毎日が忙しい。
朝から旦那と子供の分の弁当作りから一日が始まる。
作り終えたら、朝食の支度をし、旦那と長男の出ていく時間に次男を起こしに行く。
この子は5歳になるが、まだオネショをする。一応優しく起こそうと心掛けてはいるが、オネショの後始末を考えると、どうしても心穏やかではいられない。案の定、今日もオネショだ・・・
その子の朝食、着替えを済ますと今度は洗濯だ。食器の洗い物をしている間に洗濯機が稼働する。それが終わる前に幼稚園バスがくる場所に行かなければいけない。
ああ忙しい・・・
ママ友との雑談もそこそこで切り上げ、自宅に帰ると洗濯物を干す作業。
それが終わると掃除機と共に部屋中を歩き回る。
そうこうしているうちに時間が過ぎ、自分の昼食を作り食べ、束の間の休憩が過ぎると、次男のお迎えに行く時間になってしまう。
ママ友との雑談で無駄に時間を消費し、帰るとすぐに洗濯物を取り込む、それが終わると夕飯づくり。
旦那は帰りが遅いので子供と一緒に食事をして片付ける、旦那が帰ってきたらまた食事の用意、後片付けをしなくてはならない。
ああ、忙しい・・・
旦那を待つ間にいつも考える。
考え方が極端かもしれないが、そんな忙しく楽しさの見いだせない毎日から解放されたい、旦那が死んだら保険金で少しは楽ができるかな…自分が死ねばいいのかな…と。結婚して10年、旦那の嫌な所ばかりが目につき、愛情はもうない。
携帯がなった。
いつも遅くなっても連絡もよこさない旦那からだった。
時刻は22時を過ぎていた。
どうせ飲みに行くとかで帰れないという連絡だろう・・・・溜息交じりに電話に出た。「もしもし?なに?」・・・
「・・・・・・・・・」
無言かよ…旦那は最近機種変更をしてアイフォンにした。旦那曰く仕事でも使えるし、カーナビにもなるようだ。
私はよくは知らないが、誤作動か何かで気が付けば誰かに電話を掛けている、なんて事が希にあるようなので、それかもしれない。
「・・・・・・・・・」
もうなんなのよ…、溜息をつき電話を切ろうと耳から離そうとしたが、
「バキッ!!!・・・・・ツー・ツー・ツー」
凄い衝撃音と共に通話が切れた。なにか胸騒ぎがした。すぐさま履歴検索で掛けなおす。
「お客様のお掛けになった電話は、現在、電波の届かない所におられるか、電源が入っておりません・・・・」
繋がらない・・・無言電話と衝撃音。変に不安にさせる夫に少しイラつく。
暫く待ってからもう一度電話を掛けてみる。
やっぱり繋がらない。
その日夫は帰らなかった。いや、正確にはその日から夫は帰ってこなかった。
日付が変わり朝を迎えた。いつの間にかソファーで寝ていたようだ。
また忙しい一日が始まる・・・はずだった。
長男が学校へ出かけてまもなく、電話がなった。
警察からだった。
旦那の車が単独事故を起こし、そして当の本人がその場にいないとの事。
車には夥しい旦那の血…だけが残されていた。
事故現場が不可解な場所だった。国道から少し離れた山の中で発見された。山菜捕りで山の中に入った人が通報したようだ。
そこは車が入って行く脇道すらない所。まるで車がそこまでワープしたかのような。
周辺の捜索も行われたが夫は見つからなかった。
それから私の生活は一変する。
行方不明者になると保険金もおりない。私は外に働かなければいけなくなった。
只でさえ忙しいのに…
そんな私を見かねて親が一時子供を預かる事になったのだ。
少しだけ楽になった…でも主婦になってから10年、ブランクもあり、しかもオバサン。毎日が苦痛でしかなく、正直死にたいとも思ったが、私には子供がいるし、身勝手なことは出来ない。
自分勝手なのは判るが今はこう思う、旦那がいれば…
1ヶ月が過ぎたある休日、携帯がなった。
休日に電話を掛けてくるのは大抵親だ、画面も見ずに電話に出る
もしもし?
「・・・・ァ・・・・ゎ」
電波が悪いのか何を言っているのか解らない、無意識に電波状態を確認する。
身体に電気が走ったような感覚に襲われた。
画面には旦那の名前が表示されている。
あわてて携帯を耳にもどし「もしもし!!もしもし!!」と大声で連呼した。
「ォ・・・・ダ・・・ャ・・・・ツーッツーッツーッ」
微かに聞こえたそれは、旦那の声だった。
生きているの!?
震える手であわてて掛けなおす。
「プップップップ…プルルル…プルルル」
“また以前の生活にもどれる”そう思うと目頭が熱くなる。
コール音だけでも嬉しい。あれから何度も掛けた繋がらない携帯が今、旦那に繋がろうとしている。
「プルルル…プルルル…ッ………」
出た。「もしもしっ!!もしもしっ!!聞こえているのっ!!大丈夫なのっ!!!」
「あ~、もしもし?これは携帯電話だったのですね…」
「え?」旦那じゃない?
全身の力が抜けその場にへたり込んでしまった。よく考えてみたら、旦那が生きているはずがない。あの血の量では助からないと素人の私でも解る。
ただ希望の光が見えた気がしたのだ。
もう一度、携帯の画面に表示されている旦那の名前を見てから、袖で涙を拭い、携帯を耳にもどす。
旦那ではない声の主は“もしもし”を繰り返していた。
私がやっと声を出すと、声の主はゆっくりと話し出した。
この声の主は、どうやら山の中でこれを拾ったそうだ。
初めは携帯だと思わず、テレビか何かだろうと思い拾ったようで、どこをどう触ればいいか解らず暫く放置していたそうだ。そして今日たまたま触っていると電源が付き、そして私から電話が掛かってきたというのだ。
声と口調から、その声の主が老人である事が解った。
私はその携帯が自分の旦那の物だという事、そして旦那は行方不明だという事を一通り説明した。
最後にその老人はこれを取りに来てほしいと、私に住所を告げ、私が「はい解りました。」と告げると老人が「お願いします」と言ったきり無言になった。
たぶん通話終了の仕方が解らないのだろう。
私は耳に携帯を当てながら電話が切れるのを待っていた。
暫くして携帯を置く音が聞こえ、私は通話終了ボタンを押そうと、指をボタンの上に置いた時だった、スピーカー部分から
「くるな!!!」
男の怒鳴りつけるような声が聞こえた…
驚いた拍子に終了ボタンを押してしまったが、たぶん私に向けた言葉ではないのだろう、と忘れることにした。
それにしても山の中に携帯…旦那はそこまで生きて歩いたのか、それとも動物が…
どちらにせよ、その老人が携帯を拾った場所付近になにかあるような気がした。
次の休日、朝から親の車を借りて、その老人が告げた住所へ足を運んだ。
旦那の携帯に、なにか手掛りがあるような気がして落ち着かなかった。
地図を片手に住所の近くまでなんとか着いたのだが、1時間位同じ場所を行ったり来たりを繰り返す。
場所が解らず、旦那の携帯に掛けてみた。
「プップップップ…プルルル…プルルル…ップ…」
掛けても暫く出ないだろうと構えていたが、以外にも老人は3コール前に出た事に驚いた。
「あ~、あなたでしたか、今日あたり来るかなと思いましてね、手に持っておりました。解りづらい場所ですからね。今、どの辺ですか?」
今日伺うなんて伝えた覚えもないし、今向かっている事もまるで分っているかのような口調に気味悪さを感じた。
老人に言われた通りに道を進むと、地図にも載っていない砂利道が一本、山に向かって伸びていた。どうやらここを通るようだ。
その砂利道を登って車を走らせていると、少し開けた場所で古ぼけた赤い鳥居を横目に見ながら、まだ先に道が続いている事を確認し、慎重に車を進める。
だんだんと道が狭くなり運転に自信のない私は帰りの心配をし始めた。
辺りは鬱蒼とした木々で、まだ昼間だというのに薄暗く、思わず前のめりなってしまう。
この道で本当にあっているのか…そう思い始めた頃、目の前がまた開けて、奥に一軒のログハウスのような家がポツンと建っていた。
車を止め、木製の階段を上る。チャイムを探すがついていないようだ。
仕方なくドアをノックし御免下さいと声を出す。
人の気配がしない。この場所で本当に合っているのか不安がよぎる。
再度ドアをノックしようと手をかけた時、“ガチャリ”とドアが開き70歳位の男性が顔を覗かせた。
その老人は目が細く、地肌の見える白髪頭の優しそうな笑顔で
「遠い所ご苦労様です。」と丁寧に挨拶をしてくれた。本来なら私から名乗り挨拶をしなければいけないが、先に言われてしまい少し動揺してしまった。
老人に促され家の中へ
一歩足を踏み出す度に軋む床、カビ臭く棚には埃が被さり白くなっていた。壁も板張りで窓が少ないからか薄暗く、空気が重い気がする。
老人は奥の戸棚からコップを取り出すと、こちらに向き直り「そちらで座って待っていて下さい」とソファーに手を向け、奥の部屋に向かって歩いて行った。
ソファーに腰を下ろすと埃が舞った。
灰色のソファーだと思っていたが、ただ埃に覆われた黒いソファーだ。私は老人が持ってくる飲み物を口にしないと、その時に決めた。
暫く待っても老人が来る気配がない。お茶を用意するにしても、なにか物音がするはずだが、その物音すらしない。携帯を受け取りに来ただけなのに待たせすぎだ。
居ても立ってもいられなくなり、老人が向かった先に行く事にした。人の家を勝手に動き回るのはどうかと思ったが、もう待てない。
ソファーから立ち上がり、お尻を手で払うとあたりが白くなるほどだった。
奥の部屋のドアノブに手を掛けた時、私の持っていた携帯が鳴り響く。
静まり返ったこの部屋で、この音と他人様の家をうろついている後ろめたさとで、驚き体がビクッと反応し、ドアノブから手を放した。
携帯の表示には旦那の名前が表示されている。
頭の中がクエッションマークで覆い尽くされる。いま掛けてきている持ち主はあの老人ではないのか?もしかしたらドアの向こうで助けを求めているのか?
暫く画面を見つめ通話ボタンを押し、耳にあてる。
「…………‥」雑音すら聞こえない。
「……………」声が出せない状況なのかもしれない。
そう思い携帯を耳に当てたままドアノブに手を掛ける。
「にげ…ろ」…!!!
旦那の声だった。間違えなく旦那の声だ。
気が動転して声が出せずにいると通話終了を告げる無機質な音になっていた。
完全に頭が混乱していた。逃げろ?ここから?旦那の携帯を持っているのは老人なのに、なぜ旦那の声?どちらにしても携帯を返してもらえば解るはず。そう思いドアノブを捻り、ドアを手前にゆっくり開く…。
ドアが開ききる前に一瞬躊躇し、右にある腰位の高さの棚に目がいった。
そこには旦那のアイフォンが置かれていた。と同時に鳥肌が立つ。
目の前にあるアイフォンは旦那の物、老人の持ち物ではないはず。だとしたら今私に掛けてきたのは誰?
混乱している頭だったが今更な疑問が頭に浮かぶ。
“そもそも充電もしていない携帯が一ヶ月も持つのか?”
アイフォンの廻りには充電コードらしき物は見当たらない
ドアノブから震える手を離し、棚の上のアイフォンを手に取り確認する。
四角いマークの付いた丸いくぼみを押すが明かりが…つかない。
頭が旦那の声の「逃げろ」という声でいっぱいになった。
この家から兎に角でないと…
ゆっくり玄関の方に体を向ける、なるべく音を立てないよう、そっと足を出す。
“ギィ…”…床鳴りだ…
と同時に今まで向かい合っていたドアから、誰かがものすごい勢いで走ってくる音が聞こえた。
私は恐怖で無意識に走り出し、玄関ドアを開け放ち靴も履かずに外に飛び出していた。
空は夕闇みに包まれ暗くなっている、ここに来たときはまだ昼だし、家の中に10分も居なかったはず。そんな事を一瞬考えるも、後ろから迫りくる恐怖が足を走らせる。車に早く乗り込まなければ。
なんとか車に飛び乗りドアを閉める。鞄から鍵を探すが、手が震えてうまく探せない。
手間取っていると、視界の端に老人らしき人影が勢いよく外に出てくるのが解った。
鞄の中身を助手席にぶちまけるとその中から鍵を鷲掴み、鍵穴めがけて挿そうとするが、手が震えてうまく鍵が挿さらない。なんとか鍵穴に挿し込み鍵を捻る時には老人が運転席すぐ横まで来ていた。老人は無表情でガラスに顔を押しつけてきた。
最初に見た優しそうな笑顔からは想像もできない顔だった。
ギアをドライブに入れアクセルを踏みつけた。車は急発進し、窓に顔を付けていた老人が視界からいなくなった事を確認すると、サイドミラー越しに老人が転倒する様が見えた。急にとんでもない事をしてしまったと、慌ててブレーキを踏み停車させた。
冷静に考えてみれば私が急に走りだしたから、老人も何事かと思い慌てて追ってきただけなのかもしれない。そう思い運手席のドアを開けようと伸びかけていた手が再び止まる。あの無表情な老人の顔を思い出し、鳥肌が立ったからだ。頭の中では、老人に怪我をさせてしまった、電源も入らない旦那の携帯からの着信、無表情の老人、埃まみれの家、完全に混乱し、不安と恐怖で身動きが出来なくなってしまっていた。
サイドミラーには、うつ伏せで倒れている老人の脚が見えていた。
突然私の携帯が鳴り響いた。画面を見ると旦那の携帯からだ、そんなはずはない。今は私が持っている。でも確かに私の携帯の液晶には旦那の名前が表示している。携帯を持つ手が震えだし、わけが解らなくなり、鳴っている携帯を助手席に放り投げた。
そして再びサイドミラーに目を向けた。
「老人がいない…」
「バンッバンッバンッ!!」
激しく助手席の窓を叩かれ、勢いよく振り向くと老人がガラスにへばり付いていた。正確には老人の皮をかぶった黒い化け物が…
顔の皮が半分下にずれて、真っ黒いヘドロの塊のような顔が見えていた。
恐怖で意識が飛びそうになったが、鳴り響いている携帯の音でなんとか意識を保ち再びアクセルを全開にした。
細い砂利道を慎重に運転してきた自分が嘘のようにスピードを出している。ミラー越しに見える“老人の皮を被ったそいつ”はだんだんと小さくなり見えなくなった事で冷静になり、アクセルを少し緩め、助手席で今尚鳴り響いている携帯を手に持ち通話ボタンを押し耳に当てた。
「鳥居にはぃれ…」
旦那の声だった。
「あなたなの!?ねえ!!どこにいるの!?」
前方に先程見た少し古ぼけた鳥居が見えた時だった。
無機質な声で「ポン…しばらく直進です」…助手席に放り投げていた旦那のアイフォンが鳴ったのだ。先程まで電源の入っていなかったアイフォンが突然に。身体はずっと緊張状態、あり得ない事ばかりが起きていて頭の中は真っ白だった。
耳に当てた携帯からは、私の問いに答えることはなく「鳥居に ぃれ…」と旦那の声が途切れ途切れに聞こえるだけだった。私の精神状態は限界で、頭も混乱し思考が停止しているので旦那の声に従う事…それしか出来なかった。いつの間にか声は聞こえなくなっており、私は携帯を手から離しハンドルを強く握りしめた。
鳥居に入るためハンドルを右に切ると一瞬大きな鬼蜘蛛が見えた気がした。
鳥居の先は朽ち果てた社があり、車でこれ以上進む事は出来そうにない。
車を止め、助手席に転がっているアイフォンを手に取り見ると地図と上に検索中と表示されている。耳から離した携帯はもう繋がっていないようだ。座席にもたれることなく、バックミラーを見ると、日が落ちた暗がりに、テールランプに照らされた老人の皮を被った黒い化け物が鳥居の前で佇んでいた。テールランプの赤色で照らされた老人の顔の皮は、さっきより下にズレ下がっている。気持ち悪さが度を増していて目を背けたかったが、目を離した隙に一気に近づかれたらと思うと恐怖で目が離せない。
自分の心臓の音を聞きながら “そいつ”を暫く見ていたが、なぜか鳥居からこちらには近づいてこないようだ。
いつでも逃げ出せるよにエンジンはそのまま外に出る事を決心し、バックミラーを見ながら運転席のドアを勢いよく開き後ろを見るような形で車から飛び降りた。
自分と“そいつ”との距離はだいたい五メートル位だろうか、鏡越しに見るよりもグロテスクで、生物が腐ったような臭いが鼻をつく。
“今すぐ離れたい”
恐怖でまた震えだした膝に“動け!!動け!!と念じるがまったく言う事を聞かない。
“そいつ”の口だと思われる場所がパクパクと動いている事に気づき、微かにだが、聞こえた。
「タベタイ… タベタイ… タベタイ… タベタイ… 」
“そいつ”は一瞬で垂れ下がる老人の顔の皮を両手で器用に被り、無表情の老人の顔に戻っていた。
そして、優しい老人の声で「こちらに来なさい。そこは危ないですよ」と私に声を掛けてきた。
混乱している頭でも今の言葉で確信した。
“こいつは鳥居からこちらには近づけない”
そして、近づけば喰われる。
そう思った直後、後ろから「ズズ…」と音が聞こえ、自分の意志で動くことが出来なかった足がその音に反応し、音のする方向へ身体が自然に向いていた。
社の引戸が開いていた。
何故か解らないがその中に入らなければいけないような気がした。
自然と足が社の方へ歩み出す。
中を覗くと十畳程の広さで中央の奥に朽ち果てた祭壇があった。見渡す限りそれ以外の物はなく人の気配もなかった。
何故この引戸が勝手に開いたのか?そんな疑問もどうでもよかった。自然に社の中に足を踏み入れると不思議だが緊張と恐怖で強張り震えていた身体から力が抜け、膝を見るような形で壁にもたれ掛り座りこんでしまった。
気づかなかったが両手には二つの携帯を握りしめていた。そこまで確認すると急に眠気がさし、車のライトで照らされていた社の中の景色が暗くなり、やがて闇に包まれた。
私はキッチンで愛する我子と夫の為に料理を作っていた。
食卓テーブルにはすでに旦那が座っている。テーブルに料理を置き、私も椅子に腰かけ旦那に「今日も遅いの?」と声を掛けた。
「今日は帰れない。明日も明後日も…帰れない。」
「どうかしたの?」と旦那の顔を見たが逆光で顔がよく見えず、表情が解らない。
「今から俺の言う事に従ってくれるか?」
いつになく深刻な声での問いかけに只「うん」としか答えられなかった。
暫く沈黙がつづき旦那が口を開いた。
「社の奥に俺がいるから、俺の一部を蜘蛛の巣を壊さないように“あいつ”に投げてくれ」
え?なにを言っているのか解らない。疑問をぶつけようとしたが口が開かない、そんな私をよそに旦那は話を続けた。
「そして俺の携帯を持って、携帯の指示とは真逆の方向へ進め。国道に出られるはずだから。国道に出たらすぐに橋がある、その下の川に俺の携帯を捨ててくれ。」
逆光が強くなり、眩しくて目を開けていられなくなり旦那の声だけが聞こえてくる。
「…いきろ…」
ハっとして頭を上げると車のライトに照らされた社の中だった。夢?妙にリアルな夢…。いつもならこんな内容の夢はただの夢として簡単に忘れられるのだが、開かれた引戸から見える鳥居と老人の皮を被った“あいつ”がいる状況…旦那の言っていた“あいつ”とは老人の皮を被った化け物の事だろう。只の夢ではない事は明らかだった。
“蜘蛛の巣”…蜘蛛の巣を壊さないように“あいつ”に投げる?確かに鳥居に入る寸前、一瞬だけど蜘蛛が見えた気がしたが、ここからは確認できない。それに俺の一部を投げろって…。
音を立てずに起き上がり、いましがた見た夢の内容を思い出しながらそっと後ろを振り返りあたりを見渡す。朽ち果てた祭壇しか見当たらない。そっと祭壇に近づくとその後ろにまだスペースがある事に気づき回り込む…
そこには半分白骨化した死体があった。黒く変色した血が大量に付着しているが、見覚えのあるその着衣は私が毎日洗濯していた旦那の服だった。脳裏に“俺の一部”という旦那の言葉が蘇る。そして「帰れない」という言葉の意味も理解する。変わり果てた旦那には、右腕だけがなかった。おそらくあの“あいつ”に携帯を持っていた右腕を食われたのだろう。生暖かい感触が頬を伝い、それと同時に決意する。“いきる”と。
両手に持っていた旦那と私の携帯を左手にまとめて持ち、旦那の頭を優しく撫でた後、まだ肉の残るもげた左手首をそっと持ち上げ、薬指の結婚指輪を外す。旦那の手首を持ったまま開かれた引戸へ自然と歩み出す。もう怖くはなかった。
社から出て車に近づくと“あいつ”は無表情で「オイデ、オイデ、オ、オイデ」と機械的に呟いていた。開け放たれていた運転席のドアの前まで来るとテールランプに照らされた鳥居とそこに陣取る蜘蛛の巣が見えた。おそらく鳥居に張られた蜘蛛の巣が結界なのだろう。車の車高が低くてよかったと安堵する位に気持ちが落ち着いていた。
私は持っていた旦那の手首に「ありがとう」と告げてから、勢いをつけ蜘蛛の巣の下を転がすように“あいつ”めがけて投げた。旦那の手首は“そいつ”の後方に広がる暗くてよく見えない木々の中に消えて行った。すると“あいつ”はビクンと身体を反応させ手首が転がって行った方向に向きを変えて四つん這いになりながら物凄い速さで駆けて行った。
私はすかさず運転席に飛び乗り、持っていた携帯を助手席のシートに投げ置き、ドアも閉めずにギアをバックに入れアクセルを踏みつけた。鳥居に少し当ててしまったが気にはしてられなかった。ハンドルを切り車が進行方向に向いた直後、助手席の窓に旦那の手首を銜えた“あいつ”が見えたからだった。そのままドライブにギアをいれ急発進させる、後は…アイフォンに従わず進む…と思った時に助手席から機械音が聞こえる
“ポン…Uターンです”
真っ直ぐだ。前方には一本の太い木が見える。車との距離は50M、来るときは何もなかった砂利道なのに、今は道を塞ぐように…時速は見る余裕もなく解らないがこの速さで激突したら大怪我ではすまないだろう。
目を閉じる事しか出来なかった…。
横から“ポン…Uターンです”とまだ聞こえる…。
おかしい。もう直撃してもいいはずなのに…恐る恐る目を開ける…真っ暗だ。外の景色が真っ暗、闇そのものという表現が正しいかもしれない。車のアクセルは踏んでいてエンジン音も聞こえるが、進んでいるのか止まっているのかもわからない。
“バンッ”
車の後方から突然音が聞こえた。
“バンッバンッ”
車の上を何かがゆっくり這ってくるような音。
前方に光が見えてきた、と同時に予想は出来ていたが“あいつ”がフロントガラスの上からへばりつくように覗きこんでくる。旦那の手首を銜えたまま。
“あいつ”と暫く目が合っていたが、前方に見える光が大きくなり、何の根拠もないがあそこまで行けば助かるとアクセルを踏む足に力が入る。
老人の皮は半分破れかかり風になびき黒い部分がよく見えた。黒い化け物は黒い蛾の毛虫の集合体のようでモゾモゾと動いている。旦那の左手首を銜えている口元には、かろうじて老人の皮が付いて口だと判断できる程度だった。
先程まで“Uターンです”と繰り返していたアイフォンが違う言葉を発した。
“シニタィカ シニタイカ 死にたいか”
私は旦那に従うと約束した。
「私は、生きる」
叫ぶに近い大声で答えると、前方に見えていた光は眩しい位に近くにありフロントガラスの上に見えていた“あいつ”も光に包まれ消えていった。
眩しすぎる光に瞼を閉じ再び開けると、そこは昼間の光景で砂利道の先に国道が見える位置で停車していた。反射的に後ろを振り返るがその先は只の森だった。
無意識に親指に嵌めた旦那の指輪と助手席のアイフォンが夢でなかった事を教えてくれた。
しばらく放心状態だったが、車を走らせることにした。
直ぐに橋が見え、そこに車を止めてその下の川に旦那のアイフォンを投げ捨てた。
「子供達を…迎えに行こう」
※※※※※※※※
「おーい、携帯川の中におちてた~。」
「お~iPhoneじゃん。水没してたんなら壊れてんじゃね?電源つく?」
「おー!!ついた!!地図アプリ開いてるわ」
「まじで!?壊れてなっかたのかよ」
「ラッキ~。後でいじくろ♪」
“ポン…そのまま直進です”
作者欲求不満
前回書いた「アイちゃん」の続編を書いてあったファイルを見つけ、そのままゴミ箱にポイしようとしたのですが、なんか勿体無いなと思ってしまい…投稿してしまいました。
駄文だし無駄に長いし、しかも時間の経った続編だしで、どうしょうもないので時間のある方だけ暇つぶしだと思って見てください。宜しくお願いします。