此れは僕が高校1年生の時の話だ。
季節は春。
船玉シリーズの続きだ。
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・・・・・・・・・。
買い物をし、夕食を摂り、もう一度銭湯へ行き・・・以来主の家に着く頃には、時刻はもうすっかり真夜中になっていた。
指定されていた場所に車を停め、玄関の呼び鈴を鳴らす。
「はい。御待ちしていました。」
今回の以来主である女性・・・・・・潮田さんは、十秒と経たずに出て来た。
まるで、僕達が呼び鈴を鳴らすのを、ずっと玄関前で待ち構えていた様だった。
「今晩は。失礼致します。」
木葉さんが一礼をして、家の中へと入って行った。す
僕も、真似をする様に一礼し、家の中へと足を踏み入れる。
「・・・し、失礼します。」
戸を閉め、靴を脱ぎ、靴箱の隅に仕舞い、目の前に居る潮田さんにもう一度御辞儀。
何処からか生臭い臭いがする。
足を乗せた板張りの廊下は妙に湿っていた。
僕は急いで、用意されていたスリッパに足を通した。
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・・・・・・・・・。
潮田さんに案内されたのは、広い和室だった。
「今夜は此処で御休みください。此の部屋の物は何でも御好きな様に使って頂いて構いません。布団は昼間に干して、置いておきましたので、其処に畳んである物を御使いください。」
成る程、部屋の隅に二組、畳んだ布団が用意してあった。
「朝食は何時頃に・・・?」
木葉さんの顔を見上げながら、潮田さんが聞いてくる。
木葉さんは眉毛一つ動かさずに答えた。
「いえ、其処まで御迷惑を御掛けする積もりはありませんので。御厚意、痛み入ります。」
ゆらゆらと潮田さんの目線が揺れる。
「そうですか・・・。」
予想外の事を言われて、困惑している様に見えた。
「そうですか・・・・・・。」
繰り返しながら・・・癖か何かなのだうか?仕切りに下唇を摘まむ。
蒼白い電球の下に佇む彼女は、何かに怯えている様にも見えた。
「・・・一つ、質問したい事が有るのですが。」
そんな彼女の様子を見ていた木葉さんが、唐突に口を開いた。
「え・・・ええ。どうぞ。」
面食らった様な表情をしながら潮田さんが頷く。
木葉さんが天井の辺りを見ながらゆっくりと目を細めた。
「・・・此の部屋の天井に、何処か屋根裏へ通じている場所は有りますか?」
「屋根裏・・・。確か、天袋が屋根裏と繋がっている筈です。」
潮田さんが押し入れの上にある小さな引き戸を指差す。
「奥の板が外れていますので・・・・・・。」
そして、一瞬だけ目を見開き、木葉さんの方を向いた。
「・・・屋根裏に何か、居るんですか。」
潮田さんは、木葉さんの方をじっと見詰め、半ば確信をした様に質問をする。
木葉さんが小さく頷いた。
「ええ。恐らくですが。」
「・・・ならば、どうしようと御好きな様にしてください。」
潮田さんが眉間に皺を寄せ、キッパリと言い切る。
其れを聞いた木葉さんは、口元を僅かに歪ませて微笑んだ。
「有り難う御座います。・・・嗚呼、もう一つ。今晩・・・そうですね。明日の朝、私達が出て来るまでは、此処へ近寄らない方が宜しいかと思われます。危ないと言う訳ではありませんが、見ていて楽しい物でもありませんから。」
潮田さんが何やら神妙な顔で頷く。
「了解しました。・・・其れでは、御休みなさい。私は、玄関の横に有る茶の間に居ますので、何か聞きたい事があったら、いらしてくださいな。其れでは、私は此れで失礼させて頂きます。」
目の前の襖が、音も無く閉まった。
足音が廊下を進んで行くのが聞こえる。
「・・・・・・ふー。」
隣で、木葉さんが小さく溜め息を吐いた。
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・・・・・・・・・。
先ず木葉さんが始めたのは、何やら難しい御札を部屋に貼り付ける事だった。
「相手が相手ですから。札一つでどうなる物でも無いのですが。まぁ、気休め程度に、一応。ああ、あと、防水用ですかね。」
そんな事を言いながらどんどん貼っていく。
・・・・・・防水?
僕も指定された所に貼り付けながら、何とも地味な質問をした。
「此れって・・・後からちゃんと剥がれるんですか?」
「剥がれますよ。最新型ですからね。剥がしやすい様に出来ているんです・・・・・・良し、と。」
札を貼り終えた木葉さんが、部屋をぐるりと見渡す。
「・・・取り敢えず準備は此れで完了ですね。」
「もう?!」
僕が驚きの声を上げると、木葉さんは大きく頷いた。
部屋の隅に寄せてあった骨壺の隣にしゃがみ込み、クスリと笑う。
「元々、此れを入手した時点で八割方終わっている様な物だったんです。」
中に入っているのは《船玉》だ。
「此れは《餌》何です。」
ゆっくりと骨壺の縁をなぞる木葉さん。
「・・・・・・餌?」
僕が聞くと、木葉さんはニッコリと笑う。
「ええ。《フナダマ》を捕まえる為の。」
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・・・・・・・・・。
「・・・《船玉》なら、其の壺の中に入ってるじゃないですか。」
「字が違うんですよ。」
そう言って、木葉さんは手帳を取り出した。
「私達が今現在所持しているのは、《船玉》。」
手帳の右側に《船玉》と書く。
「そして、此れから捕まえようとしているのは、此方の《フナダマ》です。」
木葉さんが左側にサラサラと文字を書いた。
《船霊》
「・・・さて、時間が時間です。説明は後にして、取り敢えず今は仕事を終わらせてしまいましょう。」
パタン、と手帳を閉じて、木葉さんが鞄の方へと向かう。
そして鞄に手を入れ、何かを探す。
「・・・有りました。」
取り出された其れは・・・。
二つの、狐面だった。
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・・・・・・・・・。
「・・・・・・さて、準備は宜しいでしょうか?」
木葉さんが面を顔に当てながら首を傾げ、何処か楽しげな声で言った。
・・・いや、実際に楽しいのだろう。
細められた目元と歪められた唇の端が、狐面のズレから僅かに覗いている。
僕はゆっくりと右手を挙げた。
「・・・宜しくないです。トイレタイムが欲しいのです。」
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・・・・・・・・・。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・木芽?」
「はい。」
「・・・其れ、どうしても今じゃなきゃ駄目ですか?」
「今じゃなくても構いませんけど、色々と始まってしまっては、何となく行き辛いでしょう?漏らせと言うのなら話は別ですけど。」
僕の答えを聞いて、木葉さんは何やら微妙な表情をしながら、狐面を置いた。
僕の方をじっと見詰め、呼び掛ける。
「・・・・・・木芽。」
「はい。」
木葉さんが困った様な顔をして、頭をポリポリと掻いた。
「私は今、実は少しだけ格好付けようとしてたんですよ。」
「はい。」
「少しって言うか、完全に格好付けようとしてたんですよ。」
「はい。」
「今回最大の見せ場ですしね。何と言うか・・・こう・・・一つ、兄としての威厳的な何かをですね、アップさせようと目論んでいたんです。」
「そうですね。」
「其れをですね。」
「はい。」
「《良し、決まった!》と思った次の瞬間に《トイレタイムが欲しい》とか言われちゃうと、本当にどんな顔すればいいのか分からなくなってしまいます。」
「笑えばいいと思うよ。」
「此処で更にネタを被せて来ますか。前歯全部折りますよ?」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・兄さん、エヴァ知ってるんですね。」
「御嬢様が一時期のめり込んでましたから。」
「歪み無いですね。」
「どうとでも言いなさい。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
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・・・・・・・・・。
先に沈黙を破ったのは、木葉さんだった。
「・・・まぁ、生理現象ですしね。仕方無いです。」
小さな溜め息を一つ吐いて、襖を開ける。
「・・・・・・潮田さんがいらっしゃるのは、御茶の間だそうです。いってらっしゃい。」
頭だけを出して見ると、廊下は暗く、如何にも不気味な雰囲気が漂っている。
本当に一寸先も見えない様な、青み掛かった暗闇。思わず足を踏み出すのを躊躇う様な・・・・・・。
背筋を一筋、冷たい物が滑り落ちて行った。
「・・・怖いんですか?」
上から茶化す様な声が聞こえて来て、顔を上げる。
見ると、木葉さんが此方を覗き込んでいた。
「別にそう言う訳ではありません。足元が分からないのは不便だと思っただけです。」
僕がそう強がると、木葉さんはニッコリと笑って、懐中電灯を此方に差し出した。
「ならば、此れを貸してあげましょう。・・・暗いのを不便に思っているだけならば、私は付いて行かずとも宜しいですね。」
・・・うわぁ。凄い笑顔。
完全に分かってやってるよ。此の人。
「・・・・・・はい。」
僕は軽く木葉さんを睨み付けながら、渋々と頷いた。
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・・・・・・・・・。
廊下は、暗い上に長かった。
・・・いや。単に僕等が居た部屋が奥の方に造られているだけか。
大体、彼の部屋は一体何の為の部屋なのだろう。
広くて清潔で・・・でも、あんなに生活感の無い部屋って有るだろうか。
家具が殆ど無かった。
最初は客間か何かと思って居たのだが、そもそも、あんな家の奥に客間を設置する物なのか?
建築関係はさっぱりだが、少なくとも僕の主観としては、あんな奥の方には客間は造らないと思う。
・・・・・・多分だけど。
僕は其処まで考えて、少し立ち止まった。
どうにも、僕以外の誰彼の足音が聞こえる様な気がする。
・・・やはり思い違い等ではない様だ。
ヒタ、ヒタ、ヒタ、と誰彼が裸足で廊下を歩く音。確かに聞こえる。
木葉さんか?
・・・いや、違う。木葉さんならスリッパを履いているだろう。こんな足音にはならない。
潮田さんは茶の間に居る筈だ。
ならば、僕の後ろに居るのは・・・・・・
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「ねぇ。」
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・・・・・・・・・。
「・・・・・・・・・っっ!!!」
「どうしたの?」
此方に向かって歩いて来ていたのは、潮田さんだった。
叫び声を上げなくて本当に良かった。
不思議そうな顔の潮田さんに、僕は言った。
「・・・申し訳無いのですが、一寸トイレをお借りしたくて・・・。」
「あ、そっか。場所、教えて無かったんですね。ごめんなさい。」
潮田さんが申し訳無さそうに頭を下げる。
「此方。付いて来て。」
そして、ゆっくりと回れ右をし、元来た道を引き返し始めた。
僕は小さく頷き、潮田さんの後に付いて行った。
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・・・・・・・・・。
何と、僕は此処に来るまでにトイレの前を一度通過していた。
余りの怖さに、周りが見えていなかったのだろう。
自分の事ながら情けない・・・。
「・・・トイレが終わったら、改めて茶の間に来て欲しいんです。」
僕がトイレに入る前に、突然、潮田さんはそう言った。
「御近所の方から、美味しいお菓子を貰ったの。賞味期限が短いから、家族には食べさせられないし・・・。独りで食べるのも、味気無いから。・・・ちょっとしか無いから、お兄さんには内緒でね。」
彼女はニコリと笑った。
「じゃ、待ってるから。」
そう言って茶の間の方へ歩き出す。
僕は取り敢えず、トイレのドアを開いた。
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・・・・・・・・・。
出す物を出してスッキリすると、僕の頭にも色々な事を考える余裕が出てきた。
先ず最初に思ったのは
・・・潮田さん、キャラ変わり過ぎじゃね?
と、言う事だ。
あんな感じだったっけ?
年下相手だから気を抜いているのかも知れないけど、あれでは最早別人だ。
あれか?僕って実は親しみ易いタイプなのか?
て言うか、トイレ入る直前の人に、こんな真夜中に向かって御茶の御誘いって・・・。
しかも木葉さん抜きで。
怪しい。
明らかに怪しい。
さて、どうした物か・・・・・・?
僕は立ち止まり、暗闇の中で独り、首を傾げた。
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・・・・・・・・・。
で、そんなこんな考えている内に茶の間に到着。
結局兄に相談はしなかった。
でも、携帯電話は持っているし、いざとなれば走って逃げるだけの事。
恐らく大丈夫だろう。
「・・・失礼しまーす。」
僕は恐る恐るドアを開けた。
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・・・・・・・・・。
「あ、来てくれたんだ。」
テーブルの上に、餡子と生クリームを添えたシフォンケーキが乗っていた。
「有名なお店の物何ですって。」
甘い香りがする。
「適当に座ってください。」
潮田さんは御茶の準備をしていた。
ほんのり甘い香り。
「緑茶。濃い目だから、ちょっと渋いけど、大丈夫?」
「あ、はい。御構い無く。・・・失礼します。」
椅子に腰を下ろすと、マグカップに入れられた緑茶が僕の前に置かれた。
「やっぱり警戒してますね。無理も無いか・・・。」
僕の向かいに彼女が座り、同じ様なマグに入れられた緑茶を啜る。
「実を言ってしまうと、私も怖いんです。だから、さっきはあんな挙動不審に・・・。」
「・・・・・・え?」
自覚有ったのか此の人。
・・・と言うか、怖いって?
僕の思った事に気付いたのか、潮田さんがぶんぶんと右手を振る。
「あ、貴方じゃなくて。お兄さんの方。」
「・・・兄さんが?」
「ええ。木葉さん・・・でしたっけ。」
彼女は少しだけ申し訳無さそうに溜め息を吐いた。
「・・・本当の所、貴方しか呼ばなかったのも、あの、木葉さんと会うのが怖かったからで・・・。あ。」
彼女の目が、気不味そうに伏せられる。
「ごめんなさい。貴方にとってはお兄さんだものね。」
「いえいえ。お気になさらず。」
「・・・本当は此れからする話も、貴方より木葉さんにすべきだと思うのだけど。・・・・・・あ、お茶、どうぞ。ケーキも。有名なお店の物って言うのは、本当だから。」
「・・・・・・いただきます。」
僕は漸く冷めてきた緑茶を一口だけ飲み、大きく深呼吸をした。
「いえ。僕も仕事を手伝っている身ですから。頼り無く思われるかも知れませんが、良かったら、お話、聞かせてください。」
潮田さんが僕をじっと見る。
軈て、ゆっくりと、しかし大きく頷いた。
「私が話すのは、此の家に取り憑いているモノの、《正体》について。」
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・・・・・・・・・。
えっと、貴方は・・・・・・え?木芽?
嗚呼、ごめんなさい。
木芽さんは、《船霊》って知っていますか?
・・・驚いた様な顔をしてますね。
お兄さんから説明は受けていた?
・・・・・・そう。詳しくは知らないの。
なら、先ずは《船霊》が何なのかを話しますね。
と言っても、私が知っている事もそう多くは無いんですけど。
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・・・・・・・・・。
《船霊》と言うのは、端的に言ってしまうと、神様の一種です。
・・・うん。ごめんなさい。此れは流石にざっくりし過ぎた気がします。
もう少しちゃんと説明します。
・・・えっと。
先ず、私は貴方達に嘘を吐いていました。
私、誰が私に嫌がらせをしているか知っているんです。
まぁ、実際に、確実にそうかは分かってないんですけどね。
ほぼ確定・・・みたいな。
で、其の私に嫌がらせをしているのが《船霊》・・・様、何です。
・・・・・・ええ。様。
一応神様ですから。
えっとー・・・・・・え?
じゃあ何であんな事言ってたかって?
其れは・・・・・・。
話が横道に逸れてしまいますけど、いいですか?
・・・・・・。
はい。分かりました。
理由、説明します。
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・・・・・・・・・。
えっと、いきなり重い話で申し訳無いんですけど、実は私、母親・・・あ、実母の方です。其の人と凄く仲が悪くて・・・・・・。
・・・別に反抗期とかそんなんじゃないんです。
人間として、どうしても受け入れられないだけ。
・・・・・・。
私、昔からちょっと可笑しな子供で、しょっちゅう変な事を言っては、親を困らせて・・・。
だから、しょうがない事なのかも知れませんけど。別に、もう諦めてる事ですし。ええ。
・・・・・・。
・・・。
木芽さん。気持ち悪がらずに聞いてください。
私、実は《見える》んです。
・・・・・・・・・え?
あ、そ、そうですか。随分あっさり信じてくれるんですね。
・・・はぁ。
・・・・・・あ、そっか。そうですよね。木芽さん達は本職の方ですもんね。
そりゃ、信じてくれる筈ですよね・・・。
えっとー・・・えと。
・・・あ、いえ、《見える》と言っても、其処まで凄くはないんです。
《見える》と言うより、《感じる》みたいな。
其処に何か居る!・・・って、直感で分かる的な。そんな感じです。はい。
まぁ、そんなんだから、親からも気味悪がられるんでしょうけど・・・。
いっそはっきりと見えるのなら、其れなりにどうにか出来るんでしょうけど・・・。
私ってほら、何が何処にいても、
何か居る!
・・・としか分かりませんから。
只々、気持ち悪いだけで、役に立たなくて・・・。
・・・・・・だから、私の母は、私の事を大嫌いでした。
私が少しでも気に入らない事をすると、私の事を睨み付けながら、ヒステリックにがなり立てるんです。
「お前は頭が可笑しい。私はお前みたいな出来損ないを産む為に子供を作ったんじゃない。お前何て私の子供じゃない。お前みたいな出来損ないが無理矢理出て来るから、私達の本当の子供が出て来れなかった。謝れ。可哀想な私の子供に謝れ。そして死ね。責任をとって死ね。今すぐ。ほら、グズグズするな。死ね。何で死なないんだ。だからお前は頭が可笑しい何て言われるんだ。」
・・・・・・何て。
何て。
なのに、私が仕事を始めると、お金だけは
「お前は独りっ子だから。」
とか
「お前が居なければ私は一体どう生きれば良いのか」
とか
「私はお前の親だ。子供が小さい時は親が子を愛し育てる。子供が大きくなったなら、今度は子供が敬いながら親の面倒を見るものだ。だから毎月、纏まった金を寄越せ。」
何てふざけた事を言うんです。私に。
「お前何て私の子供じゃない」と、ハッキリと言った、其の、口で。
「今すぐ死ね」
って言った、口で!!
私を!《家族》だって!!
《愛》だ何て!!!
・・・・・・・・・・・・。
ごめんなさい。取り乱してしまって・・・。
こんな事を言った所で、木芽さんを困らせてしまうだけだとは分かっていたんですけど・・・。
・・・・・・。
はい。ありがとうございます。
・・・でも、こんな私でも、何とかまともに育つ事が出来て、職場で出会った縁で、結婚する事になったんです。
ええ。其れが今の夫。
馬鹿で無神経ではあるけど、優しい人です。
義理の両親もとっても優しい人達で・・・。
義父の方は、夫に似て、少し無神経な所が有るけれど、やっぱり優しい人です。
義母は・・・お義母さんは、前にも言った通り、躾にはとても厳しい人で・・・。
でも、勘違いしないでくださいね。とっても優しい人でもありました。
親の居ない私を、まるで本当の子供の様に可愛がってくださって・・・。
料理や掃除には、確かに、他人より厳しい所が有ったけれど、其れだって、私がちゃんと家の事をこなせる様になる
其の頃には、私はもうとっくに母と縁を切っていました。父は母と離婚していましたし・・・。
まぁ、だから何だって話ですけどね。
離婚したからと言って、私が父の世話をする訳無いんですけどね。
父も、私を助けてはくれませんでしたから。
何か嫌な事をされた訳では無いので、嫌いとまでは行きませんが・・・・・・。
少なくとも、好きでも無いですね。
強いて言えば《どうでもいい》です。
路傍の石と何等変わり無いですね。
死のうが生きようが、楽しもうが苦しもうが、心底どうでもいいです。
まぁ、一応、式には呼んであげましたけど。
父親としてではありませんでしたが。
・・・式は此の町の結婚式場で執り行いました。
町の外れにあって、とても静かで感じの良い所でした。
隣には旅館が併設されているんです。
・・・いえ、ホテルではなく。旅館です。
純和風の。昔ながらって感じの。
・・・・・・。
そうですね。ミスマッチですよね。
でも、其処もとても良い所でした。
・・・・・・でも。
私達の為に用意されていた部屋は、何だか変な感じがして・・・。
悪寒って言うか・・・。気配って言うか・・・。
ほら、高い高いビルの屋上から地面を覗き込んでいるみたいな、そんな、底知れない不安に襲われまして。
夫に相談しても、「マリッジブルーだろ。」と軽く往なされるだけで、取り合ってくれなくて・・・・・・。
でも、どうしても其の部屋に居るのが嫌だったんです。
・・・私は、もう半ば自棄になって、義母・・・お義母さんに相談をしました。
気持ち悪がられてもいい、結婚も無しになってしまって構わない!!
・・・・・・何て、そんな風にも考えていました。
・・・でも。
お義母さんは、馬鹿みたいな私の話をちゃんと信じて、新しい部屋を用意してくれたんです。
何で信じてくれるのか、って聞いたら
「子供が真面目に言ってる事を信じない親が何処に居るの。」
って。
・・・気付いたら、思い切り泣いていました。
そんな事を自分が、誰かに言って貰える日が来る何て、思いもしてませんでしたから。
厳しくても、此の人は確かに自分を思ってるんだって・・・そう思うと、本当に嬉しくて。
私が泣き出すと、お義母さんは背中を叩きながら笑い掛けてくれました。
「そんなに怖かったの?気付けなくてごめんなさいね。」
そんな事を言いながら・・・。
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其れからの生活は、本当に楽しくて・・・。
毎日が夢みたいで・・・。
辛い事も無かったとは言えませんでしたけど・・・・・・其れでも、《家族の居る生活》はとても幸せでした。
だから、だからこそ・・・・・・。
アレがもし、本当は義母だったら、だとしたら、本当は私は、義母に嫌われていたのだったかも知れない・・・そう思うと
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・・・・・・・・・。
潮田さんが、涙を溢しながら呟く。
「とても、怖いんです。」
僕は涙を止めようと幾度も目をシパシパと瞬いている彼女をぼんやりと見ながら、
(此の人、本当の母親の事は《おかあさん》って呼ばなかったな・・・。)
等と考えていた。
「・・・話を、元に戻します。」
目元をグッと擦り、潮田さんが言う。
「船霊様と言うのは、海の神様です。」
「海の?・・・・・・あ。」
確か此の家は・・・。
「そして、船霊様を捕まえ、此処に連れて来たのは、義理の曾祖父です。」
甘い香りが漂う室内に一筋、生臭い磯の臭いが混じった気がした。
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・・・・・・・・・。
此の家の屋根裏に、船霊様は住んでいます。
船霊様は女性の神様で、漁船の安全と、豊漁をもたらしてくれます。
なので、此の町の漁師は基本的に船霊様を自分の漁船に祀っています。
義理の曾祖父・・・仮に、太郎としておきましょうか。太郎も、そんな漁師の一人でした。
違ったのは、船霊様を船でなく、家に祀った所。
其れが良かったのか、曾祖父は何時何処に漁に出ても大漁で、其の内、此の屋敷を建てる程の富を得ました。
・・・・・・・・・然し。
船霊様を家で祀ると言う事は、必ずしも良い事ばかりでもないのです。
先ず、此の家に神様を祀ると言う事は、祖霊・・・御先祖様を、家に祀れなくなるのです。
御盆に、迎えの精霊馬を飾る事も、お墓から御先祖様を連れて来る事も出来ません。
更に、前にも言ったかも知れませんが、船霊様は女性の神様です。
なので、自分の領域に他の《女》が入るのを嫌います。
其れでも、複数ならまだ許せるらしいんです。
一人一人への注目が分散されますから。
許せないのは、此の家に《女》が一人だけ、と言う事。
自分ではないたった一人の《女》に、家中の視線が集まっている事。
・・・・・・・・・そう。
別に、何かの祟りでも、呪いでもないんです。
彼女は・・・船霊様は、憎むべくして私を憎んでいる。
義母が居なくなり、家でたった一人の《女》となった私を、憎んでいる。
・・・只、其れだけなんです。
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・・・・・・・・・。
潮田さんが、困った様に小さく溜め息を吐いた。
「男の人には何も無いんです。私にだけ、誰にも分からない様に嫌がらせを仕掛けて来るんですから、嫌になっちゃいます。」
「・・・前にも話して頂いたかとは思いますが、もう一度、嫌がらせの内容等を詳しく聞かせて貰っても宜しいでしょうか?えーと、其れと、どうして貴女が其処まで詳しい事情を知っているのかも。」
僕の言葉に、潮田さんが大きく頷く。
「事情の方は義母から聞きました。嫌がらせの内容は・・・・・・そうですね。姿を現すのは、基本的に夜の眠っている時が多いです。あとは・・・・・・。」
潮田さんが眉を潜め、大きく鼻で息をした。
「臭い・・・・・・でしょうか。」
そして、悔しそうに溜め息を吐く。
「御茶の香りも分かりません。せっかくのケーキも台無しです。」
・・・どうやら、今も彼女には其の《臭い》とやらが感じられるらしい。
僕も空気の匂いを嗅いでみる。
魚が腐った様な生臭さを孕んだ礒の臭いが、甘い空気にうっすらと混ざっていた。
全力で空気の匂いを嗅いでいる僕を見て、クスリ、と潮田さんが笑う。
「・・・男の人には、分からないんです。」
・・・・・・男性には、分からない?
でも、臭いはする。確かにする。
僕はおずおずと聞いてみた。
「あ、あの・・・。もしかしたら其の臭いって、魚が腐った様な腐敗臭と、礒の臭いじゃ・・・・・・?」
其の瞬間、潮田さんの目が大きく見開かれた。
「・・・・・・・・・え?!」
口元を手で押さえ、わたわたと慌てる。
「え、あ・・・ごめ、ごめんなさい!ずっと勘違いしてました・・・。木芽さんって・・・。」
「いえ、男ですよ。」
「じゃあ、何で・・・・・・。」
潮田さんが心底不思議そうに首を傾げた。
答えを求める様に此方を見ているが、其れは僕にも分からない。
強いて言うならば、ミズチ様関係だろうか?
・・・だとしても、ミズチ様がどう足掻いても僕は僕だしなぁ・・・。
「・・・何でなんでしょうね?」
僕も答えを言う代わりに首を傾げた。
分からない物は分からないと言うしかないではないか。
「今まで、ずっと女の人にしか分からなかったのに・・・。」
スッと潮田さんが眉を潜めた。
「・・・・・・どうしたんでしょう。」
そして、顎に手を当てて考え込む。
其れから潮田さんは、暫くの間難しい顔をしていた。
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・・・・・・・・・。
目の前で眉根に皺を寄せている潮田さん。
僕も何を言えば良いのか分からない。
視線をウロウロと動かすも、マグに半分程残った緑茶と、手を付けていなかったシフォンケーキが見えただけだ。
「えっと・・・・・・。い、頂きます。」
取り敢えず、シフォンケーキへと手を伸ばす。
大きめに切り取り、餡子と生クリームを乗せて口へと運んだ。
餡子も生クリームも甘さが抑えられている。
シフォンケーキ自体は・・・・・・。
ふわふわしていて美味だとは思うのだが、抑、シフォンケーキの標準的な美味しさの度合いが分からない。なので、此れがズバ抜けて美味しいかと言われると、一概にそうだとも思えないのだ。
其れより餡子が美味しい。
スーパーや缶詰めの物とは味が違うから・・・恐らく、自家製かちゃんとした店舗で買った物なのだろう。
・・・・・・何やってんだろ。僕。
もっとこう・・・仕事的な何かをすべきでは無いのだろうか。
然し、先ず出来る事が無いからなぁ。
どうしたものかなー・・・・・・。
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「・・・・・・美味しい、ですか?」
「えっふわっっ?!・・・・・・はい?!」
驚きのあまり変な反応をしてしまった。
めっちゃ挙動不審。コミュ障丸出し。
潮田さんの方を見ると、此方も凄い勢いで動揺している。
「え、あ、あの、ごめんなさい!いきなり話し掛けてしまって。」
慌てて僕も謝る。
「い、いえ、僕もオーバーな反応をしてしまって・・・。え、えっと、とっても美味しいです。」
動揺しながらも潮田さんが顔を綻ばせる。
「あ、ああ、そ、そうですか!良かった!!」
「あの、えっと・・・此の餡子って・・・?」
会話を繋げる為に聞いてみた。
「え、あ、そそ、其れ・・・!」
潮田さんの顔が愈、明るくなった。
・・・・・・にしても僕達、本当に吃音が酷いな。
「・・・其れ、私が作ったんです。」
音で表すなら、へにゃり、と言う様な感じの、笑顔。
「お義母さんに習ったんです。お義母さんは餡子作りの名人だったから・・・だから、餡子には少しだけ自信があるんです。」
「・・・・・・そうなんですか。」
フォークの先端を使い、餡子だけを救い上げる。
口に含むと、今度は当たり前だが、餡子だけの味がする。
「・・・美味しいです。」
僕が呟くと、潮田さんは楽しそうに笑った。
「此れも一種の《母親の味》・・・でいいんでしょうか?」
下手に何かを言うのも野暮な気がして、黙って一度だけ頷く。
潮田さんの声が、フッと真面目になった。
「・・・私、お義母さんと暮らしたいんです。あんな意地悪な神様何かとではなくて。」
「・・・・・・。」
僕はやはり何も言えず、黙って頷いた。
潮田さんは続ける。
「私達の家はもう、漁師稼業はしていません。船霊様が此の家に居る意味は、もう無いんです。・・・いえ、例え有ったとしても、そんなの関係無いんです。」
そして、大きな深呼吸を一つ。
潮田さんは、深く頭を下げた。
「・・・・・・お母さんが、此の家の皆さんが、ちゃんと家に帰れる様に、してください。」
「・・・・・・・・・はい。」
僕はゆっくりと返事をし、御辞儀を返した。
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・・・・・・・・・。
さて、場面変わって僕達の部屋である。
「・・・で、木芽は私に何の相談も無しに御茶会に行っていたと。」
「・・・・・・ごめんなさい。」
木葉さんは静かに怒っていた。
「何か危ない目に遭うかも知れないとは、考えなかったんですか?」
真顔である。
全くの無表情である。
「ごめんなさい・・・・・・・・・。」
「ごめんなさいではなくて。別に謝って欲しい訳では無いんです。何度も言わせないでください。」
・・・・・・何だろう。此の感じ。
昨日とはまた違った怖さだ。
「大切なのは《報告・連絡・相談》だと、行きの車の中で、あれ程口を酸っぱくして言ったじゃないですか。」
「はい・・・・・・。」
正論が耳に痛い。序でに言うならば、正座しているので足も痛い。
座布団が無いだけでこんなに痛い物なのか。
座布団侮り難し。
「今回は偶々何も無かったから良いですけど、相手に因っては本当に・・・怪我では済まないんですよ?」
「・・・・・・はい。」
木葉さんがゆっくりと僕に言った。
「・・・木芽。此れからは、どうしますか?」
「勝手な行動はしません。怪しげな事に巻き込まれそうになったら相談します。無茶はもうしません。」
深く深く頭を下げる。
さっきも潮田さんに向かって御辞儀をしたが、其れよりかなり深い。最早、土下座の域だ。
なので、木葉さんの顔は全く見えない。
視界一面畳状態。
と言うか此れ、もう頭を上げていいのだろうか?
木葉さん何も言ってないし・・・・・・。
物凄く気不味い。一体どうしたらいいのやら・・・
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不意に、頭上から声が聞こえた。
「・・・仕方無いですね。次からは、ちゃんと相談するんですよ。」
頭を上げると、困った様な顔で木葉さんが此方を見ている。
「私だって心配したんですから。」
「ごめんなさ・・・・・・」
「其れはもういいと言った筈でしょう?」
ポン、と頭を叩かれた。
「もう怒ってませんから。」
木葉さんがクスリと笑う。
僕は、思わずまた謝りそうになってしまったが、今度は口に出す前に気付いて 、何も言わずに頭を下げた。
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・・・・・・・・・。
「・・・・・・で、何か有益な情報を得る事は出来ましたか?」
兄の声が急激に温度を無くす。
僕はゆっくりと頷いた。
「実は、かくかくしかじかでーーーーーー
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・・・・・・・・・。
僕が話を終えると、木葉さんは些か渋い顔をしながら呟いた。
「成る程。実の母親が・・・。」
そして、頭をグシャグシャに掻き回し、溜め息を一つ。
「・・・・・・同族嫌悪の様なものですかね。」
小さな・・・其れこそ、気を抜いていたら聞き取れない位の声で吐き捨てた。
・・・・・・同族嫌悪?
何の事だろう。
「あの・・・」
「さぁ、早く仕事を終わらせてしまいましょう。夜が明けてしまう前に。」
僕は質問しようとしたが、木葉さんはそう言って立ち上がってしまった。
「・・・木芽。」
「・・・・・・はい。」
僕も渋々返事をし、立ち上がる。
「此れを。」
痺れた足を伸ばしていると、木葉さんが此方に何かを差し出して来た。
「・・・・・・あ。」
さっきは付けなかった、狐面・・・。
見上げると、木葉さんの顔が何時の間にか面に覆われていた。
「・・・ありがとうございます。」
狐面を受け取り、其れを顔に当て、頭の後ろで紐を結ぶ。
相変わらず、付けた心地のしない面だ。
其の内、付けている事を忘れてしまいそうな・・・。此の面の方を、本当の顔だと思ってしまう様な・・・・・・。
僕は其処まで考えて、ブンブンと頭を振った。
そんな恐ろしげな事を考えても、どうにもならない。
今は、ちゃんと木葉さんの手伝いをこなす事だけを考えよう。
「・・・何だか変な顔をしていますね?」
木葉さんが苦笑しながら僕の方を見た。
・・・・・・変な顔?
面を付けてるのに見えてるのか?
僕が心底不思議に思っていると、木葉さんが何でも無い様に言った。
「・・・・・・当てずっぽうです。其の反応ならば、当たっていた様ですね。」
「何だ・・・。」
ホッとした。
・・・やっぱり仕事モードの木葉さん、怖いな。
「さて、始めましょうか。」
木葉さんが屋根裏に繋がっていると言う、天袋の戸を開いた。
ふわり
途端に、吐き気を催す様な臭いが鼻を刺す。
腐った魚の様な、淀んだ磯の臭い。
今までとは比べ物にならない程のーーーーーーーーーー
僕は思わず、面の下から手を入れて、鼻を押さえようとした。
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「いけません!!」
木葉さんが大きな声で言い、僕の手を掴む。
「・・・此処はもう神域です。無礼な真似は止しなさい。」
・・・・・・神域。
・・・船霊様が、来ているのだろうか。
「今、楽にしてあげますから。少しだけ我慢しててください。」
木葉さんが骨壺の蓋に手を掛ける。
カタリ
微かな音を立てて、骨壺の蓋が外された。
「・・・・・・・・・っっ!!」
腐敗臭が更に酷くなった。
胃の奥から何かが競り上がって来る。
あまりの臭いで頭がクラクラする。
喉元まで来ていた物を無理矢理飲み下すと、涙まで滲んで来た。
「もう少しですから・・・後、二十秒。二十秒でいいです。息を止めていられますか?」
木葉さんが此方を覗き込みながら尋ねて来た。
「・・・・・・っは・・・い。」
あまり臭いを嗅いでしまわない様にして息を吸い、喉の奥でグッと止める。
木葉さんがチラリと此方を見遣り、小さく頷いた。
1、2、3、
木葉さんが部屋の隅にあったバケツを手に取った。
5、6、7、8、
バケツを運び、骨壺の上へ。
9、10、
バケツを傾け、中の水を骨壺の中に注ぎ入れる。
11、12、13、14、15、16
水は溢れる事無く注がれ続けている。
・・・・・・え?
17、
可笑しい。
骨壺はバケツの半分程の大きさしかない。
18、
しかも、骨壺には《船玉》と一緒に海水が入っている筈だ。
どうして、水が溢れないのだろう。
19、
バケツの水が、骨壺に全て入り・・・・・・
そして、一気に溢れ出した。
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20。
僕達は水底に沈んだ。
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・・・・・・・・・。
刺すような冷たさ。
身体を包む浮遊感。
流れに揺らぐ前髪。
一面の薄青い暗闇。
僕達の部屋は、完全に水没していた。
「え・・・・・・?」
声を出すと、水中だからか、其の声が妙に歪む。
面の間を空気の泡が昇る。
「もう臭く無いでしょう?」
木葉さんが此方を向いて、そう言った。
彼の髪も、水中で揺らいでいる。
「・・・あ!!」
其処で気付いた。
臭いがすっかり消えている。
強いて言うならば、甘い真水の・・・ミズチ様の所とよく似た匂いがする。
「・・・ええ。そうですね。そうですけど・・・・・・」
そう。確かに臭いは消えた。
然し。然しだ。
「此れは流石に駄目でしょう!!」
渾身のツッコミin水中、である。
「他の部屋は?!家具とか傷まないんですか?!て言うか何で息出来てんの僕等?!」
「大分慌てていますね。」
木葉さんが何処か可笑しそうに言った。
いや、笑ってる場合じゃないよ?!
本当に!!
「・・・何の為に《其れ》を張ったんだと思います?」
木葉さんが、壁や襖に貼り付けられた御札を指差した。
いや、確かに《防水用》とは言っていたけど・・・。
「抑、本当に水で満ちている訳ではないですしね。此の部屋は。」
「其れってどう言う・・・・・・」
「ほら、来ましたよ。お喋りは御仕舞いです。」
木葉さんが天袋の方を向き、厳しく言った。
僕も慌ててそっちを向く。
「・・・ほら、あれが《船霊》ですよ。」
長い長い黒髪が、戸の間から覗いていた。
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・・・・・・・・・。
黒髪の主は、ゆっくりと戸から滑り落ちて行った。
黄土色と薄紫が混じった白い肌。
髪の毛が水中でゆらゆらと棚引いている。
歳は・・・・・・分からない。然し、恐らく若い女性。
顔が見えない。髪の毛に完全に隠されている。
服装は・・・白装束・・・・・・とは少し違うか。巫女服の全部真っ白な奴を着ている。
彼女が・・・・・・・・・・・・
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寂しい。
「・・・・・・え?」
自分の中に突然、そんな感情が現れた。
寂しい。此処には誰も居ない。何も無い。早く此処から出たい。此処から出て・・・・・・。
・・・・・・いや、此処から出た処で僕には何も無い。
薄塩みたいに、色々な事態に臨機応変に対応出来る頭も。
のり姉みたいに、何事にも臆する事無く正面から向かって行く勇気も。
ピザポみたいに、誰とも仲良く出来る要領の良さも。
僕は何も持っていない。
何も出来ない。誰にも必要とされていない。僕の代わり何て幾らでも居る。
寂しい。
どうせ戻っても何も変わらない。
だとしたら・・・・・・。
上を見上げると、淡い色合いの揺らぐ水面が見えた。
横を見渡すと、広く冷たい、澪に広がる水の流れが見える。
・・・そうか、此処があの水脈なのか。
妙に納得して頷く。
そして、僕が前を向くと、其処には・・・
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《彼女》の顔が、見えていた。
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・・・・・・・・・。
「あ・・・・・・。」
何も見えていない様な、白濁した瞳。
濁りの中に、薄黒く浮かび上がる黒目。
其れは正しく・・・・・・
「船玉・・・・・・。」
そう。昨日、港で見た《船玉》だった。
彼女の口が僅かに開かれ、ゆっくりと蠢く。
何と言ったのかは聞き取れなかったが、何を言ったのかは直ぐに分かった。
「・・・・・・イコウ?」
と、言ったのだ。
其れが《行こう》か《逝こう》なのかは分からないけれど。
・・・・・・其れでも構わない。
「イコウ。」
彼女は焦点の合わない目で、じいっと此方を見詰めている。
・・・きっと、此の人には僕しかいないのだ。
此の人も寂しくて仕方が無いのだ。
周りに人は誰も居なくて。
やっと来てくれたと思ったら、其れは物言わぬ死人ばかりで。
寂しくて寂しくて、他の女が妬ましくて、羨ましい。
・・・きっと、僕が行けば、彼女はもう寂しくなくなる。潮田さんへの嫌がらせもしなくなる。
そんな気がした。
「・・・・・・うん。」
僕は頷き、笑顔を作りながら、顔に付けられている面に手を掛け・・・・・・
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・・・・・・・・・。
「はい、其処まで。」
スッと差し出された手に手首を掴まれた。
「・・・何が無くとも、木芽は優しいじゃないですか。」
木葉さんだった。
「だから、私達を置いていったりしないですよね?」
僕の方を向いて微笑んでいる。
微笑んで・・・・・・え?
「兄さん、お面・・・・・・!!」
木葉さんは、狐面を外していた。
「外れてしまいました。」
何でも無さげに言う。
そして、彼女の方を見て、ゆっくりと頭を下げた。
彼女が、まじまじと木葉さんを見詰める。
木葉さんは一瞬だけ辛そうな顔になったが、直ぐに元の顔に戻った。
「船霊様、此方を。」
木葉さんが僕の手首から手を離し、両手で包み込む様にして何かを差し出す。
其の手を彼女の目の前に出し、そっと開いた。
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開かれた手の中に有ったのは《船玉》だった。
然し、其の見た目は全くと言っていい程に変わっていた。
ぶよぶよとした水まんじゅうの皮の部分は、ふわりと開かれて、凝ったデザインのスカートか何かに見える。
触手の様な物も現れ、まるで海月だ。
そして、中央の餡子の様な部分。此処が最も変化していた。
蛍の様な、淡い燐光を放っているのだ。
柔らかく優しげな其の光は、あの黄土色水まんじゅう擬きとは似ても似つかぬ物物とさえ思えた。
彼女が・・・・・・船霊様が、のろのろと両手を差し出す。
船霊様の両手を包み込む様にして、木葉さんが船玉を其の蒼白い手の平に置いた。
船霊様は暫くの間、手の平を見ていた。
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・・・・・・・・・。
不意に、船霊様が此方を向いた。
「ウソツキ。」
そして、ゆっくりと僕の頬を撫でる。
・・・頬と言っても、お面の上からだけど。
瞳の色は、やはり濁ったままだった。
手の中の船玉を抱き締める様にして抱えながら、彼女は泣いていた。
「ウソツキ。」
ほんのりと白濁した水の玉が、そのままの形で、ゆらゆらと揺れては浮かんで行く。
・・・・・・嗚呼、涙って完全には透明じゃないんだな。
そんな事を考えながら、僕は黙って頬を撫でられていた。
あの妙な寂しさと劣等感は、何時の間にか消えている。
彼女が呟いた。
「・・・・・・ウソツキ。」
僕の頬から手を離し、僕の方を見る。
「イキナサイ。」
突き放す様に、彼女が僕を押し上げた。
水の中なので体は直ぐに浮かび上がった。
「イキナサイ。」
浮かんで行く僕を見上げながら、彼女はもう一度繰り返した。
周りを見ると、木葉さんの姿はもう無い。
僕は小さく頷いて、ゆっくりと海面を目指して浮上して行った。
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・・・・・・・・・。
目が覚めると、布団の上だった。
何かにペシペシと頬を叩かれている。
「・・・・・・なんだこれ。」
「濡れタオルですね。」
・・・寝起きはどうしても視界がぼやける。
濡れタオルを受け取り、ゴシゴシと顔を拭う。
「目が覚めましたか?」
僕の頬を叩いていたのは、木葉さんだった。
「帰りますよ。」
そう言って荷物を顔に押し付けて来る。
「・・・止めてください。」
目を擦りながら起き上がると、身体が妙に重かった。
「ずっと水に浸かっていましたからね。まだ、身体の重みを思い出していないのでしょう。」
見透かした様に木葉さんが言う。
立ち上がると、若干身体がふらついた。
「ほら、帰りましょう。」
「・・・荷物は?」
何故か木葉さんが、僕の荷物を持っている。
僕が聞くと、木葉さんは呆れた様に笑った。
「今の木芽じゃ、持てないでしょう?」
「ありがとうございます・・・。」
頭を下げると、其の反動で転びそうになった。
成る程。此れじゃ確かに荷物は持てない。
木葉さんは開けられた襖の前で立っている。
僕は重たい身体を引き摺りながら、木葉さんの方へと歩いて行った。
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・・・・・・・・・。
玄関まで行くと、潮田さんが立っていた。
「ありがとうございました。」
僕達に向かってゆっくりと頭を下げる。
「此方こそ。」
木葉さんも一礼し、僕も其れに続く。
「また何か有ったら、御連絡を。今回はありがとうございました。」
木葉さんが車の方へと歩き出した。
「え・・・あ、待ってください!」
慌てて僕も木葉さんの後を追おうとする。
其の時。
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突然、強い風が開け放たれた玄関へと吹き込んだ。
「うわ?!」
前髪を吹き上げられ、思わず目を伏せる。
「・・・・・・あ。」
驚いた様な潮田さんの声。
「・・・・・・・・・お母さん。」
続いて、涙混じりの声が聞こえた。
・・・・・・後ろに、居るのだろうか?
どんな人なのだろう。彼女の義母さんは。
好奇心で思わず振り向いてみたい欲求に駆られる
・・・しかし、感動の再開に水を注すのも野暮と言う物だな。
結局は振り向かずに、車の方へと向かった。
風からは、甘い餡子の匂いがした。
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・・・・・・・・・。
「・・・ごめんなさい。」
車の中で、唐突に木葉さんがそう言った。
「・・・・・・え?」
僕が、何の事で謝られてるのか分からずにわたわたとしていると、更に木葉さんは続けた。
「貴方に、寂しい思いをさせました。」
「ああ!船霊様のアレか!」
別に其処まで落ち込んではいないけど。
「大丈夫ですよ。確かに寂しくなりましたけど、木葉さんが助けてくれたじゃないですか。」
「・・・当然です。助けない訳、無いじゃないですか。」
精一杯の明るい声で言ってみても、木葉さんは沈痛そうな面持ちのままだ。
「・・・・・・コンソメ君は、優しいですね。」
僅かに顔を歪ませて笑うも、直ぐにまた元の表情に戻ってしまう。
僕はわざとらしくヒラヒラと右手を振った。
「別にそんな事・・・」
「ありますよ。だから、危うく船霊に魅入られそうになったんです。」
木葉さんが苦しそうに溜め息を吐く。
「・・・夢の中で貴方は、ずっと誰彼に謝っていました。何度も何度も、泣きながら謝り続けていました。」
「・・・・・・。」
ずっと独りだった船霊様。
僕は、彼女の期待を裏切った。
「彼女は、あの水底でずっと独りきりだったんです。」
そう呟くと、自分でも驚く程に胸が痛んだ。
「ずっと独りきりで、寂しかったんです。」
車の窓を開け、外を見る。
自分でも泣きそうになっているのが分かった。
泣きそうになっている自分を、見られたくなかった。
木葉さんが呟いた。
「・・・・・・だから船霊は、人々を護るのでしょう。一緒に居てくれる《誰彼》が欲しくて。」
寂しくて、寂しくて、自分を見る事の出来ない人々にも、必死で手を伸ばす。
人々を護り、豊漁をもたらす。
・・・何て孤独で、寂しいのだろう。
遂に僕の頬を涙が伝った。
「・・・コンソメ君は、優しいですね。」
木葉さんがゆっくりと、言い聞かせる様にして言った。
コンソメ君、と。
「・・・・・・僕は・・・《木芽》です。」
涙を拭いて、木葉さんの方を向く。
「弟の名前です。忘れないでくださいよ。」
軽い調子で言うと、木葉さんはやっと少しだけ微笑んだ。
「・・・うん。そうだった。ごめん。」
僕は何処か安心しながら、小さく欠伸を・・・・・・ちょっと待て。
「え?・・・ええ?!」
「え・・・あ、うん、何?」
木葉さんが不思議そうに聞いてきた。
「何じゃない何じゃない何じゃない!!!」
口調!!
く・ちょ・う!!
「あの、喋り方・・・・・・。」
「・・・・・・あ。」
木葉さんの顔が、一瞬にして茹で蛸色に染め上がった。
「いえ、違うんです!!」
「何が?」
「何かこう・・・違うんです!忘れてください!!」
「何を?」
「何をって・・・何をって!!」
木葉さんがグシャグシャと頭を掻きむしった。
道を走っていた車が、大きく揺れる。
「うわぁ?!・・・もう忘れました!忘れましたから運転に集中してください!!」
にわかに騒がしくなった車内で、僕はシートに掴まりながら叫んだ。
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・・・・・・・・・。
「結局、木葉さんはどうして僕を同行させたんですか?」
やっと落ち着いた木葉さんにそう聞くと、木葉さんはあっさりと答えてくれた。
「単に、沈まない為の浮きが欲しかっただけですよ。深い意味はありません。」
あっさりと答えてくれはしたが、生憎、意味が分からない。
・・・・・・まぁ、でも
「・・・同行させてくれたんですから、もう拗ねるのは止めにしたんですね?」
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「・・・・・・え?拗ねるって・・・誰が?」
「え?冗談ですよね?」
見ると、木葉さんは至って真面目な顔をしている。
・・・どうやら、冗談では無いらしい。
「え?僕をあれだけ困らせといて?忘れてたんですか?」
僕がそう言うと、目を逸らしながら木葉さんはわざとらしく、ポン、と手を打った。
「嗚呼!思い出しました思い出しました。彼の時のアレですよね!アレ!!嫌ですね忘れる訳無いじゃないですかー!!」
嘘つけ!!
絶対忘れてたろ!!
僕は大きな溜め息を吐き、シートに凭れて、静かに目を閉じた。
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・・・・・・・・・。
最後に。
願わくは、
《彼女》が、餡子の匂いが漂う家で、何時までも幸せに暮らせますように。
そして《彼女》が、水底で寄り添う相手を見付けて、もう寂しくなくなりますように。
作者紺野-2
どうも。紺野です。
無理矢理三部作に分けて、馬鹿みたいに時間を掛けて、最後の最後に此のクオリティ。此の長さ。
ど う し て こ う な っ た。
ああ恥ずかしい。
身の程は弁えねばなりませんね。
勿論まだまだ続きます。
宜しければ、お付き合いください。