「落ちましたよ」
「・・・・・」
女は振り返ると無言で近寄り、その袋を奪いとった。
無礼な奴だ。
ま、いいか。たまたま俺が後ろ歩いてただけだし。
男も無言で女を追い越した。
女とすれ違う時に女が持っていた紙袋をちらりと覗くと
汚い人形が何体も見えた。
『気色悪・・・』
見なかった事にしてそのまま前を向いた。
『ぁりがとぉ・・・』
女は小さい声でお礼を言ったようだ。
男は軽く手をあげそのまま家路に向かう角を曲がった。
立ち止まったままだった女もやがて歩き出し、
男の曲がった角を覗き込む。
10mほど後ろをゆっくりとついて行った。
男は新築らしいマンションに入っていった。
女はマンションを見上げていた・・・
「まみむめ・・めぐみ、090・・・と、うーんややこしや」
ボクは水没させてしまい仕方なく新品にしたケータイと格闘していた。
スタイルが気に入ってメーカーを変えたのはいいが、
アドレス帳の登録のやり方さえもよくわからない。
取り説は読まない主義なのだ。
こういう時は克に頼るに限る。
あの生臭坊主はメカにも強い。
この時間ならどうせ暇だろうし、電話してみよう。
「ぷるるるるる・・・・」
ん?取らんな。何してやがる?ウンコかな?
5分後もう一度電話してみる。
取らん。
うむう・・・0時過ぎ・・・もう寝たのかな?
・・・と思った瞬間、克から電話が鳴った。
すぐに取る。
「おぉ。起きてたか?」
「お前、さっきから俺に電話してたか?」
「ん?したけど」
「何回?」
「2回」
「2回だけか?」
「うん。何で?」
「何で非通知でかけてくる?」
「非通知?俺がか?ケータイ機種変したんだが何か関係あるんかな?」
「ボケ!機種変したら最初はそういう設定になってるんじゃ!」
「どうしたら直るのだ?」
「本当に2回だけか?・・・待て・・・まただ」
「何じゃ?」
「今日だけで非通知着信が100回以上かかってる・・・」
「100回以上!?誰からかわかってるのか?・・・非通知だからわかるわけないか・・・」
「いや、わかっている」
「え?」
「八重子・・・」
「ヤエコ?」
「お前、今から家に来れるか?」
「おぉ、行こうと思って電話したんじゃ。アドレスの登録のやり方教えてくれ」
「ボケ!そんな事言ってる場合か!さっさと来い!・・・ツーツーツー・・・」
電話切りやがった。偉そうに「来い」だと?
誰が行くか!と思ったが・・・ヤエコ?誰だろ?
克と絡んでると面白い。いつも刺激がいっぱいだ。
幽霊だけはごめんだが、電話をしてくる幽霊なんて聞いた事ない。
・・・あいつ、新築のマンションで一人暮らし始めたとこのはず。
早速、克の家に行く事にした。
女はずっとマンションを見上げていた。
駐車場を一周まわってみたりもした。
一台、一台の車のナンバーを控える。
メモもペンも持ってなかったので長く伸びた爪で強く腕を掻いてメモ代わりにした。
わりと簡単に血が滲み出してきて、メモ代わりにはぴったりだった。
残念なことに腕だけでは書くスペースが足りなかったので、両足にもびっしりと数字を書き込んだ。
女の爪には自分の血と皮が詰まっている。
やがて星の光が薄くなり空が白み始める。
男が大きなゴミ袋を持って出てきた。
女は曲がり角にササッと身を隠す。
「ニャー…」一匹の黒猫が男の足音を敏感に聞き分けて男に近寄る。
「ブルース…」
男はマンションのゴミステーションに袋を置くと黒猫を呼び缶詰めを与えた。
ニャウニャウと美味そうに缶詰めを食べる黒猫を後目に男は駐車場に歩きBMWに乗り込む。
女はちょうど左太ももの一番付け根に書いた数字を爪で引っ掻き丸で囲んだ。
『177…』
男の車が駐車場から出て行くのを確認すると、女はゆっくりとゴミステーションに近づく。
黒猫が女に気づきビクリと振り返る。
女はゴミステーションにしゃがみこみ、男の置いたゴミ袋を無造作に破った。
一枚一枚捨てられた紙を開く。
インスタントラーメンの袋や汚れたティッシュまで全て開いた…
「八重子って誰だ?」
ボクは克の真新しいマンションの部屋に入るとすぐに聞いた。
「昨日の夜、会った女じゃ」
克が答えた。
「会った?女?出会い系か?」
「ボケ!出会い系なんかするか!ただ前を歩いてただけの女じゃ」
話を聞くと前を歩いていてた女の落とし物を拾ってやっただけだという。
「しかし、それだけで何で名前なんか知ってるんだ?」
「拾った袋…病院の薬袋だったんだが名前が書いてた。名字は忘れたが下の名前だけなんとなく覚えてた」
ふーむ…しかし何故イタズラ電話の犯人がそいつだとわかる?
「今日、寺から帰ってきたら俺が今朝出したゴミだけがグチャグチャに破られてて回収されてなかったのだ…」
「女がゴミ袋を漁ったって事か!?考え過ぎじゃないのか?猫が引っ掻いたのかも?」
「ボケ!猫が電話なんかしてくるか!」
いや、そりゃそうだけど…
「ケータイの領収書とかもそのまま捨ててたしな…」
八重子…か…、
ストーカーってやつ?
しかし、ゴミを漁られて電話番号を探られるなんてゾッとするな…
電話番号…請求書…
「おい」
「何じゃ?」
「電話番号の請求書見られたって事は、この部屋番号も知られてるって事じゃないのか?」
「…」
「100回以上もイタズラ電話してくる女だったら部屋に来るかも!」
「だから、お前を呼んだのだ」
克が弱々しい表情でニヤリと笑った。
「ボケ!俺は嫌じゃ!帰る!」
「そう言うなよ。霊の時は世話してやったろうが。生身の女ならお前は得意じゃろ?俺は苦手じゃ」
「嫌じゃ!そんなキチガイ女!帰る!」
ボクは立ち上がった。
「トゥルルン…トゥルルン♪」
その時、突然インターホンが鳴った。
午前1時である。
モニター付きのインターホンに顔が映し出された。
やめてくれぇ…カラダが凍りつく。
「おぉい、鍵忘れた。開けてくれぇ」
見知らぬ顔の酔っ払いオヤジであった。
「部屋、間違ってますよ」克はインターホンのスイッチを押しながら答えた。
「こりゃどうも!遅くにすいませんでした」とオヤジ。
ホッとして克の横を通り過ぎ玄関に向かおうとした時、オヤジの後ろを女が通り過ぎようとした。
女は立ち止まり、モニターに視線を合わした。
いや、長い前髪で顔が覆われたせいで女の目は見えなかったのだが…
『ぎゃーっ!』
「帰るんか?帰るな!帰らないで下さい!」珍しく克がボクに懇願した。
ボクはそのまま玄関に向かい玄関のロックを確かめチェーンをした。
「こ…こちらこそ、今夜は、泊めて下さい…」
6かい・・・601号しつ・・・
女はエレベーター前を通り過ぎ階段に向かった。
「は・・箱は、好かん・・・」
2階・・・3階・・・胸の鼓動が高まる。
女は立ち止まり紙袋から薬袋を取り出す。
無造作に薬袋を破り捨てながら数十種類の錠剤を口に含んだ。
水はいらない。おいしいの・・・この薬。ボリボリと噛み砕いた。
改めて階段を登り始めた・・・4階・・・5階・・・
各階にある監視カメラを見つけた女は、5階のカメラにめがけて唾をはきかけた。
血の混じった唾はカメラまで届かなかったが。
女は自分でもそれがおかしかったのかケケケケケと笑った。
「6かい・・・」
女は季節はずれのトレンチコートのポケットから携帯電話を取り出しリダイヤルを押した・・・
「おい!マンションの中に入ってきたぞ!」
ボクは克に言った。
克は無言で目を閉じている。
「このマンションのセキュリティはどうなってんだ!?不法侵入じゃ!管理人に連絡しよう!」
ボクはそんな提案をした。
「お前なぁ、40過ぎのオッサン二人が『知らない女がマンション内に侵入してます』なんて管理人に言って相手にしてもらえると思うか?」
「じゃあ、どうすんじゃ?」
「頼む」
「はぁ?」
「お前、頼む。説得してくれ。『何のご用ですか?』って聞いてくれや」
「何で俺が!?嫌じゃ!絶対嫌じゃ!!」
リリリリリリリリリン!
その時、克の電話が鳴った。
息を呑み込みながら克の電話を覗き込む。
【非通知通話】来た!
「頼む!」そう言いながら克は無理矢理に電話をボクの手に握りこませてきた。
仕方ないな・・・ボクは通話ボタンを押して電話を取った。
『・・・・・・』
何も言わない。
「もしもし・・・何のご用ですか?」
ぼかっ!
克がクッションを投げつけてきた。
『もっとまともな事を言え!』口をそんな風に動かしている。
お前がそう聞けって言ったくせに・・・
『あ・・・なた、だ・・誰?・・・好きな人・・・?』女がそう言った。
「はぁ?」
『私は・・・八重子。。おまえは誰だぁ?』
何て喋り方だ。暗くて湿気を帯びた声。
本当にこいつは生きてるのか?鳥肌が湧き立つ。
『好きな物・・・あげる、好きな物・・・全部あげる』
何やら気味悪い事を言うと同時に玄関で「ドンッ!」と鈍い音が響いた。
「電話切れたぞ。何かあげるって言うてたが・・・」
克は『無理無理』と首を横に振りながら玄関方向を指さし『行ってくれ』とボクに指示する。
この貸しは100倍にして返してもらうぞ・・・と思いながら恐る恐る玄関に歩いていった。
玄関の外は意外な事に静かであった。
足音を立てずにさらに近づき覗き窓から外をうかがった。
真っ暗・・・
うん?・・・と思うと真っ暗の世界にうっすらと光が差し出した。
うん?・・・と思いながら凝視すると「八重子」の目が大写しに写し出された。
ぎゃあっ!
思わず腰が抜けそうになった。
克がゆっくりと近づいてきたので、ボクは「覗け」と無言で覗き窓を指差した。
「赤い・・・」克は覗き窓を覗いてそう言った。
「女・・・八重子はおらんか?」
「おらん」克はそう言うとドアのチェーンはつけたまま、ドアのロックを解いた。
「あほ!やめれ!」
ゆっくりとドアが開く。
「こんばんわ・・・・」
しゃがんでた八重子が立ち上がった。
手には血まみれの黒猫の死体を抱いていて、それをドアの中に強引に差し出してきたのだ。
「ブルース!?」
克はそう叫ぶと玄関にあった竹ぼうきを掴みドア越しに八重子の首元を思いっきり突いた!
「んむぅ」・・・八重子はそのほうきをつかんだまま視界から消えた・・・
〔昭和4X年春〕
少女は妹のお見舞いに病院に来ていた。
病院の入り口のドアを入ったところで思いっきり深呼吸をする。
少女は病院の匂いが大好きだった。
「コンコン」病室の扉をノックする。
「あ、お姉ちゃん来てくれたよ」母が言った。
「ひゅぅ・・・お姉ちゃん・・・」
妹の声に力は無いがそれでも飛びっきりの笑顔を見せながら言った。
一卵性双生児の妹は産まれた時から(キカンシ)という場所の病気だと聞いていた。
妹は大好きな黒猫の縫いぐるみを抱いて横になっていた。
「あ、新しい縫いぐるみ!可愛い!」
少女は妹の腕から縫いぐるみを取ろうとした。
「ダメ!これは私のなんだから」妹は精一杯の力で黒猫を抱き締めて取られるのを阻止する。
母の手作りの縫いぐるみ。
少女も黒猫が大好きだった。
強引に縫いぐるみを抜き取ろうとした。
すると横にいた母が少女の腕を払った。
「がしゃーん!」
その勢いで少女は椅子から落ちてしまった。
思わず母の顔を睨み付ける。
床に倒れた少女に対し、母は薄笑いを浮かべながら言った・・・
「ダメでしょ・・・この縫いぐるみは(ヤエちゃん)のなんだから・・・」
「ブルース!!」
克はドアのチェーンをガチャガチャと外して、外に飛び出して行った。
ボクは不覚にも腰を抜かしていて動けなかった。
靴箱に手をかけながらようやく立ち上がり、ヨタヨタと靴を履き表に出る。
黒い塊がドアのすぐ側にころがっていた。
「ブルース・・・?これが・・・?」
八重子は非常階段の方向から逃げていったようだ。
克もそっちの方向に向かって走って行った。
ボクも非常階段の手すりにつかまりながら下に降りる。
ひいーっ、しんどい!おっかねえ!
やっぱり来るんじゃなかったな・・・とか思いながら。
1階まで降りてエントランスの方に回ると克が立っていた。
「ニャアオン」
足元には黒猫が。
「おお、柊。ブルースは無事だったぞ」克が言った。
「うん。部屋の前に転がってたのは縫いぐるみだったぞ。血みたいなのが付いててかなり気色悪かったけど」
「俺様が縫いぐるみとブルースを見間違ってしまうとは・・・」
「大丈夫か?お前、本気で女の首元をほうきで突いたろ?」
「おお・・・確かに首元に的中した・・・はずなんだが、変な手ごたえだった」
「変な手ごたえ?」
「うむ。。何とも言えん手ごたえだった。まともに的中してたら、こんなに逃げられるはずないしなあ」
「で、女は?・・・八重子は?」
「確かに非常階段の方に逃げたはずなのに、おらんかった。6階は最上階だから下にしか行けんはずじゃし」
「・・・・・」
「ちょっと警察に電話しとこ。怪我させてるかもしれんし。不法侵入に違いないし」
「おお、それがええわ」そう言いながらボクは自分の股間を触った。冷たい。
腰を抜かしてしまった時に少しちびってしまったようだ。
もう、ボクらの手にはおえない・・・
「ニャオン?」
ブルースがマンションの6階の方を見上げながら鳴いた。
ボク達は部屋の鍵を締めずに飛び出してきてたのだ・・・
【昭和4X年・冬】
『明日からもうこの病院に来なくていいんだ』
少女は悲しみよりも、漠然とそう思った。
初めは、この病院に来るのが楽しみだった。
だが、妹の様態が悪くなると共に少女は邪魔者扱いされるようになった。
病院に行くと無視され、病院に行かないと「ひどい子」と家で殴られた。
『なんで元気な私が叱られ、病気の妹だけ可愛がられるの?』
病院の匂い、看護婦さんの制服、妹、お母さん、黒猫・・・全部、大好きだったのに今はみんな大嫌い!
元気な自分よりも病気の妹になりたかった。
そして、これから母の愛を独占できると思っていた。
動かなくなった妹の前で、「手をつくしましたが・・・」先生はそんな風な事を言っていた。
「手をつくして・・・手をつくして八重子を殺したんですか・・・?」母がぼそりとつぶやいた。
「え?」加藤医師は驚いたように言った。
少女も驚いて母の顔を見た。
「どうやって八重子を殺したのか聞いてんだよ!心臓を潰したか?加藤!こら!どうやって殺した?毒を打ったか?血を抜いたか?」突然大声で喚き散らした。
病室の前にはたくさんの他の患者さんが集まっていた。
「お前も死ね!みんな死ね・・・」そう言いながら集まっている他の患者に唾を吐きつけた。
患者達は見てはいけない物を見たように慌てて逃げ出した。
母は壊れていた。
「行くよ!」母は少女の髪をグイッと引っ張りながら病室を出て、もう一度唾を吐いた。
そして、少女にとって地獄の日々が始まった。
ボクと克はエレベーターで6階まで上がった。
部屋に入る前にもう一度、非常階段の方向へ二人で行ってみる。
「ん?」
紙袋が落ちていた。
薬袋。
ボクはそれを拾い上げた。
〔処方箋・加藤医院〕と書かれている。
「加藤医院・・・?」
その薬袋はシミだらけの上に全体が黄ばんでいる。
どう見ても最近処方された薬には見えなかった。
〔沼上八重子〕
「ひいっ!」わかっていた事とはいえ思わず薬袋を放り出しそうになった。
中を見ると錠剤が・・・いや、それはお菓子だった。
駄菓子のようなチョコやラムネが入っていた。
「何じゃ、こりゃ・・・?」ボクは克の方にそれを見せながら言った。
克は「加藤医院・・・」とだけつぶやいた。
二人は601号のドアを開けた。
黒猫のぬいぐるみが・・・・ない!
「お前、ぬいぐるみはどうした?」と克がボクに聞いてきた。
「いや、知らん・・・俺はそんなん触ってないぞ」
「まさか・・・」
克は玄関のすぐ側にあるトイレのドアを思いっきり開いた。
誰もいない。
「ひいっ・・・まさか・・・」ボクは中に入るべきか外に逃げ出すべきか大いに迷っていたが、とりあえず中に入り克について行った。
克の部屋は1LDK。
隠れてるとしたら場所は限られている。
続いて風呂、ベッドルーム、ベッドルームのクローゼットも開けた。
誰もいない。
ベランダ・・・大丈夫だ。中から鍵が閉まっていた。
二人はリビングのソファに腰掛けた。
「猫だけ拾って帰ったみたいだな」ボクはホッとしながら言った。
続いて「おい、警察に電話しようや」そう言った。
克はそれに答えず「柊、お前加藤医院って知っとるか?」と聞いてきた。
「知らんなぁ・・・よくありそうな名前だがどこにあるかは知らん」
「うむ。俺も聞いた事あるような・・・無いような・・・」
『しかし気味悪い・・・あんな黄ばんだ薬袋にお菓子入れて持ってる女・・・お菓子も腐ってるんじゃないのか?』
突然、克が思い出したように言った。
「おい!加藤医院って昔なかったか?小学校の帰り道に!!」
「あの自転車道の側の!!」ボクも何となく思い出した。
「おお。いつの間にか廃業して今はもう無いはずだが」
「なんで、そんな昔の病院の処方箋が今あるんじゃ?」
「知るか!」
「八重子は知っとるか?」
「知ってるわけないだろが!」
「沼上は?」
「沼上・・・沼上なぁ・・・」
バン!バン!
ガラスを叩く凄い音がベランダ方向で聞こえた。
二人は同時に振り返った。
八重子。
目を剥き、口に黒猫の縫いぐるみを咥えガラス戸を両手で激しく叩いていた。
「はい、出ました」克が妙に冷静な言い方をした。
【昭和5X年・春】
『ニャ~ア』
ここが好き。
学校に行きたくなかった。
家にも帰りたくなかった。
少女の妹の死以降、家庭は壊れた。
「あんたがいなければ八重子は死ななかった」と母に言われぶたれた。
『どうして私じゃダメなの?』
正しい。姉妹の片方が死ねばもう一人の子をさらに可愛がるはずだ・・・が、壊れた母に正しい理屈は通じなかった。
少女の腕や顔には無数の青あざが・・・
その傷は学校では同情されるどころか、いじめの対象にされた。
「口裂け女」「女フランケン」と呼ばれた。
ガキ共。どうでもいいけど。
先生は傷を心配して家にもてくれた・・・が、母を見るとすごすごと退散し「施設に入ればどうか?」と言われた。
学校では手に負えない・・・と。
宿題を忘れても叱られない。
テストを白紙で出しても叱られない。
誰も話しかけてくれない・・・そんな学校に行く意味って?
『ニャ~ア』
身重のお母さん猫。真っ黒だから名前はクロ。
いつ子猫が生まれるのかしら?
さっきもらったばかりのミルクをやるとペチャペチャと舐めた。
『何ていい日・・・』
したばっかりの約束を思い出して少女は顔を赤らめた。
久しぶりの幸せを少女は感じていた。
『ガサッ』背後で物音がした。
少女が振り返ると・・・母だった。
「ななみ・・・」
「お母さん・・・!」
「学校も行かずに何してるんだ!?」
「・・・・・」
「こっちに来い!」母が髪を掴んだ。
「八重子よ。私、八重子よ」少女は咄嗟に言った。
「八重・・・子・・・・・?」
鬼のようだった母の目が優しく変わった。
「そう、今日は病院に行く日だったの。ほらお薬もらってきた」
少女は妹の薬袋を見せた。
「そうか・・・病院に行ってたの?今日は学校はおやすみ。母さんと一緒に帰ろうか?」
「うん」
『私は八重子・・・』少女は肩に置かれた母の手の温もりを久しぶりに感じながら自分にそう言い聞かせた。
『何ていい日…』少女はもう一度そう思った。
母と手をつないで家に帰ると家の前に見知らぬ白い車が停まっていた。
そして、もう一台は…パトカー…
制服を着た警察官2人とスーツ姿の男性と女性、そして少女の担任の先生もいた。
「沼上さんですね?」スーツ姿の男が母親に近づくと言った。
「はい、沼上です。この子は八重子です」母親は笑顔でそう答えた。
男と女は顔を見合わせて訝しそうに首をかしげた。
「沼上七菜美ちゃんを、保護に参りました」男は冷静な表情で言った。
少女は母親の手を掴みぶるぶると震えている。
「もう大丈夫よ、七菜美ちゃん」女が優しそうな表情でそう続けた。
母親はプッと噴き出しながら「何を言ってるんですか?あなたたちは?この子は八重子ですよ」と言った。
女性は少女の伸びた髪をかきあげ顔についた無数の傷を見ると「もう大丈夫よ」ともう一度言った。
少女は母親の陰に隠れる。
女がさらに少女に近づこうとした時、母親が女の髪を掴んで言った。
「お前らは八重子を殺しに来たのか?」
警察官が慌てて間に割って入って言った。
「沼上多恵子さん。保護者責任者遺棄、及び傷害罪の疑いで署までご同行願います」
母親がカッと目を見開き言った。
「お前らも八重子を殺しに来たのか!」
そう言うと一人で家に飛び込んで行った。
慌てて警察官があとを追う。
一人で立ちすくむ少女の頭を撫でながら担任の先生が「よかったな」と言った。
何がよかったなだ、先公。
幸せになれそうだったのに。
それが偽りの幸せだとわかっていたけど…
母親は家の中に灯油を撒こうとしたところを警察官に確保された。
手錠をはめられパトカーに乗せられる母親。
家の周りには近所の人が集まってひそひそと噂をしていた。
少女はもう一台の白い車に乗せられた。
『クロ…無事に赤ちゃん産まれるかな…子猫が産まれたら…』
少女は涙が止まらくなった。
事情を知らない大人達は「もう大丈夫だからね」しか言わなかった。
バンバンバン!
八重子は窓を叩き続けている。
『……………』克はずっと目を閉じていた。
「おい!克!どうするんじゃ?」
「沼上!」突然、克が目を開けて言った。
そして薬袋に目をやり、もう一度名前を読んだ。
「沼上八重子…」
続けて言った。
「おい、柊、小学校の時、沼上って女いたろが?」
「沼上ぃ?…いたいた!転校して行った暗い子な…しかし、八重子なんて名前じゃなかったぞ、ひいいっ!」
八重子がガラス窓に顔を押し付けてきていた。
克は目を細めて八重子の方を見た。
八重子の目からは涙が流れているように見えた…
【昭和5X年・春】
「ぐわっ!」
少年は突然、悲鳴をあげた。
「何じゃ?騒々しい」
ちょうど漫画の最終巻を読み終えたもう一人の少年が言った。
「が・・・学校に、カバン忘れてきてしもた・・・」
「お前バカ?何で手ぶらで帰って気付かんのじゃ?」
「お前のせいじゃ!お前の工作まで俺が持って帰ってやったから両手がふさがってて・・・」
部屋にはヤクルトの瓶で作ったロボットが2体向き合っていた。
ロボットは戦った痕跡があり、2体とも腕が外れテープでブラブラとぶらさがっている。
時間は午後9時。
ロボットの戦いに飽きた二人はそのまま漫画を読みふけっていたのだ。
「明日、手ぶらで学校行けてええじゃんか」克が言った。
「いや、宿題せないかん」
「宿題なんかせんでええやん」
「いいえ、学級委員の私としましては、それはできません」
「マルオスエオみたいな話し方じゃのう」
「今から取りに行く!」
「そうか?行ってらっしゃい」
「・・・・・」
「学校なぁ・・・出るらしいぞ。お化け」
克がニヤリと笑いながら言った。
「2階の階段上がってすぐ隣のトイレで自殺した女子の霊が・・・」
克が続けて言った。
「・・・俺のクラスの隣のトイレじゃないか」
「気配もなく背後に現れ『お前も死ぬか?』って聞いてくるらしい」
「嘘つくな!!」
「行ってらっしゃ~い」
「お前も来い!」
「何で俺が?嫌じゃ」
「俺の父やんのヒミツの引き出しからスウェーデン直輸入の本が見つかったのだが・・・」
「仕方ない。行ってやるよ」
「しのびねえなあ」
「かまわんよ」
二人の会話はわずかに時代を先取っていた・
克の寺から学校までは歩いたら15分。
二人は自転車に二人乗りで学校まで走った。
自転車道を使えば5分ちょっとで着く。
自転車をこいでるのは柊。
『当然だ』と言わんばかりに克は後ろに座っている。
「この病院も出るらしいぞ・・・」
克は自転車道にある古ぼけた個人病院を指差しながら言った・
「うるさい!うるさい!!うるさい!!!」
柊はさらに自転車をこぐスピードをあげて病院を速やかに通り過ぎた。
小学校到着。
「じゃあ、俺はここで待ってるから」
「やかましい!」と言いながら克の腕を掴み裏門から学校内に侵入。
職員室も用務員室も電気は消えていた。誰もいないようだ。
古い木の扉は鍵など締められていなかった。
当時は非常灯なども無く灯りは全く無い。
柊は持ってきた懐中電灯を照らした。
階段をゆっくり登る。
2階。
『このトイレか・・・』
柊はゴクリと唾を飲み込んだ。
コリコリコリ・・・・コリコリコリ・・・
トイレから音が聞こえた。
柊は目を見開き大股で階段を引き返そうとした。
「待て!」克が柊の腕を引っ張り止めて言った。
「オバケなんかおらんわ。誰かいるぞ」
そう言いながら克はトイレの電気をつけた。
古い蛍光灯が点滅しながらゆっくりと点いた。
その瞬間、コリコリコリ・・・という音が止んだ。
「ここじゃ・・・」
掃除道具入れだ。
外からぼうずりをつっかいぼうにして開かなくされている。
ぼうずりを外して扉を開けた。
女子が座っていた。こんな場所に?こんな時間に?
柊は腰を抜かしそうになった。
「沼上・・・?」克が言った。
女子はスッと立ち上がった。
爪の先から血が流れていた。
爪で壁を引っ掻き続けていたようだ。
「ノグチ、タケダ、オオニシ・・・コロス・・・ヤクソク」と書かれていた。
女子は全くしゃべらない。
無言で克と柊の間を通り抜けてトイレから出て行った。
「沼上!」克が呼んだが返事はなかった。
柊はバクバクする心臓を落ち着かせるように言った。
「あいつ、お前のクラスの女子だろ?確か・・・沼上七菜美・・・?」
「おお、そうじゃ・・・目立たん子じゃけど、いじめられてたみたいじゃな・・・」
「しかし、家の人心配せんのか?女子がこんな時間まで帰らなくて」
「何か家庭環境複雑らしいぞ。よく知らんが」
「それにしてもひどいな。やりすぎじゃ」
「ああ、明日野口らとっちめてやるか?」
「けど、噂では沼上って『猫殺し』なんて言われてるらしいぞ」
「うーむ・・・聞いた事あるけど本当やろか?」
二人はオバケの話など忘れて閉じ込められていた女子の話をしていた。
柊は忘れていたカバンを教室から取り学校を出た。
「じゃあなあ!」
柊は克を寺で自転車から降ろすと駆け足で家に帰っていった。
翌日。
克は寺を出ると裏山を通り学校に向かった。
朝のお経を詠んだ後、部屋に帰ったらうたた寝してしまい遅刻だ。
裏山に道は無いがこの竹林を降りると断然早い。
朝食を食べる時間はなく、牛乳瓶を持って家を飛び出した。
「ん?」
誰かいる・・・沼上?
足元には黒猫。
沼上七菜美はしゃがみこみ猫の首を・・・撫でていた。
「おう!」
克は七菜美に声をかけた。
一瞬、七菜美はビクッと手を止め、克を振り向いたがまた黒猫の首を撫で始めた。
『昨日は大変だったのう』そう言おうとしたが止めた。
「何じゃ?その猫、お前が飼ってるんか?」と聞くと七菜美は『ううん』と無言で首を振った。
「おお、赤ちゃんおるんか?」と克は大きくなった黒猫のお腹を見ながら言った。
七菜美は無言で頷く。
「赤ちゃん生まれたら一匹くれよ。寺で飼うんじゃ。最近、寺にネズミが多くてな。上手く手なづけてネズミハンターにしたる。オスがええ!」
克がそう言うと七菜美は一瞬だけクスリと笑った。
「これ、やるわ」と克は牛乳瓶を差し出した。
七菜美は手を伸ばし牛乳を無言で受け取った。
「学校行かんのか?」
七菜美はまた無言でうつむいた。
「まあ、学校なんてどうでもええんじゃが・・・俺、行ってくるわ。じゃあ、赤ちゃん産まれたら言えよ」
克はそう言うと学校に向かうためにまた竹林を降り始めた。
『ぁりがとぉ・・・』
背後の小さな声は竹やぶが揺れる音にかき消され克には聞こえなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
克は目を細めて八重子の方を見た。
八重子の目からは涙が流れているように見えた・・・
「沼上七菜美・・・」克はつぶやくように言った。
「沼上七菜美だと・・・?」ボクは克に聞き返した。
「うん」克はソファーから立ち上がり、ベランダ方向に足を一歩踏み出した。
「八重子・・・じゃないのか?」ボクは手に持ったままの古い薬袋をもう一度見ながら言った。
「俺は八重子って女は知らん。七菜美なら思い出した」克はさらにベランダの窓に近づいた。
「でもなあ、でもなあ・・・」ボクは薬袋を握る手に汗がにじんでいくのを感じた。
克はベランダの窓の前に立ち、八重子・・・いや、沼上七菜美とガラス越しに向かい合っていた。
そして遂にガラス窓の鍵に手をかけた。
「やめろ!克!開けるな!沼上七菜美はなあ・・・!」ボクは大声で叫んだ。
克は一瞬こちらを振り向き『わかっている』という表情で小さく頷いた。
【昭和5X年・夏】
少女の母親は(セイシンカンテイ)の結果(ムザイ)となり、その後病院に入院していた。
少女は施設から新しい学校に少し通ってたが、今はもう行ってない。
どうでもいいのだ。
そんな彼女に連絡が入った。
(母・危篤)
少女は施設の人に連れられ病院に向かった。
あれから母親とは一度も会ってなかった。
久しぶりの再会。
キトク・・・お母さんが病気で死にそうって事は理解していた。
でも、悲しい感じはしない。
病室。
母親は酸素マスクをつけて目をつむって寝ていた。
呼吸が大きいのがわかる。
「お母さん、七菜美ちゃんですよ」施設の先生がそう声をかけると母親はうっすらと目を開けた。
「・・・八重子・・・」そう言いながら母親は少女の手を握ってきた。
「何を言って・・・」先生がそう言いかけるのを遮り、少女は言った。「お母さん、八重子よ」
母親は安心したように頷き目をまた閉じた。
そして、母親の、呼吸は、止まった。
少女は病院の屋上に一人で上がった。
『私は八重子』自分でそう言い聞かせた。
『これでいいんだ。七菜美なんて人間はこの世に必要ないんだ』
『私は死ぬまで八重子、いえ、死んでも八重子』
そう思うとカラダが凄く軽く感じた。
軽いはずだ。
少女のカラダは病院の屋上のフェンスを乗り越え、空を舞っていたのだから・・・
『あ、でも、七菜美、ヤクソクがあったんだ』
そう思った瞬間、少女のカラダは硬い地面に叩きつけられ、リンゴのように潰れ…た。
「克!沼上七菜美なら転校してから、すぐ自殺したんぞ!」ボクはもう一度叫んだ。
克はもうこちらを振り向かずに窓の鍵をあけようとした・・・が、それと同時につけていた電気、テレビがパシッ!という衝撃音と共に青白い光を放ち消えた。
そして克が鍵をあける前に七菜美は部屋に入ってきていた。
克はゆっくりと腰をおろしひざまずく姿勢をとった。
「思い出したぞ。その猫な・・・」克が言った。
七菜美のカラダが小さくなってゆく。
膝をつけた克と同じくらいの身長になった。
口にくわえていた黒猫の縫いぐるみはいつの間にか本物の子猫になり七菜美の腕の中で抱かれていた。
克が手を伸ばすと七菜美は真っ黒の子猫を克に抱かした。
子猫は「ミャウン」と一度鳴いた。
「オスか?」と克が聞くと少女に戻った七菜美はニコリと微笑んだ。
「相変わらず、寺はネズミが多くてな。なあ、柊」
なんだ、なんなんだ?これは夢か?幻か?ネズミだと?俺にふるな。
幽霊?しかし全然怖くないぞ。なんなんだ?
沼上七菜美の幽霊が突然、こちらを振り向いた。
顔を見ると白骨化していた。
ひいっ!やはり怖いわ!
白骨化した指をこちらに向けて伸ばしてきた。
は!そうか、この薬袋か?
ボクは慌てて立ち上がり、白骨化した少女に近づき薬袋を手渡しながら言った。
「学級委員の私としましては拾得物はすみやかに本人に手渡すのが義務だと思っております」
克が噴き出した。
白骨化してた少女の顔はまた当時の七菜美の顔に戻り、同じようにプッと噴き出した。
「すまんかったな・・・さっき首突いて」克が七菜美に謝った。
七菜美は『ううん』と横に首を振った。
そして小さな声で「ヤ・ク・ソ・ク」と呟いた。
「おお、約束な。猫、ありがとう」
克はそういうと、ポケットから数珠を取り出し少女の霊に向かってお経を唱え始めた。
ボクも同じようにすっかり暗記したお経を唱えた。
いつの間にかもらったばかりの黒猫は消えていた。
七菜美はもう一度ニコリと笑った。
その瞬間、またパシッ!という衝撃音が響き、部屋の電気とテレビが点き、七菜美は・・・消えた。
マンションの窓の鍵が閉まったまんま。
もちろん、猫はいないし、薬袋もない。
「・・・お前、猫もらう約束してたんか?」ボクは克に聞いた。
「おお、思い出したわ。全部」
「学校のトイレに沼上閉じ込められてた事あったな」
「おお」
「八重子って誰だ?」
「知らん・・・誰の名前だろな」
「誰に言うても信用してもらえんな・・・こんな話」
「おお」
「約束なぁ・・・」
「ん?」克が突然、テレビに目をやった。
事故のニュースであった。
画面にくしゃりとプレスされた車が映しだされていた。
【高速道路で事故。一家4人全員死亡】
潰れた車から脱出できずに、全員焼死したらしい。
運転していたのは「野口雅夫・44歳」
後部座席の妻と二人の子供も共に即死。
「おい・・・こいつって・・・」ボクは震える声で言った。
克はまた目を細め画面を睨み付けていた。
『ヤ・ク・ソ・ク』
事故風景の画面に沼上七菜美の顔がアップで映し出された。
沼上は、この後も生前のヤクソクを次々と果たしていくのだろうか?
【完!】
作者柊