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長編9
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コスモスサクコロニ

窓打つ雨に、私は浅くため息をついている。

母は今、奥の部屋のベッドで寝息を立てて眠っている。

いつからか、母は壊れてしまった。

とても気丈でしっかりとした人だった。

私が高校に入学して間もないころ、父が死んだ。

それから母は看護士の仕事をしながら、女手ひとつで私を育ててくれた。

経済的なことを考えて、進学もしないと母に言ったが、

母は私を専門学校まで通わせてくれた。

結婚する時も、私に片親という肩身の狭い思いをさせまいと

人並みに結婚式も挙げさせてくれた。

親一人子一人、母に寂しい思いをさせてしまうな、という思いもあったが

母は明るく社交的で、友達もたくさいいて、趣味もたくさんあり

私の心配もよそにいきいきと暮らしていた。

ところが趣味の山登りのさいに、足を骨折してしまい、しばらく床に臥してしまったが

持ち前のバイタリティーで懸命にリハビリをし、なんとか少しずつ歩けるようになっていた。

しかし、骨折したほうの足をかばうので、リハビリ中に逆の足も捻挫してしまった。

こうしてまた床に臥す生活を続けているうちに、とうとう足の筋力が失われてしまい

歩けない体になって、車椅子の生活を余儀なくされてしまう。

その頃から母が少しずつ壊れはじめた。

最初は私を「京子ちゃん」と呼ぶようになった。

京子は私の叔母で、もうとっくの昔に亡くなっている。

母を病院へ連れて行ったら「認知症」とのことだった。

他に誰も身寄りがない母を、一人で生活させるのは危険なので

主人を説得して引き取ることにした。

「何で俺がお前の親の面倒を見なければならないんだ。」

主人は最初、そう言って難色を示した。

子供を大学に行かせているので、パートをしながら家計を支え

仕送りをしていたが、母の面倒を見るためパートを辞め、

仕送りのほうも十分できなくなってしまったので子供には

アルバイトをしながら通うように言った。

「家のローンだってまだ終わっていないのに。」

主人はことごとく私を責める。

こんなはずではなかった。母は私を大切にし、何不自由なく育ててくれた。

感謝している。心から。

いつか恩返しがしたいと思っていた。

でも現実は、主人から疎まれ、肩身の狭い思いをさせている。

母の奇行や幻覚にうんざりしている私がここにいるのだ。

「・・・・・・・こちゃん?」

母が起きた。呼んでいる。

「はいはーい、なぁにお母さん。」

「洋子ちゃんなのね?」

母が泣いている。

私の名前は涼子だ。

洋子は私が5歳の時に死別した姉の名前だ。

「何言ってんのよー、私、涼子だよぉ。」

洋子お姉ちゃんの記憶はかすかに残っている。

コスモス畑で洋子お姉ちゃんは私にピンクのコスモスを摘んでくれたのだ。

「これが涼子のぶん、これがお母さんのぶん、おとうさんは男だからお花はいらないね。」

とてもやさしく幸せな記憶だった。

「洋子ちゃん、どこに行ってたの?お母さんすごく心配してたのよ。」

そう言いながら窓辺を見つめてぽろぽろと涙をこぼす。

とてもいたたまれなかった。

「おかあさん・・・」

私は涙を流す母を静かに抱きしめた。

「洋子ちゃん、洋子ちゃん・・・・。」母はうわ言のように言い続けた。

数日後、私は買い物にでかけた。

「お母さん、ちょっと買い物に行ってくるね。」

そう声をかけると母は車椅子の上でコクリと頭をさげ返事をした。

1時間後買い物から帰って母に声をかけた。

「ただいまー。」

奥の部屋から、何かがさごそ物音がする。

母は車椅子の上だし、そんなに動き回れるはずがない。

誰かが家捜しをしているような音だ。

「ど、泥棒?」

恐る恐る奥の部屋のドアを思いっきり引いて

「お母さん!大丈夫?」と叫んだ。

部屋の中を見て、ぎょっとした。

至る所に衣服が散乱して、押入れの中もぐちゃぐちゃにかき回されていた。

その押入れの前で母が這いずっていたのだ。

「お母さん!どうしたの?何があったの?」

と駆け寄ると、母はキョトンとして

「あぁ、京子ちゃん、洋子ちゃんの赤いワンピースあったじゃない?

ほら、私が初めて洋子ちゃんの為に作ったやつ。

あれ、どこにいっちゃったのかしら。。。。」

そう言うのだ。私は呆れ返って言った。

「これ、お母さんが全部やったの?ダメじゃない。車椅子から降りて。

歩けないでしょう?ワンピースなんかいまさら、何するのよ。」

「だって、洋子ちゃんがあのワンピースを着たいって言うんですもの。

ねぇ、どこ?どこにやったの?どこにあるの?」

「いいかげんにしてっ!」

つい大声を出してしまった。母はビクッっとして、私を悲しそうな目で見た。

「お姉ちゃんはね、死んだの。私が5歳の時に病気で。お母さんそう言ったじゃない。」

母の目に見る見る涙が溢れてきた。

「京子ちゃん、どうしてそんな酷い嘘をつくの?もう京子ちゃんなんて嫌い!」

子供のように泣きじゃくる母。

「ごめんなさい。言い過ぎたわ。ワンピースは私が探しておくから。」

もう何を言ってもだめなのだ。母を落ち着かせよう。

赤いワンピースを探し出して、母の部屋に、以前母が洋裁で使っていた

マネキンを出して着せた。母は嬉しそうに言った。

「これで洋子ちゃんがいつ来ても着せられるわね。」

来るはずのないお姉ちゃんを待っている。

正直参っている。

壊れ始めた頃の鬱で気力が無かった母が、最近ちょっと元気になっている気がする。

でも、元気になった分、奇行が目立つようになってきた。

本当に疲れてしまった。これから母の介護をする自信が無くなって来た。

数日後、母のことは心配だったけど、ずっと出かけないわけにはいかない。

買い物も主人に頼めない。夜帰りは遅いし、相変わらず主人は冷たく非協力的だ。

 

仕方なく私はちょっとだけ留守にすることにした。

「お母さん、買い物に行ってくるけど、この前みたいに一人で動き回らないでね。

危ないからね。」

そう言うと母はわかっているのか、こちらを向いて微笑むだけだった。

買い物も早々に手早く済ませ、急いで帰ってきた。

「ただいまー」

「おかえり。」

今日は大人しくしていたようだが、何だか元気が無い。

「どうしたの?お母さん。」

そう声をかけると表情を曇らせた母が

「あのね、洋子ちゃんのあのワンピースね、もう洋子ちゃんの体に

合わなくなっちゃってたのよ。子供って大きくなるの、早いわね。」

そう言うのだ。

ふう、とひとつため息が出た。またか。

「それでね、お母さん、久しぶりに洋裁してみようかなぁって思うんだ。

洋子ちゃんの体に合うの、新調しなくちゃ。だから今度、赤い生地と赤い糸

買ってきてくれる?」

まぁ、お母さんが久しぶりに何かしたいというのなら、させてあげようか。

たとえ理由が何であれ、今まで壊れてから何かしたいなんて一度も言わなかったから。

「うん、わかった。今度買ってくるね、お母さん。」

「ありがとう、京子ちゃん!」

お母さんが花のようにぱぁっと笑った。

「よかったね、洋子ちゃん」

そう言ってテーブルのほうを見た。

ちょっと違和感があった。

グラスに1輪、コスモスの花がいけてあった。

あんな花はいけた覚えが無い。

だいいち、コスモスなんてまだ季節はずれだ。

「どうしたの?そのコスモス?誰か来たの?」

母に尋ねると

「うん、来たわよ。洋子ちゃんが。コスモスを摘んできてくれたの。」

嬉しそうに笑った。

また車椅子から勝手に降りて外にでも出たんだろうか?

でも、うちの庭にはコスモスの花なんてない。

足の悪い母が、遠くにコスモスの花なんて摘みに行けるはずがないのに。

私は得体の知れない恐怖を感じた。

母を一人にしてはいけない。

ここ数日母は一生懸命ミシンを使って赤いワンピースを作っている。

もうすぐ完成しそうだ。

何だかここ数日母はとても幸せそうだ。

こんな母を見るのは久しぶりで嬉しかった。

「できた!ほら、京子ちゃん素敵でしょ!」

嬉々として私に見せてきた。

「うんうん、素敵だね。ちゃんとマネキンに飾ろうね。」

出来上がったワンピースは、私が着てもおかしくないほど

大人の女性のサイズのものだった。

ワンピースが出来上がった日の深夜、私は母が楽しそうに話す声で目がさめた。

「ね、洋子ちゃん、今度はぴったりね。素敵よ、洋子ちゃん。

あ、おリンゴあるけど、食べる?」

独り言かな。

なんだか最近母の様子がますます変になってきた。

どこかに相談したほうがいいのだろうか。

そう思いながら、もう一度布団にもぐりこんだ。

あくる朝、私は信じられないものを見る。

グラスにはコスモスがもう一本いけられていて

テーブルの上のリンゴが一個かじられている。

主人は出張で居ないはずだし、ましてや息子は大学で居るはずも無く。

何よりも母がリンゴをかじるはずがない。母はずいぶん前から歯がないし

だいいち母がリンゴをかじる姿を見たことが無い。たぶん母はリンゴが嫌いなのだ。

おかしい  おかしい  おかしい  おかしい  おかしい  おかしい  おかしい  

何かがおかしい

増えるコスモス   赤いワンピース    かじられたリンゴ

私を考えたくない何かが蝕んでくる。

私の後ろから蝕んでくる。

振り返った。

赤いワンピースの女性が立っている。

「おねえ・・・・ちゃん?」

女性は薄く微笑む。

あり得ない、お姉ちゃんが、

こんな大人の姿で現れるなんて。

「涼子、今までよくがんばったね。」

それはそれはとてもやさしい声でお姉ちゃんは言った。

怖いと思う前に、私はその言葉に今まで我慢していたものが

一気に堰を切って私の目からあふれ出してきた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん・・・・!」

私は嗚咽していた。

「涼子はもう十分がんばったでしょ。お母さんのことは任せて。」

一瞬凍りついた。今まで嗚咽していたが、ひゅっと息を吸い込んで止まった。

「ど、どういう・・・意味?お姉ちゃん・・・。」

「あなたはお母さんともういっぱい暮らしてきたでしょう?

ずっとずっとしあわせだったでしょう?

だからね、

そろそろ、

私に

お母さんを

ちょうだい。」

背筋がぞっとして、全身があわ立った。

「な、何を言っているの?それって、お母さんが

死ぬってことなの?

ダメよ!そんなの!!!」

私は叫んだ。

お姉ちゃんはぞっとするような冷たい表情になった。

先程までのやさしい表情は嘘のように。

「涼子はわがままだね。

今までたくさんお母さんと幸せに暮らしてきたのに。

もういいでしょう?十分幸せだったでしょう?

私は一人ぼっちだったんだよ。それでも我慢してたの。

ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと

ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと

ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと

ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」

「やめてーーーーー!」

私は耳を塞いだ。

ピタっと声がやんだ。

泣いている。姉が、泣いている。

「寂しかったよ。一人で。寂しかったの。」

「お、お姉ちゃん・・・」

「じゃあ、お母さんをくれないのなら

涼子がこっちにきてよ。

お姉ちゃん、寂しいんだよ。ねえ、お願い。。。」

姉がスッっと目の前に瞬間移動してきた。

息が止まりそうになった。

姉が女性とは思えないような力で私の腕を引っ張ってきた。

すごい形相で私の手を力いっぱい引っ張ってくる。

「いや、いやだ。やめて、お姉ちゃん!!!!」

私は叫んだ。

すると後ろのドアが勢い良く開いた。

「やめなさい!洋子!涼子の手を離しなさい!!」

お母さんが立っている。

力の入らない足に渾身の力をこめて。

お母さん、涼子って、言ってくれた。

やっと、思い出してくれたんだ・・・・・・。

涙が一筋流れた。

そのまま私の頭の中は真っ白になっていった。

気がつくと私は病院のベッドに寝かされていた。

「気がついたのか、涼子」

主人がほっとした顔で覗き込んでいる。

「おとうさん、私どうしちゃったの?」

主人が出張から帰ってみたら、私とお母さんが台所で倒れていたと言うことだった。

息子も心配してかけつけていた。

「すまん、私が悪かった。お前にばかり無理をかけすぎた。

今まで責めて悪かった。この通りだ。」

主人は私に頭を下げた。

「お母さんは?お母さんはどうしたの?無事なの?」

そう言うと主人と息子の表情は曇った。

「何とか一命は取り留めたが・・・・。

脳梗塞だそうだ。まだ意識は戻っていない・・・・・。」

それから1ヶ月して、母はこの世を去った。

ちょうどコスモスの咲くころだった。

そして母の一周忌。

私は母の墓参りに来た。

「おかあさん、おねえちゃん、またあのコスモスが咲いたよ。」

母が死んですぐに、今まで決して咲くことの無かった

コスモスが咲き始めたのだ。

淡いピンクのコスモス。

お姉ちゃんが摘んで、私にくれた

あのコスモスだよ。

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>あんみつ姫様
怖い、ありがとうございます。私は想像でしか書いていないので、本当にその現場で直面されている方のご苦労は計り知れません。想像を絶するほど大変だと思います。お読みいただいて、こんなにご感想をいただき、とても嬉しいです。

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>ほたて様
怖い、ありがとうございます。自分の親に忘れられる、これ以上のショックはないと思います。一瞬でも報われる瞬間がないと。介護って大変なことだと思います。

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このお話、とても好きです。
途中、コスモスが出現したりする場面は、普通にホラーでしたが、立てないはずのお母さんが 力を込めて立ち上がるシーンや、最後のお墓参りのシーンでホロリときました。

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