子は玄関のドアの取手を引いた。
ーガチャリー
玄関が、すうっと手前に開く。
「あ、ほら! たぶん、ママ寝てるんだよ」
さっきまで曇り空を思わせる男の子の顔には、笑みが浮かんだ。
先生も、安心したのか笑顔になって、バスの運転席に座る初老の男性に声をかけた。そして、玄関に向かって少し大きな声で言った。
「拓也くーん、ママにただいまって言うんだよー! じゃあ、また明日幼稚園でねえ!」
拓也と呼ばれた男の子は、先生に向かって手を左右に大きく振って、玄関のドアを閉じた。
男の子は、玄関で靴を脱ぐと、長い廊下の直ぐ右のガラス戸をスライドさせた。
「ママー、ただいまぁ!」
そこは、居間だった。半分開いたカーテンの隙間から、日の光が部屋を照らしていた。
中央のテーブルの上には、白い皿に豚の生姜焼きとサラダ。そして、食べ掛けのご飯と、口をつけていないだろう味噌汁が一人分あった。チラシが床に散乱しているが、それらを除けば部屋は片付いていた。
「あれ、ママ? 二階かなあ?」
拓也は、居間を出て二階に上がった。階段をワザと大きな音を立てて登ったのは、彼なりに寂しさの表れだったのかもしれない。
二階の三部屋を全部見て、母親がいないのを確認した。
その時だった。一階で小さな音がした。
突然の物音に、男の子の肩が微かにビクつく。拓也は、恐る恐る階段を降りた。
一段一段、慎重に降りて、音の行方に耳をすました。
また、音がした。居間に隣接した台所の方からだった。
拓也は、居間からスッと、顔を入れて台所を見た。
そこには、冷蔵庫にせっせと、ラップで包まれた肉の塊をしまう男の姿があった。
「あ、パパ! おかえりなさいっ」
家に誰もいないと思っていたのだろう。拓也の父、隆介は突然の声に悲鳴をあげた。
「大丈夫、パパ? ぼくだよ、たくやだよ」
心配そうに見つめる息子を確認した隆介は、大きな溜息を吐いてから微笑を浮かべた。
「ああ、拓也か。そうか、この時間に幼稚園から帰ってくるんだったな。お父さんな、誰もいないと思ってたからビックリしちゃって。悪かったな」
息子は、ううん、とだけ言ってから本題に移った。
「あのね、ママがいないの。パパ、ママどこか知らない?」
一瞬、隆介の顔が強張ったが、口角を上げて笑顔を作って返答した。
「実はな、ママ用事で遠くに行くことになったんだ。ちょっと急用で、拓也に挨拶出来ないまま、出かけちゃってな」
そう言った隆介は、父の言葉を理解して泣き出しそうな息子の頭に右手を置いた。
「拓也。拓也は男の子だから、分かるよな。男の子は泣かないんだよ。なあ、分かるよな?」
頬を垂れる雫が落ちる前に、拓也は右腕で目をこすった。
「そうだ、流石男の子だな。よし、今日から男だけだから肉を毎日食べよう! 今晩は肉が沢山入ったカレーだ!」
拓也は、まだ潤む目を輝かせた。
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*
今朝の雨が嘘のように、空には雲一つない蒼い空が広がっている。
住宅街の路地を、俺は地図を片手に歩いていた。首を締めるように結ばれた赤地のネクタイと、未だに着慣れないスーツは、俺が営業で回っていますと、言っているようだった。
営業を任された担当の区域は、偶然が故意か、俺が二年前に買ったマイホームのある住宅街だ。事実、あと数メートル角を曲がって歩けば、自分の家がある。
「あらあ、笹木さんのとこのご主人じゃないですかあ」
竹箒を持ち、愛想笑いの顔でそう声を掛けて来たのは、自治会の班長の山本さんだった。
「ああ、どうも」
俺も笑顔で会釈した。勿論、営業スマイルだ。
「何なに、お仕事中だった? ごめんなさいねえ」
上から下まで舐め回すように俺のことを見た山本さんは、このままダラダラと会話をする気だと感じた。
だが、簡単には抜け出せない。気に入られない態度を取れば、近所中の電話が鳴り響き、担当区域は潰れる。
(営業どころじゃないぞ。くそっー、どうする? ーそうだ)
俺は腕時計に目をやってから、山本さんを見て言った。
「そういえば、山本さんのとこのお孫さん。煌楽ちゃんでしたよね。すごく礼儀正しくて、ウチの拓也にも見習わせたいくらいですよ」
その瞬間、山本さんの頬が緩んだ。
「いやだわあ、笹木さんのとこの拓也くんだって大きな声で挨拶出来て。私、すごく元気貰うのよ」
「いえ、そんなことは。そうだ、実は私の会社の社員に、あの遊園地のチケット貰ったんですよ」
「それで、ウチみんな予定合わせられなくて。宜しければ差し上げますので、次の連休にお孫さんとどうですか?」
まあっ、と歳にも合わない声で喜びの悲鳴を山本さんはあげた。
「それでは、近いうちに伺いますね」
家の前から逃げるように離れる俺に対し、山本さんはニコニコしながら、手を降った。
「くそっ。時間を無駄にした」
暫く歩いてから、思わず愚痴が口から出て、慌てて周囲に目をやった。
何時の間にか、自宅が斜め右の後方にあり、通り過ぎたことに気がついた。
その時だった。胸元のプライベート用の携帯電話が強いバイブレーションで震えた。
手にとって、通話のボタンを押した。
「もしもし、なんだ?」
俺の声は、自然と暗くなった。
「なんだじゃないでしょう。話があるんだけど」
妻の美智子は、機嫌が悪いと話し方が回りくどくなる。つまり、今物凄く機嫌が悪いという事が分かった。
「話ってー。分かるだろう、今仕事中なんだぞ。帰ったらでー」
とても自宅の近くにいるとは言えなかった。
「もう、私耐えられないのよっ! あんたの、隆介の顔なんか見られないわっ!」
妻の叫ぶような話し方に、俺は内心ドキッとした。この後、妻が話そうとする内容に心当たりがあったからだ。
「なんだよ、話してみろよ」
俺はずり落ちそうな眼鏡を人差し指で支え、自宅から徒歩三分の公園に入りベンチに腰掛けた。公園は珍しく誰もいない。
「冬子さん、以前ウチにもいらっしゃったわよね。冬子さんとあなたの関係は?」
冬子ー。やられた、やはりそれか。
俺は心の中で舌打ちした。
「冬子。いや、佐藤は俺の部署の後輩だ。ただそれだけだ。何か勘違いしてるんじゃないか」
電話、そして妻の勝ち誇るような話し方に、どう足掻いても無駄だと分かるが、不思議なことに嘘が口から出てくる。
「そう。それはオモテの関係よね。ウラの関係は」
「だから、後輩だっー」
電話から叫び声が上がった。
「もう沢山よ! あなたも、あなたの嘘もっ! 探偵を雇ったのよ、写真も手元にあるのよ。あなた達二人がホテルに入っていく所もバッチリね」
俺は、顔から血の気が引いていくのが分かった。
何も反論出来ない俺をあざ笑うように、美智子は言った。
「良いのよ、別れても。ただし、教育費と生活費は勿論。慰謝料をふんだくってやるんだから」
足元にある土が、徐々に崩れていく錯覚に陥る。
「あっ、やっぱり生活費はいいわ。拓也の親権はあなたにあげる。寂しくて、あなた死んじゃうだろうしね」
不倫相手と別れてくれと言うと予想していた俺には、妻の発言一つ一つを理解するのに時間がかかった。
そして妻には、とっておきの切り札があった。俺の親父だ。政府関係者の親父に、俺が今でも頭が上がらない事を知っているのだ。そして、親父の秘書を務めていたのが、美智子だった。
この危険な、俺の未来を覆い隠す種子を、発芽する前に何とかしなければならなかった。
行動を、取らなければー。
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気がつくと、自宅の居間の真ん中にいた。目の前には、背中に何本もの包丁を刺している妻の背中があった。
俺は、右手に数枚の写真を握りしめ、左手にパン用の波打つ包丁を持っていた。
蹲る(うずくまる)ような態勢で、床に血の池を作る妻を前に、俺は極めて冷静だった。
腕時計に目をやると、十三時を回っていた。
妻の死体を担ぎ、新品のラップを握りしめた俺は、ガレージに向かった。勿論、応急処理として数十枚の広告で血の池を隠した。
ノコギリが万能であると悟った頃には、目の前に妻の死体は無く、変わりに無数の肉塊と、丸く膨らんだ黒いビニール袋が二つあった。
玄関先で、若い聞き覚えのある声が聞こえたのは、台所の入り口を開けようとした時だった。俺の右手には、三個目の黒いビニール袋があった。中にはラップで包まれた肉塊がある。
俺は慎重に台所に入り、冷凍庫を開けて肉塊を入れていった。あと、二個のラップに包まれた物をしまう時だった。二階から音が聞こえ、思わず身が震えた。
そして拓也の声が、鉄の臭いの酷い、居間から聞こえた。
「あっ、パパ! おかえりなさいっ!」
*
最近、夜なかなか眠れないせいか、肩がすごく凝っていた。首にも、赤いアザが広がっている。
あの日以降、拓也は立派に幼稚園に通い、俺も仕事をこなしていた。
目の前の拓也は、時々独り言を言うようになったが、それを除けば良く育っていた。
夕飯時、たまに独り言を話す拓也は、肉がゴロゴロ入った野菜炒めにフォークを伸ばし、口に入れ笑顔になった。
俺も肉を頬張り、拓也に聞いた。
「どうした。最近、いつもニコニコしてるな」
「うん、パパもママも仲良しって先生に話したら、仲良し夫婦で良いねえって言ってくれたんだよ!」
俺は下を向いてから、再び拓也に聞いた。
「拓也、寂しいのは分かる。でもな、ママはもういないんだ」
そう言うと、拓也は不思議そうな顔をした。右手のフォークには、血が滴る肉が刺さっていた。
「え、ママいるよ」
「だから、どこにだ?」
拓也は肉を口に入れ、暫く咀嚼してから水で飲みこんだ。そして、隆介の後方を指指して答えた。
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*
「パパ、いっつもママをおぶってあげてるでしょ」
作者朽屋’s