気がつくと、俺は砂浜にうつぶせで倒れていた。
ここはどこだろう?
立ち上がろうとすると、体のあちこちに擦り傷があり、打撲からか、体のいたる所に痛みを感じた。
どうして自分がここにいるのか、全く思い出せない。
とりあえず、痛む体を引きずり、海岸から離れ、海岸沿いの道路の歩道を歩き続けた。
俺は誰だ。まずはそこからだ。
考えようとすると、頭がガンガンと痛む。これは記憶喪失というやつなのだろうか。
やはり自分の名前も思い出せない。俺は、ズボンのポケットをまさぐる。
すると、財布が出てきた。わずかな期待を胸に、財布を開くと、やはり免許証が入っていた。
「西村 勤」
どうやら、これが俺の名前らしい。
住所!
俺は免許証の住所を見た。
〇〇県××市△△町1-15
ここに行けば俺の家族が居るのだろう。
今は朝なのだろうか。まだ暗く、空気も冷たい。
半そで姿なので、季節は夏だ。時間はこの暗さだと、まだ5時くらいだろう。
俺は民家と通り過ぎる車を求めて、ひたすら歩き続けた。
喉がかわいた。せめて水が飲みたい。
20分くらい歩くと、道沿いに自動販売機が見えてきた。
助かった!俺は痛む足をひきずり、自動販売機に向かった。
財布の中にちょうど飲み物が買えるほどの小銭が入っていた。
俺はボタンを押し、中から飲み物を取り出し、プルタブをあけ、喉に流し込んだ。
生き返った。まさにその言葉が今の俺にふさわしい。
空き缶をゴミ箱に入れ、俺はまた歩き出す。
すると、前方から白い軽トラックが走ってきた。
やった!助かった!
俺は大声で助けを求め、めいっぱい大きく軽トラックに向かって両手を振った。
「どうなされたかね、その姿は。」
服はボロボロに破れて、体が傷だらけな俺を見て、その軽トラックに乗ったご老人は言った。
「わからないんです。気がついたら、海岸で倒れていて。記憶が無いんです。」
俺は今の状況を説明して、免許証を見せた。
「とりあえず、病院へ行きなさったほうがええ。警察に俺が連絡して、家族に連絡を取ってあげるから。」
ご老人の親切に俺は心から感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます。」
病院での診察の結果、骨折などはなく、擦り傷と打撲、あと軽い脱水症状だったようで、
ものの1日で退院できた。
警察から、家族と連絡が取れたという連絡があり、俺の家族が迎えに来た。
中年の痩せすぎの女と、中学生くらいの男の子だった。
「生きてたのね。良かった。」
そう言い、女は俺の手を握った。
たぶん、これが俺の妻なのだろうが、全く思い出せない。
女の話によると、俺は、6日前の夜、釣りにでかけると言い、そのまま帰ってこなかったとのことで
自宅は俺の打ち上げられた海岸から12キロも離れており、家族もすっかり海に落ちて死んでしまったと、思っていたらしい。実に12キロも、クーラーバッグにつかまっていたのか、海岸には俺のクーラーバッグも一緒に打ち上げられていたという。つくづく俺は幸運な男だ。
女は、俺と病院で再会した時にこそ、生きてて良かったと言ったのだが、俺には少し違和感が残った。
息子も俺と再会して、お父さん、とも一言も言葉を発しなかったのだ。
この違和感は、なんだろう?
妻と思われる女が運転する車で、家に着いて、玄関前で妻が俺に振り向き
「おかえり」
と一言呟いた。
俺は記憶が無かったが、その言葉に胸が熱くなり、涙していた。
「ただいま」
と俺は答えた。
生きて帰れてよかった。
俺が家に帰ると、祭壇には俺の遺影が飾られ、線香の残り香が漂っていた。
俺は複雑な気分になり、遺影を見て苦笑いした。
「すまん、迷惑をかけたね。」
俺は妻に向かって、頭を下げた。
そんな俺を妻が、キョトンとした表情で見ていた。なんだろう?
「いいのよ、生きて帰ってきてくれたんだから。」
妻がそう言った。俺は、ここでも何か違和感を感じた。
息子は相変わらず、下を向いたまま、俺と目を合わせようとしない。
なんなんだろう、この違和感は。
ここは、確かに、あの免許証に表記されていた俺の家だ。
これは俺の家族に違いないのに。
「すまんな、俺、記憶が無いんだ。徐々に思い出すから。」
俺がそう言うと、妻が無理しないで、と言った。
妻は台所で夕飯の支度をし、食卓に料理を並べはじめた。
たぶん、これは俺の好物なのだろう。
猛烈に腹が減って、俺は夢中で箸で口に運ぶ。
食事の後に妻がビールを出してくれた。
俺はそれを飲み干すと、なんとも言えない幸福感を感じた。
「俺は本当に幸せな男だ。12キロも海を漂流して生きて帰れたうえに、こんな優しい家族と再会できたなんて。」
俺がそう言うと、妻と息子が俺をじっと見つめてきた。
顔は無表情だ。
俺は今まで感じてきた小さな違和感の意味を知った。
そうだ。この妻と息子には表情が無い。
生きててよかったと言った妻にも、再会した息子にも、表情が無かった。
そんなことを考えていると、俺は何故か意識が朦朧としてきた。
「あ・・・れ? 俺、酒、弱いの・・・かな?」
ろれつも回っていない。
すると妻が、すくっと立って言った。
「いいえ、あなたはお酒が強いわよ。浴びるように飲めるはず。」
そう言う妻は、俺を無表情で見下ろした。
俺は椅子の上に座っていることすらできないほどの眠気に襲われ、とうとう椅子から崩れ落ちてしまった。体勢を立て直そうと立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「なんで死ななかったの?」
息子が初めて俺を見て、口を開いた。
俺は意味がわからず、朦朧とする意識の中息子を見上げた。
息子は着ていたTシャツを脱いだ。
その体は細く、体のいたるところに、古いものや新しいものを含めて無数の痣があった。
「全部、あんたにやられたんだ。」
息子がそう吐き捨てた。
目の前がぐるぐると回ってきた。
「覚えていないんでしょうけど、あの日、あなたは酔っ払って運転できないから運転しろと、私に言いつけて、海岸まで行ったのよ。何でも、急に釣りがしたくなったから、って。朝になったら迎えに来いってね。」
俺は、うっすらと記憶が底から浮かんできたような気がした。
「波止場で、あなたを降ろしたの。ショウタは後部座席に見えないように身を隠して乗っていたの。」
あの光景がぐるぐると回る。
そうだ。海岸線を歩き、岩場について、釣竿を垂らそうとした瞬間、俺は海に突き落とされたんだった。
突き落とされる瞬間、後ろをつけてきたショウタに初めて気付いたんだった。
初めて息子の笑顔を見た瞬間だった。
「まったく、クズね。今までの慰謝料として、保険金だけでも欲しかったのに。
生きて帰ったから、保険金も下りなかったわ。これじゃあ、私達、あまりに救われないじゃない?
結婚して、一度も幸せだと思ったことはなかったわ。あなたは酒乱で、生活は苦しくて、息子にも手を上げる始末。生きてる資格なんて、あなたにはないの。もう一度、行方不明になりなさいね。もう慰謝料はいらないから、せめてこの世から消えて。」
妻がニヤニヤと笑いながら、俺の首を絞める。
抵抗できない。力が入らない。たぶんあのビールには睡眠薬が入っていたのだろう。
ただいま。そう言った時の俺は確かに幸せだったのだ。
何を言ってももう取り返しはつかないのだろう。
俺は静かに死を受け入れた。
作者よもつひらさか