強大な力を持った姉貴、愛由。
これは、僕が目撃した姉貴が一番キレたであろう時の話である。
お付き合いいただけたら幸いです。
姉貴には、陸(りく・四歳)と翼(よく・二歳)という息子がいる。陸は以前お話させていただいたように、ちょっとした予知などの不思議な力がある。当然、これは姉貴譲りの能力だが、翼は、恐らく陸を越える。
なぜ翼は"恐らく"なのか。二歳ならばある程度の会話もできるだろうが、翼にはそれができない。生まれてすぐに謎の大病を患い、後遺症が残ってしまったのだ。
姉貴が翼を出産したのは、梅雨時だった。しかし、梅雨晴れと言うのか、翼が生まれた日は快晴だったのを覚えている。大仕事を終え、ぐったりとしながら、姉貴が僕にVサインをする姿が誇らしかった。
しかし、産前産後に問題のなかったはずの翼は、生後三日で急変した。
突如痙攣をし、呼吸は弱くなり、少し離れた所の大きな子供専門の病院へと搬送された。
検査の結果は、原因不明。
どこをどう調べても、翼の体に異常はなかった。いつもは強気で、涙など見せたことがない姉貴が、小さく体を丸めて泣く姿に、僕は言葉をかけることさえできなかった。
―――翼が退院してから、姉貴は見る影なくぼろぼろになっていた。医者から告げられたのは、翼は永遠に寝たきりになるであろう事。パパやママなど、喋るどころか、認識すらできないであろう事だった。
「姉ちゃん、ご飯、食べる?」
夏休みに入った僕は、姉貴の"自殺防止"のために自宅に籠っていた。一人にしておくと、何をするかわからない雰囲気が姉貴にはあった。
あまり上手くはないが、昼食を作るも首を横に振る。仕方なく陸を膝に乗せ、作ったばかりの焦げ目の多い炒飯を冷ましながら、陸の口に入れた。
「おいちいね」
まだ二歳にならない陸の笑顔に、僕は小さく「ありがとう」と言いながら、この陸も壊れてきているのを感じていた。
幼いからこそ、母の異変にはよく気付くのだろう。陸は何もないのに泣き出し、情緒不安定になることが多くなった。姉貴にはさりげなく伝えたが、その心は空っぽだった。
―――翼が三ヶ月を迎える頃の事だった。
相変わらずぼんやりと過ごしていたはずの姉貴が、突然
「あーーー!クソッ!」
怒鳴るようにして立ち上がり、がしがしと頭を掻いた。
日曜で家族が揃っていたリビングは凍り付いた。誰しも思ったのだろう。ついに姉貴が狂ったと。
そんな僕達の反応など気にも止めず、姉貴は自分の車の鍵を手にした。
「愛由!どこに行くの!?」
リビングの入り口にいち早く母が立ち塞がると、義兄が姉貴から鍵を取り上げた。困惑しきった父は陸を抱きしめ、自分自身をなだめるように「大丈夫、大丈夫」と呟いている。情けないが僕は、一ミリたりとも動けなかった。
「心配しないで、母さん。ちょっと行かなきゃいけない所があるの。寛大(かんた・義兄)、陸と翼をお願い。すぐ戻る」
「バカ言わないで!今の愛由をハイそうですかって、出せるわけないでしょ!」
「じゃあ、圭を連れてくよ。それならいいでしょ?」
「ひぇ!?僕!?」
「なーに情けねぇ声出してんだよ。ほら、行くぞ!」
「行くって、どこに!? 」
困惑しながら立ち上がると、姉貴は久しく見ていなかったニヤリとした笑顔で八重歯を見せた。
「神様に、喧嘩売りにいくんだよ」
その顔は、狂っているどころか正気で強気な姉貴そのものの顔だった。
「母さん、兄さん、とりあえず、僕行ってくるよ」
母は呆れていたようだが、やはり姉貴の姿に道を譲り、義兄も、黙って姉貴に鍵を渡した。
「必ず帰ってくる。安心して」
「じゃあ、行ってきます。姉ちゃんの見張りはちゃんとするから」
玄関を出ると、空はどんよりと曇っていた。肌に張り付くようなじっとりとした空気を纏いながら、僕達はジャージ姿の姉貴の車で例の大社へと向かった。
大社の駐車場に着くと「ここで待ってて」と姉貴は一人で車を降りた。しかし、見張りという立場である以上、姉貴を一人にするわけにはいかない。
「僕も行くよ!」
慌てて車を降りると姉貴に車内へ押し戻されてしまった。
「やたらに神様に触れるもんじゃない。いいから、待ってろ」
これから神様に喧嘩を売ろうなどと言う不届き者の言葉とは思えなかったが、逆らうと後が怖いので、必ず戻って来る事、二十分経っても戻らない時は迎えに行くことを約束して姉貴を見送った。
姉貴が境内に入ってから五分も経っていないだろうか。空が暗くなり、雷鳴が響き始めた。そして、数分も経たずに打ち付けるような激しい雨が降り始めた。
以前母が言っていた話が本当なら、今、姉貴はどれ程の激情の渦の中心にいるのだろうか。
この豪雨の中傘も持たず、神様と喧嘩をするとはどんな状況なのだろう。「心配だ…」誰に言うでもなく、僕は車に積んであった傘を二本掴み、車の外へと飛び出した。
バチバチと音を立てて傘を打つ強い雨。車から数メートル歩いただけで、僕の靴の中はグチョグチョと音を立てる。道路を伝う雨水は小さな川のように流れ、側溝へと吸い込まれてゆく。
「姉ちゃん、大丈夫かよ…」
一人呟きながら境内に入ると、打ち付ける雨の中、人気のない境内にぽつりと佇む姉貴がいた。その正面にあるのは、姉貴を護る龍神様を奉った本殿。
「姉……ちゃん?」
声をかけようとしたが、もう一本の傘を握る左手に違和感を感じてそちらへ視線を向けた。
「……!」
白く華奢な手が、何もない空間から僕の左手を掴んでいる。
『おやめください』
落ち着いた女性の声だった。耳から聞こえると言うよりは、頭に直接響く声。不快感はなく、恐怖もないが、それははっきりと僕を止めていた。
『ここでお待ちください。姉上様は、ご自身と戦っておいでです』
「…え、神様じゃなくて?」
僕の問いかけには答えず、その女性はすぅっと気配を消した。
どれくらい待っただろう。
姉貴は本殿の前から一向に動かず、ずぶ濡れの後ろ姿はこの世の者では無いような雰囲気を醸し出している。傘をさしている僕自信も、雨を巻き込みながら吹く風で全身が濡れていた。
―――トンッ
誰かに背中を押され、驚いて振り返るとそこには雨が降りしきるだけ。
何気なく一歩を踏み出すと、僕は全身が粟立った。一歩進んだだけで、そこは別世界のような空気に包まれていた。怒気、と言うのが正しいだろうか。僕に向けられている訳ではないのに、心臓を鷲掴みにされ、胃を潰されるような圧迫感。わずかな空気を吸うかのように息苦しく、肺が空気を欲する。
この空間の中に、姉貴はいるのだ。
『姉上様を、お迎えに行ってくださいませ』
先程と同じ声が、悲しげに聞こえた。
『お力も限界かと。わたくしの声では、今の愛由様に響きませぬ』
僕は、息苦しさに耐えながら姉貴に近付いた。服が体に張り付き、長い髪からはツーっと雨が伝い落ちてゆく。
ただ、その瞳は鋭く本殿を睨み、下唇を強く噛んでいるのか、顔を伝い、口を濡らす雨が赤くなってポタポタと落ちている。
その姿は、恐ろしさより切なさを感じさせた。
その姿を見るに耐えず、そっと持ってきた傘を開いて姉貴に差し出した。
「姉ちゃん、帰ろう」
「圭……」
僕の存在にたった今気付いたのか、姉貴は目を丸くし、僕を見た。そして、再び本殿を睨むと
「運命なんて知った事か。天界が授けたのだと高らかに言うは容易いが、私がペコペコして全てを受け入れると思ってもらっちゃ困る!命あるだけで良しとするのは言い訳だ。それだけで感謝しろと言われるのは癪だ!私は翼の運命を諦めない。天界が授けた運命なんざクソ食らえ!……龍の神(神様の名前)よ、私があの世へ行ったら覚悟しろと八百万の神々へお伝え願おう」
そう言い捨て、さっさと歩き出した。僕はそのまま背を向けるのも失礼な気がして、一礼をしてから、姉貴を追いかけて境内を出た。
「姉ちゃん。あんなこと言っていいの?」
車に戻ると、姉貴はどこから出したのか座席にビニールシートを敷いてさっさと靴下を脱いでいた。
「あ?いいのいいの。あれくらいのこと言う覚悟がなきゃ、翼を育てていかれんから」
ごみ捨て用に常備されていたビニール袋に雨水が滴る靴下を入れながら、姉貴は笑った。
「それに、腹立つだろ。親なら誰だって、我が子に何かあったら許せないんだよ。まぁ、これで私はあの世に行ったら大暴れ確定だからね。なるべく、私より長生きしなさいよ」
姉貴は靴下の入ったビニール袋に僕に差し出し、エンジンをかけた。
「さて、帰るか!」
いつの間にか、雨は嘘のように上がり、雲間から陽光が射してした。
―――あれから二年。姉貴の鬼のようなリハビリの効果か、はたまた姉貴の怒りに神が白旗を振ったのかはわからないが、翼は今、相変わらず焦げ目の多い僕の炒飯を美味しそうに頬張り、完食してくれる。食後は休む間もなく、寝そべってこの話を書いている僕の背中によじ登り、空中に向かって何か言っているようだが、情けない叔父の僕は、怖くて翼の視線の先を見られずにいる。(トホホ…)
足は不自由で言葉も話さないが、姉貴を追いかけ、陸と喧嘩もする。立派に成長してくれた喜びと、姉貴の強さ、たくましさに頭が下がる。
そんな姉貴は「あの世でリベンジしなきゃ」と嬉々としながら何か鍛えているようだが、恐ろしくてその内容は聞いていない。
作者退会会員
龍の子シリーズ第三弾です。
あえて、甥っ子の生い立ちを書かせていただきました。
完全無欠な女王だった姉貴が、どん底に落ち、這い上がる…というよりは、飛び上がってきた話です。