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あの日、私は先生の家族と一緒にいて、みんなテレビに釘付けだった。
私はそのとき頭が空っぽで、上空のヘリコプターからライブで撮影されているらしい住宅街の様子を何の感慨も無く見てた。
「今、容疑者の身柄が確保された模様です」
アナウンサーが言う。
映像はある民家の玄関先へとズームアップし、大勢の警官に取り押さえられて、異形の男が俯きながら出てきた。
とうとう麺麭切り武者が捕まった。
これでなにもかも終わったんだ。ようやく安心して町を出歩くことが出来る。
みんなこの瞬間を待ちわびてたはずだった。
なのに先生も奥さんも何にも言わずに、ただじっと画面を見てた。
●
他所の人に麺麭切り武者について話すのは簡単じゃない。
たぶん、私が話すのと他の人が話すのでは、全然違った印象になっちゃうと思う。
ただ、誰がなんと言おうと、麺麭切り武者は私にとってのヒーローだったんだ。
そりゃ、はじめは私も怖くて怖くて、見かけただけでおしっこ出ちゃいそうなぐらいだったし、ってか実際漏らしたこともあるんだけど。
私がまだ小学生で、同級生の子たちといっしょに駄菓子屋まで競走してたときだった。
先頭を走る私が角を曲がった瞬間に、目の前に何か真っ黒いものが飛び出してきた。
わっ、ぶつかる!って思って避けようとしたら足が縺れて、つんのめりながら思わず目を瞑ったんだけど、なぜか転ばずに済んだ。
目を開けたら、麺麭切り武者が私の腕をぎゅっと掴んでた。
でかくて真っ黒なバケモノ。
黒っぽい半纏を羽織っててね、なぜか空のペットボトルを何本か紐でまとめたものを首や腰にぶら提げていて、まるで甲冑を着てるみたいなんだ。
で、背中まであるベトベトの長髪を結ってて、肌まで真っ黒なんだけど、ぎらぎらした大きな二つの目だけが浮かび上がってるの。
半纏着てるから隠れて見えないんだけど、刃がギザギザになってる麺麭切り包丁を腰に差してるんだって。いったい誰が言い出したのか知らないけどさ。
でね、私そのとき、殺されるかもって思った。したらおしっこ出てた。
でも麺麭切り武者は何もしないで小道へと姿を消してしまった。
助かったと思ったら、遅れて友達が走ってきて、お漏らししてる私を見て何事だと思ったみたい。
私、その場に座り込んでわんわん泣いちゃったてんだけど、男子連中から「げええ、こいつお漏らししてるー」って…。
もうそれからもずっと馬鹿にされたよ。私の人生で一番の汚点。
でもあいつらだって、ずーっと遠くにそれらしき影を見かけただけで固まっちゃって、
「親に迎えに来てもらわなきゃ」とか言っておろおろ公衆電話探すような腰抜けなんだから。
あのころは私たちみんな神出鬼没の麺麭切り武者におびえてたから、日が暮れる前に必ず家に帰ってた。
大人たちも「悪いことをしたら麺麭切り武者に切り刻まれるんだよ」って子供たちの恐怖心を煽ってたんだよ。
あのぎらぎらした目でいい子か悪い子か見分けてるんだろうね。
私が麺麭切り武者に腕をつかまれたとき、「これからもっといい子にするからどうか見逃して下さい」って、強く願ったよ。
…あのね、実は昔、私のパパは事故で死んじゃったんだ。
パパがいない代わりにママは朝から晩まで働いてて、私はママの代わりに家事をして…我が儘言わずにいい子にしてるつもりだった。
でもときどき、パパがいないのがつらくて夜になると泣いちゃってた。それを見て、ママも泣いちゃうの。
私が泣くせいでママまで悲しい気持ちにさせちゃうから、私は自分が悪い子だって思った。
でも、麺麭切り武者は私を殺さないで見逃してくれた。
ママにそのことを話したら、「ママが弱いせいでつい泣いちゃうけど、あなたに悪いところなんてなんにもないのよ」って言ってくれたの。
私は罪の意識から開放されて、もう町でちらっと麺麭切り武者を見かけても、「私は大丈夫」って堂々としてた。
なんか私だけみんなより大人になった気分でさ、よく悪さする友達に「麺麭切り武者に切り刻まれるよ」って、親が言うみたいに脅かしてたぐらいだよ。
でもね、中学生になったときには、友達は誰も麺麭切り武者を怖がってなかった。
男子はみんな、「お前まだそんなこと言ってんの?あれ、ただの浮浪者だぜ」なんて言って強がっちゃってさ。
なんか虚しいよね、そういう考え方って。恐怖から目を逸らしたいんだろうけど。
まぁサンタさんのことまで「親が演じてる」だなんて言うぐらいだから、ホント、頭が曇っちゃってんだね。可哀想。
私、そういう男子のことがもともと大っ嫌いだったんだけど、ある日を堺に決定的に男子のことが嫌いになったんだ。
同時に、麺麭切り武者のことをいままでと違う目で見るようになった日でもあったんだけど。
その日ね、ひとりの男子に呼び出されて、町のはずれにある神社に行ったんだ。そしたらなぜか三人いて、なんだろうと思った。
よくわからないまま境内の奥まで連れてかれて、いきなりブラウスをびりびりに破られたの。
乱暴されるって思って、「助けて!」って大声で叫んだんだけど、そこは人が寄り付くような場所じゃなかった。
そしたらさ、私に覆いかぶさってた男子が、いきなり宙に浮いたの。ぶわって。それでびゅーんって飛んでった。
目の前にね、麺麭切り武者がいたんだ。怪力で男子を放り投げたんだよ。
それから麺麭切り武者は両手で残り二人の男子の髪の毛を掴んで自分の顔へ引き寄せると、低い声で何かぼそぼそ唱えたの。
それで男子たちは顔を真っ青にして逃げてった。
麺麭切り武者は私のほうを見向きもせずに背中向けて去ってっちゃった。私は唖然として見てるだけだった。
次の日、私を襲った男子たちが謝りにわざわざ家まで来たの。ママにも謝りたいって。信じられる?
でも私、ママが事情を知ったらきっとショックだろうと思って、玄関先で「もうわかったから帰って」って追い返した。
もう顔も見たくなかったけど、でも家まで来るぐらいだからちゃんと反省したんだろうし、私も一応許してあげたよ。
それから私の頭の中は、もう麺麭切り武者でいっぱいだった。私を守ってくれた、ヒーローだもん。
ずーっと考えてたら、もしかしたら死んだパパが蘇って、麺麭切り武者になったんじゃないかって思っちゃったのね。
そのことをママにも話したんだけど、いや、襲われたことは言ってないよ…。ただ、「麺麭切り武者が私がピンチのときに現れた」って。
そしたらママが「麺麭切り武者はあなたのことだけを守ってるんじゃないの。この町を守ってくれてるんだよ」って。
それ聞いたとき、麺麭切り武者は私だけのものみたいに思ってた自分が恥ずかしくなっちゃった。
麺麭切り武者は町の守り神だから、悪いことしてる人がいないか毎日監視しながら町を彷徨ってるんだよね。
だから何か異変があればすぐに嗅ぎつけて、困ってる人を助けてくれたりするんだよ。
なのに、あんなことになっちゃうなんてね。
のどかで、平穏で、大好きだった私の町が、あの事件をきっかけに大騒ぎになったんだ。
…思い返すだけでもつらいし、今でも信じたくないけど、でも実際に起こったこと。
ハリマさんっていうお宅の奥さんが買い物に出たっきり帰ってこないってことで、旦那さんがいろんな人に声をかけて探してたの。
そしたら川原の清掃してた役場のおじさんから奥さんを見つけたっていう報告があって…。
…奥さんはね、惨殺死体で見つかったの。
片腕が切断された状態だったって。しかも身体中のいろんな箇所の肉が刃物でそぎ取られてたらしい。
警察が川をさらってみたんだけど腕や肉片は見つからなかったから、犯人が持ち去ったんじゃないかって話だった。
殺人事件なんてテレビのニュースでしか見たことがなかったし、まさか自分の町で起こるなんて夢にも思ってなかった。
いっきに町中がパニックになって、地元の警察もあたふたしてる様子だったんだけど…。
…ただ、これは悪夢みたいな日々の始まりにすぎなかったんだ。
翌日、スーパーの裏にある倉庫の中でまた死体が見つかったの。
タナベさんっていう主婦の死体だったんだけど、首から上が無くて、やっぱり肉が削がれてたって。
明らかに同一犯の犯行。外部の人間の仕業だってみんな口々に言ってた。
こんなイカれたことする人、この町にいるはずないもん。
被害者は両方とも主婦だったから、特に大人の女性は一人で買い物とか行かないように注意されてさ。
翌日から小中学生の登下校は大人が引率することが決まって、私もいよいよ身の危険を感じたよ。
そんな折真っ先に疑われたのが、あろうことか麺麭切り武者だった。
ハリマさんとタナベさんが殺されたと思われる時間、それぞれの現場近くで麺麭切り包丁を握って走り回ってたところを複数の人が目撃してたの。
そっからはもう町中の人が言ってたよ。「あの浮浪者がついにトチ狂ったんだ」、「あの畜生を早く捕まえろ」って。
学校に行ったらやっぱり大騒ぎでさ、もともと校内では麺麭切り武者について根も葉もない噂がいっぱい流れてたんだけど、
「野良猫を捌いて食うようなやつだから、もともと何するかわかんねえ異常者だよ。いよいよ猫に飽きて人を食い始めたんだろ」って…
私それ聞いて、どう感じたと思う?…なんかさ、悲しみを通り越してもう怒りに変わってた。
麺麭切り武者が二人の主婦を殺したのが事実だったとしても、それにはワケがあるに決まってるじゃん。
町の守り神なんだよ。死んじゃった二人は、何かとんでもなく悪いことしたから、罰として切り刻まれたんだよ。
そうに決まってる。私は絶対間違ってないのに。
なのに。
…その日、生徒たちは先生に付き添われて一人ずつ帰宅してた。
もうすぐ私の家ってところで、うちの玄関から麺麭切り武者がとび出して走り去ってくのが見えた。
先生があわてて「ちょっと待ってなさい」って、私を玄関先で待たせて家に入って行った。
しばらくすると青ざめた先生が出て来て、何の説明も無く私は先生の家に連れて行かれた。
途中なぜか警察の人たちと合流して、「今日からしばらくは先生の家に泊まるんだよ」って。
…ママは三人目の被害者になった。
いくつかの内臓と両乳房を持ち去られてたんだって。
もうこのときには事件は全国的なニュースになっていて、マスコミの人たちが大勢町にやってきていた。
被害者の娘として私もテレビに映った。
私は代わる代わるやってくる大人たちにいろいろ話をしたんだけど、何を言ったかまったく憶えてない。
私はもう、まともに頭が働かなくなってた。
そして、最初の事件が発生してから四日後、とうとう麺麭切り武者は現行犯で捕らえられた。
白昼堂々、ウメザキさんの家に侵入したところだった。
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ここからは警察の人に聞かされた話。
あの日捜査本部に、麺麭切り武者がある女性の後をつけているっていう通報があったんだ。
で、そのまま女性が帰宅したところに麺麭切り武者がのり込んで行ったから、急げ急げって。
現場付近に張ってた警官がウメザキ家に着いたときはもう手遅れかと思ったんだけど、奥さんは無事だった。
殺害するには十分な時間があったはずなのに、麺麭切り武者は手を下さなかったんだ。
おそらく麺麭切り武者の誤算は、そのとき家にはいないはずの、息子さんと鉢合わせてしまったこと。
七歳のケン君はその日たまたま熱を出して学校を休んでいたの。
ウメザキ家は母子家庭で、奥さんも仕事に行かずにつきっきりで看病してたらしい。
ケン君のために薬を買いに出かけたところを、麺麭切り武者に狙われたんだ。
警官が突入したら、怯えて泣き喚くケンくんをじっと見ながら、麺麭切り武者は部屋の中で棒立ちだったって。
ケンくんに見えないように、刃渡り三十センチの麺麭切り包丁を背中に隠して。
それで、麺麭切り武者はおとなしく警察に連行されてった。
…この話を聞いたとき私は、「ああそうなんだ」って、別に何にも感じなかったよ。
周りの大人たちはみんな優しくしてくれたけど、そんな話聞きたくないから一人にして欲しかった。
でもね、話にはまだ続きがあったの。全然予想してなかったこと。
結果から言うとね、麺麭切り武者は殺人の罪にはいっさい問われていないの。
実は、現場検証していた警察が、ウメザキ家の浴室であるものを見つけたんだ。
わずかに血が付着したクーラーボックスとナイフセット。
…捜査線上には第二容疑者としてウメザキキクコの名前が急浮上。
自宅キッチンの排水溝を調べた結果、一家のものではない毛髪や微量の肉片が検出された。
鑑定してみると、ハリマさん、タナベさん、そしてママのもので間違いないことがわかったの。
取調べの中で、人食家ウメザキキクコはすべての罪を認めた。
キクコは最近夫を亡くしたみたいなんだけど、それでなんとかっていう宗教みたいなのにのめり込んで、頭がおかしくなちゃったみたい。
状況的に、どうあってもキクコの死刑は免れないだろうって。
もうひとつ、警察の人から聞いたこと。
麺麭切り武者は取調べでこんなことを言ったんだって。
「三人の命が奪われた。私はもう無力だと思う」
通報しなかった理由については、自分が始末をつけるつもりだったとか言っちゃってさ、
そのせいで警察は麺麭切り武者も危険な人物だってことで処置についていろいろ考えてるみたい。
…あのね、私はもう、麺麭切り武者が人間で、みんなが言ってたように町の浮浪者だってこと、わかってる。
どういう経緯で彼があんな異形の浮浪者になちゃったかとか、誰も知らないけどさ、
それでも彼がこの町でどういう働きをしてきたか、町の人間ならみんなよくわかってたはずだよ。
なのに異常事態の中でそれをすっかり見失っちゃって。…もちろん私も。
たしかに何の罪も無い三人の命が奪われたよ。
彼はいつも現場に駆けつけるのが一歩遅くて、近辺を走り回って犯人を捜した。
それがいろんな人に目撃されて誤解を生んじゃう結果になったけどさ…。
自分がどうにかしなきゃって、必死になってた彼の姿を想像してみてよ。
誰よりも真剣に、町を守ろうとしたんだ。
そして誰よりも早く、この狂った殺人犯をつきとめた。
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…事件以来、麺麭切り武者はこの町から姿を消した。
でも町の大人たちは相変わらず言うんだ。「悪い子にしてたら、麺麭切り武者に切り刻まれるぞ」って。
でも、今の子供たちにはもう効かなくなったんだよね。
「もう麺麭切り武者いなくなったじゃん」だってさ。
まぁ確かにね。しっかり現実を見てるよ。
もう、この町に守り神なんていないんだ。
…その後の私はどうしたかって?
もうすぐ親戚の家へ引っ越す予定なんだけど、いまのところ町にいるよ。
ウメザキキクコは事実上死刑確定なんだけど、執行までまだまだ時間がかかるみたいだね。
そりゃ、愛するママの仇なんだから、自分の手で殺してやりたい気分だよ。
平然と死刑を待つキクコの情報をニュースで知るだけでこっちは何も出来ないなんて、ホントに苦痛なんだから。
ハリマさんやタナベさんの遺族だって同じ気持ちのはず。
なんとかキクコが死ぬ前にあの落ち着き払った態度だけでも改めさせないと、気持ちの収まりがつかないよ。
テレビではちょうどキクコが法廷でした供述を紹介してる。
相変わらず反省も謝罪も無しで、「心が清い人間の肉ほど美味です」とかキチガイじみたことばかり言ってる。
まぁこんなキチガイでも人の親ってことで、残された息子の心配はだけはしてるみたいだね。
…ホント、笑える。
確かに言うとおりだ。
罪人の子の肉は臭くて食えたもんじゃなかったもん。
作者たらちねの
コメントくださった方々、読んでくださった方々、ありがとうございます。
解説めいたことは余計と承知の上で、この作品だけは少し補足します。
私は「ある田舎町がぎりぎり保っていた秩序が崩壊していく話」を寓話風に書きたくてこの創作を投稿しました。
ただ怖話ではそういう試みはやや場違いですし、オチが妙に浮いた印象になったかもしれません。
「麺麭切り武者」はもちろん恐怖の対象ではなく、ひとつの暗喩です。
何にしてもこんな独りよがりな駄文を最後まで読んで下さって本当にありがとうございます。