自分の家の右隣に、少し大きめな洋風の屋敷がある。
昔は禿げ頭のお爺さんと白髪のお婆さんが住んでいたのだが、お爺さんは何時の間にか死に、今はお婆さんが独りで暮らしている。
「地獄に落ちる」
此れがお婆さんの口癖で、頻繁に言う様になったのは、お爺さんが死んでからだった。
「あんたはまたそんな事して!!地獄へ終ちるよ!!」
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其れは単なる戒めの言葉では無く、突発的に、意味や脈絡無く発せられた。
例えば、誰かと談笑を交わしていたとして。
今まで機嫌良く喋っていたかと思うと、いきなり鬼の形相になり、ヒステリックに叫ぶのだ。
「地獄に落ちるよ!!」
と。
相手は少なからず困惑する。
自分が何か良からぬ事を言ったのではないか、等と思ったりもする。
然し、話をしていたのは向こうなのだ。
相槌を打ってはいたが、不味い事はしていない筈。
そんな事を考えていると、目の前の老人はまた何も無かったかの様に話し始める。
さっきまでの笑顔で、だ。
しかも、そんな事が一度ならず何度も起こる。
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と、なると、当然の如く皆は言い始めるのだ。
「あのお婆さんは狂っている」と。
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さて、先程「狂っている」と書いたが、其れは正確な表記では無い。
そんなストレートな物言いでは無く、正確に言うならば其れは、「ボケている」なのだ。
そして、彼女の《ボケ》が始まったのは、偶然だったのか否かは判らないが、夫であるお爺さんが亡くなった時と一致する。
其の事から彼女のーーーー
・・・佐竹ミチ子夫人の一般的認識は
《夫を亡くした寂しさから変な宗教にのめり込み、ボケてしまった可哀想な老人》である。
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そんな彼女は・・・佐竹夫人は今年で御歳73である。
髪は全て白髪で、一つ縛りの団子にしている。
身長は150後半。体重は分からないが痩せ形。
掃除が嫌いで、風呂も余り好きでは無い。
食事は洋食を好んで食べる。
苦瓜と獅子唐は嫌いなので食事に出してはいけない。好きな物は半熟にした卵料理である。
趣味はガーデニング。
病等は患っていない。健康そのもの。
天涯孤独である。
そして、
実は、彼女には《幽霊》が見える。
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自分の仕事は、佐竹夫人の身の回りの世話である。彼女の好み等を詳しく知っている理由も、其れだ。
所謂、飯使いの様な物だろうか。
ホームヘルパーとも言える気もするが、前述の通り彼女は健康体だ。
一番しっくり来るのは《家政婦》なのだが、生憎自分は男なので《婦》は可笑しい。
ならば、やはり飯使いか。
・・・いや、其れは今回に限ってはどうでもいい事なのだ。
自分が飯使いであろうと、ホームヘルパーであろうと、家政婦であろうと。いや、やっぱり家政婦は少し嫌だな。
・・・・・・まぁいいか。
取り敢えず、「何故にお前が佐竹夫人の事をそんなに詳しく知っているんだ。熟女趣味なのか。」と言う疑問は解決頂けただろう。
話の前置きと登場人物の説明も此れで御仕舞い。
其れでは、話を始めよう。
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「地獄に落ちるからね!!」
自分が彼女と初めて会った時、佐竹夫人はそう叫んだ。
私の後ろに居る、何やら黒い塊に向かって。
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唐突に御聞きするが、君は幽霊と言う存在を信じているだろうか?
幽霊。お化け。ゴースト。ゴース。
一番最後のはポケモンの名前だが、君は其の存在を其の目で見た事が有るのだろうか?
少なくとも自分は、何処ぞの万能細胞と同じ位にしか其の科学を超えた存在を信じていなかった。
・・・・・・のだが。
のだが。
此の間、部屋で昔の自分の事を思い出していると
「あれ?もしかして自分、幽霊見た事あんじゃね?」
と言う事実を発見。
更に其の後、昔見た物と同じ幽霊を目撃。
そして其の次の日から度々《変なもの》を見る様になり、精神科へ行っても一向に治らず、最終的には
「っべーわ。マジべーわ。俺《見える人》だったわー。マジ気付かなかったわー。」
と言う事になってしまった・・・のだ。
サラリと緊張感控え目で書いてはみたのだが、此れ、実は結構重たい話で・・・・・・。
下手をすると本編より衝撃的な話になりかねないので、今回は敢えて話さない。
まぁ、詰まりだ。
自分は幽霊と言うか、妖怪と言うか・・・・・・。
兎も角、そんな類いのモノが見えるのだ。
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・・・・・・結論から言ってしまおう。
佐竹夫人の口癖
「地獄に落ちる」
は、我々に向けられた言葉ではない。
佐竹夫人の周りをウロウロとしている、謎の黒い塊に向けられている言葉だったのだ。
・・・まぁ、其れを差し引いても佐竹夫人がボケている事に変わりは無いのだが。
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ある日、佐竹夫人は言った。
「私、夫を殺したの。」
「そうなんですか。」
自分はあくまでも冷静に返した。
佐竹夫人は虚言症だったし、アルコールが入っていたので、特に本気にはしなかった。
彼女は続ける。
「食事に毒を盛ったのよ。」
「・・・ほぉ。」
「ある日は、シソの葉に見せ掛けて紫陽花の葉を天麩羅にして、またある日は、ニラ玉汁に水仙の葉を混ぜて、・・・嗚呼、ビーフシチューにジキタリスを混ぜ混んだ事も有ったわ。駄目押しで、福寿草を鍋に入れて。毎日続けたのよ。それでも中々死ななくて・・・・・・。」
佐竹夫人は何処か誇らしげに話し、ポーチドエッグをつついた。
「警察にバレなかったんですか?」
「ええ。・・・元々、心臓病を患っていたんだもの。死因は《心不全》にされたわ。」
「・・・へぇ。」
「貴方は止めておいた方が良いわ。老人が相手だからこそ怪しまれなかったのだもの。」
「殺したい相手何て、私には居ませんから。」
「あら、そう?でも・・・」
其処まで言うと、彼女は自分の斜め後ろを見て叫んだ。
「いい加減にして!!!早く地獄に落ちろ!!!!」
「・・・どうかしましたか。」
「ふざけるな!!早く消えろ!!!」
・・・嗚呼、駄目だ。
此の状態になった彼女は止められない。
「地獄へ落ちろ!落ちろ!!落ちろ!!落ちろぉぉぉぉぉ!!!!」
彼女はそう叫び、手足をブンブン振り回して暴れた。
ナイフが床に転がり、ポーチドエッグから流れ出た黄身が彼女の髪に付いた。
皿は割られ、テーブルに大きな引っ掻き傷が付いた。
ワインの入っていたグラスは粉々になり、硝子片が其処ら中に散らばった。
「もう嫌!!!早く消えろ!!!落ちろ!!!地獄へ落ちろぉぉぉぉ!!!!」
黒い塊は彼女の周りをウロウロとするだけで、特に何もしていなかった。
「あ“あ“ぁ“あ“ぁ“あ“あ“ぁ“あ“あ“!!!!!」
佐竹夫人がドサリと床に崩れ落ち、慟哭する。
自分は《此れはもう駄目だな》と思い、暴れまくる佐竹夫人を抱き抱え、風呂場へと引き摺って行った。
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其の後、彼女を風呂に入れ(滅茶苦茶暴れた)、部屋の片付けをし(凄く大変だった)、彼女を寝かし付け(全然寝てくれなかった)・・・・・・。
結局、帰る事が出来たのは日付が変わる頃だった。
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家の門の前に、あの黒い塊が立っていた。
「婆さんは、今夜にも首を吊る。あんたに話す事を話したから。・・・明日は来ん方が良いだろう。嫌な物を見る事になる。何食わぬ振りして警察を呼びなさい。」
嗄れた声で、其の塊は言った。
口が聞けたのか。
「・・・止めないでおくれよ。」
塊が言う。
「・・・・・・ええ。」
自分がそう答えると、おや、と塊は驚いた様な声を出した。
「止めんのか?」
「ええ。止めません。止めてどうするんです?」
塊が嬉し気に其の身体を震わせた。
「・・・さてさて、若いのに面白い御仁よなぁ。」
「人生経験だけは、無駄に豊富何で。」
「成る程成る程。人生経験なぁ・・・・・・・・・・・・・あ。」
「どうかしましたか?」
塊の声が一段と嬉し気になった。
「婆さんが今、首を吊った。」
そして、ズルズルと動き出す。
「迎えに行ってやらんとなぁ。」
ズルズル、ズルズルと塊が身を引き摺る。
・・・ズル。
玄関の前で、塊が此方を向いた。
「・・・わしは、地獄へ落ちるんじゃなぁ。硫黄の臭いがする。」
呟きはまるで、独り言の様だった。
「・・・然し、婆さんもまぁ地獄行きは確定じゃろう。だとすれば、其処まで悪い物でも無いんかなぁ。・・・・・・なぁ、若いの。」
「はい。」
唐突な呼び掛けに、少しだけ驚きながら答える。
「わしらは地獄で、今度こそ添えるか?どうしてわしは殺された?」
「・・・分かりません。」
「じゃろうなぁ。わしも分からんよ。」
そうして、また玄関の方に向き直る。
「まぁでも、やってみんと分からん。神様の御加護を祈るしか無いのぉ。」
「貴方に、御主様の御加護と御導きが有りますように。」
昔覚えさせられていた言葉が、口をついて出た。
「・・・・硫黄の臭いがする。暑い暑い。今、行くからな。今度こそ、今度こそ、今度こそ・・・・・・。」
開けられたドア。
「左様なら。佐竹さん。」
彼は、其の向こうの赤黒い闇に、溶け込む様にして消えて行った。
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「結局、貴方は夫人を愛していたんですか?憎んでいたんですか?」
小さく呟いてみる。
両方正解かも知れないし、両方不正解かも知れない。
・・・まぁ、今となっては絶対に分からない質問だ。考えるだけ無駄だろう。
自分は月明かりの下、ゆっくりと家への道を歩き始めた。
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鼻先をフワリと、硫黄臭い風が撫でた。
作者紺野-2