緑が美しい町があった。北には山頂に白い雪が残る山脈が広がり、南には碧く煌めく大きな湖が大空を映していた。
町の治安は平均以上に良く、古くからある建物は煉瓦作りで、町中の木々や草花と調和していた。
周囲の町では、事件事故が相次ぐ中、この町はそれらと縁も無く、警察官の仕事ももっぱら事務関係や巡回程度で終わっていた。
そんな町を東西で分断する様に、中央に白い蛇を思わせるクネクネした小さな河が流れ、町を潤していた。
その河の側に、上空から見てL字の形をした建物があった。庭にはカラフルに染める様に、色々な種類の花々が咲いていた。
その建物の一室に、グレーのシャツに白衣を纏った、中年の小太りな男が椅子に座っている。薄くなった白髪頭を掻いていた左手を、光沢感のある机の上のカップにのばした。コーヒーの香りが部屋を満たしている。
二口ほど、コーヒーを飲んだ時だった。部屋のドアをノックする音が聞こえ、次いで
「失礼します。先生、ご予約の患者さんがお見えになりました。少し早いんですが、よろしいでしょうか?」
片手にファイルを抱えながら、桃色の白衣を着た若い女が言った。先生と呼ばれた中年の男は、カップを机に置いて時計を見た。時計の針は、八時四十五分を指している。
「ん、早いが通してくれて構わんよ」
分かりました、という声が聞こえ、数分後再びノックの音がした。男は、卓上の白いプレートを動かした。数センチズレていた為だ。プレートには黒字で、『院長』と印刷されている。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋に入ってきた男は、なかなかの好青年だ。何より顔立ちが良く、その笑みは男女関係無く気に入られるものだった。
それに対し、中年の男は椅子から腰を上げつつ笑顔を作ったが、内心は驚きの表情を浮かべた。
机を挟んで、二人は握手をして挨拶をした。
「院長の神崎です。私の整形外科へようこそ」
「朝早くにすみません。松村です、どうぞよろしくお願いします」
「松村さんですね。あ、どうぞかけて下さい」
挨拶を終えた二人は、それぞれ椅子に腰掛けた。神崎が、リラックスして話せるようにと飲み物を聞いた。松村はホットコーヒーをお願いした。神崎が近くの助手にホットコーヒーを頼み、松村に向き直った。
「それでは、幾つか伺いたいんですが」
「はい」
コーヒーが小さなトレーに載せられ、松村に渡された。松村はミルクを少し垂らし混ぜて、一口飲んだ。
神崎もコーヒーを飲みつつ、医療上の質問を始めた。
松村が質問に答えていって、コーヒーが冷めかけた時だった。
「それでは以上なんですが、最後に」
神崎茂が質問の答えを書き記したファイルを机に置いて言った。
「どの患者さんにも話しています。気を悪くなさらないで下さいね」
松村はあと一口分残ったコーヒーを簡易テーブルに置いて、神崎の目を見た。
「整形後、元の顔に完全に戻すことは不可能です。それに松村さんの場合は、顔全体を行いますので、その点は大丈夫ですか?」
松村は少し笑みを浮かべた。
(整った顔に笑みとは、ここまで美しいものなのか)
同性の神崎にそう思わせるほど、松村の笑みを浮かべた顔は完璧なものだった。何か犯罪を犯しても、裁判所で誰がこの者を裁けるだろうか。そんな話がありそうなほどだった。
神崎の考えを見抜いたように、松村は腰を屈めて両手を組んで話した。
「自分で言うのも恥ずかしいですが、この顔で整形なんてと思われるかもしれまぜん。ですが、この顔じゃ駄目なんです」
松村の話し方は、どことなく切羽詰まっている印象を受けた。神崎が慌てて言った。
「いえ、その点に関しては個人の自由です。無理にお聞きしませんよ」
松村は、その言葉を聞いて喉もとまで出かけた言葉を飲み込んだ。
「それでは、この誓約書にサインを」
神崎は誓約書と朱肉を松村に渡した。
こうして手術が始まった。
顔全体ということと、体力的な事も考慮して手術は一ヶ月ほどかかった。
松村は顔に包帯を巻きつけ、病室で三日間過ごした。その間、彼は落ち着かない様子が続いた。
その日は雨だった。町は何処となく静かで不気味な雰囲気となっている。
神崎の部屋に松村はいた。お互い、最初の時のように、向かい合って座っていた。松村の願いで部屋には二人だけで、助手達は別室にいた。特に珍しい事では無い。整形後、そそくさと病院をあとにする患者だっているのだ。
「先生、本当にありがとうございました」
松村の礼に対し、神崎は笑って答えた。
「成功はしましたが、包帯を取って松村さんに確認して頂かないと」
そう言って包帯をスルスルと取り始めた。そこにあった顔に、松村は鏡を見て唸った。神崎からは笑顔が保っていたが、目元がひくついた。
松村の顔は以前の爽やかで美しい顔では無く、目が鋭くどう見ても凶悪な顔つきになっていた。
神崎はついに口を開いた。
「ど、どうでしょうか? ご希望通りにいたしましたが」
松村は薄笑いを浮かべた。恐ろしい顔だ。
「いえ、満足です。隣町から来た甲斐がありました。ありがとうございます」
「どうしても気になります。以前の顔では」
神崎の話を松村が制し、話し始めた。
「ええ、お答えします。私の以前の顔は、笑顔が良いとよく言われました」
「私も、あなたの笑顔は素晴らしいと思います。性格の良さが外面にでてると言いますかー」
松村が神崎の言葉を聞いて笑った。神崎は、その笑い方に驚きの表情を浮かべた。いや、恐怖すら感じた。
「いや、すみません。ふふふ、内面が外見に、ねえ。先生は誰かを驚かそうとしたことはありますか?」
神崎は、あると答えた。
「その時、相手が驚かないとどうです?残念ですよね。私はこの二十五年間、その残念な気持ちに苦しめられたんですよ」
口調が少しずつ変わってきた松村に、神崎は違和感を覚えた。
「申し訳ない。どういう事でしょうか?」
松村は席を立ち上がり、部屋をうろつきながら話した。
「私は夜中歩いていて警察官に声をかけられたことがあります。でも私が振り向くと、警察官は気をつけるようにと伝えるだけで職務質問すらしない」
みんな顔で判断する、と付け加えた。
「それのどこがいけないんです?」
神崎も立ち上がろうとしたが、松村が両肩を押して座らした。
「みんな、ギリギリまで。いや、気づかない人間すらいる。前の顔のせいで、みんなの顔が見られなかった」
「どんな顔です?」
松村は質問に対し、棚の前で立ち止まり直ぐに答え無かった。棚には医療の本やメスなどの鋭利な刃物の医療器具もあった。松村は神崎の前に来て口を開いた。
「先生には二つの願いを叶えてもらえる。本当にありがとうございます」
「二つ?どういう事だ?」
神崎の顔は恐怖に引きつって聞いた。
「その顔です!その恐怖に引きつる顔を見たかった!整形、恐怖。その二つの願いが今日叶った!」
そう叫んだ松村の左手には、メスが握られていた。神崎の目の前には、鋭利な刃物を持った凶悪な顔つきの男がいる。
うわああああっ!と叫び声をあげようとした神崎の声は、掠れて響かなかった。
喉からは、一の字でスッパリと切れて血のシャワーを噴き出していたからだ。
グッタリと椅子に座り込む神崎の前で、松村は満面の笑みを浮かべていた。その笑みは爽やかなものでは無く、残虐的な笑みだった。
松村は手に握った赤いメスを見てから、天井を見た。
それから、目の前の死体を見て言った。悲しげな目だった。
「なんてことをしてしまったんだ」
松村は後悔していた。目の前の腕の良い整形外科医に近寄って呟いた。
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「もっと凶悪な顔つきに、先生なら出来たのにー。ああ、私は何て事を!」
ドアのノックの音がした。
「先生、次の患者さんの時間ですが」
松村は決めた。先生の死は後悔したが、この顔つきで人々を恐怖に突き落とそう。
そして、部屋のドアを開けた。
作者朽屋’s